***

「トロピカルレモネード、一つください」

「柚希レモネードなら私も!あ、あきちゃんも?そしたら三つお願いします」

朝一のクラス当番を終えた佐藤柚希は、同じクラスの友人二人と校内を見て回っていた。文化祭初日。一般非公開で、生徒達だけで文化祭を楽しむ日である。

受け取ったレモネードは少し濃いオレンジ色から透明な色のグラデーションになっており、カップに貼ってあるシールも可愛らしい。

柚希は首から下げていたスマホのカメラを起動し、レモネードの写真やそれを飲む友人を写真や動画に収める。

三人で画面を覗き込み撮れた画像を見ていると、メッセージの通知がポコンと上から降りてくる。

『大縄跳んでみる。振られたらなぐさめて』

差し出し人は野沢八尋であった。
柚希は画面を急いで隠し、友人達に見られていないか二人の表情を盗み見る。

「また野沢くんだ!」

「焦んなくても文字まで見えてないよ」

二人は揶揄うような口調で言った。

ひとまず八尋の秘密が守られたことに安心し、再度きちんと読み返す。やっぱり見間違いではない、彼はきっと想い人に気持ちを伝えようと決心したのだろう。

「ごめんね、一瞬返信させて」

「はいはい、どうぞどうぞ〜」

ニヤニヤと微笑む二人を他所に、スマホのキーボードを迷いなくタップする。

『野沢くんなら跳べる!ちなみにいつ挑戦するの??』

既読マークがすぐに付き、返信もすぐに来た。

『いつにしよっかな』

決めていないのか、と少々落胆し、またすぐに文字を打ち込む。

『文化祭で告白すると成功率1.5倍だって!』

『いま友達といるからまた舞台袖で話そ〜!応援してます!!』

柚希はそれだけ打ち込みスマホを閉じた。
なんだかドキドキしてしまい、落ち着かない。持っていたトロピカルレモネードをかき混ぜてストローを咥えた。

「もういいの?もしあれだったら野沢くんと文化祭回ったら?」

友人に言われ、柚希は首を振る。

「仲良くはなったけど、ほんとに違うからね。好きとかじゃないよ」

「えーでもお似合いだよ」

柚希は八尋と過ごすのが嫌いではなかった。
むしろ仲良くなってからは学校に来るのが楽しみだった。

好きな人の話をする彼が、あまりに優しく微笑むから。そして想像以上に悩み臆病になっているから。ついつい声を掛け、大丈夫だよと言ってあげたくなってしまう。

柚希が川島という男に言い寄られ困っていた時も、何度も相談に乗ってくれて、時には駆け付けてくれた。初めてできた、心の底から信用できる男友達。なんて言葉が一番しっくりとくる。

「野沢くんはもっとお似合いな人いるから」

そう言った声が少し掠れてしまった。
柚希はもう一度レモネードを飲む。

「あ、柚希先輩だ!」

三人が中庭のエリアへと足を踏み出すと、どこからか甲高い声が聞こえてきた。
キョロキョロと周りを見回すと、クレープ屋の屋台の裏から派手な髪飾りをいくつも付けた久城玲奈が顔を出した。

「こんにちは、八尋先輩が今どこにいるかわかりますか?」

そう尋ねられて、心にモヤがかかる。

「さあ、知らないかな」

「そっかあ、もし見かけたら玲奈宛にメッセージくださいって伝えておいてくれますか?」

「……うん、わかった。文化祭楽しんでね」

あくまで女の勘だけれど、きっと玲奈は八尋の事が本気で好きなのだろう。柚希はずっとそう感じていた。

八尋がそれに応じるわけがない。
わかっていながらも、二人の関係が近付く度に胸がざわついた。
嫌いなわけじゃない、女から見ても可愛い子だもん。ただ、怖いだけ。気が付けば敵視してしまうだけ。

