「八尋、帰ろ」

それから一週間。演劇の集まりやクラス出店の準備がない日に、ちとせは決まってそう言った。

「これだけ柚希に渡してくるから待ってて」

柚希から借りていた本を手に取り、目の前に立つちとせを見上げると、帰る準備万端の彼は顔をしかめる。

八尋と柚希はあの帰り道以来、友人と呼べる間柄になっていた。

それが気に入らないらしい女嫌いのちとせは八尋が柚希の話をする度、おもしろくなさそうな顔をした。ちとせには悪いが拗ねたような表情も可愛いだけである。

八尋は立ち上がりちとせの頭をくしゃくしゃと撫でてから廊下側の柚希の席へと向かった。

「これありがとう。おもしろかった」

柚希は八尋の声に驚いたようで肩を大きく揺らしてからこちらを振り返った。教室で声をかけるのは控えた方が良かっただろうか。

「本読むの早いんだね」

過剰に驚いてしまったことを恥じらうように笑った柚希が急にその笑顔を崩し、目を見開く。目線は八尋の顔ではなくその少し後ろを見ていた。

「なに?」と振り返ると、すぐ後ろにちとせが立っていて、八尋は思わず声を上げた。

「え、急いでた?」

待っていてと言ったのに。
八尋が女子と話す時は数メートル距離を置くというのに。

不思議がる八尋の傍で柚希は顔を真っ赤に染めている。"推し"に急接近した喜びで声も出ないのだろう。

「あんたら話し出すと長いから、監視」

不機嫌そうなちとせは柚希の顔をじっと見てそう言った。

「ごごご、ごめんね、全然あの私は本が、その、ありがとうまた今度、違うやつ、持ってくるね」

柚希は上手く回らない口でそう告げて席から立ち上がる。そして赤い顔のまま作り笑いを浮かべ、八尋とちとせの前から立ち去った。

挙動不審な姿に思わず笑ってしまいそうになるのをぐっと堪える。

「不思議な子だね」

八尋はちとせの言葉を否定しなかった。
それと同時に「お前がそうさせてるんだぞ」と心の中で呟く。

「今日うち寄らない?夜まで母親いないからリビングでゲームできるよ」

明日休みだし、と続ける。
柚希のことなど忘れたかのようにいつものちとせに戻っていた。

この身勝手な男がわざわざ八尋と柚希の間に割って入ったのはゲームがやりたかったからなのか、と八尋は納得する。

ちとせは横で新作のゲームの魅力を目を輝かせ語っていた。

「今からやるならあんまネタバレすんなよ」

なんでもない顔で軽口を叩く。
内心ではちとせとゆっくり過ごせる事が嬉しい八尋は、ガッツポーズでもしたい気分だった。

他愛もない話を続けながら昇降口を出て体育館の横を通りがかる。校門をくぐり下校するには、体育館とグラウンドを横目に歩かなくてはならないのだ。

「あ!新島!ちょっと待って」

背後から、ちとせを呼ぶ大きな声が聞こえた。
視線をやれば、体育館に続く連絡通路から椎名翔がこちらを見ていた。大きなダンボールを抱えて手招きをしている。

八尋は隣に立つちとせの横顔を盗み見て、後悔した。

少し驚いたように頬を染めるその横顔。
長いまつ毛が、かすかに震えていた。

こんな姿、見続けていたらまた脳裏に焼き付き苦しみ続けるだろうとわかっていながらも、その物憂げな表情に見蕩れ、目を離すことが出来ないのだ。

そして、残酷なことに、ちとせは八尋の顔を一秒も見ることなく翔の元へと向かっていく。その後ろ姿を見送って、八尋は指先が冷たくなるのをゆっくりと自覚していた。

一緒に帰ると言ったのに、早く帰りたがっていたのに、ゲームをする時間が減るじゃないか、ごめんの一言もなく置き去りにするのか。

カッターで浅く切り刻まれるかのように、チクチクと。小さな小さな痛痒い傷が心に増えていく。それは少しの怒りも含む、醜い感情。その感情が身体を蝕む度にあまりに心の狭い自分を自覚し、嫌になっていく。

