八尋は優しいから、仕方なく友達でいてくれるのかもしれない。
そんな疑念が、ここ数日湧き上がっていた。
「八尋、彼女できたって言ってたもんな」
篠山悠太のその声を否定する八尋を見ながら、その不安は濃くなるばかりだった。
耳が篭もるような嫌な感覚がして、ちとせはその場を立ち去ることにした。本当に静かに、気付かれてしまわないように。
「待って、ください」
連絡通路を渡る背中を追いかけ、声をかけてきたのは佐藤柚希であった。
最近やたらと八尋と仲の良い美人な女の子。
ちとせは反射的に彼女を睨んでしまった。
「あの、違うんです。野沢くんは、彼女なんていなくて」
この子はいったい何を弁明しているのだろうか。
「なんでわざわざ言いに来たの?」
「……誤解したままは良くないかなって」
佐藤柚希は自分でも何を言っているのかわからないのか、語尾に疑問符を付けてそう言った。
「どうでもいいよ、彼女でも、八尋の片想いだとしても」
そう言った自分の言葉が、妙に虚しく響いた。
立ち去ろうとするちとせを追って、佐藤柚希が数歩踏み出す。
ちとせは逃げるように歩を進め、顔を強ばらせた。
「あ、ごめんなさい。女の子苦手ですよね」
佐藤柚希は申し訳なさそうに後退りをし、もう一度謝ってから、体育館へと戻ろうとした。
「八尋が言ったの?」
その背中に声をかけた。
「え?違うんです、私が新島くんのことを見てそう思っただけです」
佐藤柚希はちとせの表情を見たあと、「野沢くんは勝手に人のこと話すような人じゃないですよ」と続け、微笑んだ。
そんなこと、ちとせが一番わかっていた。
口の中で小さく舌打ちをし、ちとせは今度こそ背中を向けた。
「佐藤さん、ごめんね」
彼女に聞こえているのかわからない声量で呟いてから、校舎棟へと向かう。
自分が惨めで、堪らなく恥ずかしかった。
この間、二人で家に帰る時、ひんやりとした電車の中で。
『俺ね、ロミオの気持ち、ちょっとわかる気がする』
そう言った八尋の優しい顔が、車窓から射し込む陽の光に照らされたその綺麗な顔が、ちとせには忘れられなかった。
『愛する人が目の前で冷たくなってたら、俺だって毒を飲むと思うんだ』
八尋には好きな人がいるのか、と。その時はじめて気が付いた。これまでずっと一緒にいたはずなのに自分は少しも気が付いていなかった。
八尋が恋をするのは自然なことだから、ちとせがとやかく言う筋合いはない。そんなこと十分わかっているが、自分には話してもくれないのかと思うと寂しくて、自信がなくなった。
ちとせには八尋しか信頼できる友人がいないが、八尋はそうではない。
『あの二人ってほんとに仲良いんだね、知らなかった』
翔先輩に連絡通路で呼び止められた時、八尋と篠山悠太が話している姿を見て翔先輩はそう言っていた。
そして教えてくれたのは、後輩からの熱い推薦で二人がティボルト役とマキューシオ役になった、ということ。
そんなこと、八尋は教えてくれなかった。
ショックを受けたちとせが振り返れば、二人は走ってどこかへ行ってしまっていた。
俺も行かなきゃ、と消えていく翔先輩を見送った後、ちとせは体育館を覗いた。
やっぱりいた。
八尋が体育館にいるのが見えたが、声はかけられなかった。ちとせも混ざるよう他の者に強いられるのが嫌だったからだ。
それでも何分待たされたって痛くはない。
最終的に八尋は走って図書室まで来てくれたから。
そう思っていたけれど、今は追いかけてなど来てくれない。ちとせのことなど気にもとめていないだろう。
「俺、いらないのかな」
随分と暗くなってしまった帰り道、ちとせはぽつりと呟いた。とっくにぬるくなったりんごジュースを飲み干す。
家に着くと母親が文化祭の日程を尋ねてきた。