「野沢くん大人気じゃん」

友人に言われ、柚希は「そうだよ」と笑った。

「ちょっと怖いイメージもあるけど、根が優しすぎるからみんなに好かれてるし、実は照れ屋で臆病なとこもあるみたいで、コロコロ変わる表情がおもしろいの」

柚希は笑顔でそこまで語った後に、友人二人の表情を見て、ハッとした。ついつい得意気に話してしまった事を後悔する。

「推しを語るいつもの柚希とやっぱりちょっと違う気がする」

「やっぱ柚希も好きなんじゃん!」

揶揄う二人に「だからやめてって」と笑いかけながら、柚希は八尋のメッセージを思い出す。

『振られたらなぐさめて』

彼はそんなふうに言うけれど。
たぶん2人は、両想いだ。
柚希はずっとちとせのことも、八尋のことも見ていたのだから、これはきっと間違いない。

だけど……もし彼が振られてしまったら。
その時は、その時だけは横にいたい。

慰めて、崩れそうな笑顔を見ていてあげたい。

そうじゃなければ、自分の出番などなくて良いのだ。

大好きな二人が結ばれる。
そんなハッピーエンドを願っている。

心の底から願っている。

ストローから流れてくるレモネードは、あまりに酸っぱくて。柚希は少し顔を歪めた。

***

「トロピカルレモネード一つちょーだい」

「はーい、って玲奈か。お前ひとりで文化祭回ってんの?」

久城玲奈は隣のクラスの男子から冷たいカップを受け取って気が付く。佐藤柚希達が飲んでいたのはこれだったのかと。

「ひとりじゃない。八尋先輩と約束してんの!」

「え、一緒に回んの?」

「ううん。ちょっとだけ時間作ってくれるって言うから……告ってみよっかなって」

今まで冗談のように口にしていた想いを、今日こそはきちんと伝える。

「先輩に好きな人いたとかなんとかってすげー泣いてたじゃんお前」

「うん、だから振られる覚悟だけど、それだけじゃ終わってやんないから」

玲奈は得意気に言った後、レモネードを勢いよく飲む。混ぜていなかったからか、シロップの濃い味で舌がびりびりと痺れた。

「なにを企んでんだよ……どうせ失敗すんだから大人しくしとけって」

「うるさいな、こうでもしなきゃスタートラインにすら立たせて貰えないの!」

ついムキになって大きな声が出てしまった。

「……わかったよ。泣きすぎて明日まで目腫らさないようにしろよ。おまえのジュリエット姿、うちの両親めちゃくちゃ楽しみにしてんだからさ」

玲奈は「はいはい」とそっぽを向いて答える。
この男とは幼馴染で家族ぐるみの付き合いだった。

「あっれ玲奈じゃん!髪めっちゃ可愛い写真撮ろ〜!」

別のクラスの友人に声をかけられ写真を撮る。「あとで送って〜!」と愛想を振り撒き手を振ったあとは、笑顔がすっと引き、無表情に戻った。

「その切り替え方怖いんだよ、俺にも愛想良くしてろって」

「はぁ?なんの得があんのよ」

玲奈はかき混ぜた後のレモネードの味が薄くて少し不機嫌だった。

「味薄い」

「おまえ最初混ぜずに飲んだろ。貸して」

そう言ってカップを受け取ると、蓋を開けてシロップを追加してくれた。それを受け取り飲もうとしたところで、また別の喧騒が近付いてくる。

「カラフルラムネ二つとミラクルアイスティーくださーい」

知らない集団が飲み物を頼み始めたので、それを横目に歩き出す。受け取ったカップの中身を今度はきちんとかき混ぜて飲んでみるが、全体的にシロップ多めで甘ったるい。

文句を言う相手もいないままスマホを開く。

『着替えたら話せるけど、どこ行けばいい?』

八尋からのメッセージが届いていた。

『まだ部室にいますか??迎えに行きます!』

震える指で文字を打ち込み、時計を見る。
もう少しで12時。作戦通り事は進んでいる。

焦るな、焦るな。

きっと大丈夫。

トロピカルレモネードを飲み干してゴミ箱に放り、そのまま化粧室に駆け込み鏡と向き合う。髪を整えお気に入りのグロスも塗り直し、最後に笑顔の練習。

本気の想いが、きちんと伝わりますように。

階段を駆け下りて、部室の前でスマホの画面を眺めている八尋を見つけた。
大好きなその姿に自然と笑みが浮かぶ。練習なんて要らなかったのかもしれない。

「八尋先輩!お待たせしました!」

小走りで近付くと、八尋は視線を上げてこちらに向けた。

「へぇ、髪も爪も随分可愛くしてんだな」

