八尋(やひろ)は、俺がどんなやつでも友達でいてくれる?」

今でもはっきり覚えている。
高校一年生の夏だった。期末テストの勉強中、24度に設定されたエアコンが妙にうるさい中のこと。
ローテーブルの向こう側に座る親友が、密かに想いを寄せる相手が、歯切れ悪くそう言い出したのが始まりだった。

「なに、今さら」

珍しいなと思った。
自分から悩みや考えは言わないタイプで、別に平気だよって平然と言ってしまうようなやつだったから。

「答えろよ……」

キラキラと光を集める瞳が真っ直ぐにこちらを捉えている。長い下まつげはくるりとカーブしていて、小さな唇は力が入り震えていた。

「今さらお前と他人になんてなれないだろ、なんでそんなこと聞くの」

計算式を書いて、引いて、かけて、足して、答えを書き込む。カチカチとシャーペンの芯を出す、次の問題を解く、ペットボトルの緑茶を飲む。

八尋はそんなふうに次の言葉を待っていたけれど、あまりに口を開かないから名前を呼んだ。

「ちとせ、なんか悩んでんの」

顔を上げ、ちとせの表情を伺うと今まで見たこともないような顔でこちらを見ていた。
眉間にシワがよっていて、口をへの字に曲げて、時々ため息をつく。その一つ一つの動作を見て、八尋の方まで顔を歪めた。

「本当にどうかしたの、具合悪い?」

ちとせは24度の部屋で汗ばんでいた。
対して八尋の腕や首元はひんやりと冷えきっていて、居心地が悪かった。

目の前の男の様子は只事じゃないなと思ったけれど、急かしても仕方がない。

口を開くまで数学の問題を解いていようとシャーペンを持ち直し問題集に目をやると、ちとせはやっと声を発した。

「男の人を、好きになったかもしれない」

「え?」だか、「は?」だか、覚えていないけれど無神経な声が漏れたような気がする。そしてちとせの顔を見て、血の気が引いていった。

全身にめぐる血管までもが急にひんやりとして、落下していくみたいな感覚がしたのだ。あの時自分はどんな顔をしていたのだろう。

「サッカー部で一緒の、八尋も知ってるだろ、椎名翔(しいなかける)先輩。俺はあの人が好きなんだと思う」

ちとせは、真っ赤な顔で、丸くてでかい目を伏せて物憂げに言う。薄手のカーテンから透ける光はその顔を照らしていて、やけに眩しかった。

冷えきった血管はどんどんと身体中の温度を下げて、指先までもが氷のように冷たくなっていったのを感じた。変な汗が出て、口が乾く。

そして椎名翔とかいう男の顔がぼんやりと浮かんでは消えてを繰り返す。
サッカー部のエースで頭も良い、高身長で顔が整っていて、髪色も性格も明るく、誰にでも馴れ馴れしい、八尋とは真逆の男だった。

「八尋には隠せないと思ったんだ。バレて引かれるより、自分から言った方がマシかなって」

驚いた?とヘラヘラ笑ったちとせは八尋の目を一瞬だけ見て、すぐに逸らした。


新島(にいじま)ちとせという男は、簡単に人に懐かぬ野良猫のような奴だ。

中学二年生の時に知り合ってから、大きい声で笑うのも、悪態をつくのも、悪戯な冗談を言うのも、一番親しい八尋の前でだけ。
誰とでも話しはするが、八尋以外は全員知り合い程度の距離を保つ、壁の厚いちとせが、恋をして、こんなにも感情を乱すなんて。

「キモイよな、普通に。わかってるからさ、友達やめたいなら何も言わないで出てってくれると一番ダメージ少ないかもしれない」

ちとせは立ち上がり、机から離れて部屋の端のベッドに座りなおした。

八尋の方は何分経ってもその場から動けないまま、だんだんと腹の底が痛くなるのを感じていた。顔色も悪かったんじゃないかと思うが、そんなことお構いなしのちとせは一人でべらべらと話を続けた。

「元々男が好きとかそういう訳じゃなくて、多分、あの人だからなんだ。八尋に対してどうこうは思ってないし、好きにならないから、それだけは安心してほしい」

そう言われて、殴られたみたいな気分になった。
気持ち悪いとか、ありえないとか、冗談だろとか、笑い飛ばしてやったとして、この事実が嘘だったと笑えるわけではない。
なにをしたって、ちとせは自分のことを好きにはならない。

たった今、そう告げられたのだから。

「……そんな顔すんなよ。俺はちとせが誰を好きでも友達だし、応援する」

怖い顔で俯くちとせを見て、流暢に嘘が出た。
そう言うしかなかった。ちとせを傷付けたくなかったから。

「本気で言ってる?無理してない?」

無理しているに決まっている。一年半の片想いが最悪の形で打ち砕かれたのだ。

「大袈裟なんだよおまえは、勉強しろ」

最初から叶わぬ恋だと思っていた。男の親友を好きになるなんて、茨の道に決まっている。

そんな親友が男に恋をしたからって、自分にチャンスがあるとはとても思えない。椎名翔のことを思うちとせの表情があまりに強烈で、残酷で。

自分には一生かけたってそんな顔させられないから。

「八尋、いいやつだよなほんとに」

そう言ったちとせの声は少し震えていた。でも、どんな顔をしていたかはわからない。見たくなくて、顔を上げられなかった。

「緊張したら喉乾いたし、冷蔵庫みてくる」

ちとせがそう言って部屋から出ていった。

いつも二人で笑い合うこの部屋で、一人きりになった八尋は心臓を抑えうずくまる。

そして一呼吸遅れて自覚する。
俺、野沢八尋(のざわやひろ)はたった今、失恋したのだ、と。

ちとせが戻ってくるまでの数分が、やけに長く感じた。

人物紹介






「八尋、購買行こう」

九月中旬、高校生活二回目の夏休みが明けて一週間。
八尋の失恋発覚から一年が経っていた。

かったるい古文の授業が終わったすぐ後でもちとせの笑顔は美しく、眩しい。

「暑くて教室出たくない。俺、弁当あるし。たまには一人で行けよ」

蝉の声はまだまだ煩く、夏は続いていた。

「やだ、一緒いこう」

そのわがままに「仕方ないな」と答えると、ちとせは満足そうに笑う。
エアコンで冷えた教室を出て生温い階段を下りると、購買に並ぶ行列ができていた。いつもの光景ながら、呆れてしまう。

太陽の光がこれでもかと射し込む廊下は蒸し暑く、身体的に不快だ。ネクタイを少しゆるめても意味はなく、小さく溜息が漏れる。

「文句言いながらも一緒に来てくれて、八尋は無駄に優しいよな」

ちとせはニコニコ笑いながら八尋の腹をポンポンと叩いた。
ほどなくしてその笑顔が崩れて、視線は八尋から別のところへと移る。その視線の先には椎名翔がいた。

少しもブレない真っ直ぐすぎる横顔。
恋する視線とはなんて物憂げで残酷なんだろうか。

「翔先輩とみきちゃん先生ってめずらしい」

「みきちゃん先生って誰」

「選択授業の美術の先生」

目立つ2人だと思った。先生も、椎名翔も。
なんでもない教室の前で、少し前屈みになって熱心に話を聞く翔とそれを厳しい表情で見上げる先生。
ちとせ以外の人間だってふと目が止まるだろう。

ちとせは普通にしているようでいてさりげなく、翔の様子を伺いながら購買での買い物を終えた。

「今日買いすぎじゃない?」

オムそば弁当、菓子パン2つとシュークリーム、そして牛乳を買ったちとせはそれらを両手いっぱいに抱えた。
何か持ってやらないと落とすだろうと手をかけるが心配は遅かったらしく、弁当以外のものをばたばたと落としてちとせは慌てふためいている。