ちとせは無視して部屋に入り、大きな音を立ててドアを閉める。
何も考えたくなかった。
電気もつけず、ベッドへと身を投げだし、ただ目を瞑った。
スマホのバイブ音がやけに長く鳴っているのが、眠りの縁で聞こえてきて、ちとせは目を覚ました。
見渡せば部屋も窓の外も暗いままだ。帰宅後寝てしまっていたのだろう。
「電話?」
暗い部屋を明るく照らす画面を見ようと手を伸ばすと、着信は切れてしまった。
眩しい目を擦り通知を開けば、八尋からの数件のメッセージと着信履歴が一件入っている。
何事かと慌てて掛け直すと、ワンコールもせずに八尋は電話に出てくれた。
「ちとせ、今どこ」
「え、家だけど」
当然だろ、というふうに告げると、八尋は電話の向こうで安心したように溜め息を吐いた。
「どうしたの、電話とか珍しい」
「勝手にいなくなってるし、連絡付かないし、部屋暗いから帰ってないと思って。なんか、あったのかと思って」
八尋は淡々とそう告げた。
よくわからないが、心配してくれたのか。
「ありがとう?」
「もしかして寝てた?声ふにゃふにゃ」
「寝ちゃってた」
そう答える寝ぼけたままのちとせの頭は少しずつクリアになっていく。
「待って、部屋暗いって家まで来たの?」
「あー、うん」
歯切れの悪い八尋の声を聞き、ちとせは飛び起きた。時計を見ると、22時を過ぎている。
電話の向こうからは虫のジリジリとした声が今も聞こえていた。
「まだ近くにいたりする?」
その問いにさらに歯切れ悪く「まぁ、いないこともないけど」と答える八尋。
「ちとせの無事がわかったから帰るよ」
そう言い終わる前に、ちとせは二階の自室から階段を駆け下り、家を飛び出した。
「うわ、いいのに出てこなくて」
八尋は家のすぐ近くで足を広げしゃがみこんでいた。
「夜に見る八尋、柄悪い」
「しゃーない、もうちょいで庭まで侵入するとこだった」
「非常識すぎ」
ちとせが笑うと、八尋も笑った。
良かった、ちゃんと笑いあえている。気にしすぎはよくないな、と思い今日の出来事は記憶から消そうと心に決める。
「そうだ、俺さ、彼女なんていないから」
ちとせの決心を前に、八尋はぶり返すような一言を告げた。
「……でも、好きな子はいるんだろ?」
八尋の顔を見ると、じっと目を見つめられた。
そこにいつもの笑顔はなく切ない表情をしている。八尋はこんなにも素敵な人間なのに、こんな表情になるほど恋愛で悩んでいるのだろうか。
首を傾げたまま見つめ返すが、八尋は何も言わず、立ち竦むだけであった。
ああ、まただ。また距離を置かれている。
物理的ではなく、精神的な話。八尋は昔に比べて自分のことを話さなくなっていた。
ちとせはそれに気がついて、ここ最近はいつも寂しかった。
「八尋、俺に恋の話とかしにくいんだろ。前からそういう話あんまり振らないよね、俺が女苦手で男が好きだから……」
ちとせが言うと、八尋は「え?」と本気で驚いた声を上げた。
「いや違う違う違う、え?何その思い込み」
八尋が演技ではない様子で驚き大きく否定する姿を見て、どうしてか、ちとせの目には涙が浮かんでいた。
「なに、なんか、気にしてた?」
八尋は眉根を寄せ、ちとせの顔を覗き込む。
泣いているところなど見られたくなくて顔を背けると、八尋のひんやりとした指先が頬に触れて、涙を拭われる。
「俺、ほんとわかってないんだな、ちとせのこと」
反省の声を上げる八尋に、ちとせは顔を上げて首を横に振ってみせた。
涙が止まらず「ごめん」と謝ると、「散歩でもしよっか」と手を引かれる。八尋の手は本当に冷たくて、だけど、その温度で壊れ物でも触るみたいに優しくちとせの手を握るのだった。
その夜、二人は誰にも見つからないように、慣れた道を歩いた。