玲奈はいつも通り「でしょー」と笑って見せたあと、嬉しくて飛び跳ねてしまいそうになる気持ちを必死に抑え込んだ。

女の子に対して、第一声でこんな褒め言葉をかけられる人間を他に知らない。本当に優しくて大人でかっこいい。

「その爪さ、普通のと違うよな。ちゃんとしたやつ」

「ジェルネイルです!お姉ちゃんネイリストなのでやってもらいました」

「怒られたりしないの?」

「ジュリエット役に必要だって言って誤魔化したらバッチリスルーです!」

「ふーん」と興味があるのかないのかわからない反応を浮かべた八尋は、大人しく玲奈の歩みに合わせて階段を上る。

玲奈は妙に緊張し始めてしまい、それ以上の会話を続けられなかった。

「で、どこ向かってんだっけ?」

「あ……少しゆっくり話したくて、その、屋上扉の前なら誰もいないから、そこに向かってみてます」

美術室や化学室が並ぶ廊下を通り過ぎてから、屋上に続く階段を上る。出店もほとんどないその辺りは不安になるほど静かだった。

少しだけ埃っぽいその場所で、階段を上りきらないうちに玲奈はスマホの画面を見た。

もうあと1分もせずに12時になる。
どこか遠くから、扉を閉める音がした。

踊り場まで上り、こちらを振り返る八尋を見上げ、玲奈は焦って口を開いた。

「あの、私……八尋先輩が好きです!」

よく通る声は、人の少ない校舎に反響する。

八尋は表情を変えないまま、だけどどこか困った様子で言葉を探しているようだった。玲奈は階段をまた上り、八尋と同じ高さまで足を運んだ。この人が何か言ってしまう前に、言葉を続けなきゃ。

玲奈は浅い深呼吸の後、また口を開いた。

***

11時45分

「甘酸っぱいトロピカルレモネードいかがですか〜2階で販売してま〜す」

大きな看板を持った、おそらく下級生の男子がちとせ達の横を通り過ぎようとしている。

「八尋、後ろ」

浴衣を着て立ち止まる八尋の腕を引き、その大きな看板を通してやった。

「ありがと」

八尋はそう言ってから、再び廊下の中心でその壁を眺める。張り出された美術部の作品が気に入ったらしく、一つ一つ真剣に見ていた。

ちとせは首から下げた重い一眼レフカメラを構え、真剣な横顔を撮影する。

「八尋、こっち見てよ」

そう言うと、八尋は楽しそうにピースをしてレンズを見た。カメラを挟んで目が合う中で、一番良い瞬間にシャッターを切る。

八尋はまたすぐに壁の絵に視線を戻してしまうので、それ以上欲張るのはやめて、カメラのプレビューボタンを押した。

廊下から差し込む、陽の光に照らされた浴衣姿の八尋がきちんと収められていた。

「俺、もう着替えて行かなきゃなんだった」

八尋はいつの間にか絵を見るのをやめて、スマホで時間を確認していた。

「もう演劇の時間?」

「いや、12時からちょっとあって、演劇はその後」

「そっか13時開演だっけ」

ちとせも担任に呼ばれているので、この後向かわなくてはならない。加えて13時からはクラスの会計担当なので、今日の公演は見に行けない。
八尋とはしばらく別行動になる。

「じゃ、また午後ね」

ちとせがさらりと言うと、八尋は「あ、」と何か言いかけてから、こちらをじっと見つめる。
しばらく次の言葉を待ってみたが何も言おうとしないので、名前を呼んだ。

「八尋、なに?どうかした?」

「あ、いや……いいや、後で」

落ち着かない態度の八尋を不思議に思いながらも頷く。この前家に泊めた日から、八尋はずっとこんな調子だ。

まあ……色々あったから、お互いぎこちないのも、当然なんだけど。

「外寒いから、店番の時はあったかくしとけよ」

八尋はそう言いながら背を向け、部室の方へとだるそうに足を運んで行ってしまった。

ちとせは少しだけその背中を見送った後、進行方向を変えるためにくるりと振り返る。

「いて、」

勢いよく振り返り足を踏み出したところで、誰かの肩に頭をぶつけた。

「うわー、ごめんめっちゃ痛いよな今の、平気?」

顔を上げると、椎名翔が申し訳なさそうに眉を下げてちとせの顔を見ていた。

「平気……平気です」

翔がちとせの前髪を掻き分けておでこを触ろうとするので、それに抵抗し首を振る。
「ほんとごめんな」と過剰に謝る翔は、視線を少し下げると、今度は嬉しそうに眉を上げた。