「……おーい、八尋!八尋く〜ん?」

呆然とする八尋の後ろから悠太が顔を覗き込む。

我に返った八尋の耳には、悠太の心配そうな声と蝉の声、それから生徒達の賑やかな声が流れ込んでくる。

「ごめん、ぼーっとしてた」

悠太の急な登場に驚きながら反射的に返事をする。

「熱中症じゃね?」

ヘラヘラと言うこの男を冷静になって見てみれば、ネクタイを外しワイシャツを着崩しスラックスの裾までも折り込んでいた。身軽な姿、首元の汗を見るに、どこかで走り回っていたのだろう。

八尋が「違う違う」と笑ってみせると、悠太は「じゃバスケしよ」とニカニカ笑い、強引にも手を引いた。

「いや、今日は……」

「予定があるから」と言いかけてちとせと翔を見る。二人はじゃれ合うように笑っていた。八尋は、咄嗟に目を逸らす。

「おい篠山!体育館履きで外出てんじゃねーぞ!」

その時、去年の担任が数メートル先から怒鳴り声をあげこちらへ向かってきた。
悠太は「やべ……」と声を漏らし八尋の腕をいっそう強く引き「逃げるぞ」とイタズラに笑った。

ちとせが……と思ったが、ちとせの傍には翔がいる。むしろ自分が邪魔者なんだと自覚し、走り出した。

結局八尋は体育館に連れてこられたが、体育館履きがなかったためあぐらをかいて試合を見ていた。

バスケ部でもない彼等はいったいどうしてこの時間に体育館の半分を自由に使っているのだろうと疑問に思いながらも、楽しそうに走り回るそいつらに茶々を入れる。

「野沢、館履き貸すから変わって!」

去年同じクラスでそこそこ仲の良かった友人から体育館履きを借り、八尋はそこに混ざった。

その時にはみんなすっかり疲れきっており、ルールは破綻し始めていた。一人だけ体力マックスで動く八尋に「ずるいぞおまえ」と悠太が飛びかかる。

ふざけんな、と言いながらも悠太をおぶったままの八尋はバスケボールを抱え、大笑いしていた。

「仲良いな~」

周りの奴らに呆れ顔をされる。

「相思相愛だからね~」

少し掠れた声でケラケラと笑う悠太のその言葉を聞き、八尋は嫌がるふりをした。

その時ばかりは、ちとせが翔と何をしているのか、少しも気にならなかった。
笑うことに夢中で、やっと息ができたような気さえしたのだ。

それを自覚し、柚希と話したことを思い出す。

他に代わりがいたら。

悠太や他の人間に恋心を抱くことはありえないが、こうして友達と過ごす時間や演劇の練習の時間、今まであまり楽しもうと意識していなかったことに注力してもいいのかもしれない。

「おまえは何してても楽しそうだよな」

床に寝転び息を整える悠太に言うと、

「色んなこと楽しんだ方が得だからなぁ」

なんて目を細くして言って退ける。

「興味の分散ってやつか」

悠太は不思議そうな顔をして、なーんか難しいこと言ってんね、と深く考えない様子で天井を見ていた。

八尋は喉の渇きを覚え荷物を探り、ペットボトルにほんの少し残ったぬるい水を流し込んだ。何も飲まないよりマシかと思ったが、そんなことない。
渇きと身体にこもる熱に苛立ちながらスマホを開く。

『どこ行った?校門のとこいるね』

『暑すぎるから図書室行く』

それぞれ30分前と15分前の、ちとせからのメッセージだった。

てっきり今日の約束はお開きになったかと思っていた。八尋は焦り、喉の渇きなど忘れて立ち上がる。外したネクタイを引きずるように持ち、図書室のある校舎棟への連絡通路に向かおうとした。