近くの公園に着くと、その手を離し、自販機で水を買い渡してくれた。
八尋はやっぱり優しいな、と思う。
受け取った水をごくごくと飲み、ちとせは息をつく。それから二人は人気のない公園のベンチに並んで座った。
「ちとせが男の人好きだからって、俺は何かを変えたつもりはないよ」
八尋はちとせの目をしっかりと見て言う。
その言葉がすんなりと信じられるわけでもなく、ちとせは俯いた。
「泣くくらい思うことあるなら言って」
八尋は少し鋭い声でそう言った。
「今日、見学しに行った時、八尋は最初すぐにいなくなっただろ」
「それはちとせが翔先輩に誘われたって言うから」
八尋はいつもの優しくて少し間抜けな表情ではなく、目を鋭くしてそう言う。
「翔先輩の話すると、ツーンて顔するよね」
「いや、そんなことないけど」
八尋は慌てて否定した。
「そんなことあるよ。だから本当は男が好きな俺が受け入れ難いんだろうなって、ずっと思ってた」
初めて打ち明けたあの日からずっとそう思っていたが、それでも横にいてくれるのは八尋にとってちとせが友達としての価値が高いからだと信じてきたのに。
八尋の交友関係を目の当たりにし、秘密の話ばかりされ、その自信がなくなっていた。
「うーんと、今日避けたように見えたかもしれないのは、ごめん。ちとせは翔先輩と居たいと思って、俺は邪魔だなって、そう思ったんだ」
「え、なにそれ」
ちとせは驚き、目を見開いた。
八尋の方も「なにそれってなにが」と驚いた様子で言う。
「邪魔とか別に思うわけないだろ」
「えー、そうなんだ。まじでわかんねえな」
ということは、今までもふらっといなくなってしまっていた八尋は気を遣ってくれていただけなのか。
そんなこと、しなくていいのに。
「受け入れ難いとか全く思ってないし、俺は結構ちとせが大事だから、あんま悲観的になんないで」
八尋はぽんぽんとちとせの頭を撫でた。
"大事"という言葉が嬉しいちとせは、お互いを誤解していたことに気が付き、少しだけ安心していた。
やっぱり八尋はちとせをわかっていないが、ちとせも同様に八尋をわかっていなかった。
「あのさ、八尋は好きな子のために毒を飲めるって言ってたけど、それ聞いて俺は絶対に無理だなあって思ったよ」
「はぁ?先輩のことそんな好きじゃないじゃん」
「そうみたい。それか八尋がその子のこと好きすぎるだけかも」
からかうように言うと、八尋は柄にもなく顔を真っ赤に染めて、照れくさそうに首の裏を抑える。
「そうかもね」
ちらりと横目でちとせの方を見てから、すぐに目を逸らす八尋はやっぱり物憂げな表情で耳まで赤く染めていた。
え、俺……そんな顔、見たかったわけじゃないのに。
あれ、じゃあいったいどんな顔をしてほしかったんだろう。自分でもわからない。
ただ、胸がズキリと重く痛むのを感じた。否定しない八尋が、どうしてかすごく嫌だった。
八尋が、ちとせの知らない誰かのために毒を飲んで死んでしまえるなんて。そんなの絶対にダメなのに。
この前聞いた時にはそこまで気にならなかったのに、どうして今、こんなに嫌な気持ちになるんだろう。
「どうした?」
八尋が心配そうにこちらを見ていた。
ちとせは声を絞り出し、笑って見せる。
「いや別に、応援する、ね」
そう言う声が少し震えてしまったのを、誤魔化すように更に笑った。
八尋は少し困ったように微笑んで、「うん」と頷いた。
そこで自覚してしまう。
この人を誰にも取られたくない、と。
八尋の隣に、自分以外の誰かがいるなんて、考えたくもなかった。
上手くいっていないなら、そのまま上手くいかなければいい。応援なんてしたくない。
なんて、醜い感情ばかりが湧き上がった。
