翌日、ファルファッラへ行くと店長が笑顔で僕を迎えてくれ、

「よかった。来てくれたんだね」
「昨日は急に休ませて頂いて、すみませんでした」

 僕が謝罪すると店長は、

「いやいや。いいんだけどさ」
「いえ。よくないです。でも、おかげさまで、問題が解決しました」

 そう説明していると、昨日のことが思い出されて、照れ臭くなってしまった。初めて、大好きな人とキスした……。その瞬間を思うだけで、甘い感情で満たされるようだ。

 ──僕は、何て幸せなんだろう。

 今の僕には、それしかなかった。

「何があったのかはわからないけどさ。取り敢えず、よかったね。元気が出たところで、今日もよろしくね」
「あ。はい。こちらこそ、今日からまたよろしくお願いします」

 着替えを済ませ、ピアノの前に座った。深呼吸をしてから、蓋をゆっくり開けた。早く弾き始めたい。そんな気持ちが湧いてきた。


 和寿(かずとし)が来店したのは、八時過ぎだった。手を止めずに彼を目で追った。手を振られても、当然振り返せない。仕方なく、軽く頭を下げた。

 休憩時間になった。僕は和寿のそばを通る時、思わず微笑みを浮かべた。和寿は、自分のテーブルの空いている席を指差し、

「ここに座りなよ」
「いつも言ってるけど、それはダメだから」
「いいじゃん、別に」
「だから……」

 僕たちがそんなことを言い合っていると、店長がそばに来た。和寿はいきなり、

「いいですよね?」

 店長は首を傾げて、

「何のことだい?」
「ワタルの休憩場所、ここでもいいですよね?」

 店長は、顎に手を当てて考えるような表情になった。そして、しばらくそうしてから、急にニヤッと笑った。何を言われるのか、わかった。

「いいよ。でも、条件があります」

 店長がそこまで言うと、和寿は手を挙げ、

「はい、弾きます。『タイスの瞑想曲』でいいですか?」
「いいよ」

 僕抜きで、何だか話がついてしまったようだ。仕方ない。弾こう。決心して和寿を見た。僕と目が合うと和寿は、「行こう」と言って立ち上がり、バイオリンケースを肩に掛けた。僕は、歩き出す和寿の背中を追った。

 ──どうしていつも、こうなるんだろう?

 そんなことを思いながらも、心のどこかでは楽しんでいる自分がいることに気が付いていた。

 楽器をケースから取り出して僕を見る和寿。()を鳴らす僕。器用にペグを回して音を合わせるその姿を見るだけで、胸が高鳴ってしまう。楽器を構える和寿は、本当にかっこいい。

 いつの間にか調弦が終わったていたらしい。和寿は僕を見ながら、不思議そうな顔をしている。僕は、「ごめん」と小さく言うと、前奏を弾き始めた。


 そして、演奏は終わった。感動のあまり、僕は甘い溜息を吐いてしまった。

 ──何て色っぽい演奏をするんだろう……。

 和寿が視線を送って来たので、僕も急いで立ち上がり、一緒にお辞儀をした。大きな拍手が起こった。その時、満足そうに笑みを浮べた和寿が、僕を軽く抱きしめてきた。思いがけない行動に、僕は思わず身を縮めてしまった。和寿にとっては、この行動に深い意味はないのかもしれない。が、僕は心臓が速く打って、息苦しかった。あまり刺激しないでほしい、と思った。

 和寿が楽器を片付け席に戻ろうとした時、店長が僕たちのそばに来た。

「じゃあ、一緒に食事していいよ。」

 やはり、ニヤッと笑った。和寿は、「やった」と言いながら僕の腕を掴むと、「行くぞ」と、半ば引っ張るようにして僕を席まで連行した。

 料理が運ばれてきて、僕は急いで口の中にかっ込んだ。時間が伸びたわけではないのだから、急がなければならない。和寿は笑い出し、

「そんなに急がなくたってよくないか? 大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ」
「ゆっくり食べないと、消化によくないぞ」

 まっとうなことを言い出した。僕は肩をすくめ、

「時間は十五分。だから、僕は急ぎます」

 和寿は、コーヒーを飲みながら、僕を見ている。そんなに見られていると、恥ずかしい。でも、嬉しい。そんな矛盾した気持ちでいた。

 食事を終えて、僕は立ち上がった。和寿が僕の手を握ってきた。本当はずっとそうしていたいけれど、そうもいかない。僕は、思い切り微笑んでみせると、小さな声で、

「好きだよ」
「ああ。オレも同じだよ」

 内緒話のように囁き合う。それが、秘密めいていて、余計に僕の心を弾ませた。僕は和寿に手を振ると、

「じゃ、戻るよ」
「最後までいるから」
「わかったよ」

 こんな日に短調の曲は弾けない。そんなことを考えていた。