「この間は本当にありがとうございました」

月曜日、八尋は登校して一番に柚希の席へと向かい、菓子折りの入った紙袋を差し出した。
柚希とその友人は驚いた表情で顔を合わせた後、元気そうで良かったねと微笑む。

先週の金曜日、川島と問題を起こした後の教室で担任に事情を伝え場を収めてくれたのは柚希だった。

元々柚希と川島の間にあった問題を含め説明し、ちとせと八尋は悪くないと庇ってくれたおかげで厳重注意と反省文のみの罰に留まった。

川島は所属していた野球部の顧問にこっぴどく叱られた上、しばらく別室登校となるらしい。

「新島くんは平気だった?」

平気なはずはないと、柚希もどこかわかっていただろう。それでも聞かなければいられない様子で、こちらに縋るような視線を送る。

「まあ、うん。少しだけ落ち込んでたけど今は元気だと思う」

「……そうなんだ」

柚希もその友人達も心配そうな表情で、なんと言ったらいいのかわからない様子である。

「今日も家の事情で休みだけど、ありがとうってすごい感謝してたから」

八尋が言うと、柚希はほんの少しだけ嬉しそうに頷いた。

その直後、話している八尋達の元へクラスメイトが駆け寄る。サッカー部の男子達だ。

「新島も野沢も平気だった?」

「俺ら、新島庇ってやれなくてさ」

彼等もまた申し訳なさそうに心配そうに眉を下げ、八尋の言葉を待った。

「怪我もなかったし、みんなにありがとうって言ってたよ」

大事にしちゃってごめんなと続けると、みんな首を横に振った。ちとせの無事に安心した面々は自分たちの席へと戻っていく。

教室はいつも通りの喧騒へと包まれていった。
八尋も自身の席に着き、空いている目の前の席を眺める。脳内には別の光景が浮かんでいた。

川島が余裕のない表情になっても殴るのを辞められなかった自分の右腕と、その腕が大切な親友を殴ってしまう瞬間。感触。動揺。

わかっていた。川島がいくら憎かったとして。
殴ったって何も残らない、何も産まない。
ちとせの怯えきった表情を見た瞬間に、頭で考えられる事なんて全て消え去ってしまったんだ。

ちとせは、八尋や川島を責めずに「俺は大丈夫」と笑った。儚くも愛おしいその姿。それらがただひたすらに何度も何度も浮かんでしまう。

正直、ちとせの精神面を一番気にしているのは八尋である。

今まで隠してきた火傷跡も、保健室で呟いた弱音も、たった16歳が一人で抱えていいものではない。それなのにちとせの味方は少なかった。八尋にすら全てを話そうとしないちとせの、大したことじゃないんだと振る舞うその姿は、前よりずっと痛々しく見えた。

隣にいる自分だけが、その辛さを少しでも軽くさせてやりたいと思っているのに。
八尋にしてやれることは少なく、むしろちとせが自分を否定すればするほど八尋もえぐれるような胸の痛みを覚えて励ますことすらままならない。

その無力さが不甲斐なく、八尋は週末、なんの気力も起きずにただベッドで寝転び時間を浪費した。

今だって無意識に手に力が入り、握りしめた掌には三日月型の爪痕がくっきりと残っている。八尋は自分の掌を見つめた後、亜麻色のカーディガンの袖を下げ、情けないその跡がそれ以上深くならないようにと隠す。

あの日保健室で口にした、自分よがりな想いは、ちとせの邪魔をしていないだろうか。

今日だってちとせは、新しいお母さんの具合が悪いからと学校を休まざるをえなかったりと、家庭の状況はあまり良くないのだと思う。家族のことや過去のトラウマで頭を抱えることも多いであろう親友に、これ以上悩みの種を増やしたくはなかったのに。

『だからそれ、変わることないかなって思っただけだけど』

そう言った自分の言葉を思い出して、本当に嫌になった。あんなの、弱っているちとせにかけていい言葉ではない。

関係を崩すような発言ですらあったのに、自分はどうして口走ってしまったのか。
そもそも川島を殴って殴ってその手を止められなかったのも、ちとせのためではなかった。

八尋は反省することばかりの自分の行動を振り返り、その度無意識に拳を握りしめ奥歯を食いしばってしまう。
それを自覚し軽い深呼吸をしてから、机に突っ伏しうずくまる。空いた目の前の席を、見ていたくなかった。

ホームルームも朝の清掃も授業も、何もかも身に入らなかった。


「野沢くん、お昼一緒に食べよ」

一人で弁当を広げようとしていた八尋の元へ柚希が駆け寄る。その手にはグレーのランチバックが握られていた。

「いいけど、友達は?」

柚希が行動を共にしているグループはいつも通り椅子を集めて弁当を囲んでいた。

「野沢くんに話があるの、察してよ」

柚希は少しだけ小声で言って、「はやく行こ」と歩き出した。

教室以外で昼食を取ることが普段ない八尋は一体どこへ連れていかれるのだろうと思いながら、スタスタと進む柚希の後ろを歩く。

「ここにしよっか」

着いた場所は校舎棟の屋外階段へと続く扉の前。
柚希は鍵を開けて、階段を少し登り踊り場へと歩みを進めた。柚希がこういう、普通はしないことをするのは少し意外だった。

「こんなところ始めて来た」

生ぬるい穏やかな風が吹いている。太陽は雲に隠れたり出てきたりを繰り返し、緩やかに階段を照らしていた。

二人は踊り場に並んで座る。

「で、話ってなに?」

八尋はさっそく弁当を広げながら柚希に問う。

「お節介かもしれないんだけどね、野沢くんが落ち込んでるから、相談に乗れることないかなって思ったの」

柚希は弁当の包みを開く手を動かすことなく言った。

「落ち込んで見える?」

八尋は聞いてから、プチトマトを食べた。

「そりゃあもう!」

柚希は声を張り上げたあと、ハッとしたような顔つきに変わり、今度は悲しそうに眉を下げる。

「ごめんね、私が川島くんを怒らせなければ二人に迷惑かけなかったのに……」

怒らせた、というのは告白を断ったことを言っているのだろう。

「だからそれは仕方ないことだって言っただろ」

問題を起こしたあの日の夜、メッセージでも何度も同じように柚希は謝っており、その度『仕方ない』とか『柚希は悪くない』など伝えていたが、それでもきっと、気にせずにはいられないのだろう。

