ずっと、一緒に

 食事会が終わり店を出ると、和寿(かずとし)は、

「今日は本当にありがとな。嬉しかった」

 笑顔で言った。僕も微笑み返して、

「僕、今この瞬間も、思い出すと震えそうだよ」
「マジで? そんなによかったんだ。オレ、これからも頑張る。だってさ、入学式で言っちゃったし。精進していくことを誓うって」
「僕も、出来る限りは頑張るよ。人の演奏聴くと、影響受けるね。僕は本当に音楽が好きなんだなって思った」
「後はワタルがプロになるって言ってくれたらいいんだけどな」
「だから、それは……」

 和寿は声を上げて笑うと、

「いつか、な。今すぐ決めなくてもいいよ」

 髪をクシャッとされた。触れられると、ドキドキしてしまうのは、どうにも出来ない。意識してしまっている自分。何にも意識していなさそうな和寿。この想いは報われないと思う。それなのに、止めることは出来そうにもない。困ったものだ。

「うん。そうだね。いつかは答えを出すよ」

 無理矢理笑顔を作って、そう答えるのが精一杯だった。


 夏休みが終わって最初のレッスンの後だった。

「何かありましたか?」

 首を傾げた宝生(ほうしょう)先生が訊いてきた。質問の意味を図りかねて僕は、

「何か、とは何のことでしょうか?」

 先生は、僕をじっと見ながら、

「君のピアノの音が、良くなっていました。休みに入る前より、格段に。きっと、音が変わるきっかけがあったんだろうと思いました。それで? 何があったんですか?」

 ようやく先生の問いの意味するところが理解出来た。どうやら褒めてくれているらしい、ということもわかった。

「それは、たぶん……」
「たぶん、何でしょう?」
「夏休みに、油利木(ゆりき)音楽教室の発表会を聴きに行ったんです。油利木くんに誘われたので。そこで、彼の演奏を聴きました」

 そう言葉にするだけで、あの日の和寿の演奏がよみがえる。半月以上も経つというのに、その感動は全く色褪せない。心を震わせずにはいられなかった。

 僕が黙ってしまったからか、先生が、「吉隅くん?」と呼び掛けてきた。僕は頭を振ってから、

「それで、その演奏がすごくよくって。僕は号泣しました。何て言えばいいのか……。音楽の、説明の出来ない圧倒的な力を全身で感じたんです。今でさえ、思い出しただけで、胸の奥が震えてきます」

 考え考え伝えると、先生は深く頷き、

「そうですか。いい体験をしたんですね」
「はい。それから、油利木くんが、僕にもプロになってほしいと言っていました」
「プロですか。なるのはいいですけどね。というか、君。プロになりたいんですか? 君は、その辺が曖昧ですよね。他の学生と比べても仕方ないですけれど、大抵みんなプロを目指してますと言いますけど、君は……」
「それは……だって、出来そうもないからです。僕より弾ける人なんて、いっぱいいます。そういう人たちの演奏を聴いてしまったら……」

 言い淀む僕に先生は、

「挑戦すらしないと言うんですか。君はまだ、一年生でしょう。諦めが早過ぎです。プロのピアニストを目指さない。では、何になりたいんですか」

 いつもになく、熱い先生。今日は、簡単に話をやめてくれないようだ。

「先生。ありがとうございました」

 一礼して出ていこうとする僕に、

「あ。吉隅くん」
「さようなら」
「吉隅くん」

 何も答えず、背中を向けたままお辞儀をすると、急いでレッスン室を出た。後ろ手にドアを閉める時も、先生は僕を呼んでいた。

 和寿の演奏を聞いて、音楽の力を本当の意味で知った気がする。自分もそんな演奏が出来れば、と思った。

 が、そう思うそばから、そんな大それたことが自分に出来るはずはないと否定したくなる。確かに宝生先生が言うように、挑戦すらしないで諦めようとしているのかもしれない。

 ──僕に、もっと勇気があれば。

 和寿とともに活動する未来は、僕にはあまりにも遠い夢に感じられていた。