「カメラ、どう?」

ちとせが首にかけている一眼レフカメラを指さす。

「ちょうどいま、すごい綺麗に撮れました」

八尋の写真を思い出し笑みを浮かべると、翔は安心したように微笑んだ。

「お願いって言ったら見せてくれる?」

「あはは、絶対に嫌です」

「まあ今日のとこは咎めないでやるか」

太陽みたいな眩しい笑顔で冗談めかしく言う翔は、ちとせの横を通り過ぎて壁に展示された絵の前で立ち止まった。

「美術部の作品、見に来たんですね」

「うん」とだけ言って絵を見つめるその姿に、ちとせは何も言えなくなった。

「じゃあ俺、担任に呼ばれてるので」

そう言ってその場を離れる。

ガチャン、と鍵のかかった重たい扉を開けて、少し寂しげなアパートの一室に足を踏み入れた、昨日の自分。そのふたつの目に飛び込んだ、大きな大きな絵を思い出した。

『翔先輩、絵なんて描くんですか』

『そう、まだまだ練習中だけどね』

木の縁に、布が貼ってある。大きな大きなキャンバス。なんの絵なのかと言葉にすることは難しい、前衛的な模様のような何か。その色の動きの中に誰か女性の影を感じる。

不思議と、誰かを想う暖かい気持ちが滲み出るような、意味のある絵に感じた。

『好きな人の絵ですか』

そう聞くと、翔は『うん』と頷いた。
この暖かい絵に見合う優しい笑顔だった。

『まあそんなことは置いといてさ、これでいい?一眼レフカメラ』

『わ、すごい、ほんとに大きいんですね』

話を本題に戻した翔は、ゴツゴツとした大きなカメラを差し出した。

『今だとさ、インスタントカメラとかも人気だけど、本当にこれで平気?』

『はい、大袈裟な方が、多分ちゃんとこっちを見てくれるんで』

『もしかして……好きな子?』

『あ、そうでした。俺にとって必要な人がわかったんです』

翔はちとせの手からカメラを取り上げて、レンズを外し少し短いものへと付け替えた。

『そう、それは良かった』

翔はそう言ってから、カメラのストラップをちとせの首に通し、『頑張れ』と言った。

たったそれだけ、それだけの時間を思い返し、廊下を歩くちとせの胸はいっぱいになる。

そしてちとせは化学準備室に辿り着くと、その扉をノックし開けた。

しかし担任はおろか、誰もいない。

ポケットの中の黄色の付箋には『12:00~化学準備室』と確かに書かれているのに。
化学を担当する担任は付箋で伝言を伝えることが多かったので、なんの疑いもなくここへ来たわけだが、何かおかしい。

そもそも文化祭の昼に呼び出しなんてするものだろうか。

扉を勢いよく閉めると、窓の外から12時の鐘が聞こえてくる。学校のチャイムではなく、街のスピーカーから流れるものだ。

ちとせは少しだけ窓の外を眺めた後、担任も誰も現れる気配は無いので来た道を戻ろうとした。

その時だった。

「八尋先輩が好きです!」

人通りの少ない渡り廊下の方からよく通る声が響いて聞こえてきたのだ。

ジュリエット……?

