開店するとすぐにドアのベルが鳴り、二組のゲストが来店した。途端に緊張が走り、うっかり手を止めそうになってしまった。
店長は、こちらにゆっくりと歩いてきて僕のそばに立つと、ニヤッと笑った。そして、僕にだけ聞こえるような小さな声で、
「吉隅くん。なるべくゲストのことは気にしないで弾いてよね。リラックスだよ」
そう励ますように言われた。僕は、「はい」と返事したものの、なかなかそう上手くはいかない。ドアのベルが鳴る度に、やはり手が止まりそうになってしまうのだ。
演奏中に音がすることには慣れているつもりだった。発表会や試験の時に、人が咳をしたり話していたりすることもあるからだ。そういうものだと理解していると自分では思っていたが、意外と反応してしまうものなんだな、と自分を笑いそうになった。
求められていることも、試験や発表会とは全く違う。今までは、人に評価を受ける立場で弾いていたので、聴いてもらわなければいけなかった。自己主張することが大事とも言えた。でも、それをここでやってはいけない。
ゲストは、演奏会に来て音楽を聴こうとしているわけではない。あくまで食事や会話を楽しむ為にここに来ているのだ。だから、それを壊すような演奏をしてしまったら、それは間違いだ。
静かに、そして、大事な人との時間が、より素敵になるような、そんな演奏。それが、ここで求められているのではないかと、ぼんやり思っていた。
時間はあっという間に過ぎていき、あと少しで閉店の時間だ。営業中は何を弾いてもいいことになっているが、閉店前の曲だけは決められている。ショパンの『別れの曲』。美しい曲で、僕もこの曲が大好きだ。
曲を弾き終わる頃にドアの鍵が掛けられ、今日の営業は終了した。店長は笑顔で僕のそばへ来ると、僕の肩をポンと叩き、
「お疲れ様。よかったよ。明日もよろしくね」
「あ。お疲れ様です。今日はありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
挨拶をしてから、更衣室に向かった。私服に着替えるとようやく緊張が解けてきて、僕は大きく息を吐き出した。
翌日食堂の前を通りかかると、宝生先生が食事をしているのが目に入った。僕は小走りで食堂に入っていき、「宝生先生」と呼び掛けた。
呼ばれて先生は、お箸をトレーに置いてからゆっくりと僕の方に振り向いた。口元には笑みが浮かんでいた。
「吉隅くん。昨日はどうでしたか? もちろん、行ってくれましたよね?」
「はい。行きました。先生と約束しましたから。行くとすぐに店長さんに、試しでピアノを弾くように言われたので弾いたら、採用になりました。採用って何のことだろうと思いましたけどね」
昨日の戸惑いを思い出して、笑いそうになってしまったが、何とかこらえた。
「今晩からお願いしますと言われたので、早速仕事をしました。それで、今までとは勝手が違うことがわかりました」
僕がそう言うと、宝生先生は首を傾げ、
「勝手が違う? 君の言っていることが、よくわからないんですが」
言われて僕は、昨夜考えていたことを伝えた。先生は、「そういうことですか」と、納得したように何度も頷くと、
「君。一日目で、すぐそんなことが理解出来るなんて、すごいじゃないですか。君にお願いしてよかったです。それで、今日も行くんですか?」
「はい、行きます」
「そうですか。その内に、食事しに行きますね」
そう言って宝生先生は微笑した。それから目を伏せお箸を手に取ると、また食事し始めた。僕は軽く頭を下げてから、食堂を出ていった。
店長は、こちらにゆっくりと歩いてきて僕のそばに立つと、ニヤッと笑った。そして、僕にだけ聞こえるような小さな声で、
「吉隅くん。なるべくゲストのことは気にしないで弾いてよね。リラックスだよ」
そう励ますように言われた。僕は、「はい」と返事したものの、なかなかそう上手くはいかない。ドアのベルが鳴る度に、やはり手が止まりそうになってしまうのだ。
演奏中に音がすることには慣れているつもりだった。発表会や試験の時に、人が咳をしたり話していたりすることもあるからだ。そういうものだと理解していると自分では思っていたが、意外と反応してしまうものなんだな、と自分を笑いそうになった。
求められていることも、試験や発表会とは全く違う。今までは、人に評価を受ける立場で弾いていたので、聴いてもらわなければいけなかった。自己主張することが大事とも言えた。でも、それをここでやってはいけない。
ゲストは、演奏会に来て音楽を聴こうとしているわけではない。あくまで食事や会話を楽しむ為にここに来ているのだ。だから、それを壊すような演奏をしてしまったら、それは間違いだ。
静かに、そして、大事な人との時間が、より素敵になるような、そんな演奏。それが、ここで求められているのではないかと、ぼんやり思っていた。
時間はあっという間に過ぎていき、あと少しで閉店の時間だ。営業中は何を弾いてもいいことになっているが、閉店前の曲だけは決められている。ショパンの『別れの曲』。美しい曲で、僕もこの曲が大好きだ。
曲を弾き終わる頃にドアの鍵が掛けられ、今日の営業は終了した。店長は笑顔で僕のそばへ来ると、僕の肩をポンと叩き、
「お疲れ様。よかったよ。明日もよろしくね」
「あ。お疲れ様です。今日はありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
挨拶をしてから、更衣室に向かった。私服に着替えるとようやく緊張が解けてきて、僕は大きく息を吐き出した。
翌日食堂の前を通りかかると、宝生先生が食事をしているのが目に入った。僕は小走りで食堂に入っていき、「宝生先生」と呼び掛けた。
呼ばれて先生は、お箸をトレーに置いてからゆっくりと僕の方に振り向いた。口元には笑みが浮かんでいた。
「吉隅くん。昨日はどうでしたか? もちろん、行ってくれましたよね?」
「はい。行きました。先生と約束しましたから。行くとすぐに店長さんに、試しでピアノを弾くように言われたので弾いたら、採用になりました。採用って何のことだろうと思いましたけどね」
昨日の戸惑いを思い出して、笑いそうになってしまったが、何とかこらえた。
「今晩からお願いしますと言われたので、早速仕事をしました。それで、今までとは勝手が違うことがわかりました」
僕がそう言うと、宝生先生は首を傾げ、
「勝手が違う? 君の言っていることが、よくわからないんですが」
言われて僕は、昨夜考えていたことを伝えた。先生は、「そういうことですか」と、納得したように何度も頷くと、
「君。一日目で、すぐそんなことが理解出来るなんて、すごいじゃないですか。君にお願いしてよかったです。それで、今日も行くんですか?」
「はい、行きます」
「そうですか。その内に、食事しに行きますね」
そう言って宝生先生は微笑した。それから目を伏せお箸を手に取ると、また食事し始めた。僕は軽く頭を下げてから、食堂を出ていった。