「新島くんが目を付けられたのも、私が新島くんのファンだったからだし、ほんと、最悪」

八尋の相談に乗ると言ってくれた柚希だが、そんな余裕はないように見える。大袈裟に嘆き頭を抱える柚希の横で、八尋は弁当に入っている煮物を食べながら少しだけ微笑んだ。

柚希は横目で八尋を見ながら、小さく唇を尖らせた。

「なんで笑うの……」

「俺らってちとせのことになると余裕ないなーって思っただけ」

言うと、柚希も少しだけ笑みを浮かべて「そうだよね」と呟いた。

「あの日、大丈夫だった?新島くんも、野沢くんも」

「いやー全然ダメ。ちとせのこと殴ったし、告白まがいの発言したし」

「……ん、え?」

柚希は弁当箱を開けようとした手を止め、状況がいまいち掴めていない様子で「いま、なんて言った?」と聞き返した。

「まず俺、殴ったじゃん」

「うん」

「で、保健室行ったじゃん」

「うん」

「そこで、まあ、俺のこと好きになってくんないかな的なことを言ったというか」

「え……うそ」

柚希はそう言ったあと興奮気味にキャーと叫ぶ。

「お前ばか、静かにしろよ!」

八尋はキョロキョロと周りを見渡し、外を歩く人がいないか確認した。

「この時間は誰も通らないよ!もっとちゃんと詳しく教えて!」

「ごめんだけどこれ以上ないよ、言うこと」

「嘘でしょ、新島くんはなんて答えたの?」

「ちとせがなんか言う前にやっぱいいやって言ったから、あいつは何も。そもそもあんな弱ってる時に言うことじゃなかったし」

八尋が言うと、やっと弁当箱を開けた柚希はタコさんウインナーをひとつ食べる。

「それで、その話には触れずそのまま帰ったの?」

「そう、ちとせが家帰りたくないって言うからうちに泊めて、二人で俺の母さんに叱られた」

柚希は持っていた箸を置き、えー!と叫びながら頭を抱えた。

「なんであんなこと言っちゃったんだろ、あれからずーっとしらばっくれて、ちとせの横で平然と取り繕ってんだよ。疲れたわ」

「いやいやいや、そんなの絶対、作戦成功でしょ!」

作戦、とは。
もっと好意をアピールしてあわよくば好きになってもらおう作戦、という柚希発案のネーミングセンスがなさすぎる作戦のことを言っているのだろう。

ちとせが泣きながら「男が好きな俺が受け入れ難いんだろうなって思ってた」と言ったあの日。
あの誤解が明らかになって以来、八尋は反省し、柚希の言う通り前よりは好意を隠さないようにしていた。

しかしそれが成功したとは思えない。

「漫画の世界じゃないんだから」

ちとせが翔に恋をしている事を柚希は今もまだ知らない。だからそんなに都合の良い捉え方ができるのだ。
八尋がため息混じりに言うと、柚希はムッとした顔でこちらを睨んだ。

「最初から諦めてるの、かっこ悪いよ」

「かっこ悪くて結構」

「一位取れるわけないからって真面目に跳ばない大縄と一緒、跳んでみなきゃどうなるかもわかんないのにさ」

八尋達のクラスは、体育祭練習で三回しか跳べなかった大縄跳びで当日優勝をした。それは全員が跳び続けられるかも、と希望を持っていたから叶ったことだろう。

けれどそれとは話が違う。たった一人で跳んで転んで怪我をして歩けなくなるくらいなら、八尋は最初から跳びたくなんてなかった。

「ちとせとさ、うちで母さんの作った肉じゃが食べながら説教されて、俺の姉ちゃんはそんな怒らなくてもって宥めてて、父さんは一人でテレビ見て笑ってて、すげーうるさい家族なのにさ、ちとせはいい家族だねって笑うんだよ」