八尋だけは好きになっちゃダメなのに。
それはずっと揺るぎない自分の中の掟だったのに。
蓋がズレて外れてしまったのか、中身が溢れそうになる。
「一個だけ、聞いてもいい?」
ちとせは醜く暴れる自分の感情にもう一度蓋をしながら問う。
「なに?」
「どういうところが、好きなの、その子のこと」
こんなこと聞いたって何にもならないのに、聞いてしまっていた。
「あえて言うならだけど、前向きで優しいところ、とかかな」
ぶっきらぼうに言われたその言葉が、心の奥にずしりと響いた。
聞かなきゃ良かった。
そんなの自分と真逆じゃないか。
その事実が、痛くて堪らない。
「さすがにもう遅いし、帰ろ」
そう言い立ち上がる八尋。
ちとせは身体に力が入らず、立ち上がるまでに時間がかかった。
また手を引いて欲しい。
だけどそんなこと言えるわけもなく、微かに痛む足でとぼとぼと横を歩くことしかできなかった。
自分はいったい、八尋に何を求めてしまっているのだろう。
新島ちとせは、中学校に上がると共に今住む街へと引っ越してきた。
成績も運動神経も見た目も人より良かったちとせはすぐに友達ができた。そして同時に女子生徒から"そういう目"で見られることも増えていた。
「私だけ、ちとせって呼んでもいい?」
中学二年に上がったばかりの頃、クラス一だか学年一だかの美人に、大勢の前でそう言われ、ちとせは顔を強ばらせた。
女らしい媚びた声と笑顔が気色悪く、頭の奥でキンと金属が鳴るような耳鳴りが響いた。
「え、嫌だ」
どうしても嘘など付けず正直に言えば、彼女は泣いて教室を飛び出して行ってしまった。
「お前バカじゃねーの、すぐ謝りにいけよ」
友人に謝罪を強いられ肩を捕まれたが、気分が悪くてそれどころじゃない。
頼むから身体を揺らさないでくれ、と目を瞑り祈っていると、ふいにそいつの手が離れていった。
目を開けると、後ろの席の男が間に割って入り止めてくれていた。
それが八尋だった。
「名前にいい思い出ない奴だっているし、今のは新島も被害者だろ」
「平気か?」と顔を覗き込み、青褪めたちとせの顔を見て、手を引き教室から連れ出してくれた。
保健室まで無言で歩き、その扉を開く。
「先生いないな」
八尋はちとせをベッドに座らせた。
なんか飲み物ないかな、と呟きながら勝手に保健室を漁る姿を見て、ちとせは恐る恐る口を開いた。
「名前が嫌だったわけじゃないんだけど、その、ありがとう」
「あっそう、まあなんでもいいけど」
八尋は大してこちらに興味がない様子で飲み水すらみつけられないことを嘆いていた。
「先生もすぐ戻ってくるだろうし、休んでな」
そう言い残し行ってしまいそうになる八尋の手を咄嗟に掴んでいた。
「なに、寂しいの?」
呆れて笑う整ったその顔を見て、胸が締め付けられる。
この人の興味を引きたい。
「女が苦手なんだ。五歳の頃、母親が俺を巻き込んで心中しかけたせいで」
「は?」
それにしても唐突だった自覚はある。
今日初めて話をしただけの同級生にそんなことを言われたら、困るだろうな。
八尋の困惑した表情を見てすぐさま反省した。
「……それで、フラッシュバック的な?」
それでも八尋はその手を振り解かずに、ベッドの横に腰掛けてちとせの話を聞いてくれた。
「そこまでじゃないけど、女の子が怖くて、身体が拒否反応でるみたい」
「お母さんは今どうしてる」
「……母さんはそのまま死んだ。俺だけが、助かった」
真っ赤な視界。燃え盛る炎の中で、母さんに手首を捕まれ動けないちとせ。嫌だ嫌だと泣き叫ぶちとせに、母さんは何度も「仕方ないの」と言っていた。
若くて美人で可愛らしい自慢の母さんだったのに……その入念に手入れされた美しい茶髪は、ぐしゃぐしゃに乱れてしまっていた。
