──まだ気にしているんだろうか。さっきから、ずっと黙っている。
僕は、隣を歩く油利木和寿をそっと見た。俯いたその横顔は、何か考え込んでいるようで、いつもの陽気さが影を潜めている。やはり、何だかおかしい。
今日は、新しい学年になって初めての合わせだった。僕はピアノ、和寿はバイオリンを弾く。彼の伴奏をするようになって、そろそろ一年が経つ。
「久し振りだな、おまえと合わせるの」
和寿が笑顔で言った。学年末の試験以来で確かに久し振りだったから、僕も今日をとても楽しみにしていた。和寿と一緒に演奏することは、僕にとって、喜びだった。
ワクワクした気持ちでピアノの前に座ると、蓋を静かに開けた。和寿がバイオリンケースから楽器を取り出し構えたのを確認してから、僕はAの音を鳴らした。和寿は、器用にバイオリンのペグを回しながら音を決めていく。そして、納得したのか僕を見て頷いた。僕も軽く頷き返すと、前奏を弾き始めた。
和寿のバイオリンの音が、ピアノに乗る。今日も調子が良さそうだ。
と、そう思った瞬間だった。和寿が高音を外した。
──え?
ありえないことが起きてびっくりした僕は、思わずピアノを弾く手を止めてしまった。視線を和寿に向けると、彼も自分のミスに驚いたのか、動きが完全に止まっていた。それから少しして僕の方にゆっくりと振り向いた和寿は、表情が固まっていた。
同情せずにはいられなかった。和寿が音を外すなんてことは、今までなかったし、彼だって自信があっただろう。それなのに、何ということもない普通のところで、こんな事態が起きてしまった。僕もショックだけれど、外した本人はもっとショックだろうと思う。
「和寿……」
呼び掛けてみたけれど、後が続かない。何を言っても和寿を傷つけるだけのような気がしたのだ。和寿は頭を振ってから僕を見ると、大きな溜息を吐いた。心臓がドキッとしてしまった。
「えっと……」
何を言おうとしたのだろう。もう、黙ってろ僕、と心の中で自分を叱った。和寿は頭を軽く下げると、
「ワタル。ごめん。もう一回初めからお願いします」
そう言った和寿の声は、何だか元気がなかった。体の調子が悪いんだろうか。ほんのさっきまでは変わりないように見えたのに。そう思ったが、口には出さなかった。僕は、和寿に頷いてから前奏を弾き始めた。
和寿は、楽器は構えているものの集中しきれていないのか、前奏の間ずっと指の位置を確かめるように左手を動かしていた。そして、バイオリンの演奏が始まってすぐ、またミスをした。
弓を持っている右手はだらんと下がり、肩が落ちてしまっている。そして、楽器を肩から下ろすと、ハーッと息を吐き出し首を左右に振った。その姿が痛々しい。
「和寿……?」
胸をざわつかせながら呼び掛けた。振り向いた和寿は、眉が下がっていて困ったような表情をしていた。その顔を見て僕は、掛けるべき言葉が見つからず、ただ黙って和寿を見ているしかなかった。和寿は、もう一度大きく息を吐き出すと、
「今日は、もういいや。ありがとう」
「え?」
僕の驚きの声は和寿の耳には届かなかったようで、何も言わずにさっさと楽器をケースにしまい始めた。僕はその様子を見ながら、ただ呆気に取られるばかりだった。
支度が終わると和寿は、「行こう」と低い声で言った。僕は戸惑いながらも頷き、先に歩き出した彼の背中を追った。
無言で廊下を歩く僕たちは、何とも言えない空気に包まれているような感じだった。和寿と一緒にいてこんなに気まずいのは、なかなかあることではない。ちょっと逃げ出したいような気持ちになっていた。
──いったい、どうしたって言うんだろう?