床に転げる食料たちを救ってやろうとしゃがみこむと、目の前でいちごジャムパンが別の手に拾い上げられた。

「派手にやらかしてるやつがいると思ったら新島だ」

「翔先輩、ありがとうございます」

数分前まで美術教諭と話し込んでいた翔が、遠くでキラキラを振りまいていた翔が、いま目の前でちとせだけを見て優しく微笑む。

「どう考えても買いすぎ。お前のほっそい身体のどこにこれが入るんだよ」

翔は角張った大きな手でいちごジャムパンをちとせのもつ弁当の上に置いた。

「あとは相棒にもってもらいな。それじゃ」

ひらひらと手を振って八尋たちと反対方向へと向かう翔。

「あ、翔先輩!」

ちとせは翔を引き止めたが、どうしたのと聞かれると、歯切れ悪くやっぱりいいですと俯いた。

八尋はそれをただぼんやりと見つめながら、空腹で起こる目眩のような、そんな不快感を味わっていた。


午後の授業はロングホームルームだった。十月末の文化祭のために、一ヶ月以上も前の今日から準備をするのだ。

「去年もこんな早くから準備したんだっけ」

前の席のちとせに聞く。
シュークリームを頬張っていたらしいちとせは椅子ごと振り返りもぐもぐと飲み込んでから口を開いた。

「去年演劇でたから、すげー覚えてるわ」

「あー、そっかそっか。今年はどうすんの」

各学年各クラスから最低二名以上の代表者を募り行う学園演劇。
演劇部の演劇とはまるで違いクオリティは低いが、それに参加する者は暗黙の了解で顔の良い人気者ばかりだ。

何年か前にミスコンテストやミスターコンテストが廃止され、代わりにこの演劇が行われるようになったとどこかで聞いた事がある。

「翔先輩は……多分、今年も出るよね」

「あの先輩のあの性格なら出るだろーね」

顔の良い翔は2年連続でメインキャラクターを演じてきたらしい。
去年はちとせと共に現代版『三銃士』の一人を演じていた。

「どうせロミオ役になるんだろうな……」

ちとせがじーっと見つめるプリントには『ロミオとジュリエット』という文字がでかでかと書かれていた。

購買での出来事を思い出す。翔を呼び止め何も言えなかったのは、もしかして演劇のことを聞こうとしていたのだろうか。

「なんにせよ、どの役も女と距離が近すぎるよな」

「まあ、メインキャラになるとね」

ちとせはきっと、翔が女子生徒と親しくする姿を見たくないのだろう。
難しい顔をしたちとせがうーんと唸っていると、ホームルームの議題も演劇の話へと移った。

「今年のうちのクラスから有志として選出する2名なんですが、昨年演劇に出ていた新島君がいるのでぜひ……」

視線がちとせの元へと集まる。

「悪いけど今年は出ません」

クラス中がザワついた。
誰もがちとせがやると思っていたのだ。

「そ、それじゃあ……去年は確か野沢君も演劇のセットの準備のために出ていたと思うので今年もぜひ……」

今度は八尋の元へと視線が集まる。

去年八尋は2名のうちの1名に立候補した。別々のクラスで会う時間も減ってしまっていたちとせが一緒がいいと頼みに来たからだ。裏方の仕事もあると言われしぶしぶ名乗り出た訳だが、スポットライトの下で笑う翔とちとせを、舞台袖から見てばかりだった。

あの日々の惨めさを思い出し、首を横に振る。

「いや俺、去年も好きでやったわけじゃないし、無理です」

そう断ると、クラスから悲鳴があがった。
どうやら八尋達が断ると思っていなかったらしい。

消極的なこのクラスの人間は、顔とノリの良い、いわゆる陽キャだけが参加できるこの演劇に参加したいと思わないのだろう。

名乗り出る者がいないままこの議題は置き去りにされ、クラス出店がたこ焼き屋に決まる。八尋とちとせは屋台作りを担当することになった。

「楽そうな仕事ゲットできてよかった」

どうにも機嫌が良いらしいちとせが八尋の方を振り返り笑う。クラスの空気も和らぎ文化祭への期待がふくらむばかりの様子だ。

「演劇の有志が決まらないとホームルームが終わらないぞ〜」

その空気を壊すかのように、今まで口出しをしていなかった担任が声を張る。クラスの住人達が気まずそうにあちこちに目を配り、目を逸らし、誰も口を開こうとはしない。

どうなるんだか、と他人事のように考えていた八尋のスマホが机の中で震える。

『やぴろ今年も演劇の裏方やる?よね』

『俺も今年は参加することになたよᴖ ̫ᴖ 』

『体育館でバスケし放題~~笑笑』

別のクラスになった友人、篠山悠太(ささやまゆうた)からのメッセージだった。

調子に乗っているこの男に今年は参加しないことを教えなければ、そう思いメッセージアプリのパスコードを開こうとすると、手元に影が落ちる。

「まだ授業中だぞ野沢」

担任が横に立って八尋の顔を覗き込む。
慌ててスマホを机の中に放り込み俯いた。

「去年参加した君らがやってくれれば丸く収まるんだがな……」

担任の声に同調するように頷くクラスメイトもいた。

「俺、去年の怪我で歩き方変になっちゃって……人前、出たくないんです」

ちとせが悲劇を演じるように言うと、担任は「そうか」と引き下がる。サッカー部を退部するほど大きな怪我は、時々便利な言い訳に使われるんだ。

「野沢は理由があるのか?部活も運動部じゃないよな」

「ま、まあ、はい」

苦し紛れにロミオとジュリエットに興味が無いと告げたが笑いすら起こらず静まり返り、最低な空気が数分続く。

「わかりました、わかりました!やりますよ」

その場の空気に耐えられず言うと、ちとせが大きな素振りでこちらを振り返る。口には出さないが驚いた表情。

「今年も二人で参加しよう、そうしたら丸く収まる」

ちとせに耳打ちするが嫌だ嫌だと首を振っている。

「あ、あの!私やります!」

ちとせと八尋に注目が集まる教室の隅で、清楚な雰囲気の大人しそうな女子生徒が手を挙げた。

「よし、それじゃ野沢と佐藤で決まりな」

周囲から拍手があがる。
「ちょっとまって」と焦るちとせの声は掻き消されそのままホームルームは終わった。

「八尋、なんで急にやる気になったわけ?」

「空気……と、あと悠太もやるって言うし参加してもいいかなって」

少し不機嫌そうなちとせは八尋の流暢に動く口元を見て顔をしかめる。

「一緒にクラスの仕事やれると思ったのに」

あからさまに大きなため息を吐き出すちとせ。こんなこと言ったら絶対に怒られるけれど、不貞腐れ拗ねるような姿が、なんとも可愛い。

「あ、あの……野沢くん」

後ろから飛んできた声に振り返る。

「佐藤さん」

一緒に演劇へと参加する佐藤柚希(さとうゆずき)が友人二人と共にこちらを見ていた。

「行ってくるね」と告げるがちとせはこちらに興味がない様子でスマホの画面を凝視したまま適当な相槌を打った。

ちとせに構いたい気持ちは隅に置いて女子グループに声をかける。何気無い挨拶や去年の様子を軽く聞かれ、八尋は丁寧に答えた。ほとんど話をしたことがない相手だったが柚希がよく笑う子だったため、場は和やかだった。

