時間はどんどん過ぎていく。和寿(かずとし)の練習の為の時間だと頭ではわかっているのに、涙はそれからしばらく続いた。ようやく止まったのは、いったい何分後だったんだろう。

「ワタル。落ち着いたか?」

 相変わらず僕の髪を梳いてくれている和寿が、心配そうな声で言った。頷いたものの、気まずくて和寿の顔を見られない。

「和寿。最近泣いてばかりで、僕は恥ずかしいです。もう、一生分くらい泣いたんじゃないかな」

 顔を背けたまま、言った。和寿は小さく、「え?」と驚いたように言うと、

「一生分? ダメだぞ、ワタル。少しは残しておけよ。いつか、オレが死ぬだろう。その時、お前に泣いてほしいからさ」

 僕は和寿に視線を戻すと唇を噛み、いつもにない強い調子で責めるように言った。

「何でそんなこと言うんだよ。ずっと、ずっと先のことだろう」
「いや、でもさ。いつかは誰でも死ぬんだから。そうだ。オレ、その時お前にピアノを弾いてもらいたいな。いつもの曲。ショパンの『別れの曲』。まんまだけど。あの曲、本当にお前の曲だよな。だってさ、何回聴いても感動するんだからさ」
「和寿……もう、やめてってば」

 また泣きそうになる僕の頬を撫でながら、和寿は優しく笑い、

「そんな真剣な顔しなくていいだろう。冗談だよ。冗談」
「冗談って……。もう、こんな話はしたくない」

 涙が浮かんできたけれど、泣くのは必死で我慢した。

「ワタル。ごめん。そんなに本気で怒らなくても……」

 和寿は僕の頬を撫でながら、何度も「ごめんね」と言った。眉が下がって、ハの字になってしまっている。整った顔が台無しだ。

 僕は目元を手の甲で拭うと、和寿の目をしっかりと見つめながら、

「和寿、ごめんね。練習時間が、あと二十分になっちゃった」

 謝罪の言葉を口にしたが、和寿は首を振り、

「もう、今日はいいよ。それよりさ。今日は、お前がプロを目指すって決めた大事な日だからさ。もっと別の曲をやろう」

 渡された楽譜を見る。

 ──シューベルトの『ソナチネ第一番』……。

 和寿と初めて合わせた曲だった。僕が顔を上げて和寿を見ると、「弾こう」と言って微笑んだ。僕は強く頷き、ピアノの蓋を開けた。和寿が楽器を構えるのを確認するとすぐに、()を鳴らした。和寿がペグを回して音を決めていく。

「それじゃ、テンポはこのくらいで」

 ピアノのふちを叩く。合図が来て弾き始める。

 バイオリンを弾く和寿の背中を見ながら、僕は思いを巡らせていた。

 プロになるまで……。いや、プロになってからも、様々な困難が起こるだろう。二人の関係を続けていく上でも、困難はあるだろう。が、逃げずに立ち向かおう。そうすればきっと、何か答えを見つけられるから。

 曲が終わると、和寿は僕の方に振り向いた。

「終わったー」

 笑顔で言ったが、僕は首を振った。

「違うよ。これから始まるんだよ。僕は、もう逃げないから」

 和寿の目を見つめながら、はっきりと言った。和寿は楽器を置くと、ゆっくりと僕のそばまで歩いてきた。

「そうだな。これから始まるんだよな」

 和寿は僕の髪に触れると、

「オレも逃げないよ。お前と、ずっと一緒だ」

 そう言って和寿は、僕を強く抱き締めてきた。

 ずっと、一緒に。

 永遠の誓い。僕たちは今、歩き出す。

(完)