柚希はそれまで楽しそうにふざけながら話をしていたが、八尋が真面目に話しだすと、真剣な表情へと変えてただ耳を傾けてくれた。

「なんか俺、堪んなくてさ、ちとせを困らせたくないのに、自分勝手なことばっかして情けないんだ」

そう嘆くと、柚希は少し考えた後、弁当箱の中でちょこんと赤く座っていたタコさんウインナーを箸の反対側でつまみ、八尋のご飯の上に乗せた。

「新島くん、困ってないと思うよ」

八尋はそのタコさんウインナーをすぐに口に運ぶ。

「新島くんはなんていうか、自分のことあんまり大事にしない人でしょ?野沢くんが代わりに怒ってくれたり好きになって欲しいとか伝えるの、嬉しいと思うけどね」

ああ、そうか。
八尋はずっと、ちとせに自分を大切にしてほしいとどこかで思っていたのだ。

「これ以上傷付いて欲しくないのになあ」

八尋はため息を吐いてから残りの弁当を掻き込む。柚希もそれに同調しながらもぐもぐと卵焼きを食べていた。

秋風を感じながら二人は解決策の出ない幸せについての議論を交わし、弁当箱を閉じる。

予鈴がなると、柚希は階段を降り室内へと続く扉に手をかけた。八尋も重い足取りでそれに続く。午後の授業がめんどくさいな、なんて思いながら。

「あれ」

柚希は取っ手をガチャガチャと動かしながら「開かないかも」と呟いた。

「は?なんで?」

「誰かが中から鍵かけたのかな……」

柚希に代わって八尋も扉を開けようと力を尽くすが、確かに鍵がかかっているらしく扉は動かなかった。

「俺これ以上問題起こしたくないのに!」

八尋は階段をさらに降り、別の階の扉が空いていないか確認した。しかしどこも鍵がかけられており、微かな期待は打ち砕かれる。

「あきちゃん達に連絡して来てもらお!!」

柚希は友人へと電話をかけ始める。
八尋はその横で最初にくぐった扉を外側からドンドンと叩き、誰かが通り掛かることを祈った。

その時、本当にタイミング良く悠太が通り掛かった。八尋がドンドンと叩く手の力を強めると悠太はこちらを見て目を見開く。

「いや〜がちびびった」

悠太は扉を開けて第一声、笑いながらそう言った。

「まじでナイスタイミング!助かった!」

「篠山くんありがとう〜!」

心からの感謝を完結に伝えたあと、授業に遅れないよう二人は走って教室へと戻る。

なんとか次の授業の教師が教壇に辿り着く前に席へと着いた二人は、何事も無いフリをしてノートと教科書を準備した。

その時、八尋のポケットが震える。
画面を開くと、悠太からのメッセージ通知が目に入る。

『さっきジュリエットがうろついてた』

『おまえのこと探してたぽい』

なんの用事だろう、と思いながらも返信は後回しにし、学級委員長の声とともに起立と礼をし席へと座り直す。

ふと気が付けば、朝よりずっと、手の力が抜けていた。


「わ〜怪我なかったんですね」

久城玲奈が八尋に飛びかかり、八尋の身体をその細い腕で抱き締めながら、泣き真似なのかわからない「えーん」という声を発している。

「喧嘩したって噂聞いて先輩に怪我があったらどうしよう!って。私ほんと、気が気じゃなくて」

「まじか、俺は今の方が危機感じてるから離れてくんない?」

「えーー、なんですかその言い方」

玲奈に拘束された八尋は身動き取れずたじろぐ。
放課後、わざわざ一階の端の部室まで来たのは玲奈に会うためではないというのに。

「はらちゃん先生めちゃくちゃ睨んでるんだって」

茶道部顧問の原先生が部室の入口を塞ぐ玲奈と八尋を冷ややかな目で見ていた。

「仲良しなのは結構ですが、部室に入ったら切り替えてくださいね」

原先生はそう言いながら反対側の扉から部室へと入っていく。玲奈は「はーい」とにこやかに返事をした。

「昼ん時二年の廊下にいたっていうのも心配故すか?」

八尋は玲奈を引き剥がしながら聞く。
ふいに柔らかなショートヘアに触れてしまい、少しだけ動揺した。いちごミルクのような妙に甘い香り、香水のような強さではないこれは髪から香るのか。

「そうそう!悠太先輩ちゃんと伝言してくれたんですね!」

キャッキャとはしゃぐ玲奈は、今度は八尋と腕を組むように身を寄せた。

「久城、さすがに俺のこと好きすぎじゃね?」

やめよーね、と言葉を続けて再びその身を剥がすと、玲奈はいつも通り微笑んで八尋を見上げる。

「えーそりゃもう!彼女にしてくれます?」

何を考えているのかわからない、作った笑顔が少し不気味だった。

「残念、俺は心に決めた子がいるんで」

言いながら、ちとせの横顔を思い出した。
あれもまた何を考えているのかわからないが、名前を呼んで、こちらを振り返って笑う姿に嘘はない。

八尋はヒラヒラと手を振り、行かないでと呼び止める玲奈を無視して部室へと入る。

その日の部活の内容は今週末に迫っている文化祭に関する打ち合わせだった。当日は浴衣を着て当番制でお客さんにお茶を振る舞う。

女子の多い集団の中に混じり、八尋は演劇とクラス当番のない時間に名前を書いた。昨年もそうであったが、これに参加しないと部員として認められないと原先生は脅すので渋々浴衣の準備をするのだ。

