最後の曲を弾き終えて、僕は椅子から立ち上がった。和寿(かずとし)は、少し前に店を出ていた。僕はスタッフに挨拶してから、急ぎ足で店を出た。

 和寿は僕に気が付くと、笑顔になった。

「お疲れ様」
「ありがとう。でも、僕は全然疲れてないんだ」
「あ。オレがいたから? エネルギーがチャージされちゃってた?」
「よく意味がわからないけど。ま、いいや。そういうことにしておくよ」

 僕は和寿に一歩近付くと、

「さっき、楽しかったね」
「楽しかった。店長、本当にあの曲が好きなんだな。確かに、いい曲だけど」
「和寿。さっき……すごく、すごーく色っぽくて、僕はどうしていいか、わからないくらいだったよ」

 僕が気持ちを伝えると、

「色っぽい? それ、新しい褒め言葉だな」
「誰にも見てほしくなかった。僕だけで見てたかった」

 僕は、何でこんなに正直に言ってしまっているのだろう。と、思った時、和寿が僕を強く抱き締めてきた。そうされて、和寿の鼓動も速くなっているのが感じられた。

 和寿は僕の頬に、軽くキスをして、

「そんなに可愛いこと言われて、オレはどうしたらいいんだよ」
「え? こうされてるだけで、すごく嬉しいし、幸せだよ?」
「何だよ、今日のワタル。素直すぎて、めちゃくちゃ可愛い。オレ、胸がドッキドッキしちゃって、息苦しいんだけど」
「僕も同じ。同じだよ」

 店の前で僕たちは、何故か愛の言葉を交換し合っていた。それがおかしくて、二人で笑ってしまった。

「ワタル。オレさ、大事なこと、言ってなかったんだけど、聞いてくれるか?」
「大事なこと? 何? もちろん聞くよ」

 和寿は僕の髪を何度かそっと撫でてから、

「ワタル。付き合ってください。オレの彼氏になってください」
「あ……そうだね。そういえば、言われてなかった。彼氏か。うん。付き合うよ。和寿の彼氏になる。和寿は、僕の彼氏になってくれるんだよね?」
「当たり前だろ。いいんだな?」
「いいよ」

 告白しあった僕たちは、店先だということも弁えず、唇を重ねた。


「ワタル。オレは、やっぱりプロのバイオリニストになって、ワタルとずっと一緒に演奏活動したいなって思う。ワタルは?」
「したいよ。したいけど……」

 自分の力が信じられない。和寿みたいに圧倒的な強さがあれば、立ち向かえるかもしれない。でも、僕は……。

「自信がないよ。前にも言ったけど、自分がどうしたいのかわからなくなっちゃって」
「でもさ、そういう気持ちがあったから、音大に入学したよな? 何で音大に行こうって思ったか、覚えてるか?」
「もちろん覚えてるよ。あれは、中学の卒業式の後だったよ」


 音大に入ろうと思ったのは、中学を卒業してまもなくだった。外国の老ピアニストが、僕の実家のそばのホールで演奏会を行なうことになった。その人は、世界中で演奏活動をしている、とても有名なピアニストで、チケットが取れたのは奇跡のような出来事だった。演奏会当日はワクワクし過ぎて、会場まで走って行った。

 彼がステージに現れると会場は拍手に包まれたが、ピアノの前に座ったとたん静まり返った。一音目が鳴った瞬間、全身に鳥肌が立ったように感じた。そして、最後まで彼を食い入るように見ていた。手の動き。音の響き。表現力。全て完璧だった。正に、音楽と一体になっている、そんな感じを受けた。

 演奏会終了後も頭の中がずっと興奮していて、来る時と同じように家まで走った。走りながら、今すぐピアノを弾きたい、と思っていた。家に着くとピアノ室に入り、何時間も弾き続けた。疲れて手を止めた時、母さんから夕飯の時間だと言われた。

 仕事で遅くなることが多い父さんが、その日は珍しく帰宅していた。僕は両親と妹に向かって、見てきたことを次から次へと話し続けた。どれくらい経ってからか、父さんが声を上げて笑った後、言った。

「わかったよ、ワタル。君はやっぱり音楽をやっていった方がいいみたいだ。君がどれだけピアノを好きか、そのピアニストに感じ入ったか十分伝わってきた。今から高校を変えることは出来ないけど、大学は音大にしたらどうかな」 

 父さんの提案に僕は深く頷き、「そうする」とすぐに答えた。いつも、はっきりしない子だと言われてきたが、この日はあり得ないスピードで決められた。

 その日から僕は、受験に向けて猛勉強をした。そして、合格を勝ち取ることが出来たのだ。


「……って感じなんだ。あの人の演奏を聴いたから、音大に入学してもっと勉強したいと思った。僕も、人に感動を与えられるような演奏をしたいって……」
「そうだったんだ。それで? 今はその気持ち、萎えちゃった?」
「そうじゃないけど……」

 あの時の記憶が、鮮明に蘇る。老ピアニストの姿。手の動き。音の響き。表現力。思い返すだけで、鼓動が速くなる。

 失敗するのは怖い。それでも、僕は……。本当の僕の気持ちは……。

 僕は、優しく背中を擦ってくれている人の顔を見つめた。