優しさと、笑顔と、暖かさと柔らかさ、そしてそれが醜く歪む豹変っぷりを目の当たりしたのが酷くショックで。女性らしさという皮を被った化け物がその中にいる気がして。
その後救助が来て、ちとせの身体は消防隊に拾い上げられた。
『やめて!連れていかないで!』
そう泣き叫ぶ母さんの声だけがちとせの耳にこびりつき、いつまでもその声色だけは忘れることが出来なかった。
救助が遅れたからか、母さんが抵抗したからなのかはわからないが、結果として自分だけが助かってしまった。
生まれ育った家も母さんも、消えてしまった。
父さんは、ちとせに何度も謝罪をした。
どうやら両親は上手くいっていなかったらしい。
「今はね、父さん再婚して新しい母親が家にいるんだ」
「へー、切り替え早。懲りないもんなんだな」
八尋は遠慮なく感想を述べた後、やべっという表情でちとせに謝った。
「いいよ、俺もずっとそう思ってるし」
笑い飛ばすと、八尋はその倍は楽しそうに笑った。
「案外明るく話すのなおまえ、途中で泣いちゃうかと思ったのに」
その後、お互いのことをなにも知らない二人は自己紹介をするかのように自分達のことを語った。
何が好きで何が嫌いかとか、小学校の頃なにが流行っていたかとか、好きなゲームの話とか、中身は思い出せないくらいどうだっていい話。
だけど、波長が合うと言えばいいのだろうか、話をしているだけで楽しくて、笑うタイミングが同じであった。
八尋はベッドに横たわると、「あーあ、授業サボっちゃったな」と、しんみり呟いた。
「教科書読めばなんとかなるよ」
ちとせはそう言いながら八尋と向き合うように寝そべる。
「おまえ、まつげ長いのな」
八尋はちとせに顔を寄せてそう言った。
「母さんに似たんだと思う」
ちとせは答えた。
「じゃあ相当の美人だったんだ」
言葉の隙間にゆっくりと時間が流れていた。
「庇ってくれてありがとう」
もう一度礼を言うと、八尋は眉を下げて微笑み、ちとせの頭を撫でる。
その瞬間、うるさく鳴る心臓に戸惑いながらも、ちとせは気づいてしまった。
自分の恋愛対象が男かもしれないという事実に。
そして現在、
八尋が好きな人に随分とメロメロであると知ってしまった、その翌日。
ちとせはいつもより二時間も早く目が覚め、一時間も早く学校に着いてしまっていた。
こんな時間に学校に来たのはサッカー部の朝練以来だろう。
教室にいても落ち着かないので図書室へと向かおうと思い立つも、こんなにソワソワとした状況で本なんか読めるのだろうかと思ったりもして。
「新島?」
階段を昇るちとせの背中を呼び止めたのは、椎名翔の声であった。
「朝早いな、どこ行くの?」
爽やかな笑顔を向けられ、心臓の音がトコトコと早くなった。
「早く着きすぎちゃったので、図書室に行こうかと」
翔は「俺も行っていい?」と尋ねながら、ちとせの返事を待たずに横に並び歩き始めた。
二人で図書室に入る。誰もいないその部屋を見渡し、電気とエアコンをつけた。
「先生も不在みたいですね」
ちとせはなんとなくその辺にあった本を手に取り、いつも座る窓際の席に座った。翔は慣れない様子で周囲を見回しながら、ちとせの後を追い、すぐ横に腰掛ける。
「落ち込むようなことあった?」
翔は持っていた台本を開きながらちとせに尋ねた。
人のことをよく見ている翔のことだ、ちとせが漠然とした不安と焦りを抱えていることなどお見通しなのだろう。
「……先輩は、好きな人とかいますか」
ちとせは思い切って尋ねた。
反応が怖くて顔が上げられず、言葉を待つ間は鼓動がとにかく早くなる。
「うん、いるよ。この学校の人じゃないけど」
「……そうなんですね」
思ったよりもショックは受けなかった。