「前からお伝えしておりましたが、どうしても浴衣の用意ができない人はこのまま残ってください」

原先生はそう言ったあと「野沢くんも残ってくださいね」と八尋を見る。

返事をすると、その日は解散となった。

「八尋先輩、なんで居残りなんですか」

解散後、玲奈はまたしても八尋の傍へと寄ってきて小声で聞いた。

「浴衣がいくつ足りないかって話するだけ、説教されるわけじゃないから久城は早く帰んな」

「浴衣?」

キョトンとする玲奈に答えようとすると、原先生は八尋を呼んだ。

「浴衣がない子は野沢くんのお母様が用意してくださるものを着て頂きます。あくまでお借りするものなので、汚したり雑に扱わないよう十分に注意してください」

八尋はその説明を横で聞いた後、貸し出すことのできる浴衣の一覧を数名の女子に見せる。

「これ持っていっていいんで、好きなの選んでメッセージで教えてください。そしたら前日に渡しに行きます」

八尋はそれだけ言って部室を出る。

「八尋先輩のお母さんて着物屋さんなんですか?」

「着付け教室とか色々やってんの」

帰ろうと2階の昇降口へと向かおうとする八尋の横を、玲奈はどこまでも着いて歩く。

「えー!また1個、八尋先輩のこと詳しくなれちゃいました!」

「あっそ、よかったね」

下駄箱から靴を取り出し履き替えると、玲奈は慌ただしく叫ぶ。

「私の下駄箱ここじゃなかった!急ぐので下で待っててください……!」

八尋の返事を待たずに玲奈は走り出す。

家に帰るだけだからまあいいか、と思う反面、とっとと帰ってしまおうかとも考えた。
しかし八尋は聞こえなかったふりなどできず、校舎の前で大人しく玲奈を待つ。

「お待たせしました!」

笑顔で駆け寄ってくる玲奈は、先程と雰囲気を変え、前髪をピンでとめていた。

「駅前で新作ドリンク飲みませんか?抹茶のやつ気になってて」

そこまでの元気は残っていないから、なんとしてでも断らないと。そう考えていると八尋のスマホが震えた。

妙に長いそれは、ちとせからの着信だった。

「ちとせ、どうしたの」

玲奈から離れ、電話に出る。

「……あ、ごめん。あのさ、」

珍しく歯切れの悪いちとせ。八尋は胸騒ぎを覚えながら次の言葉を待った。

「俺の母親、入院することになっちゃって」

「え、美紗さん?なんで」

「流行り風邪と肺炎が重症化……みたいな、手術とかそういうんじゃないんだけど」

ちとせは電話越しでもわかるくらい、声が震え動揺していた。

「今ちとせはどこにいんの」

「家。父さん出張でさ、俺が美紗さんの着替えとか必要なもの持っていかなきゃなんだ」

それを聞いて八尋は走り出した。
これはどう考えたってちとせからのSOSだろう。

後ろから玲奈の呼ぶ声が聞こえ、振り返り片手でごめんのポーズをする。

「病院は何時までに着けば平気?」

「19時とか」

校舎の時計は17時過ぎを指している。
時間に余裕はありそうだ。

「30分でちとせん家まで行くから」

「……ごめん、ありがとう」

ちとせの声はそれでもまだ震えていた。


八尋はいつもは15分ほどかかる駅までの道を7分で走り、電車に飛び乗った。快速に間に合ったのでちとせに嘘なく到着できるだろう。

二人の最寄駅についてからも八尋は休むことなく走った。
随分と涼しい夕方だったが、汗ばんでワイシャツが張り付く感覚がする。八尋は赤信号を眺めながらカーディガンを脱ぎネクタイを外した。

「とうちゃーく、っと」

小さく呟いてインターホンを鳴らす。

「……ほんと早いな」

玄関の重い扉を開けるちとせの声はもう震えていなかった。

「ちとせは体調平気なの?」

靴を脱ぎ、遠慮なく玄関に上がる。
八尋にとってこの家は自分の家の次に慣れた家だろう。

「俺は平気。今日の朝まで美紗さんと話してなかったし」

そう言うちとせはマスクをしていた。
家の中も窓が開いているからかひんやりとしており、アルコール消毒か何かの匂いも仄かにしている。病原菌を排除するその徹底ぶりは少し冷たくも感じられた。

「荷物はなんとか用意できたんだ。だから、このまま一緒に病院まで行ってほしい」

ちとせは家中の窓を閉めながらそう言った。
八尋は「どこまででも付き合うよ」と答えながら、キッチンの高い窓を閉める。

「入院は今日決まったんだろ、病院は美紗さん一人で?」

「いや、俺が救急車呼んだんだ」

淡々と答えるその横顔は、感情を感じさせないロボットのような表情。

救急車を呼ぶなんてよっぽどのことがあったのだろう。
そもそもちとせが学校を休み、付きっきりにならなければいけない病状だったのだから。

八尋は想像を巡らせて、それ以上聞くのをやめた。

「疲れてるだろうし、座ってて。俺が窓閉めてくる」

ちとせの両肩を掴み無理やりソファへと誘導する。「あとは2階?」と尋ねるとちとせは頷いた。

「俺の部屋、おっきい窓だけ」

階段を上りちとせの部屋の扉を開けると、そこはどの部屋よりも冷え切っていた。透明な風がカーテンを激しく揺らしている。
八尋は薄着であることを後悔しながら、部屋を夕焼け色に照らす大きな窓を閉めた。

リビングに戻ろうと振り返ると、乱れたローテーブルの脇に封筒が落ちていた。風で落ちたのだろうか、封筒からは中身の紙が少し出てしまっている。

「あれ、懐かしい」

拾い上げようとして気がつく、これは中学の修学旅行の写真が入った封筒だ。
壁一面に貼られた写真からほしいものををみつけて申し込みをするという時代に見合わぬアナログなシステムを思い返す。

中学三年の頃は別のクラスだったから、ちとせの修学旅行の様子はよく知らない。
八尋は何の気無しに写真を取り出し何枚かめくって、今よりほんの少しだけ幼いちとせの顔を見た。

あどけなくも芯のある表情はやっぱり可愛いな、などと癒されている場合ではない。

病院に行かなければと思い出して封筒をベッドの上に置く。

「じゃあ行こっか、荷物は俺が持つから道案内よろしく」

八尋はカーディガンを羽織り、用意された大きな鞄を持ち家を出る。
病院行くんだからと八尋もマスクを強いられほんの少し息苦しいままバスに乗り、20分程度の距離を一番後ろの座席で二人横並びに座った。

ちとせは気疲れからか何も言葉を発さずに、途中からは目を瞑り揺られていた。

揺れる車内。肩が当たる度に、その骨ばった硬さと、当たるほどの二人の距離を意識してしまう。

病室の扉を開ける。
ちとせの義理のお母さんである美紗さんは点滴を打たれた姿で眠っていた。

前に会ったのがいつだったかはよく覚えていないが、その時よりもやつれている様子であった。病気なので、当然だけれど。

ちとせは置き手紙と共に荷物を置いて、看護師さんにも言伝をお願いして病室を出る。

口数が少ないまま早足で病院の中を歩き外に出ると、ちとせは小さくため息を吐いた。八尋はその様子を見守りながら、病院が苦手だと言っていたことを思い出した。

「今日、頑張ったな」

病院の前の歩道で立ち止まったまま動かないちとせに声をかける。

「頑張ったから、お腹すいちゃった」

ちとせはこちらを見て微笑んだ。

「どっかで食べて帰る?」

聞くとちとせは首を横に振って、「人が多いところには行きたくないかも」と呟いた。弱々しい声だった。

八尋は少し考えたあと、スクールバッグに入れたままのどら焼きを取り出した。家を出る前からずっと鞄に入れていたので少し潰れて歪な形になっているが、なんとか形を整えてちとせに差し出す。