「ごめん話長くなっちゃった。新島くん帰っちゃったね」

柚希にそう言われ、ちとせの席を振り返るとカバンごとその姿はなくなっていた。

「平気、よくあること」

笑ってみせる。本当によくあることなのだ。ちとせは気まぐれで自由奔放、そんな所も好きだった。強がりじゃない、ちとせのありのままが好きだった。

「また演劇の集まりで話そうね」と柚希が微笑み八尋は教室で一人となった。

一人で帰るのは久しぶりだ。スクールバッグを背負う形で持ち、教室を後にする。スマホの画面を開き、随分と放置してしまった友人、悠太に返信をする。

『バスケ楽しみ』

まだ日の落ちきっていない帰り道。
夏の陽射しが肌に刺さり、八尋はワイシャツの袖を折って第二ボタンも外した。蝉の声が精神的暑さを際立てる。

スマホがポケットの中で震える。
悠太の使うよくわからない猫のキャラクターのスタンプが画面に表示され、口元が少し綻んだ。


「悪い、遅れた」

数日経ち、学園演劇の顔合わせの日となった。放課後の空き教室に遅れて着いた八尋は柚希の隣に座る。

「今ね、あの先輩がロミオに決まったところ」

柚希が目線を送った先には翔がいた。
八尋はやっぱり、と小さく口にする。柚希は「さすがの人気だね」と翔を眺めている。

「今はジュリエット決めてる途中?佐藤さんやれば?」

当然自分は役者にはならないと決め込んでいる様子の柚希はぶんぶんと首を振った。
そうこうしているうちにジュリエットは一年の小柄な女子に決定してしまう。

「私達は大人しく裏方やってよう」

そう笑う柚希。そういえばどうしてこの子はあの時、演劇に参加すると立候補してくれたのだろうか。

「佐藤さんってさ」

それを尋ねようと口を開いたちょうどその時、

「ティボルト役は、野沢八尋先輩がいいと思います!」

どこからか発せられる自分の名前と信じられない推薦に動揺し、八尋は小さく「え?」と呟いた。

「野沢くん、あの子知り合い?」

柚希にそう聞かれ声の主をよく見ると部活の後輩の女子であることに気が付く。ジュリエット役に選ばれた久城玲奈(くじょうれな)という人物も同様に部活の後輩で、彼女の方とは何度も会話をした覚えがあった。

「茶道部の部活の後輩」

「え、野沢くんて茶道部なの!?」

耳打ちすると、柚希は少し興奮気味に目を見開きそう言った。

「たまにしか顔出さないけど」と続けると、この場を仕切っているらしい翔にやりたいかどうか全員の前で問われる。八尋は申し訳ない表情で首を横に傾げて見せた。

それに負けじと声の主は再び口を開く。

「オリジナル脚本としてアレンジを加える中でティボルトとマーキューシオ役は元々仲の良い野沢先輩と篠山先輩がいいと思います」

「あ、私もお2人が一緒だと心強いし、絶対におもしろくなると思います!」

推薦者に続き久城玲奈が手を挙げる。
急に名前を呼ばれた悠太は状況がいまいち理解できていない様子だった。

「待って待ってめちゃくちゃ推されてるけどなんで?」

柚希が再び小声で尋ねてくる。

「いや、俺が聞きたいんだけど……」

悠太と目線が合い、困ったように眉をひそめあう。

「なんにせよ各学年からバランス良く役者を募らないといけなかったから、他に立候補者がいなければ二人に検討してもらいたいな」

そんな八尋たちの表情が見えていないのか翔は毅然とした様子で言う。もちろん立候補者はいない。現三年は明るく派手な人が多いが二年は覇気のない人物が多い。

「野沢くんいいの?このままだとティボルト役やることになっちゃうよ?」

「ごめん佐藤さん俺台本も見てなくてさ、ティボルト?ってのはどんな役なの……?」

「ティボルトはジュリエットのいとこ。ロミオの親友を殺しちゃって、怒ったロミオに復讐されて命を落とす役。ちなみにマーキューシオはロミオの親友」

「え、俺めちゃくちゃ悪役に推薦されてない?」

教えてくれた柚希は勢い良く何度も頷いた。

「しかも結構大事なキャラだよ」

柚希は心配そうに告げる。
八尋は自分がやるべきではないと思ったが、それと裏腹に悠太の方は「まあ別にやってもいいか〜」と呑気に同じクラスの男と話していた。

「俺と八尋やります!」

挙句の果てに八尋の名前までもを勝手に使い大きく宣言した。
八尋は「自分はやらない」と手を挙げようとしたが、誰にも気づかれないうちに手を下ろす。

まあ、悠太となら面白いかもな。
去年は退屈な思い出で終わってしまったけれど、案外楽しめるかもしれない。

「いいの?」と顔を覗き込む柚希に頷いて見せ、手元の台本を開いた。仕方ない、やるとなったら恥をかかないようにきちんと読み込まないとだ。
それはやっぱり少し面倒だけど、どうしてか少しだけ、ワクワクしていた。

「それじゃあ決まり。楽しみだな」

翔は八尋に笑いかけた。それが含みのある嫌味な笑みに見えてしまい、ぶんぶんと頭を振った。
それと同時に推薦者とジュリエット役の玲奈は嬉しそうに拍手をしており、柚希はそれを見て複雑そうな表情を浮かべていた。

八尋はただそんな空気に身を任せるばかりで、途中から深く考えるのをやめていた。

次回までに台本の読み込みを行うことを指示されその日の集まりは終わった。カバンを持ち教室を出ようと立ち上がると隣にいた柚希も急いで荷物をまとめ始める。

「野沢くん、良かったら一緒に帰らない?」

「あー」

少し考えてからスマホの通知を確認する。ちとせからのメッセージは来ていなかった。

「うん、帰ろっか」

何も予定がない日はちとせと共に帰ることが多いが、絶対の約束にしている訳でもないためこういう時はちとせがどこで何をしているのかわからない。

もう帰ってしまったのだろうか。それともまだ教室にいるのだろうか。わざわざそれを聞くためメッセージを打ち込むことも八尋にはできなかった。


「そういえば佐藤さんってさ」

どうして演劇に参加したのか聞きそびれていたことを思い出して口を開くと、「そうだ野沢くん、柚希でいいよ、佐藤さん沢山いるでしょ」と微笑まれる。

八尋は素直に名前を言い直し尋ねる。

「柚希はどうして演劇に参加したの?あの時急に手を挙げただろ」

柚希はそれまでの笑顔を保ったまま目を泳がせる。彼女は少しだけ考え込む時間を必要としたあと、恥ずかしそうに口を開いた。

「こんなこと言ったら絶対変だって思われると思うんだけど」

八尋は下駄箱から自分の靴を取りだしながら次の言葉を待った。

「新島くんが困ってるように見えたから」

「ちとせが?」

ドクンと嫌に心臓が鳴り、持っていた片方の靴が指先から離れ地面に転がる。
照れくさそうに頷く柚希の表情に嫌な予感がした。

「ちとせのこと、好きなの?」

普段あまり発することのない真っ直ぐでデリカシーのない問いが八尋の口から零れる。柚希は目を丸くした。

「好きなんてまさか!おこがましい!」

「おこがましい……?」

ぶんぶんと頭と両腕を振る柚希に、八尋は先程とは違う種類の戸惑いを覚えた。

そして押し黙る二人。靴を履き替えて階段を降り、賑やかなグラウンドの横を通り過ぎて校門をくぐった。

じゃあさっきのはなんだっていうんだ、そう聞きたかったが少し冷静さを取り戻した八尋は慎重に言葉を選び、蝉の声と運動部の声が響く空気をさえぎり口を開く。

「あの、さっきのって詳しく聞いていいやつ……?」

柚希は少し歩みを進めたあと決心したように大きく息を吸い、八尋の顔をじっと見た。

「新島くんのファンなの」

「ん?」

思わぬ言葉に八尋はさらに困惑した。

「あのほんと、変だよね、アイドルに憧れるみたいな感覚のファンなの……変だよね」

変というか、なんというか。八尋はどう答えたら良いのかわからず駅までの歩みを進めながら黙り込んだ。

「こんなこと、新島くんと仲の良い野沢くんに言うことじゃないよね。でもあの時、怪我をして傷付いたままの新島くんが無理やり演劇に参加させられそうな姿見てたら私がやるしかない!って、なんていうか、母性……?が働いた、というか」

