三年前、中学二年生の春。
保健室で初めて二人で話したあの日。
恋愛対象が男かもしれない、と思った幻のようなあの日は日毎に薄れ数ヶ月が経って、

季節は巡り夏になっていた。

その頃にはすっかり八尋の親友となってしまった自分はその居心地の良さに慣れ、八尋を想う自分の気持ちが恋かどうかなど気にしなくなっていた。

「あれ、ちとせいる、ラッキー」

そう声をかけられたのは、期末テスト初日のこと。
その日はほとんどの生徒が二教科のみのテストを受けさっさと下校しており、教室にはちとせ一人であった。

「八尋帰ってなかったの?」

「テストの名前書き忘れて呼び出されてた」

「え、怒られた?」

「ぜんぜん!」

八尋はなに一つ痛くない表情で首を横に振っていた。

「ちとせは勉強?エアコン止められてて暑くない?」

「暑いけど図書室閉まってて行くとこないんだよ」

ちとせが嘆くと、八尋は少し考えた後に「じゃあさじゃあさ」と嬉しそうにこちらを見つめた。

「俺の家くれば?一緒に勉強しよ」

急に押しかけて平気なのかと何度も聞いたけれど、八尋は大丈夫としか答えなかった。ちとせはその言葉に縋るように後を追って、初めて八尋の家へと上がり込んだ。

八尋のお母さんは最初こそ良い顔をしなかったが、事情を伝えれば優しく受け入れてくれた。リビングで勉強をしていたお姉さんも微笑みかけてくれて、ちとせの強ばった表情はだんだんと綻ぶ。

それから八尋の部屋で大人しく勉強をした。余計な会話はなく、お互い教科書と向き合っていた。人がいると中々集中できないちとせだが、八尋とだったら平気なようだ。

「コンコンコーン、ドア開けてくれる?」

扉を開けると、八尋のお母さんがお盆を持って立っていた。

「ちとせくんは甘いもの平気?手作りのあんみつなんだけど、食べられるかな」

ツヤツヤの白玉とカラフルなフルーツ、そして粒あんと抹茶アイスがバランスよく盛り付けられた透明な器が目の前に置かれると、ちとせは嘆声をもらした。

「大丈夫、目キラキラ輝かせてるし」

先程の問いに八尋が代わりに答えると、八尋のお母さんはニコニコと嬉しそうに「じゃあ勉強がんばってね」と部屋を出ていった。

八尋が優しくて暖かくて真っ直ぐな人であるということに理由があるとすれば、この家で育ったことが答えなのだろう、とぼんやり思いながら冷たいあんみつを口いっぱいに頬張った。

「ちとせって美味しそうに食べるよね」

こちらを見る八尋と目が合う。
口の中のものをゆっくりと味わいながら、首を傾けて見せた。

「かわいいなあ」

そう発する八尋の笑顔に動揺し、少しむせた。

「なに、かわいいって」

「言葉通り」

八尋はそれだけ言って、教科書へと視線を移す。

そう、こんなふうにして八尋はちとせをかわいがるのだ。特別扱いという言葉が似合うほど、他の人に対する接し方とはまるで違う。出会った頃とも違い、好かれているのだと自覚させられる。