「八尋、館履きー!」

持ち主の声に「あっ」と気づき、普段より丁寧にそれを脱ぐ。小走りで返してから、自分の靴に履き替えた。

「もう行くの?来たばっかりじゃん!」

悠太がまたしても八尋に飛びかかるので、それを振り下ろしたあと、無視して校舎棟へと向う。悠太は名残惜しそうに八尋の傍を着いて歩いた。

「やぴろん、最近そっけなくね?」

「はぁ?普通だろ」

しっしっと悠太を追い払うように手を振る。

「そこ!体育館履きで外歩かないよ~」

よく知らない女教師に本日二度目の注意をされた悠太は、気だるい返事をし体育館へと戻って行った。

八尋は煩わしいと思いながらも靴をまた履き替え、四階の図書室へと走りだす。


「ごめん、ちとせ」

息を切らして窓際の席へと向かうと、ちとせは植物の描かれた本から目を離し、八尋を見上げた。

「早いね」

早い?むしろ待たせたというのに。どういう意味かと聞き返そうとしたが、ちとせは本を片付けに行ってしまった。

「じゃあ帰ろっか」

特に待たされたことを気にしていない様子のちとせに、八尋は何を話したら良いのかわからなくなってしまい、もう一度ごめんと謝った。

「ネクタイすれば?」

着崩していた制服を整えてから二人は今度こそ帰路へと着く。

駅に着いた八尋は喉の渇きを思い出し、自販機で水を買った。電車はあと10分来ない。人の少ないホームの端の日陰で、二人は立ち竦む。

「ティボルト役になったの、なんで教えてくれなかったの?」

ちとせが思い出したかのように言った。

「先輩に聞いた?」

隠していたつもりはなかった。演劇の話題を八尋の方からから持ち出すことをしなかっただけである。

「そう、推薦されたって事も聞いたけど、拒否しなかったことに驚き」

「悠太がノリノリでさ、断る方がめんどくさそうだったから」

「"本当は仲良し"なマキューシオとティボルト、ね」

含みのある言い方であった。

それ以前に随分とロミオとジュリエットの内容に詳しいことが引っかかり、台本でも読んだのかと尋ねると、ちとせは首を横に振った。

「俺、映画版のやつすげー好きなんよ」

「え、そうなの?」

「待てティボルト!マキューシオが天国に行く前に、俺がお前を地獄に送る……だろ?」

ロミオの台詞だ。軽々しく感情を乗せて演じる姿は、勇ましく美しく、八尋は見蕩れてしまう。ちとせ自身にファンができるのも納得だ。

「ロミオとジュリエット二人の盲目っぷりがいいんだよな、16歳と14歳の男女が一目惚れしてたったの5日で死んでいくんだ」

「まじで詳しいな」

二人がそんなにも幼いとは知らなかった。自分達とそう変わらない年齢じゃないか。

八尋は台本を読むまでは、その物語の結末すら知らなかった。

ロミオとジュリエットは、敵対する家同士に生まれた恋人同士。周囲の反対やすれ違いの中で、二人は秘密裏に結婚するも、誤解と悲劇の連鎖の末、二人共命を落としてしまう。ロミオは毒を飲み、ジュリエットは己を短剣で刺して……。

「あまりの盲目さに呆れるけど、お互いを想い合う姿が真っ直ぐで、綺麗で、好きなんだ」

ちとせはスラスラと語った。

「やっぱり劇、出たらよかったのに」

そう言うとわかりやすく顔を歪めるちとせ。

「無理だって!主要キャラのほとんどがジュリエットと絡むシーンあるじゃんか、練習にすらならないよ」

「あ〜、そういう理由だったのか」

確かに多くの役がジュリエット役や女性キャラとの接点があり、女が苦手なちとせには難しいだろう。

なるほどな、と腑に落ちた表情の八尋に対し、「なんだと思ってたわけ?」とちとせは目を丸くした。

「ロミオになった翔先輩が女子生徒とべたべたすんの、近くで見たくないのかなって」

「はぁ?」とちとせは目を細くしこちらを睨みつける。

「あの先輩ならいつも女に囲まれてるだろ、別に大して気になんないよ」

ちとせは強がるわけでもない様子で言う。

「八尋ってほんと俺のこと何一つわかってないよね」

「え、良き理解者じゃないの?」

八尋は冗談交じりに言うが、「全然」と突っぱねられてしまった。「えー」と言葉を漏らしながら、唇を尖らせ拗ねて見せると、ちとせは鼻で笑った。

「でもまぁ、そういうとこが良いんだよね、八尋は」

無邪気な笑顔が八尋に向けられる。「だいぶ好きだよそういうとこ」と続けるちとせの言葉に、顔に熱が集まるのを自覚した。

あえて形容するのなら、満たされていく感覚。
ちとせの言葉と笑顔ひとつでどんな日も最高の一日になってしまう。先程の翔を見つめる横顔だって、頭の隅に隠してしまえるほどに。