「昼に食べ損ねたのあげる。ぺちゃんこだけど許して」

「俺これめちゃくちゃ好き」

ちとせは喜んで受け取って、さっそく袋を開けて中身を食べ始める。

「一旦それで我慢して、弁当買って帰ろ」

「八尋もさ、一緒に来てくれる?」

意外だった。けれど、それを悟られないように「もちろん」と言ってみせた。

「どこまででも付き合うって言ったろ」

八尋が歩き出すと、ちとせもどら焼きを頬張りながらとぼとぼと歩みを進めた。

バスに乗る前に、二人は近くにあったコンビニで弁当を買った。八尋はオムライスを。ちとせは焼きカルビ弁当を。

帰りのバスに乗って数分揺られる。
その間、ちとせは眠ってしまっていた。

窓の外はすっかり暗くなっていて、街の灯りが車窓を流れるたび、揺れる光がちとせの頬にきらめいた。
眠る横顔は穏やかで、まるで子どものようだった。

ちとせの、前向きなところが好きだ。

お母さんとのことも大きな火傷跡もそれを理由に自分は不幸だと思い込まないところが好きで。

怪我をした時だってそうだ、大きく嘆く事も上手くいかない言い訳に使うこともせず、ただそれを受け入れて次の日には別の事へと没頭している。

動じたりせず、そういうものかと受け入れ前に進み続ける姿勢が心の底から魅力的だと思っていた。

強くて、前向きで、けれど繊細で人の痛みがわかる優しい人。誰かに好かれるためではなく、誰かのために優しくできる人。

だけどその強さや優しさは、人を頼れぬ不器用故なのかもしれないと、ふいに思った。

たった一人でよく頑張ったね、と誰が彼に言うのだろう。

八尋はきっと、その誰かになりたかったのだ。
ずっと横でその存在を肯定していたかった。

「次は、氷川神社前。お降りの方は……」

バスの自動音声がちとせの家の近くの停留所を読み上げる。八尋は手を伸ばしてボタンを押した。
八尋に寄りかかるように眠るちとせは、まだ目を覚ましていない。

今日のちとせは今までにないほど、素直に八尋を頼ってくれた。例えこちらを見ていなくたって、それでいい。作戦が失敗しても、それでも隣に居座り支えていたい。

八尋は決心した後、すやすやと眠るちとせを起こして座席を立ち上がった。


「八尋は、お酒飲んだことある?」

弁当を食べ終わったちとせは冷蔵庫を覗きながらそう聞いた。

「まあちょっとは」

「そっか、人の殴り方も知ってるんだもんな」

ちとせはそう言ってから、お茶のボトルを片手に冷蔵庫を閉めた。八尋は何も言い返せずに机の上の空いた容器達を見る。

「八尋が嫌いな麦茶しかないけど、いい?」

麦茶の入ったグラス二つをこちらへ運びながら問うちとせ。
嫌だという選択肢は端からないのだろう。

椅子に座り直そうとしないちとせは麦茶を飲み干した後、大きなあくびをした。時計の針は21時を指そうとしている。

「俺もう帰るから、さっさと寝な」

八尋も立ち上がり机の上を片付け始めると、ちとせはぴたりと身体の動きを止めて八尋を見上げた。

「帰んの?」

「え、帰んない方がいい?」

思わず聞くと、ちとせは俯いた。

「あー、うん、だめじゃなければ……いてほしい」

伏し目がちな視線を上げたちとせと再び目が合う。丸い瞳には深い影があり、そのコントラストが綺麗だった。

「りょーかい、シャワーだけ借りてもいいすか?」

胸が跳ねるので慌てて目を逸らし、なんでもないように言った。

その後、風呂など沸かさずシャワーだけを浴びた。借りたタオルで髪を拭きながら、八尋は歯ブラシを持っていないことに気がついた。
新品がないかと視線を巡らせるが見当たらない。ちとせに聞こうにも、先にシャワーと寝支度を済ませた彼は部屋にこもってしまっている。

コンビニに買いに行くにもドライヤーをかけていない髪はびしょ濡れで、正直外に出るのは億劫だった。

仕方なく重い足を動かしちとせの部屋へと入り、布団の中で丸くなるその男に「寝た?」と声をかけてみる。

「……寝てない。どしたの」

「新品の歯ブラシあったりする?」

「あぁ、そっかごめん。用意するね」

ちとせは少しよれたトレーナー姿のまま布団から出る。

「……あのさ、さっき部屋戻ったら封筒がベッドの上に置いてあって」

「あぁ、修学旅行の写真?さっき下に落っこちてた」

「中、見た?」

八尋に背を向けるちとせの表情はよくわからなかったが、声は鋭く焦りも含む様子だった。

「ちらっとだけ見た。外に出てたのだけだけど……見ちゃだめだった?」

「いや、なら平気。忘れて」

ちとせはそう言い残し洗面所へと向かう。

「てか俺はどこで寝たらいい?」

「選択肢としては、俺のベッドかリビングのソファしかない。八尋の家と違って」

八尋の家は八尋母が張り切って来客用の布団を用意してくれるのだ。

「じゃ、俺ソファで寝るね」

「身体痛くなるよ」

「でも俺がベッド借りたらちとせがソファ行くんだろ」

「まぁそうだね。それか一緒に寝るとか」

ちとせは新品の歯ブラシを棚から取り出し、八尋へと手渡しながらそう言った。

結論として、八尋は「じゃあそうしよう」なんて言えるはずもなく、薄いタオルケットを借りてソファで寝ることになった。

だってそうだろ。寄り添うことは、弱ったちとせにとって、優しさになるのか?自分の欲を正当化したいだけじゃないのか?よく、わからない。

自分の頭の中がごちゃごちゃしていた。

22時をすぎた夜は、眠るのには少し早いとも思える時間であったが、慣れない看病で疲弊したちとせにとっては遅すぎる夜で、彼はあっという間に自室で眠りに落ちてしまった。