柚希の赤裸々な告白にひとつひとつ頷いた後、八尋は笑った。

「すっごいよく喋るね」

そう言われた柚希は顔を真っ赤にして俯いた。

「ごめん、悪い意味じゃなくて。ちとせのことそんな大切にしてる人がいたんだって思って」

いい意味で、と付け足すと柚希は調子を取り戻し、また口を開いた。

「新島くんの隠れファンは多いんだよ!本人が女の子苦手みたいだから近づく子は少ないんだけど、今年なんて同じクラスになれたことが奇跡って友達と話してたの」

「ちとせってそんな人気なんだ」

単純に驚いた。と、同時に思い出す。中学の頃から、妙に女にモテていて、本人はそれを迷惑そうにしていた。

「野沢くんも好きでしょ、新島くんのこと」

「は、は?」

柚希の言葉に、声が裏返った。

当然誰にもバレていないであろうと思っていた自分の気持ちが当たり前のように言い当てられて、状況がよく理解できない。首筋に汗が垂れる。

「あれ、すごく仲良いよね?」

きょとんとした表情の柚希。

二人の間に沈黙が数秒。

友達として、という意味だと理解し八尋はほっと胸を撫で下ろすと同時に顔に熱が集まっていくのを感じた。

「あぁ、うん。中学の時から仲良いよ」

平然を装い慌てて続けると、「そうなんだ〜」と柚希は頷いた。話が途切れ歩みを進めていると、不意に柚希の足がぴたりと止まる。

八尋は顔に集まる熱を冷まそうとワイシャツの首元をぱたぱたと動かし風を起こしながら、立ち止まった柚希を振り返る。

「どうしたの」

「あの……もしかして、新島くんのこと好きなの?なんか、その、そういう意味で好きだったり……する?」

恐る恐る、といった様子の柚希になんと誤魔化したら良いのかわからず八尋は道端で硬直してしまった。
女の子は鋭いんだな、なんて考えながら自分の人生が閉ざされていくような感覚に落ちていく。

噂が広まり、気持ち悪がれ、ちとせ本人の耳に入り二度と横を歩けなくなり、軽蔑され、学校にも通えなくなる。という自分の姿が、ありもしない自分の姿が、フル回転する頭の中に描き出される。

「偏見もないし誰かに話す気もないんだけど……でも、あの……あはは、勘違いだったら本当にごめんね」

八尋よりも慌てふためく柚希は「また私、変なこと言っちゃった」と静かに呟いた。

八尋は柚希の顔が曇っていくのを見て、諦めに似た感情が湧き上がるのを感じた。数日前に初めて話をした子だけれど、彼女が意地の悪い人間でないことくらい伝わっている。

もういいか、とかこの子なら、とかそういった思いがぐるぐると巡り、考えているうちに足元から身体の力が抜けていく。

八尋は脱力し、その場にしゃがみこんだ。
足が少し震えていた。

「内緒にしてくれる?」

熱くなる頬を手の甲で隠しながら、目線だけで柚希を見上げる。

柚希は顔を真っ赤にして何度も頷いた。


お互いの秘密を打ち明けあった二人は、駅の近くの喫茶店に入ることにした。

「それでそれで……いつから好きなの?やっぱり中学生の頃?」

「うん」とか「まあ」とか歯切れ悪く肯定し、熱の冷めない体内にアイスココアを流し込む。甘ったるさが脳に伝わり、くらりとした。

それに対し頼んだアイスティーを一口も飲んでいない柚希は八尋が何を言っても嬉しそうにキャッキャッと笑う。

柚希は男性同士が恋愛するドラマにハマって以来そういうコンテンツが好きだと語った。
八尋の恋心に対しても物語を消費するかのように「いつから」「どこが」「どうして」を聞こうとしている様子であった。

八尋は中学の時からちとせが好きであったが、その理由を考えたことはあまりなかった。一緒にいればいるほど好きだと思う事が増える。その理由を言語化しようとしたことがなかったのだ。

「柚希はなんでちとせのファンなの?去年とか違うクラスだったんだろ」

自分ばかり答えられない質問に頭を悩ませるのが癪で、柚希に問う。

「あれだけの美少年だよ……? 入学して二日でみーんな新島くんの名前知ってたと思う」

「そんなに?」

「しかも、私の推しにそっくりでさ……」

「推し?」

柚希はスマホを手早く操作しゲームの画面を八尋に見せた。画面には煌びやかな衣装を纏う可愛らしい顔の男キャラが少しキョトンとした表情でカメラ目線をしているのが映し出されている。

「へぇ、可愛い」

確かに雰囲気は似ているな、目元のほくろも同じ位置にある、と感心しながら八尋はもう一度アイスココアを飲んだ。
ストローを動かし氷がカラカラと音を立てるのを無意識に楽しむ。

「それからファンになって、廊下とかで見かけると嬉しくて、美術部の部室からサッカー部もよく見えたから一方的に見つめてばっかりで」

ファンとは言うが、恋する女の子となんら変わらないような気がして八尋は苦笑いを浮かべる。

「サッカー部も辞めちゃったでしょ、だから今年は同じクラスがすごい嬉しくて」

推しに似ているという点以外でちとせのどういうところに惹かれたのか尋ねると、柚希は嬉しそうに言う。

「掴みどころのない所、かな。目を離したらふわ〜っといなくなって別のところで別の人と可愛い笑顔で話してる。寂しがり屋なのかと思ったら一人で図書室にいたり、本も読まずにぼんやり窓の外見てたりするの。自由な野良猫みたいでいつ見ても飽きない」

八尋は痛いほど柚希の気持ちがわかってしまった。柚希が語った姿は容易に想像できるどころか、自分がいつも見つめている姿そのままであった。
そんなちとせが自分に懐いてくれて気を許しわがままを言うのが、堪らなく好きなのだと改めて自覚する。