その度に勘違いしそうになって思い留まる。特別だとしても、親友以上ではないというのに、時々それを忘れてしまいそうになる。

「これは違うんだ」と自分に言い聞かせると共に、自分から八尋に向く矢印も否定して、互いの思いは美しい友情であると脳に刷り込ませて。


そしてまた次の春。中学三年生。
クラス替えの結果、八尋と違うクラスになった。

部活のない日は一緒に帰る約束をしたりお互いの家で遊んだり、なるべく一緒の時間を減らさないよう努力していた。

そんなある日の帰り道、いつもはよく喋る八尋が随分と大人しくて、具合でも悪いのかと尋ねた。

「ごめん考え事してた」と呟くので、何を考えていたのかと質問責めにすると、八尋は首の後ろを抑えながら、

「隣のクラスの女子に告白された。返事保留にしてて」

なんて、信じられない言葉を口にした。

「え、付き合う気あるってこと?」

聞くと、嫌いではないから付き合ってもいいかな、とかなんとか適当な事を言いだすので、ちとせは思わず「だめ」だなんて言ってしまって。

「彼女なんかできたら、もっと一緒にいる時間なくなっちゃうだろ……ほら、クラスも離れたのに」

置いていかれるような寂しさに理由をつけてそんな言葉を並べると、八尋は少し驚いた表情でこちらを見て、歩くスピードを遅くした。

「その子のこと好きだって言うならあれだけど、違うなら、俺といた方が楽しいよ」

そう言う自分の足取りが重くなっていることに気が付く。ほとんど前に進めていない両足を引きずり、八尋の顔を見上げる。

八尋は優しいから、「そうだな」と嫌な顔ひとつせず微笑んでくれた。

「ちゃんと好きになった子と付き合えよ」

そうだ、そうそう、女の子にも失礼だし、自分のこのわがままな主張は間違っていないはずだ。

「好き……かぁ」

八尋は深い溜息の後、こちらを振り返りじっと見つめてくる。

「ちとせのかわいい顔に慣れすぎて他が霞むんだよな」

そんな冗談かわからない言葉をかけられ、ちとせは少し悔しかった。だからだと思う。

「じゃあ、一生好みの顔が現れなかったら俺と付き合えばいいよ」

そんな普段は言わないようなことを言ってしまったのは。

「え、本気で?」

八尋の困惑を含む大きな声を聞いて、怖くなった。友達間の冗談としてはやりすぎたセリフだっただろうか。

「冗談!なんて顔してんだよ!」

心臓が少し痛い。自分に嘘をつくのは何度目だろう。

「ああ、びっくりした」

八尋がどこか安心したように見えて、また、胸が突き刺されるように痛んだ。

その翌日から八尋はあまりこちらを見なくなった。かわいいと口にすることも無くなり、特別扱いも減ってしまった。クラスが離れたからなのか、自分の失言が理由なのかわからないけれど、一緒に帰ろうとか遊ぼうとか、少しだけ言いづらくなってしまった。

それでも避けられたわけでもないし、笑いかけてくれるし、親友には違いなくて。

小さな変化に翻弄される自分が、ただそこに居るだけだった。


そんな昔のことを思い出したのは、その頃の夢を見たからだった。開けたまま寝てしまった窓の外からひんやりとした空気が入り、現実へと引き戻される。

気が付けば十月になり、文化祭まで残り僅か。
ワイシャツに加えてカーディガンが必要な季節に変わっていた。

八尋はこの間の放課後以来、ちとせを置いてどこかへ向かう際に拗ねた様子で「俺がいなくても平気だもんな」と意地悪を言うようになり、ちとせはその度に「根に持つなよ」と笑った。

それと同時に川島という男とも険悪な雰囲気が続いており、ちとせが授業で発言すれば鼻で笑われたり、すれ違う際にわざとぶつかられたりと軽微な嫌がらせを受けていた。

チクチクと当たられていても、文化祭のクラス出店の準備も自分の担当はほとんど終わっているため学校生活に支障はない。相手が気が済まなければどうしようもないのだと、特に気にしていなかった。

それ以外は特段変わったことのない毎日が続いていたその日、ちとせは朝ごはん代わりのヨーグルトを食べようとリビングに降りていく。そこで目についたのは用意された朝ごはんと、普段はそこにない父の姿。

