ドアのベルがカランカランと鳴ると、モップを持った女性が振り向いた。その人は、「まだ準備中なんですが」と小首を傾げながら言った。そうされて僕は戸惑ったが、意を決して口を開いた。
 
「あ、その……。えっと……店長さんはいらっしゃいますか? 宝生(ほうしょう)先生に言われて来たんですが」
 
 緊張してちょっと声が震えたが、どうにか来意を告げることが出来て、安堵の息を吐いた。その人は僕に一歩近づくと、「あなた、可愛いわね」と微笑みながら言った。僕は思わず、「え?」と変な声を出してしまった。家族以外の人に可愛いなどと言われたことがほとんどなかったから、すごく驚いてしまった。
 
 僕のその反応がおかしかったのか、モップを手にした女性は小さく笑ってから、
 
「店長、呼んできてあげる。ちょっと待っててね」
 
 ウィンクをして、店の奥の方へ入って行った。「店長」と呼んでいる声が聞こえ、少ししてから先生と同じような年頃と思われる男性が出て来た。その人は僕に笑顔を向けながら、
 
「私が、店長の長田(ながた)です。宝生先生に言われてここに来てくれたっていうことは、ピアノ、弾けますよね」
 
 僕は店長さんの言葉に頷くと、
 
「はい。宝生先生に教えて頂いています」
「じゃあ、早速ですけど、ちょっと奥まで来てください」
 
 言うなり長田店長さんは、背を向けて歩き出した。僕も、すぐにその後を追った。
 
 テーブルと椅子が並んでいるその奥の一角に、グランドピアノが置かれていた。長田店長さんは、ピアノの脇で立ち止まると僕の方に振り向き、
 
「ちょっと弾いてみてくれますか? 何でもいいんですけど……出来れば、こういう場に合った、綺麗な感じの曲をお願いします」
 
 相変わらず訳がわからなかったが、とにかくピアノの前に座った。蓋を静かに開けて鍵盤を見つめた後、僕は店長さんの方を向き、
 
「それでは、ショパンのノクターン第二番を弾きます」
 
 呼吸を整えて、弾き始めた。静かに始まり、きらきらした感じで終わる。ペダルから足を離して、ふっと右側を見ると、いつのまにか人が増えていて僕を驚かせた。その人たちがいっせいに拍手し始めたので、さらに驚きながらも冷静を装って、プロのピアニストのように颯爽と立ち上がると礼をした。
 
 店長さんは、僕のそばまで来ると肩をポンと叩き、満足そうに笑むと、
 
「すごくいいです。採用します。今晩からお願いしますね」
「採用? それはどういう……」
 
 全く訳がわからない。採用とは何のことだろう。

 眉を寄せて質問した僕に、店長さんが首を傾げた。首を傾げたいのは僕の方なんですけど、と言いそうになったが、何とかこらえた。しばらくして店長さんが、「あー」と言いながら笑顔で手を打つと、
 
「もしかして、先生から何も聞いていないんですか?」
「はい。何も。何故ここに来なければならないのか何回も訊いたんですけど、教えてくれなかったんです」
「いかにも宝生くんだな、それ」
 
 店長さんはそう言って笑った後、
 
「先生にお願いしてたんです。ピアノを弾くアルバイトをやってくれそうな子がいたら、紹介してくださいって。それで、君が選ばれたようです」
 
 ようやく全てが理解出来て、ホッとした。少しの間どうすべきか考えたが、心が決まって僕は深く頷いた。
 
「わかりました。僕で問題がなければ、やってみます」
「本当? しばらく弾いてくれる子がいなくて、寂しかったんですよ。もちろん、君でいいです。ピアノの演奏も、もちろんいいですけど、君は容姿がいいから」
「えっと……、ありがとうございます」
「それじゃ、早速ですけど、着替えてもらえますか? ここでは、正装で弾いてもらうことにしています」
 
 店長さんに更衣室へ連れて行かれ、「はい、これ」と言って渡された服を見ると、燕尾服だった。本格的だ。
 
 着替えてホールに戻ると、みんなが僕に注目し、一瞬後女性陣がどよめいた。店長さんは、僕を上から下まで眺めてから大きく頷くと、「いいじゃない。似合ってるよ」と、満足そうな表情で言った。
 
 右から左から僕の周りをぐるりと回って確認をしていた店長さんが、急にハッとしたような表情になったので、僕は思わず背筋を伸ばしてしまった。
 
 店長は僕の肩に手を置くと、
 
「そういえば、君の名前を訊いていなかったなと思いまして」
「あ。そうでした。ぼくは、吉隅(よしずみ)ワタルと言います。よろしくお願いします」
「こちらこそ。五時から開店しますから、それまで何か弾いていてください。そこに楽譜もありますから、適当にお願いします」
 
 お金をもらうのに適当になんて出来ません、と言いそうになったが、言わなかった。置かれていた楽譜を見てみると、フランスの有名な曲が多かった。店名はイタリア語だが、あまり関係ないようだ。
 
 楽譜を見ながら何曲か弾いていると、「それでは、よろしくお願いします」と言う店長の声が聞こえた。いよいよ初仕事の時が来た、と緊張が走った。