そして、八尋だけに向けられる明るい笑顔を噛み締める。ああ、こんな時間だけが続けばいいのに。

単純な八尋には興味の分散などという器用なことができないのだろう。結局は、ロミオ並みの盲目っぷりである。

ほどなくして電車が訪れて、二人はそれに乗り込んだ。
ちらほらと席は空いていたが、そこには座らず、扉の前に並んで立つ。

電車の扉に肩を預け息をつくちとせの、美しい瞳を見て、思った。

「俺ね、ロミオの気持ち、ちょっとわかる気がする」

「どういうこと?」

ちとせは至極真面目な顔で聞き返した。

「愛する人が目の前で冷たくなってたら、俺だって毒を飲むと思うんだ」

そう続けると、ちとせは小さく驚きの声を上げたがその後、何も言わなくなった。

電車が揺れ、差し込む夕方の光も忙しなく揺れる。そんな車内で窓の外を見つめるちとせの横顔を眺めていた。

冷房が利いた車内はほんの少し、肌寒い。
だからなのか、この愛おしい人の手に触れたい、と思ってしまった。

けれどその気持ちを急いでかき消し、八尋は何事も無かったかのように窓の外を、遠い景色を眺める。最寄り駅までの数分間、二人は言葉を交わさなかった。


「野沢くんってさ、なんで新島くんを優先しないの?」

放課後の教室、柚希と八尋は2人きりで演劇の小道具を作成していた。
八尋は本来役者としての練習があるのだが、セリフを交わし合う悠太が音信不通で練習の場に現れなかったため、柚希の作業を手伝うことになったのだ。

「優先しない?」

八尋は思い当たる節もなく、柚希に聞き返した。

「練習、せっかく新島くんが見に来てくれたのに一緒にいなくていいの?小道具なんて一人でも作れるよ」

八尋は「あぁ、それか」と呟く。

先程八尋が練習のために体育館に行った時、既にちとせの姿があったのだ。

「見にきたの?」

来てくれたことが嬉しくて笑顔で尋ねると、「この前翔先輩が誘ってくれて」とちとせは朗らかな笑みで答えた。

俺を見に来たわけではないのか。

勘違いしていた自分が恥ずかしくて、八尋は「よかったね」と苦笑いを浮かべることしかできなかった。

そんな事情を知らない柚希になんと説明すれば良いかわからず口を閉ざす。

「この前本返してくれた時だって、新島くん待ってたのにわざわざ私のところに来たでしょ。新島くんとあんなに接近したの初めてだったよ」

柚希が顔を真っ赤にして立ち去った時の話だ。

「借りてるものはなるべく早く返した方がいいかなって」

「わかるけどさ、新島くん待たせるくらいならそんなの後でいいでしょ」

これに関して、八尋は柚希の主張が心底わからなかった。
ダンボールの短剣に色を塗りながら首を傾げる。

「私と話してる時は大好きなんだな~って伝わったけど、本人といる時はなーんか平然としてて余裕そうで恋してますって感じがしないなぁって」

「本人にバレたくないからじゃね?」

何よりも優先し、ちとせの望むままの八尋で生きていたら自分の好意が透けて見えてしまいそうだから。
あくまで友達。よくいえば親友。それ以上でも以下でもない間柄を保たねばならないと、八尋は中学生の頃から意識していた。

「そんなことでバレないでしょ!誤解されたら意味ないよ」

誤解?

