ファルファッラでピアノを弾くようになってから、半月ほど過ぎた。だいぶ慣れてきたとはいえ、ドアのベルが聞こえると反応してしまうのは、相変わらずだ。
その日は、やや客足が鈍く、ノーゲストになる時すらあった。
「吉隅くん。手を止めていいよ。またゲストが来たら、弾いて」
「はい」
店長は大きく伸びをすると僕のそばを離れ、スタッフたちと談笑し始めた。僕は、椅子から立ち上がり体を少し動かした後、ピアノの影に置いていたペットボトルの水を一口飲んだ。
ハーッと息を吐いた時、ドアのベルが鳴った。急いで椅子に座ると、ドビュッシーの『月の光』を弾き始めた。
ゲストを何気なく見ると、よく知っている人だった。
宝生先生と、先生の親友でもあるバイオリン科の中村教授。そして、もう一人。
──油利木くん……?
急に鼓動が速くなったのを感じた。
先生たちは注文を済ませると、楽しそうな様子で何か話し始めた。三人のことが気になりながらも、演奏を続けていた。そこへ、店長がやってきて、「休憩どうぞ」と言った。
「今日は、先生たちと食事していいよ。特別だよ。今、あの席に料理持って行くから」
「いいんですか? ありがとうございます」
笑顔で一礼した後、椅子から立ち上がり、宝生先生たちのテーブルに向かった。先生は、僕に気が付くと軽く手を上げ、
「お疲れ様。いい演奏ですね。ちゃんと分をわきまえている感じで」
「はい。そのつもりです」
言いながら席に着こうとしたが、空いているのは油利木くんの隣の席だけだ。座っていいのか戸惑ったが、すぐに料理が運ばれてきたので思い切って座ることにした。
「お待たせ。ここで食べていいけど、休憩時間は十五分だからね。じゃあ、今からね」
店長は僕たちに微笑むと、店の奥へ下がって行った。先生は僕へ視線を戻すと、
「吉隅くん。改めて紹介しましょうか。こちら、バイオリンの中村先生。前に一度会ってますね。それから、中村先生の門下生の……」
宝生先生が、中村先生から視線を移動させ、門下生の方を見た。僕はその人を見ながら微笑むと、
「油利木和寿くんですよね」
僕がそう言うと、彼は驚いたような表情で僕を見返して来て、
「え? 君、オレを知ってるんだ?」
「入学式で、総代をやりましたよね。同期の学生はみんな、君のこと知ってると思いますけど」
「オレ、有名人? やった」
油利木くんの笑顔を見て顔が赤くなるのを感じ、恥ずかしくなって思わず視線を外してしまった。油利木くんは、「え?」と言った後、
「なんで俯いてるんだよ。オレ、気に障ること、言っちゃったかな?」
「違います」
首を振って否定すると、「そっか」とホッとしたような声で言った。
「じゃあ、食事しなよ。時間、決まってるんだろう」
促されて食べ始めるが、あわてて口に運んでいるせいか、味がよくわからない。
「君さ、すごくきれいな音で弾くんだね。何かさ、癒される。先生たちも、そう思いませんか?」
油利木くんが言うと、宝生先生は深く頷き、
「そうでしょう。だってね、この人は、僕の愛弟子ですから。僕は、そう思ってるんです」
愛弟子。
先生の言葉に驚きすぎて、僕は食べ物を引っ掛けてむせ込んでしまった。それを見た油利木くんが、僕の背中を叩きながら、「落ち着けー。落ち着けー」と、呪文のように言う。そのおかげか、少しすると落ち着きを取り戻した。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です」
「よかった」
油利木くんが大きく息を吐き出す様子を、つい見つめてしまった。と、油利木くんが急に真面目な顔になり、僕を覗き込むようにしてきた。そうされて、僕はまた鼓動が速くなる。
「あのさ、吉隅くん。オレの伴奏、やってくれないかな。君と合わせてみたいんだけど」
「伴奏ですか?」
思いがけないことを言われて動揺しながらも、何とか言葉を返した。油利木くんは真剣な顔のまま頷くと、
「そう。伴奏。どうかな? やってくれる人を探してたんだよ」
僕がどう返事したものかと考えていると、今まで黙っていた中村先生が溜息を吐き、首を振った。
「油利木くん。そんなに勢い込んで言ったら、吉隅くん、返事しにくいだろ? 一旦落ち着いて。それから、よく考えて。どうして君は、そうなんだろうね。相手の気持ち、ちょっと考えた方がいいよ」
中村先生にそう言われた油利木くんが、頭を掻いている。
「はい、すみません。本当にそうですね。じゃあさ、吉隅くん。今日、ちょっと合わせるのはどうかな? 今日だけ。どうしても合わせてみたいんだよ」
僕をじっと見つめながら訊く。僕は、ためらいながら、
「わかりました。楽器を演奏する人の伴奏はしたことがないんですけど、今日だけやってみます。これからのことについては、返事は待ってください」
「わかったよ。じゃ、仕事終わるの待ってるから」
油利木くんは嬉しそうだったが、宝生先生は微妙な顔をしているように見えた。僕は急に不安になり、
「宝生先生。先生は、反対ですか?」
「いえ、別に。君の人生ですからね。君の好きにするといいですよ」
愛弟子と言いながら、突き放すようなことを言う。やはり理解するのが難しい人だ、と思った。
その日は、やや客足が鈍く、ノーゲストになる時すらあった。
「吉隅くん。手を止めていいよ。またゲストが来たら、弾いて」
「はい」
店長は大きく伸びをすると僕のそばを離れ、スタッフたちと談笑し始めた。僕は、椅子から立ち上がり体を少し動かした後、ピアノの影に置いていたペットボトルの水を一口飲んだ。
ハーッと息を吐いた時、ドアのベルが鳴った。急いで椅子に座ると、ドビュッシーの『月の光』を弾き始めた。
ゲストを何気なく見ると、よく知っている人だった。
宝生先生と、先生の親友でもあるバイオリン科の中村教授。そして、もう一人。
──油利木くん……?
