公演を終えた八尋は、関係者全員に深く頭を下げた後、着替えと片付けを速やかに終わらせ、走ってちとせの元へと向かった。

「仲直りできた」「成功した」そんな言葉だけを悠太と柚希に残し、多くは語らず。

今度はきちんと制服姿で校内を走り抜ける。
息を切らせて中庭に向かうと、ボヤ騒ぎのあった屋台をはじめ、すべての屋台が片付けられてしまっていた。

八尋はその光景に少し動揺した後、すぐにスマホを取り出しちとせに居場所を聞く。

「やーひろ、おつかれ」

返信が来るより先に、ちとせのその言葉が耳に飛び込む。声のする方へと振り向けば、クレープを片手に平然とこちらを見るちとせが立っていた。

「あ、お、おつかれ」

八尋はというと、思ってもみなかった両思いに浮かれ、ふわふわと揺られるような心境であった。

「八尋もなんか食う?」

「……いや、喉乾いた、かも」

走ったからか顔が熱い。手をうちわ代わりに顔をあおぐと、ちとせは「飲み物買おう」と歩きだす。
八尋は後を追い階段を上がり、休憩所と書かれた教室で飲み物を頼む列に並んだ。

「トロピカルレモネード、ひとつ」

「じゃあ俺はマシュマロココア、ください」

教室内の装飾された椅子には座らず、校内を目的もなく歩いた。
レモネードをぐるぐるとかき混ぜ、冷たいそれで喉を潤す。甘酸っぱくて、爽やかな香りが鼻に抜ける。すごく美味しい。

八尋は地味に感動しながら、ちまちまと温かいココアを飲むちとせを見た。

「ひとくち欲しい?」

八尋の視線に気が付いたちとせが言った。
欲しくて見ていたわけではないが、せっかくなので頷きカップを受け取る。

「ちとせがココア頼むの珍しくね?」

「暑くなかったら、八尋はこれ頼んでたでしょ」

「あぁ、うん」

……俺のためだったのか。

思わず頬が緩むのを止められず、そっぽを向いてカップに口をつけた。
いつも飲むココアより、甘く感じる。

「ねぇ八尋、お化け屋敷入んない?今年めっちゃ怖いらしいよ」

いいよ、など一言も言っていないのにちとせは長蛇の列にひょいと加わる。

「なんでおまえ怖がりなのに毎回行きたがるの?」

「なんでだろね」

能天気な返答。

それから列はぐんぐんと進んでいき、その度に中から大きな悲鳴が聞こえる。
二人はなんでもない会話を楽しみ、レモネードもココアもなくなった頃、ついに自分達の番が回ってきた。

なくなった身体のパーツを集めて欲しい、と受付で頼まれた二人は、スマホのライトで暗い教室を照らし歩く。
設定が事故現場であるためか、足元は悪くそこらじゅう血まみれだ。

