「あ、ワタル。体、大丈夫か?」

 和寿(かずとし)の切羽詰まったような声を聞き、不安は増した。いったい、どうしたと言うのだろう。心をざわつかせたまま、

「僕は何ともないよ。どうしたのさ」

 僕がそう答えると、和寿は大きく息を吐き出して、「よかったー」と言った。和寿の言葉の意味がわからず、

「よかった?」

 つい訊き返してしまった。

「オレさ、ワタルが帰ってしばらくしてから、急に体調がよくなったんだよ。て、いうことはさ、おまえにうつしたから良くなったのか? って思ってさ。すっげー焦って。本当に違うんだな? 何ともないんだな? 正直に言ってくれよ」

 何度も確認してくる和寿に、心の中が温かくなった。

「大丈夫。何ともないよ。でも、ありがとう。そんなに心配してくれて。僕は、すごく嬉しいよ」
「心配するに決まってるだろう。大事な大事なワタルくんなんだから」

 声をひそめて言ったのは、伯父さんたちに聞かれるのを心配したからだろう。さっきは、バレてもいい、くらいのことを言っていたのに。和寿、可愛い。そんなふうに思って僕は、思わず微笑んでしまった。

「和寿。僕は今、とっても幸せです」
「オレも同じ。幸せだよ」

 和寿が、ハハッと笑った。

「おまえが無事で、本当によかった。ま、そういうわけで、オレは元気になったから、明日そっちに帰るよ。ワタル、明日はバイトあるんだっけ?」
「あるよ。今日もあったんだけど、断った」

 宝生先生に言われた通り、ファルファッラに電話をし休むことを伝えると、店長は大きな溜息をついてから言った。

「君がいないとね、追加注文が来ないんだよね。でも、ま、仕方ないね。いいよ、休んで」

 前にも一度、そのようなことを言われた。ゲストは、ピアノを聴く為に追加注文をしているようだ、と。僕が休んでいる日は、そういうことはあまりないらしい。本来は、そっと聞こえているような演奏をしなければいけないのだけれど、聴いてもらえていると思うと、やはり嬉しかった。

「じゃあ、明日行くよ。ワタルの演奏聴きたいし。店長の、おいしい料理も食べたいし」
「わかったよ。来てね。僕、頑張って弾くから」
「明日会えるの、楽しみにしてる」
「さっき会ったばかりなのに……。僕も、今すぐ和寿に会いたいよ」

 本音がポロポロと口からこぼれていく。お母さんに僕たちの関係が知られていることは気恥ずかしい。これからのことを考えると、いろいろ不安にもなる。でも、もう構わない。この先がどうでも、僕たちの心はこの瞬間、繋がっている。そう信じられるから。

 幸せな気持ちで満たされた僕は、弾む足取りで学校に入っていった。遅い時間だけれど、まだ普通に人の気配が感じられる。

 先生の部屋の前に立つと、ドアをノックした。入室の許可が出たので、僕はドアを開けて中に入った。先生は僕を見ると、

「よかったですね」

 心からそう思ってくれているのか、ちょっと疑わしいような難しい顔をしてそう言った。が、僕は、「はい」とためらいなく答え、先生に微笑んで見せた。

 それから僕は、先生の質問に答える形で、和寿との話を伝えた。先生は、終始無表情だ。僕の話を最後まで聞くと、

「君、今幸せですよね?」
「しあわ……あ、はい。そうです。幸せです」

 そう答えた瞬間、僕は顔が熱くなるのを感じた。その言葉に嘘はないけれど、やっぱり照れる。

 先生は相変わらず表情を変えず、淡々と、

「では、短調(モル)の曲を弾いてください。曲は指定しません。何でもいいですよ」

 ──それは、どんな嫌がらせですか?

 僕が先生を不審そうに見ていると、先生は首を傾げて、

「僕、何か変なことを言いましたか?」
「言わなかったですか?」
「言いませんよ。君は、君の感情とは関係なく、その曲らしく弾く課題を与えられただけのことです。君が幸せでも、短調は短調です。わかりますね?」

 わかりたくないけれど、課題と言われれば嫌とは言えない。僕は先生のピアノの前に座り、

「それでは、ショパンのバラード第一番を弾きます」

 僕の演奏中、先生は何も言わなかった。どう思っているのかと少し不安だったが、その考えに負けず、最後まで弾き切った。椅子から立ち上がると、先生を伺うように見ながら、

「先生。どうでしたか?」

 先生は笑みを浮かべて拍手すると、

「君は本当に短調の曲が得意なんですね。合格です」
「ありがとうございます」

 そうとしか、言いようがなかった。本当に風変わりな先生だ。