和寿は普段、そんなに気にする性格ではない。それなのに……。
疑問が頭の中をぐるぐるしていて、僕を混乱させ続けていた。
僕は、隣を歩く油利木和寿をそっと見た。俯いたその横顔は、何か考え込んでいるようで、いつもの陽気さが影を潜めている。やはり、何だかおかしい。
今日は、新しい学年になって初めての合わせだった。僕はピアノ、和寿はバイオリンを弾く。彼の伴奏をするようになって、そろそろ一年が経つ。
「久し振りだな、おまえと合わせるの」
和寿が笑顔で言った。学年末の試験以来で確かに久し振りだったから、僕も今日をとても楽しみにしていた。和寿と一緒に演奏することは、僕にとって、喜びだった。
ワクワクした気持ちでピアノの前に座ると、蓋を静かに開けた。和寿がバイオリンケースから楽器を取り出し構えたのを確認してから、僕はAの音を鳴らした。和寿は、器用にバイオリンのペグを回しながら音を決めていく。そして、納得したのか僕を見て頷いた。僕も軽く頷き返すと、前奏を弾き始めた。
和寿のバイオリンの音が、ピアノに乗る。今日も調子が良さそうだ。
と、そう思った瞬間だった。和寿が高音を外した。
──え?
ありえないことが起きてびっくりした僕は、思わずピアノを弾く手を止めてしまった。視線を和寿に向けると、彼も自分のミスに驚いたのか、動きが完全に止まっていた。それから少しして僕の方にゆっくりと振り向いた和寿は、表情が固まっていた。
同情せずにはいられなかった。和寿が音を外すなんてことは、今までなかったし、彼だって自信があっただろう。それなのに、何ということもない普通のところで、こんな事態が起きてしまった。僕もショックだけれど、外した本人はもっとショックだろうと思う。
「和寿……」
呼び掛けてみたけれど、後が続かない。何を言っても和寿を傷つけるだけのような気がしたのだ。和寿は頭を振ってから僕を見ると、大きな溜息を吐いた。心臓がドキッとしてしまった。
「えっと……」
何を言おうとしたのだろう。もう、黙ってろ僕、と心の中で自分を叱った。和寿は頭を軽く下げると、
「ワタル。ごめん。もう一回初めからお願いします」
そう言った和寿の声は、何だか元気がなかった。体の調子が悪いんだろうか。ほんのさっきまでは変わりないように見えたのに。そう思ったが、口には出さなかった。僕は、和寿に頷いてから前奏を弾き始めた。
和寿は、楽器は構えているものの集中しきれていないのか、前奏の間ずっと指の位置を確かめるように左手を動かしていた。そして、バイオリンの演奏が始まってすぐ、またミスをした。
弓を持っている右手はだらんと下がり、肩が落ちてしまっている。そして、楽器を肩から下ろすと、ハーッと息を吐き出し首を左右に振った。その姿が痛々しい。
「和寿……?」
胸をざわつかせながら呼び掛けた。振り向いた和寿は、眉が下がっていて困ったような表情をしていた。その顔を見て僕は、掛けるべき言葉が見つからず、ただ黙って和寿を見ているしかなかった。和寿は、もう一度大きく息を吐き出すと、
「今日は、もういいや。ありがとう」
「え?」
僕の驚きの声は和寿の耳には届かなかったようで、何も言わずにさっさと楽器をケースにしまい始めた。僕はその様子を見ながら、ただ呆気に取られるばかりだった。
支度が終わると和寿は、「行こう」と低い声で言った。僕は戸惑いながらも頷き、先に歩き出した彼の背中を追った。
無言で廊下を歩く僕たちは、何とも言えない空気に包まれているような感じだった。和寿と一緒にいてこんなに気まずいのは、なかなかあることではない。ちょっと逃げ出したいような気持ちになっていた。
──いったい、どうしたって言うんだろう?
和寿は普段、そんなに気にする性格ではない。それなのに……。
疑問が頭の中をぐるぐるしていて、僕を混乱させ続けていた。