「俺が柚希のこと好きだと思われるってこと?」

目線を上げて聞くと、柚希は顔を赤くした。

「違うよ!新島くんが、野沢くんに避けられてるって思っちゃいそうだなって!」

「いや、それはないだろ。ずっと普通に仲良い友達だし」

八尋は小道具を作る手を止めて、天井をみながら言った。

そう、ずっと友達なのだ。クラスが離れた時も、ちとせの部活が忙しい時期も、どんな時でも、付かず離れずの二人の関係は変わらなかった。

恋が実る確率はゼロな分、一番の友達ポジションは確立されている自信がある。友達として好意や信頼は確かにあり、お互いがそれを感じているはずだ。

「ちとせは気にしないよ。あいつの場合、手首を掴み続ける方が鬱陶しいと思われる」

「野沢くんが言うならそうかもしれないけど……」

「けど?」

含みのある言い方で口篭る柚希。

「私にはね、新島くんが寂しがってるように見えたよ。野沢くんのこと取るな!って顔で……」

柚希の視線が、少し寂しそうに落ちる。

「あー先輩たち、こんな所にいたんですね!」

柚希の言葉は、扉をガラガラと開ける音と女子生徒の声に掻き消される。柚希の声を最後まで聞き取ることができないまま、声の持ち主を見た。

「久城」

ジュリエット役の後輩が「この部屋涼しいですね」と言いながら柚希と八尋の側まで寄ってくる。

「こそこそと恋バナですか?それともお二人付き合ってるとか??」

柚希はないないと頭と両手を同時に振る。

「えーでも恋バナっぽいの聞こえましたよ」

八尋と柚希は目を合わせた。
どうしたら良いのかわからないと焦る様子の柚希は「私たちが恋バナなんてないよね」と会話のボールを八尋にパスした。

「俺の好きな子の話、聞いてもらってただけ」

八尋は正直にそう答えた。
その相手が誰なのか、までバレなければそれで良い。下手に嘘をついてこれ以上のボロを出したくはなかった。

「えー!玲奈も聞きたい!好きな人美人系ですか?可愛い系ですか?どういう所が好きなんですか?」

「ちゃかすな」

興奮気味に詰め寄る久城玲奈を軽いデコピンで遠退ける。部活で何度か話しているが、いつもこのテンションで迫られその度にこのノリで引き剥がしている。

最初は気に入られているのかと思ったが、彼女は誰にでもそうであった。

「で、なにしにきたの?」

「そうでした!悠太先輩が来たので伝えにまいりました!八尋先輩がいない~って一人でバスケ始めちゃって」

集合時間から一時間も遅刻か、と呆れながら八尋は体育館へ向かうことにした。

「柚希は来ない?」

玲奈が来てから大人しくなっしまった柚希に声をかける。

「じゃあ、行こうかな」

柚希の表情にはいつものような暖かな笑顔がなかった。八尋は不思議に思いながらも一緒に机を片付け体育館へと向かった。

廊下は蒸し暑く、肌に纏う熱気が彼等を息苦しくさせる。

「柚希先輩って八尋先輩って意外な組み合わせですけど、仲良いんですか?」

玲奈が柚希へと問う。

「あ、私は仲良いと思ってるけど」

八尋はその言葉を聞き満面の笑みを浮かべ「俺も!」と微笑んだ。

女友達など多くない八尋にとってはすっかり大切な友人だったが、柚希の気持ちは不透明だったため、そう言ってくれたことで心が暖かくなる。

「へ~!じゃあ八尋先輩の前髪が金髪な理由知ってますか?」

玲奈は無邪気に笑った。

「おまえ余計なことを」

八尋は玲奈を睨みつける。

「いい子ちゃんぶってる八尋先輩ムカつくんですもん!知ってます?この人おへそにピアスもあるんですよ。めちゃくちゃヤンチャでウケますよね」

留まることを知らない玲奈は続けた。

「知らなかった……」

そう呟いた柚希の声は、どこか遠くを見ているようだった。
八尋は視線を向けられず、長い前髪の影に逃げ込むように目を伏せる。

「知らなくたって仲良くなれんの。おまえまじで黙っとけ」

「えー!先輩こわーい!」

「……あの、ちなみになんで金髪なの?」

興味を持ってしまったらしい柚希に視線をやると、複雑そうな表情をしていた。

「明るい人間に見えるように、って言っててちょー可愛くないですか!」

そんなこと知りもしない玲奈が続け、八尋は自分の額へと手をやりため息を吐いた。


ちとせが翔を好きになったと聞かされた後の夏休み、八尋は少し荒れていたのだ。

荒れると言っても親に心配をかけるようなことはしたくないという真面目な性格もあり、喧嘩や夜遊びはあまりしなかった。

翔のように明るい人間になれればと髪の全体を明るくしたが、夏が終わる頃には前髪以外は黒に戻し、それ以降はそのスタイルが八尋のトレードマークとなっていた。ピアスも同様、それまでと違うことがしたいという、やけに近い好奇心から開けたものだった。

そんなことを八尋は好きで話したわけではない。玲奈が髪のことを知っているのも、茶道部の顧問に聞かれた際に傍で聞いていただけであって、特別彼女に教えた覚えはない。

ピアスに関しても着替えを覗かれるというアクシデントによりバレてしまっただけである。

隠すつもりもないが、言うつもりもない。
個人的なことを暴露され、八尋はうんざりしていた。

「ごめんなさい、内緒って知らなくて」

玲奈は反省の色を見せず口だけでそう言って笑っていた。


八尋の気分は最悪だったが、それとは裏腹に体育館での合同練習はうまくいっていた。

各々の練習の成果もあり、純粋に楽しみながら観劇ができるクオリティを保てている。ロミオとジュリエットの古典的な表現は良いところを残しつつもわかりやすく改変されており、役者が言葉に詰まることは少ない。
ちなみに結末も明るいものに変更されており、ロミオが毒を飲む前にジュリエットが仮死状態から目を覚ましハッピーエンドとなる予定だ。