「父さん、仕事は?」

寝起きの少し掠れた声が出て、咳払いをした。

「美紗の体調が悪いから有給を取ったんだ」

父さんは、なんでもないように言った。

そういえばここ最近の母親は元気がなかったかもしれない、と思い返しながらダイニングテーブルへと座る。

「いただきまーす」

手を合わせ、綺麗に巻かれた卵焼きを箸で掴んだ。

「ちとせに話があるんだ」

父さんは、深刻な話を、まるで深刻じゃないみたいに。ダイニングテーブルの向こう側で、平然と言った。

「美紗と打ち解けづらいというのはわかるが、もう少しだけ優しく接することはできないか」

「……どういうこと?」

卵焼きを味わう隙間で問えば、父さんは珍しく口篭り、少し考え込む素振りを見せてからまた口を開いた。

「瞳は育児に対して少しノイローゼのようなものになっていたんだ」

瞳は死んだ母さんの名前だ。
父さんからその名前を聞くのは何年ぶりだろう。

「父さんはあの時、瞳に対してなにもしてやれなかった。同じことを繰り返したくないから、お前にこうして向き合おうと決めたんだ」

「……母さんも美紗さんも、俺のせいで体調を崩したって言いたいわけ?」

まるで、母さんが死んだ理由がちとせにあるかのような言葉。ちとせは無理やり卵を飲み込んで、父さんの目を見つめる。

「そうじゃない、ただ父さんにもお前にもできる事があったんじゃないかって後悔していて……」

この人は何を言っているんだ。
頭にカッと血が登り、持っていた箸を机に置いた。

当時ちとせは五歳だった。
育児のノイローゼの責任は、支えもしなかった父親にあるのではないか。そうじゃなかったとしても、子供に罪は無いはずだ。

苦しい時、自分だって被害者なんだ、と。
ずっとずっとそう言い聞かせてきたのに。
家族である父親が、息子を加害者と思っているのか。

その事実に向き合うことができないちとせは、ふつふつと湧き上がる怒りと失望、そして悲しみを抑えながら、食べかけの朝食を残し、席を立つ。

うんざりだ、この先どんなことを言われようと納得はできないし、話したって無駄だ。

「待ってくれ、美紗と良好なコミュニケーションをとる努力をしてほしいんだ」

言葉が突き刺さる。
どうして、母さんでも、ちとせでもなく、新しい母親の肩を持つのだろう。

「……母さんは、どうして死んだの」

「どうしてって」

「父さんが、火事になったあの家に駆け付けたのは火が消えたずっと後だっただろ」

おまえのせいだ、という気持ちが消えなくて、強い言葉が溢れだした。

「いいや、父さんが早く駆け付けていても……いや、どのみち何も変わらなかったと思うんだ」

そういうことを言っているわけではないのに。
言葉の中に含む真意すら汲み取ってもらえず、苛立ちが募るばかりだった。

そして、ふと思う。母さんの死後、その事に向き合って話すことは今日が初めてだな、と。今なら何を聞いても、はぐらかしたりせず答えてくれるのだろうか。

ちとせはリビングの扉にかけた手を一度離し、父さんの方を振り向くことはせず、口を開く。

「母さんは、救助が間に合わなくて死んだの?」

不自然だったのだ。ちとせは助かったのに、母さんは助からないなんて。そう思い尋ねた言葉に、父さんはすぐには答えなかった。

「答えてよ」

痺れを切らし振り返ると、父さんは椅子に深く腰掛けたまま、部屋の壁をまっすぐ見ていた。

「瞳は、お前が助け出された後、救助隊の前でパニックになったまま、台所の包丁で自分の胸を刺したんだ」

父さんは小さな声でぽつりぽつりと言った。こちらを見ることなく、言った。

ちとせは目の前がぐらりと揺れ、扉に体重を預けた。耳が篭もるような感覚の後、「連れていかないで」と泣き叫ぶ母さんの声を思い出す。

ああどうして。声が、耳から、離れない。
どうしたら良かったというのだ。

ちとせはリビングの扉を開けて這うように自室に戻り、スクールバッグを持って急いで家を出た。

