約束通り、和寿(かずとし)は店の前に立っていた。手をこすり合わせて、少し身を縮めている。

「和寿。ごめん。待たせたね。寒かっただろ? 中にいても良かったのに」

 今さらと思いつつも、言わずにはいられなかった。

「大丈夫かなと思ったんだけど、今夜は結構気温が下がったな。こんなんじゃ、バイオリン弾けません」

 おどけたように言って、両手の指を曲げたり広げたりしている姿を見て、少しほっとした。

 僕は和寿の両手を自分の両手で包み込んだ。本当に冷え切っている。確かに、これで楽器を演奏するのは無理だ、と思った。僕にそうされると和寿は、驚いたように目を見開いたが、すぐに目を閉じて、口許に笑みを浮かべた。

「ああ。おまえの手、あったかいな。ありがとう」

 優しい声。その声を聞いた瞬間、何故だかわからないが、涙が流れ出した。そんな自分に戸惑わずにいられなかった。僕がすすり上げると、和寿は目を開けて不思議そうに僕を見た。

「どうした、ワタル。何で泣いてるんだ? オレ、何かしちゃったか?」
「何で泣いてるんだろうね。自分でもわからないんだけど、泣けてきちゃって。僕、変だよね」

 涙は拭わず、和寿の手を包んでいた。

 ──この手を離したくない。

 心の中でそう思ったが、すぐにそれを否定した。そんなこと望んじゃダメだ、と自分に言い聞かせた。

 葛藤した後、僕は和寿から手を離した。和寿は驚いたように「え?」と言った後、僕の手を握ってきた。僕は、泣き顔のまま和寿を見た。

「急に離すなよ、ワタル。寒いじゃん」

 そう言って、和寿は笑った。僕は、ただ首を振った。

「それはどういう意味? なあ、ワタル。何か言ってくれよ」
「話って……何だい?」

 感情が揺れて、声が震えていた。恥ずかしいが、どうしようもない。

「話ね。そんなにたいした事じゃないんだけどさ。今度、ちょっと出かけてくるから」
「今度っていつ?」
「四月の終わり。ゴールデンウィークの前半だな。母の兄が弦楽器を制作してるから、久しぶりに工房を見させてもらうんだ。最近オレ、ちょっと調子悪いから、見てみたら何かが変わるかなと思って」

 和寿の伯父さんは、僕の実家がある県に住んでいるらしい。

「え。そうなんだ。すごい偶然だね。何だか親近感が湧くよ」

 涙は止まっていた。和寿は以前のような自然な笑顔で、

「じゃ、一緒に行くか」

 和寿の誘いに、うっかり、行きますと言いそうになったが、

「ダメだよ。世の中が休みでも、僕はアルバイトを普通にやらなきゃだし、宝生(ほうしょう)先生との約束もあるんだから」
「いいじゃん、そんなの。断っちゃえば?」
「そんなこと、出来ないよ」
「意地悪だな」
「結構です」

 言い合いをした後、顔を見合わせて笑った。

 ──こうして笑い合ったのは、いつ以来だろう。

 半月前か、一か月前か。ここの所、いつでも黒い雲に覆われたみたいだったが、今この瞬間は晴れ渡っていた。

「一緒に行ってくれないなら、まあ、仕方ないな。お土産、何買ってこようか」

 和寿の問いに僕は、

「別に何もいらない。だって、地元なんだから。それより、気を付けて行ってきてね。帰ってきたら、話を聞かせてよ。どんなだったのか。楽器作るのって見たことないから」

 僕が見つめると、和寿は頷いて、

「わかった。土産話、楽しみにしてなさい」

 笑顔で言った。

 和寿は、僕から手を離すとひらひらと振り、

「じゃあな。お疲れさま」

 僕とは逆方向に歩き出した。僕もすぐに向きを変え、歩き始めた。心が軽くなり、一人だというのについ顔がほころんで、困った。