カバンからスマホを取り出すと、油利木(ゆりき)音楽教室へ連絡しようとした。が、そういえば番号を知らないことに気が付いた。検索をかけようとしているのに、何故か焦ってしまい上手く探せない。

 ──何してるんだろう、僕。

 スマホはカバンに戻し、教室まで走った。油利木家の敷地に入ると、教室の建物へ入っていき、

「すみません」

 突然現れた僕に驚いたような顔をしたものの、僕を覚えていてくれたらしく、

「あら、吉隅(よしずみ)くん。お久し振りね」

 和寿(かずとし)のお母さんが、笑顔で言った。落ち着いたその様子を見て、もしかしたら何も知らないのかもしれないと感じた。

「和寿くんが……」
「今ね、伯父さんのところに泊まりに行ってて。風邪引いたらしいんです」
「最初の日に連絡があってから、音沙汰無しで。連絡するって言ってくれてたんですけど。僕、心配で。あ。すみません。他人の僕が……」

 もう、どうしていいかわからない。ここまで来て、僕はどうしようと思ったんだろう。急に自分の行動が恥ずかしくなってきた。

「あの……すみませんでした。僕、帰ります」
「待って。和寿のところに行こうとしてくれた? 見てきてくれるの? 兄から……あ、あの子の伯父さんから連絡があって気にはなってるんだけど、教室を休めなくて。ごめんね。私たちの代わりに行ってきてください」
「いいんですか? 僕、赤の他人ですよ?」
「お願いします」

 それからお母さんは、伯父さんの住所や電話番号を教えてくれた。そこまでの行き方も詳しく説明を受けた。僕の電話番号と教室の番号も確認し合った。

「それでは、行ってきます」
「はい。お願いしますね」

 笑顔で送り出してくれた。


 電車に乗り込むと、空いている席を探して腰を下ろしたが、心の中はざわついていた。

 ──和寿(かずとし)……。

 一刻も早く、彼の姿を見て安心したい、と強く思った。

 しばらくの停車時間を経て、電車は走り出した。窓の外の風景を楽しむことなど、到底出来なかった。

 宝生(ほうしょう)先生と別れてから三時間後、ようやく懐かしい場所に辿り着いた。澄んだ空気に、思わず深呼吸をしてしまった。

 大学に入学してから今日まで、僕は一度もここに帰って来ていなかった。実家に帰ることをためらう何かが吉隅(よしずみ)家にあるわけではない。むしろ、仲のいい家族だと思っている。

 帰ればきっと、笑顔とともに、「お帰り」と言ってくれるだろう。大学に行くまでと同じように、お互い接するだろう。だから、帰らなかった理由は別にないのだが、ただ、なんとなく、帰らなかったのだ。が、ふと思い当たった。そして、何だかそれが正解のような気がしてきた。

 ──もしかしたら、和寿がいる所にいたかったのかな。

 和寿のそばにいたい。その想いが、僕を早足にさせていた。


 在来線に乗り換えてしばらく行くと、目的の駅に着いた。ここで降りたことはなかったので、勝手がわからず戸惑った。周りを見回しながら歩き、タクシー乗り場があったので、乗って行くことにした。

 住所を伝えると、すぐに走り出した。十分ほどで、その工房兼自宅に行き着いた。工房を覗くと男性が一人いて、木を削っていた。集中して作業を行なっている様子に、声を掛けるのがためらわれた。が、思いきって、「あの」と、か細い声で言うと、男性がこちらに気が付いてくれた。僕は深々とお辞儀をしてから、

「初めまして。吉隅ワタルと申します。弦楽器工房の佐野(さの)さんですか?」
「もしかして、(かず)ちゃんのお友達ですか? さっき、和ちゃんの母親から連絡があって、和ちゃんの友達がそっちに行くからって」

 ()()()()。和寿は、親戚の間で和ちゃんと呼ばれているらしいと、この前の電話でもわかっていたが、ここで再認識した。

「はい、そうです。お母さん、連絡してくれていたんですね。突然お邪魔してすみませんが、和寿くんの具合はいかがですか?」

 伯父さんは首を振ると、

「なかなか良くならなくてね。薬を飲んで、吸入とかもして体を休めてるけど、何かダメだね。どうぞ、見舞ってやって下さい。きっと喜びます。たぶん、君のことだと思うんですけどね、来た日に嬉しそうに話していましたよ。いいパートナーに出会えたって」

 自分の知らないところで噂されているのは、何だか気恥ずかしい。

 伯父さんの後について、家の方へ向かう。玄関のドアを開けて、僕を中に入れてくれた。奥の方から咳き込む声が聞こえてきた。

「あそこですか?」
「そうです。どうぞ」

 先にたって伯父さんがその部屋に向かって歩いていった。僕もその後を追う。また、咳き込む声がする。聞いているだけでも苦しくなるような咳だ。

伯父さんは、和寿の部屋のドアをノックし、静かに引き戸を開け、

「和ちゃん。お客さんが見えたぞ。吉隅くん」

 布団を被っていた和寿が、顔を出してこちらに向いた。