父さんは何度も何度もちとせの名前を呼んでいたようだったが、鳴り止まない耳鳴りが邪魔をしていてよくわからなかった。

例えその声が聞こえていたとしても、受け止める心の隙間なんて、少しも残っていない。


そしてその日、大きなショックを受けている割にはいつも通りに過ごせるもので、むしろ目の前の勉強に集中することで朝の出来事を考えずに済むようで。

自分の名前を呼ぶ、いつもと変わらない八尋の声を聞くだけで母さんの声は薄れていく。

「ちとせ、また明日」

放課後、八尋は演劇の練習があると言って手を振り教室を出て行った。
自分達の教室も文化祭出店の準備のため賑わっており、ちとせの居場所はどこにもなかった。

いつも通り図書室に行って時間を潰そうかとも考えたが、今あの静かな空間にいるよりはこの賑やかな場所にいた方が正気を保てそうだと思うと身体が動かない。

「ごめん新島、もし時間あったら作業手伝ってくれない?」

ぼんやりと席に座っていたちとせを見て、サッカー部で一緒だったそこそこ仲の良いクラスメイトが声をかけてきた。

「俺たちみんな部活の方ばっか行ってて作業進んでないんだ」

たこ焼きを入れる紙パックやビニール袋、メニュー表やら細々とした備品の準備を担当しているらしい彼等は眉を下げてちとせを見た。

「新島の字綺麗だし可愛い絵も描けるだろ」

メニュー表の清書を頼まれる。ちとせは「いいよ」と返事をしてカラーペンとケント紙を受け取った。

なんでもない雑談に混ざりながら、ちとせは作業を進めた。サッカー部の頃を思い出しほんのりと懐かしい気持ちになる。

「練習さ、新島もたまには顔出せよ」

去年膝に負った怪我は選手生命を経つものであったが、日常生活には支障なくお遊び程度の運動はできる。

それを知っている彼らはちとせが部活を辞める際も随分と悲しんでくれた。

「文化祭終わったら遊びに行こうかな」

そう言えば彼等はまた大袈裟に喜びハイタッチをするのであった。そんな姿を見ているとなんだか安心する。

自分は生きていて良いのだ、と。

無事に清書を終えてえんぴつの跡に消しゴムを掛けていると、突然机がガタンと揺れる。

顔を上げると川島がわざとらしくぶつかったようで、すぐ横でこちらを睨んでいた。気にしても仕方がないし、こちらが謝る義理もなくちとせは黙ったまま止めていた手を再び動かした。

「まじでうぜーなお前」

無視をしたのが面白くなかったのか、川島は珍しく直接的にそう言った。

「おいやめとけよ」

川島の友人は半笑いで言うが、本気で苛立っているらしい川島はもう一度ちとせの机を大きく蹴った。

「なにしてんだよ」

それを横で見ていたサッカー部の友人達も声を荒らげて立ち上がった。

いやいやそんな大事にしないでくれ。と内心思いながらも、自分がなにか言えば火に油を注ぎそうで口を開くことができなかった。

無視し続けるちとせが気に入らなかったのか、川島は舌打ちをした後、ほぼ完成したメニュー表をぐしゃぐしゃに丸めて投げ捨てる。

気にしないフリは得意なはずなのに。
アイスをスプーンで削りすくうように、ちとせの心はえぐれていった。

「川島おまえいい加減にしろ」

ちとせの代わりに叫んでくれる友人に「メニューならまた書くから大丈夫」と無理して笑って宥める。
たしかに腹立たしくショックも大きいが、怒ったところで何になるんだ。

「こいつ本気で頭おかしいんじゃねーの、ムカつくんだよ」

川島の声色はさらに怒りを含んだ物へとヒートアップし、川島の友人もさすがにまずいと思ったのか彼を止めようと肩を掴んでいる。

「俺、メニュー表、また家で書いてくるから今日は帰るよ」

自分がこの場から立ち去るべきだと思い言うと、「逃げんじゃねーよ謝れよ」と川島は主張した。

何に対して謝ったらいいのかわからないが、謝れば済むのだろうか。教室を見渡せばみんなこちらに注目しており、随分と大事になってしまっている。サッカー部の友人にも迷惑をかけたくなかった。