思わず息を止めた。

そして、この耳に障る声はジュリエット役の久城玲奈だと気が付くと、ちとせは足音を立てないように声のした方へと近づく。

しかしどこにも人影は見当たらない。
不思議に思っていると続けて声が聞こえてきた。

「八尋先輩、前に好きな人がいるって言ってましたけど、それって絶対叶わない恋ですよね」

どうやらこのうるさい声は、閉め切られた屋上に続く暗くて埃っぽい階段の上から聞こえてきているようだ。

ちとせは階段から少し離れた廊下の柱の陰に、ちょこんと座り込んだ。
教室棟から離れたこの辺りは人気もなくあまりに静かで、玲奈の声がよく聞こえる。

「叶わないのに、その人のことばっかり。私なんて眼中にないのわかってます、だけど……それでも、好きなんです」

やっぱり、本気で好きだったのか。
彼女の視線はいつも八尋に向いていた。それを思い出し、ちとせは俯いた。

「なんか勘違いしてない?好きな相手教えた覚えないけど」

「そんなの、見てればわかりますよ」

随分と強気に話していた玲奈が語尾を弱くして押し黙った。

ちとせは自分の上履きをぼんやりと見つめたまま考えた。
八尋は絶対に断るだろう、と。
なのに自分がここから立ち去れないでいるのはどうしてだろう、と。

それから手に握っていた付箋を見返して気がつく。文字がやけに丸く女らしいことに。

「あの女……」

口の中で呟いて、付箋をぐしゃぐしゃに潰した。

付箋を書いたのはおそらく玲奈なのだろう。
そしてこんな場所で告白をしているのは、ちとせに聞かせるためだ。

ちとせを睨む彼女の視線を思い出した。

いったいなにをかき回そうとしているのか。
恋に熱を上げる女の考えることはわからない。
うんざりとしてため息が漏れた。

まんまと盗み聞きをしている自分がみっともなくて思えた。慌てた立ち去ろうとすると、黙り込んでいた玲奈はまたうるさい声でぺらぺらと喋りだした。

聞きたくない、はやく行かなきゃ、そうちとせは焦った。

足音を立てないように階段から少し離れた頃。

「新島先輩ですよね、八尋先輩の好きな人」

その声が、また階段の上から落ちてきた。
そうしてちとせは再び、足が動かなくなってしまう。

もう一度その場に座り込み、カメラの電源を入れて、プレビューボタンを押した。小さな箱の中の、その笑顔は眩しいままだ。

***

「新島先輩ですよね、八尋先輩の好きな人」

驚いた。それ以外に、今の心境を的確に表す言葉はない。
シンプルな感情に包まれ、八尋は小さく口を開いたまま言葉を見つけられないでいた。

普段の作ったような笑顔さえ浮かべられない玲奈を見て、はぐらかして良いのか迷ってしまう。自分を誤魔化すことは、彼女の想いもまるごと誤魔化すようで、決まりが悪い。

仕方がない。

「うん……俺はちとせのことが好きだから、久城の想いには応えられない」

八尋は少し迷った末、正直に告げて頭を下げた。
もちろん、それが正しいとはっきり思えたわけではない。自信がなかった。それでも、まっすぐ向き合いたかった。

「でも、新島先輩は八尋先輩のこと好きにはなりません。だって、男だもん。男女だって難しいのに、そんな奇跡みたいなこと起こりっこない。八尋先輩だったら他にも、別に玲奈じゃなくたって、柚希先輩とかもっとお似合いな人がいるのに、なんで、ですか」