八尋の方はしばらくは寝付けず、ぼんやりと考え事をしながら、暗闇に慣れた目でリビングを見渡す。整理された小綺麗な部屋はモデルハウスのようで落ち着かない。

モダンな壁掛けの絵画はちとせのお父さんの趣味だろうか。窓際に置かれた観葉植物はきっと美紗さんが育てているのだろう。

絵画も植物も美しいのに、どうして寂しいのか。

「あぁ、なるほど」

写真がないのか。

八尋の家には自分や姉の幼少期の写真が並んでいる。その傍にはメモ帳とペンがあり、顔を合わせなくても要件を書き残す習慣があった。

そういう気配がないから冷たくて、寂しいんだ。

タオルケットを口元まで上げて、身体を縮こませる。次第に手足の力は抜けて眠りに落ちていた。


夜明け前、目を覚ましたちとせがリビングへと降りてきていた。小さな物音ひとつで、浅い眠りから冷めた八尋はちとせの名を呼ぶ。

「ごめん、起こした」

「いーよ、てかさっむいな、夜は冷える」

まだ日は昇っておらず、部屋は青く暗かった。
薄いロンT1枚の八尋はズレ落ちたタオルケットを拾い上げて肩にかける。

ちとせは冷蔵庫から離れ、今度は食器棚からスプーンを持ち出した。

「腹減っちゃって、ヨーグルト食べるけどいる?」

「んー、いらない。水だけ飲んでいい?」

「水道水か麦茶しかないよ」

ちとせはそう言いながら麦茶のボトルを取り出す。八尋の分を注ぐと中身は空になってしまった。

八尋はキッチンの方へと向かい、置かれたグラスを手に取る。

「麦茶もさ、嫌いなわけじゃないんだ」

好きじゃないだけ、と付け足してコップの中のそれを勢いよく飲み干した。やっぱり香ばしい麦の味が苦手であった。

「朝って寒いんだな」

ちとせは立ったままヨーグルトを口に運びそう言う。

「朝って言ってもまだ3時じゃん。てか冷たいもん食うからだろ」

八尋は思わずあくびをし、ポケットに入れたままのスマホを開いた。充電が10%を切っている。

「充電器借りれる?」

「俺の部屋のベッドの横の、勝手に差し替えていいよ」

八尋はのそのそと階段を上り、ちとせのスマホに刺さっている充電コードを抜き、自分のものへと差した。

その時ヨーグルトを食べ終えたらしいちとせが部屋に戻り、まっすぐ布団へと向かい潜り込んだ。

「目覚ましさー、今日はかけないから朝起こしてくれます?」

この部屋で鳴っても仕方ないので設定を切る。
暗い室内で見る画面は眩しく、目を細めていると首筋にひんやりとした感触がし、「つめた」と声が漏れた。

振り返ると、ちとせの手が目の前にあった。
枕を肘置きにしてベッドの脇の八尋の方へと少し身を乗り出したちとせは、その反応がおかしかったのか笑っていた。

「俺の手、キンキンでしょ」

「ガチのやつじゃん、真冬にやったら洒落になんないレベル」

思わずその手を掴む。
スベスベとしたその手は冷蔵庫から出したばかりのように冷たかった。

「珍しく八尋の手があったかい」

「眠いからね」

そのまま指先がゆっくりと触れ、絡め取るように重なった。
まるで、温もりを奪うような動きであった。

「俺がまた寝るまで、こうしててくれる?」

「……まあ、いいけど」

しゃがんでいた足を崩し、毛足の短いラグの上に体育座りをした。体を動かす間も、ちとせはその手を離そうとしなかった。

「八尋」

ふいに名前を呼ばれる。
ベッドに背を向ける八尋は振り返ることなく返事をした。

「今日の俺、わがままかな」

聞かれて、「そうかもね」と頷くと、ちとせは黙り込んだ。

「……でもまあ、必要とされてて嬉しいっすけどね」

八尋が言うと、ちとせは繋いだ手の力を緩めた。

「こっち、見てくんない?」

ちとせの、少しだけ掠れた声。
俯いて目を瞑っていた八尋は、その声に素直に従い振り返った。

ちとせはじっと八尋の顔を見る。たった数秒だったと思うが、心臓が変に高鳴り顔が熱くなった。

おかしな表情は、部屋が薄い暗いからきっとバレていないだろう。八尋は平然を装い「どうかした?」と声をかけた。

「美紗さんさ、なんかあったら呼んでってスマホですぐ電話かけれるよう準備しておいたのに、一回も鳴らしてくれなかった」

ちとせは目を伏せて話し出した。

「俺はずっとリビングにいて、お皿とか洗ってたら……急に大きい音がしたんだ。美紗さんの部屋から酷い咳と唸り声が聞こえて、扉開けたら倒れてて」

繋いだ手の力が再び強くなる。指先は僅かに震えていた。

「怖かったんだ、大袈裟なのはわかってるけど、また死んじゃうのかって。あの時よりも、怖かった」

八尋は何か言う代わりに、繋いだ手の親指でちとせの冷えた手を撫でる。

「……それでも父さんは、帰ってこない」