「わかった、全部俺が悪かった。この前も失礼なことを言ってごめんなさい」

立ち上がり頭を下げる。
これで少しは収まってくれと願ったが、ちとせの大人な対応は川島にとって気持ちの良いものではなかったようだ。

彼はちとせが狼狽え動揺し、嘆き怯える姿が見たかったのだろう。

川島の苛立つ足はまた近くの机を蹴飛ばした。その机は中に入っていた教科書をばたばたと落としながら床へと倒れる。

「噂通り、どっかおかしいんだな新島って」

声を荒らげ、ちとせの目の前へと一歩近づく川島。

「家庭環境が性格に出てる」

その声に、ちとせの表情はついに強ばる。

「おいさすがにやめとけって」

川島の友人はそう言いながら必死で肩を抑えていたが強く振り払わられ、後退りをした。

「腰、見せてみろよ」

その言葉が落ちると同時に、川島の手がちとせのワイシャツとカーディガンへと伸びた。拒む腕を押さえつけられ、布地は容赦なく引き剥がされた。

胸下から腰にかけての、大きな火傷跡。
ちとせの秘密が白昼に晒される。

教室の中は息を飲むような気配と、「……え」という、誰かの困惑の声。

川島は笑っていた。「噂通りだ」って。

目の前がぐわんと揺れて、気分が悪い。
世界が二重にぶれてガクガクと揺れ続ける。
平衡感覚がわからず立っていられない。

どうしよう。

どうしたら良いのだろう。

どうして、自分はこんな目に遭わなければいけないのか。

「ちとせ」

目を瞑ったその時、八尋の声がした。

教室の扉を勢いよく開けて、人混みを割ってこちらに向かってくる。その姿だけを捉えると、ちとせの瞳には光が戻った。

クラスメイトを掻き分けた八尋は、川島の肩を思い切り掴み、ちとせの前から引き剥がした。

「大丈夫か」

血相を変えて、という言葉が一番適している。
額に汗を滲ませる八尋はいつになく真剣な表情でちとせを見ていた。頷くだけしかできないちとせを椅子へと座らせた八尋はそれ以上何も言わない。

それに対して川島は八尋に突き飛ばされた事に腹を立ててまだなにか言っている。

ちとせはぐるぐると回る視界で俯くことしか出来なかった。

「野沢くん、危ない!」

叫ぶような佐藤柚希の声が耳に入った。
顔を上げると、川島が背後から近づき八尋の頬を殴り付けていた。

「やめて」と小さな声がちとせの口から漏れるが、その声は周囲の悲鳴で掻き消される。

八尋の口元に、じんわりと血が滲む。

大人しかった八尋は口元を拭った右手でそのまま川島を殴り返す。いつもの優しい表情は一転し、怒りに支配された眼差し。

川島が机ごと崩れ落ち、反撃の意思を見せなくなった後も、何度も、何度も。

八尋は怒っていた。叫ぶように、怒っていた。
言葉がそこまで上手じゃないから、こんなことでしか表現できないのかもしれない。

「八尋、もういいから」

ちとせの声は届かなかった。
こんなの、望んでいないのに。

周りの者も八尋を止められず、数名の女子が教師を呼びに走り出す。
このままでは八尋ばかりが罪に問われてしまうだろう。

ちとせは意を決して殴られ続ける川島を庇うよう、二人の間に割り込んだ。

その瞬間、鈍い痛みがちとせの脳に響く。

……俺の親友はこんなにも強く人を殴れるのか。
じんじんと痛むこめかみを抑えながら、八尋の目を見つめる。

「……なんで」

八尋は酷く掠れた声で呟いた。

「俺のためにそんなことしないで。俺は、痛くないから」

落ち着かせるように言うと、八尋はその身体を小さく縮めこませ、床へと座り込む。そして瞳をぐらぐらと揺らして、動揺を隠さない。

「俺ばっか、こんな痛いのか」

八尋は自分の手のひらを見ながら、呟いた。
口元と鼻から滲み出た血は、白いワイシャツを汚していた。

「保健室、行こう」

ちとせは八尋の手を取った。その指先は驚くほどに冷たい。自分の温度を分け与えるようぎゅっと握りしめて、そのまま教室を出る。

廊下を歩き、階段を降り、また廊下を歩く。

その間ずっと何も言ってくれない八尋だったが、握る掌だけはちとせを離さないようしっかりと力が込められていた。

最低の一日だった。
でも、今こうして薄暗くなった廊下を、大切な親友と歩いている。
それだけで、今日一日の悲しみも、怒りも、なかったみたいに思えた。
ただ、穏やかでいられる。