ついに泣き出してしまった玲奈は声を途切れ途切れに言う。

「なんでって言われても、お似合いとかそういうので決まるもんじゃないだろ」

「でも、叶わない気持ち抱えてるの、こんなに辛いのに」

目の前で肩を振るわせる玲奈も、望みのない恋心を大事に抱えていてくれたのだろう、と気が付き、なんとも言えない胸が締め付けられる感覚に陥った。

「ちとせが、別の人を好きだって聞いた時、俺は諦めた方がいいなって思った。でも無理で、横に居られんなら友達でもいいやってずーっと思ったままで。俺、臆病で」

「そんなの」

「だからえらいな、久城は。ちゃんと好きって伝えたんだ。勇気出してくれて、ありがとう。ごめんな」

なにか言おうとする玲奈の言葉を遮り、八尋は言った。すると玲奈はとても綺麗とは言えない踊り場の床に座り込み、顔を覆って泣いた。

八尋は涙を拭うことも、頭を撫でてやることも、優しい言葉をかけることもしなかった。
なにかしてしまったら、それが彼女への呪いとなってしまいそうで。

「先輩、ごめんなさい。ごめんなさい」

八尋は首を傾げながらも、それ以上深くは問わなかった。彼女の涙の理由が、自分に関係するものだと思いもしないまま。

そして、自分の汚れた上履きだけを見つめる。

文化祭で告白したら成功率が1.5倍だと、柚希が教えてくれた。だけど、そもそも望みが0であった場合、何倍にしたって0のままなのだ。

伝えるのが怖い。

八尋は目の前の玲奈と自分が重なり、確かにあった勇気を、どこかへとなくしてしまった。

玲奈の告白を断った後、衣装の準備へと向かった。泣き腫らした目のままの玲奈が少しだけ心配だったが、八尋にはどうすることもできない。

玲奈とは別の空き教室で、柚希と共に衣装の準備を進める。

「野沢くん、それでそれで、いつ伝えるの?」

教室には翔や悠太も含め、数人の生徒達が和気藹々と準備と練習をしていた。

「いややっぱ、言うのやめよっかなって」

周囲に聞こえないよう、柚希と八尋は囁くような声で言葉を交わす。

「え、せっかく勇気だしたと思ったのに」

柚希が残念そうな顔をした。

「悠太にさ、仲良くしてたってダメになる時はあるって言われてさ」

八尋は目を伏せる。

「……確かになあって思ったんだ。なら素直に伝えたほうが、今の俺たちにとってはシンプルな結果になるかもって」

「でもさ」

八尋は口を歪める。

「普通に考えて、“ごめんなさい”って言われて、平気で友達続けられるほど、俺のメンタル強くないし」

「ごめんなさいじゃないパターンもあるじゃん!」

「そのたった0.1%程度の望みにかけるの、アホらしい。横に居られなくなるのが一番きつい」

「でも篠山くんの言う通りさ、このままいたって新島くんに恋人できたり、喧嘩しちゃったり、卒業して疎遠になったり、関係変わる場面って沢山あると思う」

柚希は八尋の衣装の端をピシッと整えながら、優しく語った。

「結局は二人次第なんだから、新島くんのこと、もう少しだけ信じてあげたら?」

信じてやれ、と悠太も言っていたな。

でも、よくわからない。

いつだって、ちとせを信じている。
家族のように、兄弟のように、友人のように、愛する人のように。

そうやって接してきたつもりなのに。

考えながら何気なく悠太の方へと目をやると、ちょうど八尋を探していたらしく、目が合い手招きをされた。

「……文化祭中ってのは無理かもだけど、考えてみる。また相談乗って」

八尋は柚希の耳元でそう言ってから、悠太の元へと向かった。

それはどこか逃げるように、焦るように。

「これより、全学年合同演劇ロミオとジュリエットを開演いたします」

暗幕で窓からの光が遮られた体育館。そのステージの上にいくつかのスポットライトが灯ると、歓声に包まれていた客席は次第に静まり返っていった。

一ヶ月近く練習を重ねてきた成果がやっと発揮される。妙な高揚感と緊張で、八尋は無口になっていた。

「緊張してやんの」

舞台袖で余裕の表情を見せる悠太が八尋の背中を優しく叩いた。

その勢いのまま、モンタギュー家とキャピレット家が争うシーンでさっそく舞台の中心へと立ち、覚えた台詞を口にする。
声を発してみれば自然と次の言葉が口から流れた。思った何倍も緊張せずにやり遂げられそうだ。