残念ではあるが、やっぱりな、とか当然だよな、とかそういう感情が先に立ち、受け入れてしまう。
八尋の話を聞いた時のような拒否反応や重い痛みとは同じじゃない。
もしかして、自分の翔への思いは本当にたいしたものではなかったのだろうか。
「恋愛で悩みがあるの?」
翔は黙り込むちとせを不安そうに見ていた。
その通りだったが、当事者でもある翔に打ち明けにくく、俯いたまま言葉を探す。
「俺実は女の人があんまり得意ではなくて」
「あぁ、なんとなくそうかなとは」
「ずっと避けてたのでこう……恋愛とか、そういうのがいまいちピンとこなくて」
上手く言葉に出力しきれないちとせの気持ちを翔は汲み取ろうと真剣に話を聞いてくれていた。
「人を好きになるってどんな感じかなぁっていう、それだけなんですけど、悩んじゃって、翔先輩にまでこんな相談してる現状です……」
一通り話し終えたちとせが翔の方を見ると、翔は難しい表情でこちらを見ており、その真剣な顔はやっぱり単純にかっこいいと感じてしまうのであった。
「俺はさー、たぶん新島と逆で、すぐ人を好きになるんだよね。友達とか憧れとか、いろんな好きがあるからさ」
ちとせは困惑した。
好きな人という言葉がさらに広いものとなってしまい、自分の気持ちがより一層大きな迷路に迷い込んでしまった様であった。
「だから参考になるかわからないけど、新島は具体的にはなにを悩んでるの?」
「……好きな人のこと思ったより好きじゃないのかも、と思ったり、好きになっちゃいけない人を好きかもしれないと思ってしまったり、です」
翔は台本の裏に雑な相関図のような物を書き記しながらちとせの話を聞いていた。
「人それぞれ基準は違うだろうけど、自分にとって一番必要な人イコール好きな人ってのがいいと思うけどね」
「必要な人?」
「そ、一番自分のことわかってくれてるなとか、他の人に取られたくないとか、ずっと一緒にいたいとかも自分にとって必要ってことじゃない?」
"必要"という字を書き込み、それを何度もぐるぐると丸く囲っている。
「たいして必要ないのに付き合ったりするからみんなすぐ別れたりするんだよ」
「必要な人、友達のままじゃダメなんですか」
「別にいいけど、その大事な友達が別の人と付き合ったりしたら横から必要ってねだるのも罪になるから、友達で満足はオススメしないかな」
先輩の経験談ね。と明るく言ってみせるが、その笑顔にはほんのり切なさも混ざっているように見える。
「じゃあ翔先輩は好きな人のために毒、飲めます?」
「あー、ロミジュリ?俺本当に絶対に万が一にもあんな結末嫌だけど、飲んじゃうだろうね、絶望して」
みんな飲める物なのか……?とちとせは驚き動揺した。みんな、恋愛に命をかけすぎている。
「新島はどっちのためなら飲めそう?」
自分がロミオで、翔か八尋が愛おしい人だとして。その想像をしてみようとしても、難しかった。
想像してしまうのは、ちとせだけが観客席に座る姿。同じ舞台にすら立つことのないポジション。男である自分は愛し合う想像をすることさえ許されない気がして、毒すら手に入れられない。
「そもそも俺はロミオにも、ジュリエットにもなれないです」
必要としてはいけないのだ。
翔が手に握っているシャーペンをその手ごと動かし、"必要"という文字にバツを書いた。
翔は神妙な表情のちとせを目の前に言葉を失い、弱々しいバツをじっと見ていた。
その時、沈黙を裂くように予鈴が鳴った。
窓からは校舎の方へと吸い込まれていく生徒がよく見える。
「そろそろ戻りますね、俺」
ちとせは逃げるようにして一人で教室へと戻って行った。
教室はいつも通り賑わい始めていた。