必要だ。

なによりも八尋が必要だ、と。
頭の中でその文字を思い出す。


八尋が髪を金色に染めたのは、去年の夏。
高校一年生の夏休みだった。

先輩を好きだと打ち明けてからほとんど目が合わなくなってしまったから、髪を染めた理由なんて知らない。

篠山悠太という新しい友人や他校の柄の悪い先輩とつるむことが増えて、どんどん知らない人になってしまうんじゃないかって、すごく不安で。

暖かくて優しい八尋の笑顔が曇っているのが見ていられなくて。目を背けていたから、その夏の八尋のことをよく知らない。
こんな、見ている先すらちぐはぐな二人は、親友と言えるのだろうか。なんて随分悩んだりして。

ちとせが大怪我をしたのは、夏合宿の最中であった。時々膝が痛むのを誤魔化し練習をしていたら、激痛が走りその場に倒れ込んでしまった。

「新島!」

大丈夫か、なんて心配の言葉よりも早く、ちとせの身体を支えグラウンドの外へと運んでくれたのは翔先輩だった。

男らしい鍛え上げられた腕に抱えられ、安心した。
感じたことのない強烈な痛みの中でも泣き叫ばずに済んだのは、先輩がいてくれたからだろう。

それからちとせはすぐに病院に運ばれることとなった。膝の靭帯断裂、その中でも前十字靭帯という他の場所に比べ痛みも強く治りも遅い場所の怪我で手術も必要だと言われた。

夏休みの間に手術を受けてリハビリもして、しばらく松葉杖の生活が続いた。サッカー部に復帰したいという気持ちはあまりなく、部活を辞めることに決めた。

松葉杖で外に出るのも億劫で、自室に引き篭っていた夏休みの最終日、八尋が家にやってきた。

金色の髪で、顔に小さな怪我を負った姿で。

「手術したって聞いた。これ、お見舞い」

そう言いながら箱に入ったお菓子を渡される。
良いところのどら焼きらしい。

ありがとうと受け取る声が少し震えて、誤魔化すように咳払いをした。妙に緊張していたのだ。

「なんで教えてくれなかったの」

「なに?怪我のこと?」

「そう」

「だって八尋、忙しそうだったから」

そう言うと、八尋はちとせの膝に触れた。
怪我をした左の膝を。

「痛くない?」

「うん、もう痛くないよ」

「……部活は、どうすんの」

「辞めるよ、完全に復帰するにはまだ数ヶ月かかるし、その後も膝の違和感残るかもしれないって言うし、そもそも高校の部活でそんだけ時間空いたら戻れないよ」

「でも、小学生の頃からサッカーやってたんだろ」

「だからって感情でどうにかなるものでもないだろ」

ちとせは心の底から仕方ないことだと思い、割り切っていた。サッカー選手になりたいわけでも、大会で結果を残したいなどという目標もなかったし、なんとなく続けて、なんとなく縋っていただけだったから。

でも、八尋の目にはそう映っていなかったのだろう。

俯いたままの八尋は微動だにせず涙を流していた。大粒の涙が床へと落ちていて、ちとせはぎょっとしたのだ。

「え、え?」

八尋の涙を見たのはこの日が最初で最後だった。
ちとせは酷く動揺してしまい、見ていることしかできなかった。

なかなか泣き止まないその姿に、ちとせはサッカーを始めた経緯から今の気持ちまで事細かに語り、本当に大して気に病んでいないことを伝えた。

「なんなら変な期待とかプレッシャー受けなくて済むから丁度良かったんだよ。成績下がってたし、俺ほんとは勉強してる方が好きだしさ」

「そう、それならいいんだけど」

八尋は腫れぼったい目でこちらを見ていた。

「変な顔、別人みたい」

ちとせが笑うと、八尋は微笑んだ。

「でも俺は、俺以外にはなれないよ」

そんな意味ありげな言葉を残して立ち上がる。

「もう行くの?ゲームでもしていけばいいのに」

「髪色戻してくる。明日から学校だから」

そう言ったのに、八尋の髪色は真っ黒には戻らなかった。前髪だけ金色という特徴的な髪色で、なんだか知らない笑顔を浮かべていて。それが、二人が確かに変わってしまったという証のようで。どうしても好きになれなかったんだ。


