その日、講義が終わってから、和寿と合わせる為に練習室を借りた。指慣らしに短い曲を弾いていると、和寿がピアノのそばに立ち唐突に言った。
「どうしたんだよ、ワタル。何か元気ないじゃん」
「いや。そんなことないと思うけど……」
言い当てられて、つい手が止まってしまった。和寿はすぐ横まで来ると、僕の顔を覗き込むようにして見てきた。顔が赤くなっていませんように、と祈る。
「そんなこと、なくないだろう。人に言うと楽になるぞ」
和寿は、心配そうな表情で言った。どうしても言わせようとしているみたいだ。でも、僕のこの感情は、人に言うようなことではないだろうと思う。僕は首を振り、
「本当に、何もないんだ。元気なくない。普通だよ?」
「いや。普通じゃないな。何かあったんだろう?」
「ないってば。心配しすぎだよ」
何度も同じやりとりを繰り返し、最終的に僕が折れた。僕はピアノの鍵盤を見つめたまま、
「わかったよ。話すよ」
僕は、大きな溜息を吐いてから話し始めた。
「先生が……僕がプロにはなれそうもないって正直に伝えたら、諦めが早すぎるとか、挑戦する前に諦めるのか、とか……。何か今日は、簡単には話をやめてくれそうもない勢いで……」
「でも、今ここにいるじゃん。頑張って抜け出してきたんだろ。偉いな、ワタル」
笑顔で僕の頭を撫でた。そうされた途端、僕の心臓は騒ぎ出してしまう。
「先生、ワタルに期待してるんだろうな。だから、ついムキになったのかも。わかるなー。だって、オレも同じだから」
「同じ?」
「そう。先生と同じ。オレはワタルに期待してる。一緒に演奏活動をしていきたい。オレもまだプロじゃないけどさ。プロになった時……いつか絶対なるから。その時は、ワタルとやってたいって思ってるから。先生と同じように期待してるよな。でもさ、結論は急がなくていいからな」
「うん。ありがとう」
優しい和寿の言葉に、少しずつ心が落ち着いてくる。僕の感情を乱すことも出来るけど、安定もさせてくれる。この人は、僕にとって不思議な存在だ。
僕が見つめていると、和寿は急に笑顔になり、
「大変だったけど、まあ、いいじゃん。その話はこれで終わりだ。それよりさ、楽しい話をしよう。十一月の学園祭、どうする? 一緒に何か演奏しよう」
「和寿、ちょっと待ってよ。学園祭の前に、楽しい試験があるんじゃない? 練習しよう。その為に今ここにいるんだから」
僕の言葉に和寿は肩をすくめて、
「つまんないなあ。ま、仕方ないよな。じゃあ、始めよう」
そう言って楽器を構えると、いきなり和寿の周りの空気が変わった。それは、あの日の彼が纏っていたものと同じだった。
和寿の背中をじっと見つめて動きを止めてしまっている僕を、和寿が振り返って見てきた。僕が慌ててラの音を鳴らすと、和寿は前を向き、音を合わせ始めた。音が決まって合図が来たので前奏を弾き始めた。
今日も、和寿のバイオリンの音色は澄んでいる。どうしたらこんな音で弾けるんだろう。中村先生は、僕と初めて合わせたあの日、急に上手くなったと恐れたように言っていたけれど、本当だろうか。それは何だろう? 化学変化、みたいなものだろうか。考えても、よくわからない。
あんなにも気分が落ちていたのに、彼の音楽に包まれた瞬間、気分は一気に上昇した。なんてゲンキンなんだろう、と思うが、いつも和寿を見ると気分が上がる。そして、ドキドキする。触れられたら、ドキドキがさらに加速してしまう。
でも、和寿はどうなんだろう。僕の頭や肩に触れる時、何か感じてくれているだろうか。
そうしてくれた瞬間の和寿を思い返してみたが、特別に意識しているようには見えなかったな、と残念な結果が導き出されてしまった。
──やっぱり、友達としか思われてないよね。
僕は同性を好きになってしまう。それは、中学の頃に自覚した。でも、そういう人ばかりではない。異性を好きになる人だっている。きっと和寿は、そっちなんだ。僕が恋愛対象として見られることは、決してないんだ。
絶望感が僕を包み込んでいた。出口がないこの想いは、どうしたらいいんだろう。
そんなことを思いながら弾いていたせいか集中出来ず、あまりいい伴奏をしてあげられなかった。試験直前の合わせだったのに、と後悔しても、時間は戻ってこない。