後ろの席の八尋はまだ来ていない。思い出される昨夜の失態の数々に正直顔を合わせたくない。
机に突っ伏し外界からの情報をなるべく減らしてやろうと抗っていると、席の近い男子達が佐藤柚希の話をしているのが聞こえてくる。
「佐藤柚希はオタクじゃなきゃなぁ」
「わかる美人なのにまーじでもったいない」
「中身キモくなきゃ付き合うのに」
なんて品のない会話。
本人やその友達が聞いていたらどうするんだ、と顔を上げると案の定、彼女達はその声が聞こえるであろう場所で俯いていた。
「新島もそう思うよな」
男子集団に話を振られ、ちとせはゆっくりと彼等の顔を見た。時々話すことはあれどあまり接点のないクラスメイトの顔をじっと見つめて溜め息を吐く。
「子供っぽ」
思わず本音が漏れる。
「なに?」
聞こえているのかいないのか。
下手に騒ぎになっても困ると思い「なんでもない」と言ったが、彼等は引き下がらずにちとせに突っかかった。
「なんでもなくないだろ」
目が笑っていない彼等を見て、ちとせは小さく口の中で舌打ちをした。
「いや、本人聞こえてるってわかってやってるんでしょ。そんなやつ佐藤さんの方から願い下げだろ」
寝不足が判断を鈍らせたのか、佐藤柚希なんかのために面倒事に巻き込まれる発言をしてしまった。
ちとせとその集団が良くないオーラを放っているのは周りにも伝わっており、クラスメイトは皆こちらの様子に耳を傾けながら下手くそな雑談をぽつりぽつりと続けていた。
奇妙な空気。
そこに担任が入ってきて、緊張感に満ちたその空間は少しずつ崩れていく。
担任は生徒達の微妙な空気などおかまいなしに出席を取る。
「川島」
先程ちとせに話を振った男、川島がふてぶてしい態度で返事をした後、こちらを振り返り睨みつけてくる。
めんどくさいやつに目を付けられてしまった。
ちとせは自分の行動を後悔しかけて、思い直す。あそこで嘘の同調をして人を傷付ける方がよっぽど気分は悪かっただろう。
間違ったことはしていない。
「新島」
背筋を伸ばし担任の呼ぶ自分の名前に返事をした。
「野沢……あれ、野沢は休みか?」
振り返るとそこに八尋の姿はなかった。
机の下でスマホを開くと『寝坊した』と一言メッセージが届いている。
それに返事をしている時、また別の通知が届く。
『さっきはありがとう』
『返信不要です』
友達登録していない名前『ゆず』は佐藤柚希のことだろう。
『気にしなくていいよ』と不器用な言葉だけを返しスマホを閉じた。
「ちとせ、これ柚希がおまえにって」
その日の放課後、八尋はチョコクッキーの箱を差し出しながらそう言った。
自分の机で持ち帰る教科書を整理していたちとせは、ちょうど小腹が空いていたためラッキーだと思いながらそれを受け取り、早速箱を開けて一枚口に投げ入れる。八尋はちとせの机の上に遠慮なく座りその様子をじっと見ていた。
「なに、欲しいの?」
もう一枚取り出し、八尋の方へと向ける。
「やった」
八尋は微笑むと、ちとせの手からそのままクッキーを食べた。
「おやつ欲しがる犬みたい」
ちとせはそう言って照れ隠しをし、また一枚、自分の口へとクッキーを運ぶ。
今日一日、遅刻で二限目からの登校をしてきた以外、八尋はいつも通りの様子であった。
ちとせが泣いたことなどたいして気に留めていないのか、いつも以上にこちらの顔を見ていない気がする。
まあ気にしていないならそれはそれで良いのだ。
ちとせを大事だと言った八尋の言葉に嘘はないと信じ、これからも一番の親友でいる。
それは難しいことではない。
自分が翔を好きだとしても、八尋を好きだとしても、どちらにせよ男同士など叶わぬ恋だ。
せめて八尋の恋が上手くいきませんようにと意地の悪いことを祈りながら死ぬまで孤独でいるのだろう。