ちとせは乾いた笑いを零した。

「よく、頑張ったな」

八尋はもう一方の手でちとせの頭を撫でた。
そこからふんわりと、ちとせの香りがする。

「八尋は絶対死なないで」

「死なないよ。俺なんか心身共に健康そのものだろ」

撫でていた手をぽんぽんと弾むように動かした後、「安心しな」と笑いかけると、ちとせは一層真面目な表情で八尋の目を見つめた。

「俺より先に死なない?」

「うん」

「毒も、飲まない?」

一瞬なんのことを言っているのかわからなかったが、すぐに思い出した。ロミオとジュリエットの話をした時に八尋は確かに毒を飲むと言ったのだ。

それはちとせが死んでしまったら、と考えた時の話であったのだが……そんな事どうでも良いか。

「うん、飲まないよ」

安心させたくてそう言った。

「俺が死んでも、毒も短剣も飛び降りも、火事も……だめだから」

ちとせはどんどんと弱々しくなる声でそう言ってからパッと手を離した。

「ずっと生きててね」

どういう意味か、と八尋は少し考えてしまい返事ができなかった。するとちとせは「ごめんもう寝る」とだけ言って、八尋に背を向け布団に潜り込んだ。

残された方の苦しみを知っているちとせが、どうしてこんな意地の悪いことを言うのか、よくわからなかった。

そもそも『俺が死んでも』という言葉はどういう意味か。八尋の気持ちは見透かされているのだろうか。それよりもなによりも、ちとせが本当に何処か消えてしまうのではないかと不安で、布団に潜り込んだちとせの身体を揺らした。

「ちとせ、俺さ……」

続く言葉など考えていなかった。何か言わなければと思いながら、こちらを振り返るその顔を見つめる。

カーテンの隙間から射し込む街灯の光がちとせのうるんだ瞳をキラキラと照らしており、思わず身体が動いた。

細く脆い身体に覆いかぶさる。

八尋は、その眦に唇を当てた。

「なに……してんの」

目の前の親友は心底驚いた様子で目を丸くして、小さく言った。

ほんと、なにをしてるんだ。

「ごめん」

八尋はそう言ってから慌てて部屋を後にした。
そうする他に、どうすべきかわからなかった。

心臓が煩いほどに鳴る。
一気に手足は冷えていき、口の中が乾いた。

階段を駆け下り、カーディガンを羽織る。それからスクールバッグと制服を抱えてちとせの家を飛び出した。

朝を待つ街の、随分と歩き慣れたその道は全く知らない別世界のようで。

八尋は酷い後悔を抱えたまま、自分の家まで足を止めずに走りきった。世界が閉ざされたように、ただただ息苦しかった。


それから数日後。

「ま〜た来ちゃったの」

例の外階段で携帯ゲームを握る悠太が顔を上げずに言った。
まだ何も声をかけていないのだが、扉を開け階段を登る足音で八尋の存在に気が付いたのだろう。

画面の中を覗き込むと、虫あみを持った人間が水色のヤギと会話をしていた。

「飽きないんだな」

八尋は感心して言って、隣へと腰掛ける。
ここ何日かの放課後、悠太はこの肌寒い屋外階段の踊り場で同じゲームをプレイしていた。

「俺の日課なんで」

「文化祭準備サボってゲームするのが?」

「文化祭より無人島開拓の方が重要だろ。こいつら俺がいないと家すら建てられないんだぞ」

悠太は少しムキになりながらも楽しそうに言った。

「八尋クラスの子達と仲良いのになんでここに来ちゃうわけ?意味もなく隣にいんのまじで謎」

「クラスにいたって仕事ねーもん」

本当のところは探せばやることは残っていた。
文化祭前日ともなれば、屋台の設置や事前の打ち合わせなど大詰めだというのに、八尋はふらっとここに来てしまう。

「トントンかんかん、どこもうるさいよなあ」

悠太は眉をひそめて言う。
教室内から中庭まで準備に勤しむ人々の声や作業の音で賑やかであった。

「どうせサボるんなら、今日は帰るか」

悠太は続けて言ってから、画面の中でセーブボタンを押す。

「めずらし、おまえ家帰りたがんないのに」

「いや家は帰んないよ、ボーリングして帰ろうぜ」

「は?なんで急に」

八尋はそう言ったが、悠太についていくことにした。クラスのみんなに心の中で「ごめん」と呟き、昇降口を出て校門へと向かう。

「新島ちゃんと喧嘩でもしてんの?」

駐輪場から出てきた悠太は黒いボディの自転車を押しながら言った。

「え、なんで」

悠太が八尋の交友関係に口を出すのは珍しかった。

「いや〜あの組み合わせ久々に見たなと思って」

「は?」

なんのことを言っているのかと悠太の指差す方向を見れば、ちとせは椎名翔と二人並んで歩いていた。仲睦まじそうに話をしながら校門をくぐり、駅方面とは反対の方向へと姿を消す。