薄暗い廊下の乾いた空気の中。
血で汚れた肌と金色の前髪が、とぼとぼと歩く度、隣で揺れていた。
俯いたままの八尋は前すら見ないから、ちとせが保健室の扉を開いた。

「先生いないね」

ちとせがそう言っても、八尋は黙ったままだった。

自然と手が離れ、口を閉じたままの八尋は保健室の冷蔵庫を勝手に開け、ペットボトルの水を取り出しちとせに手渡した。

「飲んで、座ってて」

言葉少なにそう告げてベッドを指さす。

そして再び冷蔵庫の前へと立つと、どこからか取り出した氷のう(ひょうのう)に氷を詰め始める。どうしてそんなに慣れているのか、尋ねようとしてやめた。なんだか頭がぼんやりとしてどうでもいいかと思ってしまう。

ベッドに腰かける。ペットボトルのキャップはすでに少し緩んでいた。八尋が先に回してくれていたのだろう。
冷たい水を流し込むと、変に強ばっていた身体の力が少しずつ抜けていった。

「これで冷やして」

氷のうを手渡される。

「いや冷やさなきゃいけないのは八尋だろ」

それを突き返すと、八尋はちとせの隣に座り「いいから冷やして」と乱暴な声で言った。

「怒ってる?」

頭を冷やしながら、おずおずと尋ねる。

「ちとせには怒ってない」

八尋は笑顔なく言って俯いた。

「血、拭いた方がいいよ」

ティッシュの箱を差し出すと、八尋は受け取ろうともしなかった。こんなにも余裕なく落ち込んでいる姿、久々に見た。

「演劇の通し練習、まだ終わってない時間なのになんで教室にきたの?」

「……柚希の友達が連絡くれたんだ、川島が暴れてるって」

「それで来てくれたの?」

八尋は頷いた。

「あいつ、前に柚希に振られたから逆恨みだと思う。ちとせが柚希を庇ったのも聞いてたから、なんかあったらって焦って。で、案の定。もう少し早く駆けつけられたら良かった」

そうか、佐藤柚希のためでもあったのか。
ほんの少しの安心が混ざり複雑な心境へと変わる。

そして静かな時間が流れたあと、八尋は顔を上げてちとせのこめかみ辺りを撫でた。

「頭、痛い?」

氷のうで冷やしていたその場所を触れる八尋の指は温度を感じられなかった。

「痛くないよ」

「本当に?」

ちとせは頷く。冷たさで麻痺してしまっていて、痛みなどよくわからなかった。身体的にも精神的にも疲れの方が勝ってしまっている。
けれど八尋が、あまりにも心配そうに、自分を責めるように寂しい瞳でこちらを見るので、ちとせは無理して笑顔を作る。

「膝やった時もへっちゃらだっただろ、痛みに強いんだよ」

その笑顔が下手くそだったからか、八尋は眉を下げて微笑んだ。

「ちとせは優しすぎるね」

八尋の目にはそう映るのか。

「朝、父さんにもっと優しくなれって言われたばっかなんだけど」

自虐的に言うと、八尋は目を丸くした。

「今のままでいいよ」

「でも実際、空気読むのも苦手だし気遣うのも苦手だから今日もこんなことになったんだろうなって。巻き込んで、ほんとにごめん」

少し早口で自分を責める口振りで言えば、八尋は何度も首を横に振った。

「ちとせはなにも、悪くないだろ」

八尋はゆっくりと言った。

肯定されるほど、じゃあどうして、と思ってしまう。

母さんはどうして火をつけたのか、父さんはどうしてちとせを責めるのか、美沙さんはどうして体調を崩しているのか、川島はどうしてちとせを気に入らないのか。自分はどうして普通になれないのか。

