念願叶い、晴れて音楽大学に入学した。ピアノのレッスンを終えた僕は、先生に挨拶してからレッスン室を出ようとしていたが、
「あ。そう言えば、吉隅くん。今日この後、時間ありますか?」
担当教授の宝生先生が、ピアノの鍵盤を拭きながら声を掛けてきた。僕は振り向き頷くと、
「はい。今日は、何も予定はありません」
「そう。では、お願いしたいことがあります」
「え。お願いしたいこと、ですか?」
思いがけないことを言われて先生をじっと見たが、先生は相変わらずピアノの鍵盤を拭いていた。そうしながら先生は、僕の方を見ずに、「ええ。お願いしたいことがあります」と言った後、
「『ファルファッラ』に行ってほしいんです。ここに来る途中にあるレストランですけど、知っているでしょう?」
「はい、知ってます。確か、蝶の絵の看板が掛かっていますよね」
その蝶は不思議な色をしていて、一度見たら忘れられない印象的なものだ。先生は、僕の問い掛けに深く頷くと、
「ええ。そうです。『ファルファッラ』は、イタリア語で『蝶』ですから」
先生はファルファッラの言葉の意味を説明してくれたが、僕が知りたいのはそんなことではない。僕は、つい溜息を吐いてしまい、慌てて口元を両手で覆った。ごまかすように咳払いをしてから、先生の横顔に話し掛けた。
「先生、お訊きしますけど。僕は何故そこへ行かなければならないのですか? それがわからないんですが」
僕の質問に、宝生先生はようやく鍵盤を拭くのをやめて僕の方を見た。その顔には微笑みが浮んでいた。それを見て僕は、きっと僕の望んでいる解答は得られないだろうという予感がした。そしてそれは、残念ながら的中してしまった。
「それはね、君。そこへ行けば、わかることです。もちろん、行ってくれますよね?」
やはり意味がわからない。僕はどう答えたものかわからず、口を閉ざしていた。そんな僕に先生は、さっきよりもはっきりとした口調で、念押しするように、
「行ってくれますよね?」
「でも……何故ですか?」
「まあ、いいじゃないですか。四時半くらいまでに、そこに行ってください。あそこは、五時開店ですから。では、頼みましたよ」
涼しい顔をしているが、断りを言えないような押しの強さがある。僕は、諦めて頷いた。
「わかりました。何だかわかりませんけど、行きます。行けばいいんですよね」
「そう。行けばいいんです」
宝生先生は、そばまで来ると僕の肩を軽く叩き、「では、頼みましたよ」と、微笑んだままで言った。よくわからない人だな、と少し憂鬱な気分になった。これから卒業まで教えてもらう先生の言っていることがわからないなんて、大丈夫なんだろうか。不安が心の中を占めていた。
先生に一礼してレッスン室を出ると、どこからか金管楽器の音が聞こえてきた。それを耳にして僕は、ここは本当に音大なんだな、と改めて思った。そして唐突に、自分がここにいていいのかという考えが浮かんできた。この空間にまだ慣れていないせいなのか、違和感を覚えて胸がざわついていた。
校門を出て、まっすぐの道を百メートルほど歩くと、右手に件のレストラン。蝶の絵の横に、イタリア語とカタカナで店名が書かれている。
学校に行く途中で何度も見ていたが、入ったことは一度もない。が、何の為かはわからないが、今からこの中に入らなければならない。
僕は、覚悟を決めてドアを押し開けた。
「あ。そう言えば、吉隅くん。今日この後、時間ありますか?」
担当教授の宝生先生が、ピアノの鍵盤を拭きながら声を掛けてきた。僕は振り向き頷くと、
「はい。今日は、何も予定はありません」
「そう。では、お願いしたいことがあります」
「え。お願いしたいこと、ですか?」
思いがけないことを言われて先生をじっと見たが、先生は相変わらずピアノの鍵盤を拭いていた。そうしながら先生は、僕の方を見ずに、「ええ。お願いしたいことがあります」と言った後、
「『ファルファッラ』に行ってほしいんです。ここに来る途中にあるレストランですけど、知っているでしょう?」
「はい、知ってます。確か、蝶の絵の看板が掛かっていますよね」
その蝶は不思議な色をしていて、一度見たら忘れられない印象的なものだ。先生は、僕の問い掛けに深く頷くと、
「ええ。そうです。『ファルファッラ』は、イタリア語で『蝶』ですから」
先生はファルファッラの言葉の意味を説明してくれたが、僕が知りたいのはそんなことではない。僕は、つい溜息を吐いてしまい、慌てて口元を両手で覆った。ごまかすように咳払いをしてから、先生の横顔に話し掛けた。
「先生、お訊きしますけど。僕は何故そこへ行かなければならないのですか? それがわからないんですが」
僕の質問に、宝生先生はようやく鍵盤を拭くのをやめて僕の方を見た。その顔には微笑みが浮んでいた。それを見て僕は、きっと僕の望んでいる解答は得られないだろうという予感がした。そしてそれは、残念ながら的中してしまった。
「それはね、君。そこへ行けば、わかることです。もちろん、行ってくれますよね?」
やはり意味がわからない。僕はどう答えたものかわからず、口を閉ざしていた。そんな僕に先生は、さっきよりもはっきりとした口調で、念押しするように、
「行ってくれますよね?」
「でも……何故ですか?」
「まあ、いいじゃないですか。四時半くらいまでに、そこに行ってください。あそこは、五時開店ですから。では、頼みましたよ」
涼しい顔をしているが、断りを言えないような押しの強さがある。僕は、諦めて頷いた。
「わかりました。何だかわかりませんけど、行きます。行けばいいんですよね」
「そう。行けばいいんです」
宝生先生は、そばまで来ると僕の肩を軽く叩き、「では、頼みましたよ」と、微笑んだままで言った。よくわからない人だな、と少し憂鬱な気分になった。これから卒業まで教えてもらう先生の言っていることがわからないなんて、大丈夫なんだろうか。不安が心の中を占めていた。
先生に一礼してレッスン室を出ると、どこからか金管楽器の音が聞こえてきた。それを耳にして僕は、ここは本当に音大なんだな、と改めて思った。そして唐突に、自分がここにいていいのかという考えが浮かんできた。この空間にまだ慣れていないせいなのか、違和感を覚えて胸がざわついていた。
校門を出て、まっすぐの道を百メートルほど歩くと、右手に件のレストラン。蝶の絵の横に、イタリア語とカタカナで店名が書かれている。
学校に行く途中で何度も見ていたが、入ったことは一度もない。が、何の為かはわからないが、今からこの中に入らなければならない。
僕は、覚悟を決めてドアを押し開けた。