何を考えているのかわからない、ちとせの綺麗な横顔がまつ毛の先まで鮮明に思い浮かび、それすらも好きだという感情で支配される。

「俺も好きとかじゃなくて、ファンなのかな」

柚希に同意して見せると、彼女は「そんなわけないよ」と笑った。八尋はどうして断言できるのかと問う。

「私には心ときめくものが沢山あるけど、野沢くんはそうじゃないでしょ」

「どういうこと?」

「唯一無二ってこと!私は新島くんがいなくても他のものでときめき補給するけど、野沢くんは新島くんの代わりとかないくらい大好きっぽいから」

柚希は周りに聞かれないよう目の前に座る八尋の方へと身を乗り出し、声のボリュームを抑えて言った。

「じゃあ、他に代わりがいたら、消えんのかな」

ぼそりと呟く。
ちとせは翔のことが好きなのだ。自分が幸せになる日は来ないとわかっている。

それを聞き逃さなかった柚希は微笑んだ。

「叶うかはわからない恋かもしれないけど、消すことないんじゃない」

簡単に言ってくれるな。

「叶わないのに好きでいるのは、辛いだけだ」

ちとせが別の男に恋をしているなど間違っても言えない八尋は不貞腐れるかのように言う。

「辛いのは、幸せとの落差が大きいからだよ。手放したらどっちもなくなって平坦な毎日でつまらなくなっちゃう」

難しいことを言うものだ。

柚希の大人びた言葉がいまいちピンとこない。
八尋はうーんと唸り、アイスココアを飲み干した。

「まぁでも少しだけ興味の分散ができたら悩みすぎずに済むかもね!」

「興味の分散」

柚希の言葉を繰り返す。先程までの言葉よりもしっくりくるものがあった。

「ねぇ、これだけはやっぱり教えて……新島くんのどういうところが好きなの?」

縋るようにこちらを見る柚希の真剣な顔。
八尋は少し考えてから口を開く。

「前向きで、優しいところ」

それを聞いた柚希は少し意外そうにした後、再び優しく微笑み「素敵だね」と言った。

それから、アイスクリームを追加注文した柚希がそれを食べ終わるまで、お互いの"推し"と"好きな人"を少しずつ語り合った。

八尋は初めて自分の気持ちを打ち明けたことがなんだか嬉しくて、照れくさくて、その日の夜は寝付くまでに随分と時間がかかってしまった。

「八尋、帰ろ」

それから一週間。演劇の集まりやクラス出店の準備がない日に、ちとせは決まってそう言った。

「これだけ柚希に渡してくるから待ってて」

柚希から借りていた本を手に取り、目の前に立つちとせを見上げると、帰る準備万端の彼は顔をしかめる。

八尋と柚希はあの帰り道以来、友人と呼べる間柄になっていた。

それが気に入らないらしい女嫌いのちとせは八尋が柚希の話をする度、おもしろくなさそうな顔をした。ちとせには悪いが拗ねたような表情も可愛いだけである。

八尋は立ち上がりちとせの頭をくしゃくしゃと撫でてから廊下側の柚希の席へと向かった。

「これありがとう。おもしろかった」

柚希は八尋の声に驚いたようで肩を大きく揺らしてからこちらを振り返った。教室で声をかけるのは控えた方が良かっただろうか。

「本読むの早いんだね」

過剰に驚いてしまったことを恥じらうように笑った柚希が急にその笑顔を崩し、目を見開く。目線は八尋の顔ではなくその少し後ろを見ていた。

「なに?」と振り返ると、すぐ後ろにちとせが立っていて、八尋は思わず声を上げた。

「え、急いでた?」

待っていてと言ったのに。
八尋が女子と話す時は数メートル距離を置くというのに。

不思議がる八尋の傍で柚希は顔を真っ赤に染めている。"推し"に急接近した喜びで声も出ないのだろう。

「あんたら話し出すと長いから、監視」

不機嫌そうなちとせは柚希の顔をじっと見てそう言った。

「ごごご、ごめんね、全然あの私は本が、その、ありがとうまた今度、違うやつ、持ってくるね」

柚希は上手く回らない口でそう告げて席から立ち上がる。そして赤い顔のまま作り笑いを浮かべ、八尋とちとせの前から立ち去った。

挙動不審な姿に思わず笑ってしまいそうになるのをぐっと堪える。

「不思議な子だね」

八尋はちとせの言葉を否定しなかった。
それと同時に「お前がそうさせてるんだぞ」と心の中で呟く。

「今日うち寄らない?夜まで母親いないからリビングでゲームできるよ」

明日休みだし、と続ける。
柚希のことなど忘れたかのようにいつものちとせに戻っていた。

この身勝手な男がわざわざ八尋と柚希の間に割って入ったのはゲームがやりたかったからなのか、と八尋は納得する。

ちとせは横で新作のゲームの魅力を目を輝かせ語っていた。

「今からやるならあんまネタバレすんなよ」

なんでもない顔で軽口を叩く。
内心ではちとせとゆっくり過ごせる事が嬉しい八尋は、ガッツポーズでもしたい気分だった。

他愛もない話を続けながら昇降口を出て体育館の横を通りがかる。校門をくぐり下校するには、体育館とグラウンドを横目に歩かなくてはならないのだ。

「あ!新島!ちょっと待って」

背後から、ちとせを呼ぶ大きな声が聞こえた。
視線をやれば、体育館に続く連絡通路から椎名翔がこちらを見ていた。大きなダンボールを抱えて手招きをしている。

八尋は隣に立つちとせの横顔を盗み見て、後悔した。

少し驚いたように頬を染めるその横顔。
長いまつ毛が、かすかに震えていた。

こんな姿、見続けていたらまた脳裏に焼き付き苦しみ続けるだろうとわかっていながらも、その物憂げな表情に見蕩れ、目を離すことが出来ないのだ。

そして、残酷なことに、ちとせは八尋の顔を一秒も見ることなく翔の元へと向かっていく。その後ろ姿を見送って、八尋は指先が冷たくなるのをゆっくりと自覚していた。

一緒に帰ると言ったのに、早く帰りたがっていたのに、ゲームをする時間が減るじゃないか、ごめんの一言もなく置き去りにするのか。

カッターで浅く切り刻まれるかのように、チクチクと。小さな小さな痛痒い傷が心に増えていく。それは少しの怒りも含む、醜い感情。その感情が身体を蝕む度にあまりに心の狭い自分を自覚し、嫌になっていく。

「……おーい、八尋!八尋く〜ん?」

呆然とする八尋の後ろから悠太が顔を覗き込む。

我に返った八尋の耳には、悠太の心配そうな声と蝉の声、それから生徒達の賑やかな声が流れ込んでくる。

「ごめん、ぼーっとしてた」

悠太の急な登場に驚きながら反射的に返事をする。

「熱中症じゃね?」

ヘラヘラと言うこの男を冷静になって見てみれば、ネクタイを外しワイシャツを着崩しスラックスの裾までも折り込んでいた。身軽な姿、首元の汗を見るに、どこかで走り回っていたのだろう。

八尋が「違う違う」と笑ってみせると、悠太は「じゃバスケしよ」とニカニカ笑い、強引にも手を引いた。

「いや、今日は……」

「予定があるから」と言いかけてちとせと翔を見る。二人はじゃれ合うように笑っていた。八尋は、咄嗟に目を逸らす。

「おい篠山!体育館履きで外出てんじゃねーぞ!」

その時、去年の担任が数メートル先から怒鳴り声をあげこちらへ向かってきた。
悠太は「やべ……」と声を漏らし八尋の腕をいっそう強く引き「逃げるぞ」とイタズラに笑った。

ちとせが……と思ったが、ちとせの傍には翔がいる。むしろ自分が邪魔者なんだと自覚し、走り出した。

結局八尋は体育館に連れてこられたが、体育館履きがなかったためあぐらをかいて試合を見ていた。

バスケ部でもない彼等はいったいどうしてこの時間に体育館の半分を自由に使っているのだろうと疑問に思いながらも、楽しそうに走り回るそいつらに茶々を入れる。

「野沢、館履き貸すから変わって!」

去年同じクラスでそこそこ仲の良かった友人から体育館履きを借り、八尋はそこに混ざった。

その時にはみんなすっかり疲れきっており、ルールは破綻し始めていた。一人だけ体力マックスで動く八尋に「ずるいぞおまえ」と悠太が飛びかかる。

ふざけんな、と言いながらも悠太をおぶったままの八尋はバスケボールを抱え、大笑いしていた。

「仲良いな~」

周りの奴らに呆れ顔をされる。

「相思相愛だからね~」

少し掠れた声でケラケラと笑う悠太のその言葉を聞き、八尋は嫌がるふりをした。

その時ばかりは、ちとせが翔と何をしているのか、少しも気にならなかった。
笑うことに夢中で、やっと息ができたような気さえしたのだ。

それを自覚し、柚希と話したことを思い出す。

他に代わりがいたら。

悠太や他の人間に恋心を抱くことはありえないが、こうして友達と過ごす時間や演劇の練習の時間、今まであまり楽しもうと意識していなかったことに注力してもいいのかもしれない。

