油利木音楽教室の発表会当日、僕は朝から落ち着かなかった。あと数時間で和寿の演奏が聴ける。無伴奏ソナタを弾くと言っていたけれど、一体誰のどの曲を弾くんだろう。ワクワク感しかなかった。
昼過ぎに会場へ行くと、もう、ホールにお客さんを入れ始めていた。遅くなってしまったと思い、急ぎ気味に受付に行くと、和寿がそこにいた。びっくりして、いきなり心臓が速く打ち始めた。
「和寿?」
声が揺れてしまった。恥ずかしい。和寿は笑顔でプログラムを僕に渡してくると、
「ワタル。来てくれてありがとう」
僕は、それを受け取りながら、
「和寿は、スタッフなの?」
「そう。今年は、スタッフでもある。去年までは出演者だったけど、今年はおまけで出るだけだから。それまでは、雑務を手伝ってるんだ」
「それはご苦労様。じゃ、また後でね」
和寿に手を振って、ドアへ向かった。重いドアを開けて中に入ると、階段を下りて前の方へ行く。一列目で聴くのが好きで、大抵その辺りで聞く。演奏者の手の動きがよく見えるし、息遣いがすぐそばで感じられるからだ。
誰も座っていなかったので、一列目のやや左寄りに座った。プログラムを見ていると、ブザーが鳴った。徐々に会場が静まり、女性がステージに出て来て挨拶をした。たぶん、和寿のお母さんだろう。
小さい生徒さんたちが、次から次に演奏していく。それらを聴きながら、自分の小さい頃を思い返してみたが、こんなに可愛らしくはなかったな、と苦笑してしまった。
ファルファッラのスタッフからは可愛いと言われるが、これまでそんなことを言われたことは、ほとんどなかったと思う。たぶん、可愛げがない子供だったのだろう。
いろいろと考えを巡らせている内に、第一部は終わった。出演者の集合写真の撮影の後、彼らは解散した。
二十分後、第二部が始まり、少し長めの曲が演奏されていく。それぞれ個性があり、興味深く聴いていた。
そして、最後に和寿が登場した。演奏する曲は、バッハの無伴奏バイオリンソナタ第一番だ。
彼は、ステージの中ほどに立つと礼をして、楽器を構えた。その真剣な表情を見て僕は、自分のことのように緊張が走った。
弓が楽器に降り、一音目が鳴った瞬間、鳥肌が立っていた。
──こんな音、聴いたことない……。
心の奥深くで音を感じている。こんなにも感じ入ったことは、今までそう何回もはなかった。身動きも出来ずに、ただ彼を見つめ、音を聴いていた。
何分位そうして弾いていただろう。一瞬のような、すごく長かったような、不思議な感覚だった。弓が楽器から離れた瞬間、和寿がお辞儀をする前に僕は思わず立ち上がり、大きな拍手を贈っていた。我慢していた涙がこぼれ出た。
弾き終えたばかりの和寿が、不思議そうな顔で僕を見ていたが、すぐにステージ脇の階段を下りて、僕のそばへ来てくれた。
「ワタル、どうした? 大丈夫か?」
戸惑ったような顔で何度も訊かれたが、何も答えられない。僕はただ、首を振ることしか出来なかった。
開会の挨拶をしていた女性が、ステージの端に立ち、和寿を呼んだ。やはりあの人は、和寿のお母さんだったようだ。呼ばれた和寿は首を振り、
「ごめん。無理」
お母さんに向かってそう言うと、僕の手をギュッと握った。和寿は、涙をぼろぼろ流している僕の手を引いて、
「ロビーに行こう」
「え?」
「行くぞ」
しっかりと握られた左手に彼の体温を感じ、それだけで鼓動が速くなり、苦しかった。
昼過ぎに会場へ行くと、もう、ホールにお客さんを入れ始めていた。遅くなってしまったと思い、急ぎ気味に受付に行くと、和寿がそこにいた。びっくりして、いきなり心臓が速く打ち始めた。
「和寿?」
声が揺れてしまった。恥ずかしい。和寿は笑顔でプログラムを僕に渡してくると、
「ワタル。来てくれてありがとう」
僕は、それを受け取りながら、
「和寿は、スタッフなの?」
「そう。今年は、スタッフでもある。去年までは出演者だったけど、今年はおまけで出るだけだから。それまでは、雑務を手伝ってるんだ」
「それはご苦労様。じゃ、また後でね」
和寿に手を振って、ドアへ向かった。重いドアを開けて中に入ると、階段を下りて前の方へ行く。一列目で聴くのが好きで、大抵その辺りで聞く。演奏者の手の動きがよく見えるし、息遣いがすぐそばで感じられるからだ。
誰も座っていなかったので、一列目のやや左寄りに座った。プログラムを見ていると、ブザーが鳴った。徐々に会場が静まり、女性がステージに出て来て挨拶をした。たぶん、和寿のお母さんだろう。
小さい生徒さんたちが、次から次に演奏していく。それらを聴きながら、自分の小さい頃を思い返してみたが、こんなに可愛らしくはなかったな、と苦笑してしまった。
ファルファッラのスタッフからは可愛いと言われるが、これまでそんなことを言われたことは、ほとんどなかったと思う。たぶん、可愛げがない子供だったのだろう。
いろいろと考えを巡らせている内に、第一部は終わった。出演者の集合写真の撮影の後、彼らは解散した。
二十分後、第二部が始まり、少し長めの曲が演奏されていく。それぞれ個性があり、興味深く聴いていた。
そして、最後に和寿が登場した。演奏する曲は、バッハの無伴奏バイオリンソナタ第一番だ。
彼は、ステージの中ほどに立つと礼をして、楽器を構えた。その真剣な表情を見て僕は、自分のことのように緊張が走った。
弓が楽器に降り、一音目が鳴った瞬間、鳥肌が立っていた。
──こんな音、聴いたことない……。
心の奥深くで音を感じている。こんなにも感じ入ったことは、今までそう何回もはなかった。身動きも出来ずに、ただ彼を見つめ、音を聴いていた。
何分位そうして弾いていただろう。一瞬のような、すごく長かったような、不思議な感覚だった。弓が楽器から離れた瞬間、和寿がお辞儀をする前に僕は思わず立ち上がり、大きな拍手を贈っていた。我慢していた涙がこぼれ出た。
弾き終えたばかりの和寿が、不思議そうな顔で僕を見ていたが、すぐにステージ脇の階段を下りて、僕のそばへ来てくれた。
「ワタル、どうした? 大丈夫か?」
戸惑ったような顔で何度も訊かれたが、何も答えられない。僕はただ、首を振ることしか出来なかった。
開会の挨拶をしていた女性が、ステージの端に立ち、和寿を呼んだ。やはりあの人は、和寿のお母さんだったようだ。呼ばれた和寿は首を振り、
「ごめん。無理」
お母さんに向かってそう言うと、僕の手をギュッと握った。和寿は、涙をぼろぼろ流している僕の手を引いて、
「ロビーに行こう」
「え?」
「行くぞ」
しっかりと握られた左手に彼の体温を感じ、それだけで鼓動が速くなり、苦しかった。