場面の変わるシーンで舞台袖に戻ると、悠太と柚希がニコニコと迎えてくれた。

「かっこよかったよ!」

柚希はぴょんぴょんと飛び跳ねて、興奮気味に八尋の肩を叩く。
自分の演じるティボルトが良い役とは思えないが、そう言われるのは嬉しかった。

「おい、まじかやべーよ」

「俺たちここにいていいのかな」

その時、舞台袖の一角がざわめいた。
出番を控えていた三年の先輩たちが、何かに取り乱している。

「どしたんですか」

悠太が呑気に尋ねると、先輩は持っていたスマホの画面を八尋達に見せた。

「え、これってうちの文化祭すか?」

「そう……これ、俺たちのクラスの」

外に設置された屋台から火があがり、慌てる生徒達の様子が流れていた。
八尋は現実味のないその光景を無心で見つめる。

「待ってこれ、うちのクラスのすぐ横だよ」

「中庭?」

柚希に言われ、八尋は上級生の手からスマホを取り上げた。画面をよく見ようとするも、撮影者が慌てているためか映像は乱れまくり状況が掴めない。

わかるのは、大きな炎が揺れていることだけ。

舞台の興奮が冷め、血の気が引いていく。

「ちとせが当番の時間だ」

思わず手に取ったスマホが手から滑り落ちた。

八尋はステージに立った時よりも嫌な緊張を覚え、気が付けばその場を走り去り、舞台袖から階段を降りて体育館の外へと向かっていた。

ちとせの大きな火傷跡を思い出す。

炎に脅え、ちとせが震えていないか。それだけが、ただ気がかりだった。

重たい衣装のまま連絡通路を走り抜け校舎へと入り、中庭へ向かう。すれ違う人々は皆、八尋のことを不思議そうに振り返った。

ヒソヒソ声などに構ってはいられず、息が切れても走り続けた。そしてその場所に近づけば近づくほどに焦げたような匂いがして、不安ばかりが募った。

中庭に続く廊下へと差し掛かり、見慣れた影が目に飛び込む。

「ちとせ!ちとせ、平気……?平気か」

「え、八尋?」

椅子を運んでいたちとせはそれを床に置き、八尋の元へと駆け寄った。

「なに、なんで?なんでここにいんの、本番中だろ」

八尋の足元から頭までを何度も何度も見ながら、ちとせは困惑した表情を浮かべる。

「火事があったって聞いて、大丈夫かなって」

乱れた呼吸を整えながら言うと、ちとせは一気に顔を歪めて八尋を睨みつけた。

「はあ?そんなことで来たの?ステージ降りてみんなに迷惑かけて?ほんといい度胸してんな」

力強い声で捲し立てられる。
まさかこんなに怒られるとは思ってもみなかった。八尋は酷く動揺し、なにも言えなくなった。

それを見兼ねたちとせは、「さっさと戻るぞ」と言って八尋の腕を力いっぱい引いて歩き出す。

「だって、すごいでかい火、動画で見たんだ」

「一瞬やばいかもって思ったけど、ボヤ騒ぎ程度で済んだよ。先生達が後処理してて俺たちのクラスは一旦引き下げになったけど……ほんとにやばい騒ぎなら校内に避難の声がかかるだろ」