「おまえは何してても楽しそうだよな」

床に寝転び息を整える悠太に言うと、

「色んなこと楽しんだ方が得だからなぁ」

なんて目を細くして言って退ける。

「興味の分散ってやつか」

悠太は不思議そうな顔をして、なーんか難しいこと言ってんね、と深く考えない様子で天井を見ていた。

八尋は喉の渇きを覚え荷物を探り、ペットボトルにほんの少し残ったぬるい水を流し込んだ。何も飲まないよりマシかと思ったが、そんなことない。
渇きと身体にこもる熱に苛立ちながらスマホを開く。

『どこ行った?校門のとこいるね』

『暑すぎるから図書室行く』

それぞれ30分前と15分前の、ちとせからのメッセージだった。

てっきり今日の約束はお開きになったかと思っていた。八尋は焦り、喉の渇きなど忘れて立ち上がる。外したネクタイを引きずるように持ち、図書室のある校舎棟への連絡通路に向かおうとした。

「八尋、館履きー!」

持ち主の声に「あっ」と気づき、普段より丁寧にそれを脱ぐ。小走りで返してから、自分の靴に履き替えた。

「もう行くの?来たばっかりじゃん!」

悠太がまたしても八尋に飛びかかるので、それを振り下ろしたあと、無視して校舎棟へと向う。悠太は名残惜しそうに八尋の傍を着いて歩いた。

「やぴろん、最近そっけなくね?」

「はぁ?普通だろ」

しっしっと悠太を追い払うように手を振る。

「そこ!体育館履きで外歩かないよ~」

よく知らない女教師に本日二度目の注意をされた悠太は、気だるい返事をし体育館へと戻って行った。

八尋は煩わしいと思いながらも靴をまた履き替え、四階の図書室へと走りだす。


「ごめん、ちとせ」

息を切らして窓際の席へと向かうと、ちとせは植物の描かれた本から目を離し、八尋を見上げた。

「早いね」

早い?むしろ待たせたというのに。どういう意味かと聞き返そうとしたが、ちとせは本を片付けに行ってしまった。

「じゃあ帰ろっか」

特に待たされたことを気にしていない様子のちとせに、八尋は何を話したら良いのかわからなくなってしまい、もう一度ごめんと謝った。

「ネクタイすれば?」

着崩していた制服を整えてから二人は今度こそ帰路へと着く。

駅に着いた八尋は喉の渇きを思い出し、自販機で水を買った。電車はあと10分来ない。人の少ないホームの端の日陰で、二人は立ち竦む。

「ティボルト役になったの、なんで教えてくれなかったの?」

ちとせが思い出したかのように言った。

「先輩に聞いた?」

隠していたつもりはなかった。演劇の話題を八尋の方からから持ち出すことをしなかっただけである。

「そう、推薦されたって事も聞いたけど、拒否しなかったことに驚き」

「悠太がノリノリでさ、断る方がめんどくさそうだったから」

「"本当は仲良し"なマキューシオとティボルト、ね」

含みのある言い方であった。

それ以前に随分とロミオとジュリエットの内容に詳しいことが引っかかり、台本でも読んだのかと尋ねると、ちとせは首を横に振った。

「俺、映画版のやつすげー好きなんよ」

「え、そうなの?」

「待てティボルト!マキューシオが天国に行く前に、俺がお前を地獄に送る……だろ?」

ロミオの台詞だ。軽々しく感情を乗せて演じる姿は、勇ましく美しく、八尋は見蕩れてしまう。ちとせ自身にファンができるのも納得だ。

「ロミオとジュリエット二人の盲目っぷりがいいんだよな、16歳と14歳の男女が一目惚れしてたったの5日で死んでいくんだ」

「まじで詳しいな」

二人がそんなにも幼いとは知らなかった。自分達とそう変わらない年齢じゃないか。

八尋は台本を読むまでは、その物語の結末すら知らなかった。

ロミオとジュリエットは、敵対する家同士に生まれた恋人同士。周囲の反対やすれ違いの中で、二人は秘密裏に結婚するも、誤解と悲劇の連鎖の末、二人共命を落としてしまう。ロミオは毒を飲み、ジュリエットは己を短剣で刺して……。

「あまりの盲目さに呆れるけど、お互いを想い合う姿が真っ直ぐで、綺麗で、好きなんだ」

ちとせはスラスラと語った。

「やっぱり劇、出たらよかったのに」

そう言うとわかりやすく顔を歪めるちとせ。

「無理だって!主要キャラのほとんどがジュリエットと絡むシーンあるじゃんか、練習にすらならないよ」

「あ〜、そういう理由だったのか」

確かに多くの役がジュリエット役や女性キャラとの接点があり、女が苦手なちとせには難しいだろう。

なるほどな、と腑に落ちた表情の八尋に対し、「なんだと思ってたわけ?」とちとせは目を丸くした。

「ロミオになった翔先輩が女子生徒とべたべたすんの、近くで見たくないのかなって」

「はぁ?」とちとせは目を細くしこちらを睨みつける。

「あの先輩ならいつも女に囲まれてるだろ、別に大して気になんないよ」

ちとせは強がるわけでもない様子で言う。

「八尋ってほんと俺のこと何一つわかってないよね」

「え、良き理解者じゃないの?」

八尋は冗談交じりに言うが、「全然」と突っぱねられてしまった。「えー」と言葉を漏らしながら、唇を尖らせ拗ねて見せると、ちとせは鼻で笑った。

「でもまぁ、そういうとこが良いんだよね、八尋は」

無邪気な笑顔が八尋に向けられる。「だいぶ好きだよそういうとこ」と続けるちとせの言葉に、顔に熱が集まるのを自覚した。

あえて形容するのなら、満たされていく感覚。
ちとせの言葉と笑顔ひとつでどんな日も最高の一日になってしまう。先程の翔を見つめる横顔だって、頭の隅に隠してしまえるほどに。

そして、八尋だけに向けられる明るい笑顔を噛み締める。ああ、こんな時間だけが続けばいいのに。

単純な八尋には興味の分散などという器用なことができないのだろう。結局は、ロミオ並みの盲目っぷりである。

ほどなくして電車が訪れて、二人はそれに乗り込んだ。
ちらほらと席は空いていたが、そこには座らず、扉の前に並んで立つ。

電車の扉に肩を預け息をつくちとせの、美しい瞳を見て、思った。

「俺ね、ロミオの気持ち、ちょっとわかる気がする」

「どういうこと?」

ちとせは至極真面目な顔で聞き返した。

「愛する人が目の前で冷たくなってたら、俺だって毒を飲むと思うんだ」

そう続けると、ちとせは小さく驚きの声を上げたがその後、何も言わなくなった。

電車が揺れ、差し込む夕方の光も忙しなく揺れる。そんな車内で窓の外を見つめるちとせの横顔を眺めていた。

冷房が利いた車内はほんの少し、肌寒い。
だからなのか、この愛おしい人の手に触れたい、と思ってしまった。

けれどその気持ちを急いでかき消し、八尋は何事も無かったかのように窓の外を、遠い景色を眺める。最寄り駅までの数分間、二人は言葉を交わさなかった。


「野沢くんってさ、なんで新島くんを優先しないの?」

放課後の教室、柚希と八尋は2人きりで演劇の小道具を作成していた。
八尋は本来役者としての練習があるのだが、セリフを交わし合う悠太が音信不通で練習の場に現れなかったため、柚希の作業を手伝うことになったのだ。