ちとせは八尋が気が付かないような小さな仕掛け全てに反応し、女子顔負けの高い声で叫ぶ。八尋の右耳はキーンと痛み、また別の恐怖を味わっていた。

「なんか広くね?」

まだ終わらないのか、と内心思い口にする。

「教室三つ分使ってるんだって」

そう答えたちとせは横からお化けに驚かされて、八尋の腕にギュッとしがみついた。

「ごめんまじで怖すぎ、甘えさせて」

薄暗い中、ちとせの髪の匂いがふんわりと漂い、時が止まったように感じた。

前言撤回。
こんなに嬉しいことが起こるなら、日本中のお化け屋敷を回ったって良い。

八尋はそんな浮かれた思いのまま、出口をくぐるその瞬間までお化け屋敷を楽しんだ。

「あー怖かった」

「俺はなんか、夢みたいだった」

気の抜けた八尋は思ったことをそのまま口にしてしまい、はっと口元を手で覆った。

「なに言ってんの」

ちとせも顔を染め、なんともくすぐったい空気が流れていく。

「あのさ、恥ずかしいついでに聞きたいんだけど」

人気の少ない廊下をゆっくりと歩きながら、八尋は心臓をバクバクと鳴らしながら尋ねる。

「いつから気が付いてた?俺がちとせのこと、好きって」

「二人で保健室行ったとき。もしかしてって思って。あと、ちゅーされて確信に変わったかな。冗談じゃしないようなことばっかりだったし、八尋ガチで焦ってたし」

余裕そうに、嬉しそうに話すちとせ。
八尋は数々の失態を思い返し逃げ出したい気分になった。

「ちとせは嫌じゃなかったってこと?」

「あー、うん。驚いたけどね」

「まって、じゃあいつから翔先輩じゃなくて、俺のこと……」

「んー、八尋に好きな人いるって聞いた時かな。嫌すぎて失恋しろって思ってたもん」

そんなに前から、と八尋は驚くと同時に、あれだけ色々なことで悩んだこの約一ヶ月に意味がなかったように思えて少し落ち込む。

「もう良い?恥ずかしくなってきた」

歯痒い内容の質面責めにギブアップの声をあげ、ちとせはふらりと園芸部の部室へと入っていく。

「わあ、すげー綺麗」

園芸部が育てた花を見て、ちとせは微笑んだ。

「良かったら、販売も行っているので」

一人で当番をしている生徒が控えめに言った。
ちとせは楽しそうに教室の中を見て周り、バケツの中を覗き込む。

「これ、球根も売ってるんですか?」

「それは無料でお配りしています。こっちの咲いてるお花が販売用です」

その答えを聞いてちとせは考え込むように動きを止めた。

「欲しいの?」

「いや、美紗さんに買っていこうかなって。文化祭、来られなくなったし」

その言葉が少し意外だった。
美紗さんとちとせは決して良い関係ではなかったが、この前のことで少し変化があったのだろうか。

「これと、チューリップの球根ください」

ちとせはピンクの花を指さして言った。

それから、渡されたビニール袋の中の花と球根を大切そうに眺めながら教室を出るちとせを、横で見ていた。

これからも、ちとせの隣が自分の居場所である。
その事実が嬉しくて堪らなかった。

***

文化祭一日目。色々なことがあったけれど、なんとか無事に終了し、生徒達は帰路につく時間となった。

校門の外へと吸い込まれる人々を横目に、ちとせは外のベンチに腰掛けスマホの画面を見て、父さんからのメッセージになんと返そうか悩んでいた。

父さんとは、母さんと美紗さんのことを言われたあの日以来、あまり良くない関係が続いていた。
そんな中で美紗さんの入院騒ぎがあったので、お互い様子を伺い合って話をしている。

自分が大人になれば済む話だとわかっているのに。どうにもそれができない。

ちとせはベンチの横に置いたプリムラの花を眺め、息を吐く。

『美紗さんのところ寄って帰る』

そう返信し、スマホを閉じた。

いつも美紗さんに冷たい態度を取ってしまうが、美紗さんは何も悪くないと、どこかでわかっていた。
父さんがあっさり再婚したとか、若くて綺麗だとか、そんなことが気に入らなかった自分を少しだけ恥じるようになってきていて。

あの人が倒れてもちとせを呼ぶことができなかったのは、信用されていなかったからだ。

誰が悪いとか悪くないとかは隅に置いて、失いたくないのならもう少しコミュニケーションを取らなくてはいけない。
言葉にしなければ、人の心の内などなにもわからないのだから。

どうか、今度はちとせを頼ってくれるように。

そう思えた点は少し成長したと言えるだろうか。

「ちとせ、おまたせ」

まばらになった人通りの中から八尋の声がする。

ちとせは微笑み立ち上がり、二人並んで帰り道を歩いて行く。

それから、八尋と手を振り別れ病院に向かうと、美紗さんはここ数日で一番元気そうにちとせを迎えてくれた。

お土産と言って、寒さに強いプリムラの花とチューリップの球根を差し出すと、少し涙目になりながら「帰ったら一緒に育てよう」と笑ってくれた。

ちとせはまだ、病院も女の人も苦手だと思ってしまうが、この病室が嫌いだとは思わない。

居心地良いまま文化祭の話を聞かれ、ちとせは色々と話してみせた。
たこ焼きが美味しかったとか、お化け屋敷が怖かったとか、ヨーヨー釣りで校内最高記録を出したことも。心配をかけたくないから、火災の話は伏せておいた。
美紗さんはなんでもない話のどれを聞いても綺麗な絵画みたいに微笑んでくれる。

それから持っていた一眼レフカメラの写真も見たいと言われ、渋々八尋の写真ばかりのカメラを渡した。

美紗さんは八尋と何度も会ったことがあるからか、八尋の笑う顔が見れて嬉しいと言った。

ちとせも帰りのバスでまた写真を眺め、微笑んだ。
高校生の八尋がまっすぐこちらを見て笑う顔が、いつでも見られるなんて。

明日はもっと色々な場所で、色々な八尋を撮りたい。
それにできることなら、二人並んだ写真も欲しい。

欲張っても良いのなら明日だけじゃなくて今後もずっと。

「……カメラ、買おっかな」

口の中で呟き、声が漏れていたことにハッとする。

その後、家に戻ったちとせは、リビングのパソコンとプリンターで写真を印刷した。父さんが帰る前にいそいそと。

一番のお気に入り写真、廊下で撮った浴衣の写真。
印刷したその写真を胸に抱えたちとせは自室に戻り、ローテーブルに置いたままのノートを開いた。

これは絶対に本人に知られてはいけない事だが、そのノートには、中学生の頃の八尋の写真が挟まれている。

修学旅行の別のクラスの時の写真。
ちとせは1ミリだって映っていない写真。

展示の中で、ひときわ眩しく見えたその笑顔が、どうしても欲しかった。

いつも楽しそうな表情は横から眺めていることが多かったから、カメラ目線が嬉しくて、つい手に取った。

ちとせはその写真をしばらく眺める。

思えばずっと、見ていたかったのだ。

その時、スマホが震えた。
画面を開くと八尋の名前が大きく表示されている。電話なんて珍しい。

ちとせは隠し事がバレたような気分になり、今日撮ったばかりの新しい写真も一緒に慌ててノートに挟む。

「どしたの」

「あ、ちとせって黄色と水色どっちが好き?」

何を急に。「もしもし」もなく言われた言葉に、ちとせは戸惑う。

「黄色かな」

ひとまず答えてからなんの話かと聞こうとするも、「わかった」と言った八尋はすぐに電話を切ってしまった。

いつまで経っても八尋がなにを考えているのかわからない。

今日の告白も、突然だった。
突然だけど、生まれてから一番幸せな瞬間だった。

ちとせはもう一度写真を手に取る。
大好きな人のカメラ目線の笑顔を見て、釣られて笑った。

これからは、横顔だけじゃなくて、
真正面から笑顔を見られますように。




次の日に、黄色のフォトフレームをプレゼントされたちとせは、八尋に飛び付いて「ありがとう」と笑った。

今日撮った二人の写真を、そこに飾ろう。

そして増やしていくんだ、二人だけの思い出を。