互いに大きな声で言葉を発しながら、廊下の真ん中を通り抜ける。ちとせの勢いに文化祭を楽しむ生徒達は自然と道を開けた。

「まあ、ちとせになんもなくて良かった」

気の抜けた八尋がヘラヘラと笑うと、ちとせはその顔を少し振り返ったあと、また怒りを含んだ声を上げる。

「ほんとさ、いい加減にしろよ。この間から自分の大事なもん放り出して俺のとこばっか来て、馬鹿じゃねーの」

「だって、俺が行かなかったら、ちとせはどうすんの」

「どうすんのってなんだよ、自分でどうにかするよ。俺は八尋に暴力振るわせたくなんてなかったし、舞台を降りてほしいわけでもないんだよ!」

ちとせがあまりに怒鳴るので、八尋は理不尽さに段々と苛立ち、その手を振り払った。

体育館はもう目の前で、連絡通路まで来ていた。
そこにはあまり人通りがなく、乾いた風が吹き抜けている。

「川島のこと、殴り返したのは悪かった。でもじゃあ、俺が行かなかったらどうなってた?美紗さんの病院の時だって、一人じゃ無理だったろ」

「それはどっちも感謝してる。でも俺、美紗さんの時ちゃんと来て欲しいって呼べただろ。だから、そういう時だけでいいって」

「言いたいことはわかるけど、なんでそんな蒸し返して怒ってんのか、わかんないんだけど」

八尋は俯き、鼻を啜った。
泣いているとでも思ったのか、はっとした様子のちとせが八尋に近付き顔を覗き込んでくる。

泣くわけでもなく、奥歯を噛み締める八尋の顔を見て、ちとせはあからさまな溜め息を吐き、黙り込んだ。

八尋は益々腹が立った。たしかに、過保護な部分はあるかもしれない。だけど八尋がそうしなければ、ちとせは簡単に自分を犠牲にしてしまう。

「自分のこと、大事にしてないのはどっちだよ」

八尋は苛立ちを隠さずにそう言ってから、これ以上酷いことを言ってしまわないように、唇までもを噛んだ。

体育館の方から、ロミオのセリフと音楽が聞こえてくる。

ちとせは連絡通路の胸元の高さ程の薄い壁に身体を預け、もう一度ため息を吐いた後、口を開いた。

「……楽しそうに参加してただろ、演劇の練習。髪染めてから八尋変わったから、中学生の頃みたいに無邪気で楽しそうな姿見て、安心したんだ」

その声は、先程までの怒鳴るような口調ではなくいつもの様子に戻っていた。まるで映画のセリフを口にするかのような優しい語り口に、八尋の熱も少しずつ冷めていく。

「寂しいなとか、思わないわけじゃなかったけど、いざ俺のこと優先されると、嬉しいの裏側でごめんなさいって気持ちがでてくる」

「なんで、なんですぐ自分責めるんだよ。俺はちとせのために……」

そこまで口にして、八尋は自分の愚かさに気が付いた。

"ちとせのため"などではなかった。これまでも、今も。ちとせが怒ったり傷付くのならば、それはちとせのためではない。

また自分は、ちとせを想う自分のために、行動していたのか。それを、ちとせのためだなんて偉そうに口にして。

「わかってるよ。ありがとう、いつも俺のこと考えてくれて」

それなのに、ちとせは微笑んでくれる。

八尋は形容し難い感情が喉元に詰まる感覚を覚えた。曖昧で、嘘ばっかりで、はぐらかしてばかりの自分が嫌になった。

冷たい風がまた通り抜ける。
それと同時に体育館から流れる音楽は止まった。

「この話は後でしよう。さすがに戻らないとやばいだろ」

ちとせはそう言って、また八尋の腕を掴んだ。今度は先程までとは違い、遠慮がちな優しい強さで。

八尋はそれを振り払って、今度は自分から、ちとせの手を握った。

暖かくて柔らかい手。

「……好きなんだ、ちとせのことが」

「え……?」

思わず言ってしまった。

だけど、後悔はなかった。

真剣な表情でこちらを見上げるちとせの瞳が、光をたくさん集めるその瞳が、とても綺麗で。

見る見るうちに顔を赤く染める親友の表情をただじっと見つめる。その目がぐらぐらと揺れて取れてしまいそうで、少しだけ可笑しかった。

「ばっかじゃねぇの」

動揺しているらしいちとせは、また怒鳴るような声を上げた。それからぱっと手を離し八尋の背後へと回り込む。

八尋は背中を両手で押され、足をもつれさせながら前へと進んだ。

「そんなの、最近の八尋見てたら嫌でもわかるよ」

ちとせの声が背中越しに響いて聞こえる。

そうか、気付かれていたのか。

……気付かないふりをしてくれていたのか。

どこかから諦めの感情がゆっくりと湧き立つのを感じ、目を閉じた。

「……それに、俺の方が、八尋のこと好きだと思う」

だから、続くその言葉を耳にして八尋は言葉を失った。

なんで、どうして、本当に、と問いただしてやりたくても、驚きが勝り、喉が乾くような息が詰まるような妙な感覚で、何も言えやしない。心臓だって普段の何倍もはやく脈打ち、頭だけでなく身体全体がパニックになる。

今、間違いなく、"俺の方が好き"とちとせは言った。と思う。

背中を押すちとせが立ち止まるので、八尋もそれを振り返り、おそらく真っ赤に染まっているであろう顔で、ちとせのキラキラと輝く目を見つめた。

「八尋のこと想うと、苦しいよ」

頬を仄かに染めるその表情は、ずっと見たかった顔だ。そんな表情を、正面から受け止めている。

「いい加減、舞台上がれって」

「待って、もう一回だけ言ってくんない?」

嘘じゃないか、幻聴じゃないか、不安になって尋ねれば、

「あとで何百回でも言ってやるから、今はさっさと戻れ」

ちとせは眉を下げて、ここ最近でいちばん無邪気な笑顔を浮かべてそう言った。