「優先しない?」

八尋は思い当たる節もなく、柚希に聞き返した。

「練習、せっかく新島くんが見に来てくれたのに一緒にいなくていいの?小道具なんて一人でも作れるよ」

八尋は「あぁ、それか」と呟く。

先程八尋が練習のために体育館に行った時、既にちとせの姿があったのだ。

「見にきたの?」

来てくれたことが嬉しくて笑顔で尋ねると、「この前翔先輩が誘ってくれて」とちとせは朗らかな笑みで答えた。

俺を見に来たわけではないのか。

勘違いしていた自分が恥ずかしくて、八尋は「よかったね」と苦笑いを浮かべることしかできなかった。

そんな事情を知らない柚希になんと説明すれば良いかわからず口を閉ざす。

「この前本返してくれた時だって、新島くん待ってたのにわざわざ私のところに来たでしょ。新島くんとあんなに接近したの初めてだったよ」

柚希が顔を真っ赤にして立ち去った時の話だ。

「借りてるものはなるべく早く返した方がいいかなって」

「わかるけどさ、新島くん待たせるくらいならそんなの後でいいでしょ」

これに関して、八尋は柚希の主張が心底わからなかった。
ダンボールの短剣に色を塗りながら首を傾げる。

「私と話してる時は大好きなんだな~って伝わったけど、本人といる時はなーんか平然としてて余裕そうで恋してますって感じがしないなぁって」

「本人にバレたくないからじゃね?」

何よりも優先し、ちとせの望むままの八尋で生きていたら自分の好意が透けて見えてしまいそうだから。
あくまで友達。よくいえば親友。それ以上でも以下でもない間柄を保たねばならないと、八尋は中学生の頃から意識していた。

「そんなことでバレないでしょ!誤解されたら意味ないよ」

誤解?

「俺が柚希のこと好きだと思われるってこと?」

目線を上げて聞くと、柚希は顔を赤くした。

「違うよ!新島くんが、野沢くんに避けられてるって思っちゃいそうだなって!」

「いや、それはないだろ。ずっと普通に仲良い友達だし」

八尋は小道具を作る手を止めて、天井をみながら言った。

そう、ずっと友達なのだ。クラスが離れた時も、ちとせの部活が忙しい時期も、どんな時でも、付かず離れずの二人の関係は変わらなかった。

恋が実る確率はゼロな分、一番の友達ポジションは確立されている自信がある。友達として好意や信頼は確かにあり、お互いがそれを感じているはずだ。

「ちとせは気にしないよ。あいつの場合、手首を掴み続ける方が鬱陶しいと思われる」

「野沢くんが言うならそうかもしれないけど……」

「けど?」

含みのある言い方で口篭る柚希。

「私にはね、新島くんが寂しがってるように見えたよ。野沢くんのこと取るな!って顔で……」

柚希の視線が、少し寂しそうに落ちる。

「あー先輩たち、こんな所にいたんですね!」

柚希の言葉は、扉をガラガラと開ける音と女子生徒の声に掻き消される。柚希の声を最後まで聞き取ることができないまま、声の持ち主を見た。

「久城」

ジュリエット役の後輩が「この部屋涼しいですね」と言いながら柚希と八尋の側まで寄ってくる。

「こそこそと恋バナですか?それともお二人付き合ってるとか??」

柚希はないないと頭と両手を同時に振る。

「えーでも恋バナっぽいの聞こえましたよ」

八尋と柚希は目を合わせた。
どうしたら良いのかわからないと焦る様子の柚希は「私たちが恋バナなんてないよね」と会話のボールを八尋にパスした。

「俺の好きな子の話、聞いてもらってただけ」

八尋は正直にそう答えた。
その相手が誰なのか、までバレなければそれで良い。下手に嘘をついてこれ以上のボロを出したくはなかった。

「えー!玲奈も聞きたい!好きな人美人系ですか?可愛い系ですか?どういう所が好きなんですか?」

「ちゃかすな」

興奮気味に詰め寄る久城玲奈を軽いデコピンで遠退ける。部活で何度か話しているが、いつもこのテンションで迫られその度にこのノリで引き剥がしている。

最初は気に入られているのかと思ったが、彼女は誰にでもそうであった。

「で、なにしにきたの?」

「そうでした!悠太先輩が来たので伝えにまいりました!八尋先輩がいない~って一人でバスケ始めちゃって」

集合時間から一時間も遅刻か、と呆れながら八尋は体育館へ向かうことにした。

「柚希は来ない?」

玲奈が来てから大人しくなっしまった柚希に声をかける。

「じゃあ、行こうかな」

柚希の表情にはいつものような暖かな笑顔がなかった。八尋は不思議に思いながらも一緒に机を片付け体育館へと向かった。

廊下は蒸し暑く、肌に纏う熱気が彼等を息苦しくさせる。

「柚希先輩って八尋先輩って意外な組み合わせですけど、仲良いんですか?」

玲奈が柚希へと問う。

「あ、私は仲良いと思ってるけど」

八尋はその言葉を聞き満面の笑みを浮かべ「俺も!」と微笑んだ。

女友達など多くない八尋にとってはすっかり大切な友人だったが、柚希の気持ちは不透明だったため、そう言ってくれたことで心が暖かくなる。

「へ~!じゃあ八尋先輩の前髪が金髪な理由知ってますか?」

玲奈は無邪気に笑った。

「おまえ余計なことを」

八尋は玲奈を睨みつける。

「いい子ちゃんぶってる八尋先輩ムカつくんですもん!知ってます?この人おへそにピアスもあるんですよ。めちゃくちゃヤンチャでウケますよね」

留まることを知らない玲奈は続けた。

「知らなかった……」

そう呟いた柚希の声は、どこか遠くを見ているようだった。
八尋は視線を向けられず、長い前髪の影に逃げ込むように目を伏せる。

「知らなくたって仲良くなれんの。おまえまじで黙っとけ」

「えー!先輩こわーい!」

「……あの、ちなみになんで金髪なの?」

興味を持ってしまったらしい柚希に視線をやると、複雑そうな表情をしていた。

「明るい人間に見えるように、って言っててちょー可愛くないですか!」

そんなこと知りもしない玲奈が続け、八尋は自分の額へと手をやりため息を吐いた。

ちとせが翔を好きになったと聞かされた後の夏休み、八尋は少し荒れていたのだ。

荒れると言っても親に心配をかけるようなことはしたくないという真面目な性格もあり、喧嘩や夜遊びはあまりしなかった。

翔のように明るい人間になれればと髪の全体を明るくしたが、夏が終わる頃には前髪以外は黒に戻し、それ以降はそのスタイルが八尋のトレードマークとなっていた。ピアスも同様、それまでと違うことがしたいという、やけに近い好奇心から開けたものだった。

そんなことを八尋は好きで話したわけではない。玲奈が髪のことを知っているのも、茶道部の顧問に聞かれた際に傍で聞いていただけであって、特別彼女に教えた覚えはない。

ピアスに関しても着替えを覗かれるというアクシデントによりバレてしまっただけである。

隠すつもりもないが、言うつもりもない。
個人的なことを暴露され、八尋はうんざりしていた。

「ごめんなさい、内緒って知らなくて」

玲奈は反省の色を見せず口だけでそう言って笑っていた。


八尋の気分は最悪だったが、それとは裏腹に体育館での合同練習はうまくいっていた。

各々の練習の成果もあり、純粋に楽しみながら観劇ができるクオリティを保てている。ロミオとジュリエットの古典的な表現は良いところを残しつつもわかりやすく改変されており、役者が言葉に詰まることは少ない。
ちなみに結末も明るいものに変更されており、ロミオが毒を飲む前にジュリエットが仮死状態から目を覚ましハッピーエンドとなる予定だ。

舞台袖から見学しているちとせを盗み見れば、楽しそうな表情でロミオを見ている。

「わーお、みんな翔先輩の美貌に見蕩れてんね。この後出にくすぎ」

隣にいる悠太が眉を八の字にし大袈裟に嘆いた。

しかし、いざ二人が舞台に出てみれば、喧嘩のようなノリで決闘を行うヤンチャな二人が身内にはしっかりとウケた。

八尋は悠太を刺し殺し、今度は翔が八尋を刺し殺す。その一連の流れの中で、ふと観客を見渡すタイミングがあった。
意識していたわけではないが、自然とちとせが目に入り、その瞬間、思い切り目が合った。
八尋は耳まで熱くなるのを感じ、途端に声が震え、台詞が飛んでしまった。