自分が悪くないなら、その存在が悪いのか。

「最初から俺がいなければ」

声がわずかに震えた。それがバレていないといいなと思った。

「そんなこと、言うなよ」

八尋は消えそうな声で呟いて、ちとせの身体を強く抱き締めた。その左腕は腰の火傷跡を服の上から優しく撫でるようで、それが無自覚なのか不思議に思う。

触れ合う場所だけが熱を持つ。
八尋の手はこんなにも冷たいのに、身体は暖かいんだ。そんなこと知らなかった。

安心からか、ちとせの視界は滲む。

「でも、俺がいなければ、母さんはああなってなかった」

頭の中で何度も思い浮かんではその度に消そうとしていた、向き合いたくない言葉が堰を切ったように流れ出す。

すると八尋はいっそう強くちとせを抱き締めて、その額をちとせの肩に預け押し付けた。

「それでも俺は、ちとせがいなかったら、ほんとつまんない人生だったよ」

か細くも力強い声だった。
ちとせは妙に冷静にその言葉を聞いていた。

「ちとせはそうじゃなくても、俺にはちとせが必要だ。多分なによりも、必要なんだ」

どんどんと縮こまっていく八尋を見ていた。
ちとせを抱く腕に込められる力が強くなる。

空いた両腕をどこに置けば良いのかわからず、不器用に頭を撫でた。

たった一人の親友は、ちとせの代わりに何倍も強く怒ってくれた。そして今、何倍もひどく悲しんでくれている。

いつだって八尋がいてくれたから、自分の感情の輪郭が見えた。そうか、こんな時は泣いていいのか、怒っていいのか、笑っていいのか。なんてそんなことを、ずっと繰り返して。

この人がいなければ、自分はとっくにダメになっていただろう。

「八尋がいてくれて良かった」

ちとせが呟くと、八尋は抱きしめる腕を緩めた。

「あれさ、やっぱ変わんないかな」

ぐしゃぐしゃの前髪の八尋は顔を上げ、どこかをぼんやりと見つめながらそう言った。

「なに?」

「ちとせは、俺のことを、好きにならないから安心してって言っただろ」

そんなこと、本人に言っていただろうか。
ちとせは記憶を辿る。男が好きだと初めて打ち明けたあの日、ひどく顔をしかめた八尋の表情が頭に浮かぶ。嫌われたくなくて、咄嗟にごまかすように言ったあの言葉。

そういえば、そうか、それがきっかけで好きになってはいけないと、より一層自分に言い聞かせたのだった。

「それがどうしたの」

「だからそれ、変わることないかなって思っただけだけど」

やっぱいい、と続けてベッドへと倒れ込む八尋。

待って、それってどういうことだ。ちとせの頭の中にクエスチョンマークが何個も浮かび、心臓がバクバクとうるさいほどに重く鳴りだす。

好きになっていいの?
違う?それなら他にどういう意味がある?
八尋の好きな子って、誰だ。

軽くパニックになるも、「口の中めちゃくちゃいてーな」と乾いた血を拭う八尋はその話題に触れてほしくないように見えて、ちとせも考えることを辞めて、なんとか鼓動の速さを誤魔化し歯を噛み締める。

「俺、停学とかなったらどうしよ」

八尋は笑っていた。

「あのさ、初めて話した時、覚えてる?あの時も保健室で横に並んで話しただろ……授業サボってさ」

ちとせはそう言いながら八尋に向き合うように寝そべる。心臓はまだ、鳴っていた。

「覚えてるよ、目がやたら印象的だった」

「目?」

「ビー玉みたいに綺麗だなって」

その言葉に顔が熱くなる。

「今日の八尋、変だよ」

照れ隠しで言うと、八尋は眉を下げて笑った後、あくびをしてから目を瞑った。

ちとせはしばらくその整った顔を見ていた。

普段は横顔ばっかり見ていたから、新鮮でいつまでも見ていられる。どうか目を開けませんようにと願いながら、少しだけ顔を近づけた。
それでも目を開けない、寝てしまったのだろうか、呼吸の音すらもしない静かな空間だった。

自分は今もまだ毒の小瓶を手に入れられていないけれど、目の前の八尋がもう二度と目を覚まさないというのなら、ジュリエットと同じことをするだろう。

その腰の短剣が例え錆びついていても、それを手に取り自分を貫く。

「やっぱり俺は、母さんに似たんだな」

小声で呟いて、八尋の目元にかかる金髪を耳にかけてやった。

八尋が好きだ。

微かな期待を抱きながら、自分の気持ちに丸を書き、あとを追うように目を閉じた。