急に鼓動が速くなったのを感じた。
先生たちは注文を済ませると、楽しそうな様子で何か話し始めた。三人のことが気になりながらも、演奏を続けていた。そこへ、店長がやってきて、「休憩どうぞ」と言った。
「今日は、先生たちと食事していいよ。特別だよ。今、あの席に料理持って行くから」
「いいんですか? ありがとうございます」
笑顔で一礼した後、椅子から立ち上がり、宝生先生たちのテーブルに向かった。先生は、僕に気が付くと軽く手を上げ、
「お疲れ様。いい演奏ですね。ちゃんと分をわきまえている感じで」
「はい。そのつもりです」
言いながら席に着こうとしたが、空いているのは油利木くんの隣の席だけだ。座っていいのか戸惑ったが、すぐに料理が運ばれてきたので思い切って座ることにした。
「お待たせ。ここで食べていいけど、休憩時間は十五分だからね。じゃあ、今からね」
店長は僕たちに微笑むと、店の奥へ下がって行った。先生は僕へ視線を戻すと、
「吉隅くん。改めて紹介しましょうか。こちら、バイオリンの中村先生。前に一度会ってますね。それから、中村先生の門下生の……」
宝生先生が、中村先生から視線を移動させ、門下生の方を見た。僕はその人を見ながら微笑むと、
「油利木和寿くんですよね」
僕がそう言うと、彼は驚いたような表情で僕を見返して来て、
「え? 君、オレを知ってるんだ?」
「入学式で、総代をやりましたよね。同期の学生はみんな、君のこと知ってると思いますけど」
「オレ、有名人? やった」
油利木くんの笑顔を見て顔が赤くなるのを感じ、恥ずかしくなって思わず視線を外してしまった。油利木くんは、「え?」と言った後、
「なんで俯いてるんだよ。オレ、気に障ること、言っちゃったかな?」
「違います」
首を振って否定すると、「そっか」とホッとしたような声で言った。
「じゃあ、食事しなよ。時間、決まってるんだろう」
促されて食べ始めるが、あわてて口に運んでいるせいか、味がよくわからない。
「君さ、すごくきれいな音で弾くんだね。何かさ、癒される。先生たちも、そう思いませんか?」
油利木くんが言うと、宝生先生は深く頷き、
「そうでしょう。だってね、この人は、僕の愛弟子ですから。僕は、そう思ってるんです」
愛弟子。
先生の言葉に驚きすぎて、僕は食べ物を引っ掛けてむせ込んでしまった。それを見た油利木くんが、僕の背中を叩きながら、「落ち着けー。落ち着けー」と、呪文のように言う。そのおかげか、少しすると落ち着きを取り戻した。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です」
「よかった」
油利木くんが大きく息を吐き出す様子を、つい見つめてしまった。と、油利木くんが急に真面目な顔になり、僕を覗き込むようにしてきた。そうされて、僕はまた鼓動が速くなる。
「あのさ、吉隅くん。オレの伴奏、やってくれないかな。君と合わせてみたいんだけど」
「伴奏ですか?」
思いがけないことを言われて動揺しながらも、何とか言葉を返した。油利木くんは真剣な顔のまま頷くと、
「そう。伴奏。どうかな? やってくれる人を探してたんだよ」
僕がどう返事したものかと考えていると、今まで黙っていた中村先生が溜息を吐き、首を振った。
「油利木くん。そんなに勢い込んで言ったら、吉隅くん、返事しにくいだろ? 一旦落ち着いて。それから、よく考えて。どうして君は、そうなんだろうね。相手の気持ち、ちょっと考えた方がいいよ」
中村先生にそう言われた油利木くんが、頭を掻いている。
「はい、すみません。本当にそうですね。じゃあさ、吉隅くん。今日、ちょっと合わせるのはどうかな? 今日だけ。どうしても合わせてみたいんだよ」
僕をじっと見つめながら訊く。僕は、ためらいながら、
「わかりました。楽器を演奏する人の伴奏はしたことがないんですけど、今日だけやってみます。これからのことについては、返事は待ってください」
「わかったよ。じゃ、仕事終わるの待ってるから」
油利木くんは嬉しそうだったが、宝生先生は微妙な顔をしているように見えた。僕は急に不安になり、
「宝生先生。先生は、反対ですか?」
「いえ、別に。君の人生ですからね。君の好きにするといいですよ」
愛弟子と言いながら、突き放すようなことを言う。やはり理解するのが難しい人だ、と思った。