舞台袖から見学しているちとせを盗み見れば、楽しそうな表情でロミオを見ている。

「わーお、みんな翔先輩の美貌に見蕩れてんね。この後出にくすぎ」

隣にいる悠太が眉を八の字にし大袈裟に嘆いた。

しかし、いざ二人が舞台に出てみれば、喧嘩のようなノリで決闘を行うヤンチャな二人が身内にはしっかりとウケた。

八尋は悠太を刺し殺し、今度は翔が八尋を刺し殺す。その一連の流れの中で、ふと観客を見渡すタイミングがあった。
意識していたわけではないが、自然とちとせが目に入り、その瞬間、思い切り目が合った。
八尋は耳まで熱くなるのを感じ、途端に声が震え、台詞が飛んでしまった。

「大丈夫?」

ロミオ役のキラキラとした翔に問われ、八尋は「すみません、忘れちゃって」と誤魔化して笑った。
舞台袖の役者も、見ている裏方の生徒も、ちとせも、どうしたのかとこちらを見ていた。

「いいよゆっくりで。地味に緊張するよな」

翔は小声で耳打ちした後、「今のところからもう一回だけやろう」と何事も無かったかのように空気を戻してくれた。

この人はこういうところが魅力的なんだ、と思い知る。

八尋と悠太は舞台の上でもう一度決闘をした。観客の方に目をやるタイミングで、今度はちとせの方を向かないと心に決める。

たぶんちとせの視線は、もう八尋ではなく翔に向いている。見ないでもわかる。それを目の当たりにするのは、どうしても、耐えられそうになかった。


一通り練習が終わった。
気疲れしてしまった八尋はみんなと談笑する悠太と距離を置き、一人ステージ下にしゃがみ込んでいた。

何人かはもう帰り始めており、ちとせの姿も見当たらない。

スマホを片手に取るも、誰からのメッセージもなければSNSの更新も面白いものはなく、ただ意味もなく液晶を眺めているだけの時間が流れる。

「お疲れ様」

呆然と座り込む八尋の元に影が落ち、いないはずのちとせの声がした。それと同時に、頬に冷たい何かが押し当てられる。

顔を上げれば、ちとせがこちらを見下ろしていた。

「ちとせ、帰ってなかったの」

冷たい何かを受け取る。体育館からは随分と離れた自販機に売っているカップのココアだった。

「甘いもの飲みたい頃かと思って」

そう言うちとせの手にも紙パックのりんごジュースが握られていた。

疲れ切っていた心身にちとせの優しさが染み渡り、八尋はそのアイスココアをじっと眺めた。

「なんか、すげー嬉しい」

うっかり素直な言葉が出てしまった。
それを見たちとせは瞬きを何度かした後、「大袈裟だな」と笑った。

八尋はゆっくりとストローを差し込み、その甘さと幸せを噛み締めるようにアイスココアを飲む。

その時であった。

「悠太先輩知ってました?八尋先輩の好きな女の子の話!」

久城玲奈が大声で喚いている。
またあいつは勝手に、とさすがの八尋にも怒りが沸いた。

ちとせに余計なこと、知られたくないのに。

隣に座り込んでいるちとせの表情を盗み見ると、真顔のままストローを噛んでいた。何を考えているのか、感情が読めない。ただ、おそらく驚いてはいるのだろう。

とりあえず玲奈を黙らせないといけない。
八尋は立ち上がり、その集団の元へと歩き出す。

「あー!八尋、彼女できたって言ってたもんな」

すると悠太がありもしないことを言い出した。
玲奈も周りのやつも悲鳴に近い反応をし、場は盛り上がってしまう。

「言ってねーだろそんなの、誰と間違えてんだお前」

堪らなくなり悠太の頭を小突き否定すると、「違ったっけ」「じゃあ片想い?」なんて好き放題に言われる始末だ。

収拾がつかないその場を宥め終わる頃に振り返れば、ちとせの姿がなくなっていた。

床には八尋のアイスココアだけが置かれている。

「これ誰のー?捨てちゃうよ」

その場を片付けていた女子がそう言いアイスココアを拾い上げてしまう。

「俺の!まって、捨てないで」

八尋は急いで駆け付けてココアを受け取る。
少しぬるくなったそれを口に含み、無意識にストローを噛んでいた。