「新島ちゃん怪我した時出回ってただろ、椎名翔のお姫様抱っこ写真。学校中の女子が保存してるやつ」

ケラケラと笑って話す悠太を他所に、八尋は少し早足でその後ろ姿を追った。離れていく背中を眺め、どこへ行くのかと考える。

「悠太、あっちってなにあんの」

高校を近いからという理由だけで選んだ悠太に尋ねる。

「んー、なんもないよ。ちょっと大きめの公園と業務用スーパーくらい。この辺でなんかすんなら駅の方だろ」

自転車に跨る悠太は駅方面に身体を向けている。
八尋は二人の行方が気がかりで、どうにも動けそうになかった。

数日前、ちとせの顔にキスをしてしまった。
あれは誤魔化しようのないことであった。

その上走って逃げ帰った八尋のことを、彼は一言も責めたりしなかったのだ。

学校で顔を合わせた時、八尋が置いて帰ってしまったスマホを差し出しながら、『気にしてないから』とただ一言。

それでもやっぱり何処かよそよそしい態度をとるちとせを見て、八尋はなんでもないフリをしながら理由を付けて距離を取ることしかできなかった。

「そーんな気になんなら追っかける?」

悠太は少し苛立った様子で語尾を強めて言った。
八尋は自転車の荷台に跨り「いや、いいよ」と呟いた。

「なんて言うんだっけ、おまえのそれ。庇護欲?みたいな……護衛騎士みたいっつーか、なんつーかさあ」

言葉を探す悠太の背中を見ていると、八尋は誰かに肩を叩かれた。

「二人乗りは違法だから、早く降りて」

振り返ると生徒会長である三年男子が怖い顔をして八尋達を見ていた。

「そうでなくても君はその髪や先日の問題行動が目立っているんだから……」

ガミガミと小言を続ける真面目な生徒会長にうんざりとしながら自転車を降りた。それに対して悠太は腹を立て、大きな舌打ちをする。

「八尋は悪くねーよ、自転車は俺のだし殴ったのも友達のため」

「理由があったら暴力が許されるとでも?それに、文化祭では地域の方も多く来るんだから誰が見ても誤解されないような行動を心掛けてくれ。何度も言わせるな」

「はーほんと頭硬いな。いくぞ八尋」

悠太はその場に自転車を倒し、八尋の腕を引き歩き出した。横倒しの自転車のタイヤが、誰も乗っていないのに空しくカタカタと回っていた。

それを無視して向かう先はちとせと翔が消えていった道の方であった。

「え、チャリは?」

「真面目な会長さんがどうにかしてくれるだろ」

「で、ボーリングは?」

「八尋の気持ちを汲んで尾行デートに変更」

「いやいいって」

「じゃあ普通に俺とお散歩ってことで」

悠太はキョロキョロと周囲を見渡しながらどんどんと歩みを進めていく。八尋はその背中を見て少し微笑み、それ以上何も言わずに横を歩いた。


「あの噂、本当だったのか」

立ち止まった悠太が言う。

「噂って?」

「翔パイセン、アパートの角部屋で一人暮らししてるってやつ」

翔とちとせが小綺麗なアパートに入っていくのを見て八尋は妙な焦りを感じていたが、悠太はそんなのお構いなしでぽかんとした表情で建物を見上げていた。

「噂っつーかただの事実じゃね」

「そう、そんでさ、入居当時に部屋間違えて扉壊したらしいんだよ。どんだけ怪力なんだっつー話」

「絶対ねーだろ」

八尋はふざけた話を繰り広げる悠太を小突いた後、来た道を戻ろうと歩き出す。

「あの先輩も悪い人じゃないし取って食ったりはしないっしょ」

八尋の焦りを察してか悠太は言った。

取って食ったりせずとも、二人きりでごく個人的な空間に入っていくのを見るのは辛かった。なにか用があるのかもしれないが、それでもちとせは翔に恋焦がれているのだ。
用があろうとなかろうと、何をしようとも、ちとせの笑顔が奪われてしまうのが嫌だった。

「ま、早く仲直りしなさいな」

喧嘩をしたわけではないけれど。

「悠太は気まずい相手とどう仲直りすんの」

「は?んなこともわかんねーのかよお子様だな」

ケラケラと笑う悠太をもう一度小突く。
「わかったわかった」と悠太は言ってから少しだけ格好付けた様子で口を開いた。

「その一、謝る。その二、思ってること全部言う。その三、また謝る。例え俺が一ミリも悪くなくても、嫌な思いをさせた事実に謝る」

「へえ、意外とちゃんとしてる」

「俺は嘘なく楽しく生きてたいからね」

八尋は少しだけ考え込み、自分にはできそうもないと思った。あれを蒸し返し謝罪するのはハードルが高く、出来ることならなかったことにしてしまいたい。

「まあでも新島ちゃんのこと信じてやんなよ」

「別に信じてるけど」

「いや信じてないだろ、いつも目逸らしてる」

「俺が?」

「そ、なにが怖いのか知らないけど、新島ちゃんはちょっとのことじゃおまえを嫌いにならないだろ」

いや、でも。
嫌われなくとも、好きにはなってもらえない。

ちとせは翔を好きだから、自分のことなど見てくれない。最初から諦めたフリをしていたのは、向き合って否定され傷付くのが怖かったからだ。

転ぶなら跳びたくない。
怪我をするなら跳びたくない。

だけどここ最近はずっと、地面に這いつくばったまま大怪我ばかりをしている。

「仲良し小良しでいたってダメになることもあんだからさ、せめて自分に正直でってのが俺のスタイルね」

悠太は八尋の肩を抱き、偉そうに笑う。
どんなアドバイスよりもストン、とその言葉は胸の中へと入っていった。

そうか、たしかにそうだ。
このままちとせとの仲が壊れるくらいなら、いっそ。

「見習っていーよ」

「……じゃ、そうする」

八尋はその時、逃げ続けた自分の気持ちをちとせに伝えようと決心した。

「おまえにできて俺にできないことないから」

しおらしい態度が嫌で挑戦的に言うと、悠太は満足そうに笑って、「ボーリング行くぞ」と走り出した。

いつもそうだ、悠太には引っ張ってもらっている。

八尋は振り返り、もうだいぶ小さくなってしまったアパートを横目で見つめる。悠太が「はやくしろ」と大声を上げるので、近所迷惑にならないよう仕方なくその足を前へ前へと踏み出した。

明日は文化祭。
なんでもない平日よりはよっぽど思い出に残る日だから、少しでもちとせと笑っていたい。