そんなことを考えながら八尋の横顔から目を離し、何気なく廊下へと目をやると、見覚えのある影がじっとこちらを見ていたようで、その人物と目が合う。
反射的に「最悪」という表情を浮かべたちとせは、それに気がついていない八尋の袖を引っ張った。
「今日って演劇練習あるんだっけ?」
「ないけど、みんなで出かける約束してて他クラのホームルーム待ち」
「ジュリエットも一緒?」
そう尋ねながら教室の前に居座る女、ジュリエット役の久城玲奈を睨み続ける。
「久城が言い出してさ、一年と二年合同で飯だって」
八尋はまだその姿に気がついていないのかスマホの画面を見ながら「ちとせ、もう一枚」とクッキーをねだる。
再び餌やりのごとくクッキーを与え、なぜかキッと睨み返してくる久城玲奈をしばらく見ていた。
「疲れるから行きたくないんだよね」と嘆く八尋に「なら行かなきゃいいのに」と言うと、八尋は少しだけ嬉しそうにこちらの顔を見た。
「ちとせが行かないでーって言うならやめるけど」
「はあ?調子乗ってんだろ」
睨む先を八尋へと変えてそう口にする。
ただそんな自分の一言でこの男の行動を制限できるかと思うと妙に嬉しくワクワクした。なんだかんだ八尋は自分に甘いのだ。
もしかしたら本当に、ちとせが必要だと言えばそれに応えてくれるかもしれない。
「じゃあ行かないで」と口にしてしまいそうになりぐっと堪える。"必要"という文字にかぶせたバツ印が思い出された。
「悠太終わったっぽい」
八尋がスマホから目を離し顔を上げて廊下を見た。
そこには篠山悠太の姿があった。続け様に久城玲奈の姿にも気がついた八尋はあからさまなため息を吐いた。
「ていうか、ちとせも来る?」
突然そう言われ、首を横に振った。
昨日の練習の時も思ったがあのハイテンションなジュリエット役だけは見ているだけでイライラする。かなり苦手なタイプであった。とても一緒に食事を囲みたいと思えない。
「おい八尋いつまで待たせんの」
篠山悠太が痺れを切らした様子で言いながら遠慮なしに教室へと入ってくる。
「やっほー新島ちゃん昨日ぶり、そろそろ八尋返してもらっていい?」
冗談めかしく言ってみせる悠太に、ちとせはなにも言い返すことができなかった。
こういうノリも苦手なんだよな、と自分の退屈さに嫌気がさす。口へと運びかけていたクッキーもこのタイミングで食べて良いのかわからず迷子になってしまった。
「いやいや悠太くん、残念ながら俺はちとせの物なんで」
八尋が、ちとせをフォローするかのようにそう言って、迷子のクッキーもパクりと食べてしまった。
冗談だとわかっていても、その言葉に昨日までの不安がほんのり薄まる。
悠太はそんなちとせの気持ちもお構いなしにまた冗談らしく文句を言い返し、早く行こう早く行こうと子供のように駄々をこねている。「わかったわかった」と友人をなだめる八尋に「行かないで」など間違っても言えそうにない。
「じゃあ俺行くけど」
八尋は心配そうにこちらを見た。
けど、なんだ。と聞いてやりたくなったが口を噤む。
「俺は、八尋がいなくても平気」
安心してくれ、という気持ちで言って顔を上げると「振られてやんの」と揶揄う悠太の横で、八尋は不機嫌そうにこちらを見ていた。
「あっそ、じゃあいいや」
子供のように不機嫌を隠さないその態度が珍しく、「え」と声が出た。
冷たかったり、甘かったり、怒ったり。
長いこと親友をやっているが最近の八尋はやっぱりなにを考えているのかわからない。
荷物をだるそうに持ち教室の外へと消えていくその姿を眺めながら、クッキーの箱を探る。気がつかないうちに最後の一枚を食べてしまっていたらしく、箱の中にはなにも残っていなかった。

