試験の当日になった。僕は、控室で和寿(かずとし)と向かい合って座っていた。隣の部屋では他の学生が試験中だ。和寿の試験は今日の最後。したがって、この部屋は今二人が占領しているようなものだった。

「この前はごめんね。何か調子が出なかったから、弾きにくかったんじゃない? 試験直前に、本当にごめん。その代わり、今日は集中して弾くから」

 隣は防音室なので、こちらの声が聞こえることはないが、なんとなく声をひそめてしまう。僕の言葉に、和寿は小さく笑って、

「今日はきっと、最高の演奏が出来る。絶対上手くいくから。オレ、そう思ってる」
「そうなるように……頑張ります」

 敬語になってしまった。つい自信なさげに言ってしまう僕に、和寿は右手をすっと出し、

「今日はよろしく」

 笑顔付きで言う。僕はその手を握り、「はい」と返事をした。

 その時ドアがノックされ、試験の順番が来たことを告げられた。僕たちは目を合わせ頷き合うと、試験会場に向かった。

 和寿の演奏は、本当に素晴らしかった。発表会の時のような集中力。その最高とも思われる演奏を台無しにしてはいけないとの思いで、僕は必死に伴奏を続けた。

 終了後、先生たちに一礼してから、二人揃って部屋を出た。出て行くまでが試験だと聞かされているので、感情を押さえつけていた。が、走り出したい、そんな高揚した気持ちでいた。控室に戻ると、和寿は楽器をケースにしまった。そして、それを背負うと僕の肩を叩き、

「食堂行こう。何か飲まないと、のど、からからだ」

 それは僕も同じだった。集中し過ぎて、体から水分が抜けてしまった感じがしていた。

 広い食堂に、人はまばらだった。和寿は、椅子にバイオリンケースを置くと、僕を強く抱き締めてきた。驚きすぎて、声が出ない。和寿は普段よりも少し高めの声で、まくし立てるように、

「やったな。オレたち、今までで一番いい演奏が出来たよな。オレ、そう思ってる。ありがとう、ワタル。オレは、めちゃめちゃ嬉しい」
「嬉しいのはわかった。わかったけど……」

 こんな距離感は、心臓に良くない。こんなことが普通に出来るというのは、やはり友人と思われているからだろう、と感じずにはいられない。

「あの……、近過ぎだから。えっと、恥ずかしいんだけど。ここ、人もいるし、あの……」

 このままでいたい、なんて絶対に言ってはいけないと知っている。だから、自分の気持ちに反したことを言わなければならない。

 僕の抗議に和寿は、「あ」と言った後、僕から離れた。気のせいか、顔が少し赤いように見えた。それってどういうことだろう、と思わなくもなかったが、きっと僕の見間違いだと思い直した。

 和寿は少し俯くと、

「ごめん。やっと大きい声出してもいいと思ったら、つい……。オレ、テンション高過ぎでした」

 そう言うと、和寿はいきなり背を向けた。

「飲み物買ってくるから、ちょっと()()()を見てて」

 ()()()とは、和寿の大事なバイオリンのことだ。余程のことがない限り、彼は常にバイオリンを持ち歩く。ファルファッラに来る時も、必ず持っている。弾かなくても持ち歩く。それが彼だ。

「大丈夫。ちゃんと見てるよ。僕はミルクティーを飲みたい気分です」
「了解。待っててください」

 和寿はブラックコーヒー、僕はミルクティーをそれぞれ飲みながら黙り合っていた。時々和寿の方を見ると、彼は何だか微笑んでいるみたいだった。写真に撮りたい、と思ってしまう自分を、心の中で戒めた。

 コーヒーを飲み終えた和寿が、目を上げて僕を見た。思わず姿勢を正してから、「何?」と訊いてみる。

「今日の試験、結果はどうだかわからないけどさ。今のオレが持てる力は出し切れたと思う。おまえのおかげだよ。本当にありがとう」

 幸せそうに微笑しながら言う。そんな表情を見せられて、僕は顔が赤くなるのを感じ、それを隠そうと俯いた。