せめて、試験当日は余計なことを考えずに、彼の演奏を引き立てられるような伴奏をしよう、と心の中で強く誓った。
「どうしたんだよ、ワタル。何か元気ないじゃん」
「いや。そんなことないと思うけど……」
言い当てられて、つい手が止まってしまった。和寿はすぐ横まで来ると、僕の顔を覗き込むようにして見てきた。顔が赤くなっていませんように、と祈る。
「そんなこと、なくないだろう。人に言うと楽になるぞ」
和寿は、心配そうな表情で言った。どうしても言わせようとしているみたいだ。でも、僕のこの感情は、人に言うようなことではないだろうと思う。僕は首を振り、
「本当に、何もないんだ。元気なくない。普通だよ?」
「いや。普通じゃないな。何かあったんだろう?」
「ないってば。心配しすぎだよ」
何度も同じやりとりを繰り返し、最終的に僕が折れた。僕はピアノの鍵盤を見つめたまま、
「わかったよ。話すよ」
僕は、大きな溜息を吐いてから話し始めた。
「先生が……僕がプロにはなれそうもないって正直に伝えたら、諦めが早すぎるとか、挑戦する前に諦めるのか、とか……。何か今日は、簡単には話をやめてくれそうもない勢いで……」
「でも、今ここにいるじゃん。頑張って抜け出してきたんだろ。偉いな、ワタル」
笑顔で僕の頭を撫でた。そうされた途端、僕の心臓は騒ぎ出してしまう。
「先生、ワタルに期待してるんだろうな。だから、ついムキになったのかも。わかるなー。だって、オレも同じだから」
「同じ?」
「そう。先生と同じ。オレはワタルに期待してる。一緒に演奏活動をしていきたい。オレもまだプロじゃないけどさ。プロになった時……いつか絶対なるから。その時は、ワタルとやってたいって思ってるから。先生と同じように期待してるよな。でもさ、結論は急がなくていいからな」
「うん。ありがとう」
優しい和寿の言葉に、少しずつ心が落ち着いてくる。僕の感情を乱すことも出来るけど、安定もさせてくれる。この人は、僕にとって不思議な存在だ。
僕が見つめていると、和寿は急に笑顔になり、
「大変だったけど、まあ、いいじゃん。その話はこれで終わりだ。それよりさ、楽しい話をしよう。十一月の学園祭、どうする? 一緒に何か演奏しよう」
「和寿、ちょっと待ってよ。学園祭の前に、楽しい試験があるんじゃない? 練習しよう。その為に今ここにいるんだから」
僕の言葉に和寿は肩をすくめて、
「つまんないなあ。ま、仕方ないよな。じゃあ、始めよう」
そう言って楽器を構えると、いきなり和寿の周りの空気が変わった。それは、あの日の彼が纏っていたものと同じだった。
和寿の背中をじっと見つめて動きを止めてしまっている僕を、和寿が振り返って見てきた。僕が慌ててラの音を鳴らすと、和寿は前を向き、音を合わせ始めた。音が決まって合図が来たので前奏を弾き始めた。
今日も、和寿のバイオリンの音色は澄んでいる。どうしたらこんな音で弾けるんだろう。中村先生は、僕と初めて合わせたあの日、急に上手くなったと恐れたように言っていたけれど、本当だろうか。それは何だろう? 化学変化、みたいなものだろうか。考えても、よくわからない。
あんなにも気分が落ちていたのに、彼の音楽に包まれた瞬間、気分は一気に上昇した。なんてゲンキンなんだろう、と思うが、いつも和寿を見ると気分が上がる。そして、ドキドキする。触れられたら、ドキドキがさらに加速してしまう。
でも、和寿はどうなんだろう。僕の頭や肩に触れる時、何か感じてくれているだろうか。
そうしてくれた瞬間の和寿を思い返してみたが、特別に意識しているようには見えなかったな、と残念な結果が導き出されてしまった。
──やっぱり、友達としか思われてないよね。
僕は同性を好きになってしまう。それは、中学の頃に自覚した。でも、そういう人ばかりではない。異性を好きになる人だっている。きっと和寿は、そっちなんだ。僕が恋愛対象として見られることは、決してないんだ。
絶望感が僕を包み込んでいた。出口がないこの想いは、どうしたらいいんだろう。
そんなことを思いながら弾いていたせいか集中出来ず、あまりいい伴奏をしてあげられなかった。試験直前の合わせだったのに、と後悔しても、時間は戻ってこない。
せめて、試験当日は余計なことを考えずに、彼の演奏を引き立てられるような伴奏をしよう、と心の中で強く誓った。

