心が晴れることはなかったが、僕の状態がどうであれ、アルバイトはしなければならない。

 ファルファッラに行き店長に挨拶すると、僕の顔を覗き込むようにして見てきた。

吉隅(よしずみ)くん。何かあった? ここのとこ、ちょっと元気ないなって思ってたんだけどさ。今日は、最近の中で一番だね」

 一番と言われても、褒め言葉ではない。僕は首を振り、

「いえ。そんなこと……。ちょっと疲れているのかもしれません。でも、大丈夫です。ちゃんと弾きます」
「そう。じゃあさ、あんまり無理しないでね。今日は、適当でいいから」

 笑顔で言った。

 ──いや。お金が発生するのに、それはダメでしょう。

 店長の優しさからの発言だということはわかっている。でも、それに甘えてはいけない。僕は更衣室で着替えを済ませると、鏡の中の僕に向かって、

「ワタル。頑張るぞ」

 そう言って、自分を鼓舞した。

 店長の開店の声が掛かり、僕はピアノを弾き始めた。が、演奏していても、何となく集中出来ずにいた。これが試験だとしたら、たぶん落第点を取るだろう。曲の合間に、つい小さな溜息を吐かずにはいられなかった。

 開店から三時間程が経った頃だった。サティの『Je(ジュ)  te(トゥ)  veux()』を弾いている時、ドアが開いてゲストが入ってきた。何気なくその方を見て、思わず「あ」と声が出掛かった。

 ──和寿(かずとし)……。

 彼から目が離せなくなってしまった。

 席に着くと和寿はメニュー表を見て、しばらくしてから何か注文した。そして、スタッフが去るとテーブルの一点を見つめて、何か考えている風だ。

 少し痩せたかもしれない。そのせいか、以前とは、まとう雰囲気が違っているように感じられた。ただ、相変わらずバイオリンは持参している。それが以前と変わらない、唯一の彼らしさのように思えた。

 ピアノは基本的に、そこにある楽器を弾く。相性がいい時も悪い時もあるが、それを演奏の良し悪しの言い訳には出来ない。その点バイオリンは、持ち運ぶことが出来て、いつでも自分の楽器で演奏出来る。そこがすごくいいな、と思う。

 曲を終えた所で店長の声が掛かり、休憩になった。奥の部屋に行くには、和寿のそばを通らなければならない。緊張して膝が震えそうになっている自分を、心の中で笑った。どうしてこんなことになったのだろう。

 時間があまりないので、なるべく和寿を見ないようにして急ぎ足で通り過ぎようとしたが、和寿に袖をつかまれてしまった。ハッとして和寿を見ると、無理に作ったような笑顔をしていた。

 ──この人は、いつからこんな顔をするようになっていたのだろう。

 驚いて、和寿をじっと見つめてしまった。和寿は僕を少し見上げると、

「ワタル……」

 呼び掛けてきたものの、和寿はそれきり黙ってしまった。何か言おうとして、ためらっているような顔をしていた。僕は和寿の目を見ながら、

「話があるなら、仕事が終わってから聞くよ。待っててくれるなら」

 僕がそう言うと和寿は頷き、

「わかった。店の前で待ってるから」

 食器はすでに空になっていた。和寿は立ち上がると僕に向かって軽く手を振り、

「じゃ、また後で」

 背中を向けて歩き出した。僕は、その姿をしばらく目で追ってから、奥の部屋に急いだ。


 それから一時間ほどで閉店時間となり、ドアが閉められた。僕は急いで着替えを済ませると、スタッフに挨拶をして外へ出た。