「大丈夫?」

ロミオ役のキラキラとした翔に問われ、八尋は「すみません、忘れちゃって」と誤魔化して笑った。
舞台袖の役者も、見ている裏方の生徒も、ちとせも、どうしたのかとこちらを見ていた。

「いいよゆっくりで。地味に緊張するよな」

翔は小声で耳打ちした後、「今のところからもう一回だけやろう」と何事も無かったかのように空気を戻してくれた。

この人はこういうところが魅力的なんだ、と思い知る。

八尋と悠太は舞台の上でもう一度決闘をした。観客の方に目をやるタイミングで、今度はちとせの方を向かないと心に決める。

たぶんちとせの視線は、もう八尋ではなく翔に向いている。見ないでもわかる。それを目の当たりにするのは、どうしても、耐えられそうになかった。


一通り練習が終わった。
気疲れしてしまった八尋はみんなと談笑する悠太と距離を置き、一人ステージ下にしゃがみ込んでいた。

何人かはもう帰り始めており、ちとせの姿も見当たらない。

スマホを片手に取るも、誰からのメッセージもなければSNSの更新も面白いものはなく、ただ意味もなく液晶を眺めているだけの時間が流れる。

「お疲れ様」

呆然と座り込む八尋の元に影が落ち、いないはずのちとせの声がした。それと同時に、頬に冷たい何かが押し当てられる。

顔を上げれば、ちとせがこちらを見下ろしていた。

「ちとせ、帰ってなかったの」

冷たい何かを受け取る。体育館からは随分と離れた自販機に売っているカップのココアだった。

「甘いもの飲みたい頃かと思って」

そう言うちとせの手にも紙パックのりんごジュースが握られていた。

疲れ切っていた心身にちとせの優しさが染み渡り、八尋はそのアイスココアをじっと眺めた。

「なんか、すげー嬉しい」

うっかり素直な言葉が出てしまった。
それを見たちとせは瞬きを何度かした後、「大袈裟だな」と笑った。

八尋はゆっくりとストローを差し込み、その甘さと幸せを噛み締めるようにアイスココアを飲む。

その時であった。

「悠太先輩知ってました?八尋先輩の好きな女の子の話!」

久城玲奈が大声で喚いている。
またあいつは勝手に、とさすがの八尋にも怒りが沸いた。

ちとせに余計なこと、知られたくないのに。

隣に座り込んでいるちとせの表情を盗み見ると、真顔のままストローを噛んでいた。何を考えているのか、感情が読めない。ただ、おそらく驚いてはいるのだろう。

とりあえず玲奈を黙らせないといけない。
八尋は立ち上がり、その集団の元へと歩き出す。

「あー!八尋、彼女できたって言ってたもんな」

すると悠太がありもしないことを言い出した。
玲奈も周りのやつも悲鳴に近い反応をし、場は盛り上がってしまう。

「言ってねーだろそんなの、誰と間違えてんだお前」

堪らなくなり悠太の頭を小突き否定すると、「違ったっけ」「じゃあ片想い?」なんて好き放題に言われる始末だ。

収拾がつかないその場を宥め終わる頃に振り返れば、ちとせの姿がなくなっていた。

床には八尋のアイスココアだけが置かれている。

「これ誰のー?捨てちゃうよ」

その場を片付けていた女子がそう言いアイスココアを拾い上げてしまう。

「俺の!まって、捨てないで」

八尋は急いで駆け付けてココアを受け取る。
少しぬるくなったそれを口に含み、無意識にストローを噛んでいた。



八尋は優しいから、仕方なく友達でいてくれるのかもしれない。

そんな疑念が、ここ数日湧き上がっていた。

「八尋、彼女できたって言ってたもんな」

篠山悠太のその声を否定する八尋を見ながら、その不安は濃くなるばかりだった。

耳が篭もるような嫌な感覚がして、ちとせはその場を立ち去ることにした。本当に静かに、気付かれてしまわないように。

「待って、ください」

連絡通路を渡る背中を追いかけ、声をかけてきたのは佐藤柚希であった。
最近やたらと八尋と仲の良い美人な女の子。

ちとせは反射的に彼女を睨んでしまった。

「あの、違うんです。野沢くんは、彼女なんていなくて」

この子はいったい何を弁明しているのだろうか。

「なんでわざわざ言いに来たの?」

「……誤解したままは良くないかなって」

佐藤柚希は自分でも何を言っているのかわからないのか、語尾に疑問符を付けてそう言った。

「どうでもいいよ、彼女でも、八尋の片想いだとしても」

そう言った自分の言葉が、妙に虚しく響いた。

立ち去ろうとするちとせを追って、佐藤柚希が数歩踏み出す。
ちとせは逃げるように歩を進め、顔を強ばらせた。

「あ、ごめんなさい。女の子苦手ですよね」

佐藤柚希は申し訳なさそうに後退りをし、もう一度謝ってから、体育館へと戻ろうとした。

「八尋が言ったの?」

その背中に声をかけた。

「え?違うんです、私が新島くんのことを見てそう思っただけです」

佐藤柚希はちとせの表情を見たあと、「野沢くんは勝手に人のこと話すような人じゃないですよ」と続け、微笑んだ。

そんなこと、ちとせが一番わかっていた。

口の中で小さく舌打ちをし、ちとせは今度こそ背中を向けた。

「佐藤さん、ごめんね」

彼女に聞こえているのかわからない声量で呟いてから、校舎棟へと向かう。

自分が惨めで、堪らなく恥ずかしかった。


この間、二人で家に帰る時、ひんやりとした電車の中で。

『俺ね、ロミオの気持ち、ちょっとわかる気がする』

そう言った八尋の優しい顔が、車窓から射し込む陽の光に照らされたその綺麗な顔が、ちとせには忘れられなかった。

『愛する人が目の前で冷たくなってたら、俺だって毒を飲むと思うんだ』

八尋には好きな人がいるのか、と。その時はじめて気が付いた。これまでずっと一緒にいたはずなのに自分は少しも気が付いていなかった。

八尋が恋をするのは自然なことだから、ちとせがとやかく言う筋合いはない。そんなこと十分わかっているが、自分には話してもくれないのかと思うと寂しくて、自信がなくなった。

ちとせには八尋しか信頼できる友人がいないが、八尋はそうではない。

『あの二人ってほんとに仲良いんだね、知らなかった』

翔先輩に連絡通路で呼び止められた時、八尋と篠山悠太が話している姿を見て翔先輩はそう言っていた。

そして教えてくれたのは、後輩からの熱い推薦で二人がティボルト役とマキューシオ役になった、ということ。

そんなこと、八尋は教えてくれなかった。

ショックを受けたちとせが振り返れば、二人は走ってどこかへ行ってしまっていた。
俺も行かなきゃ、と消えていく翔先輩を見送った後、ちとせは体育館を覗いた。

やっぱりいた。
八尋が体育館にいるのが見えたが、声はかけられなかった。ちとせも混ざるよう他の者に強いられるのが嫌だったからだ。

それでも何分待たされたって痛くはない。

最終的に八尋は走って図書室まで来てくれたから。

そう思っていたけれど、今は追いかけてなど来てくれない。ちとせのことなど気にもとめていないだろう。

「俺、いらないのかな」

随分と暗くなってしまった帰り道、ちとせはぽつりと呟いた。とっくにぬるくなったりんごジュースを飲み干す。

家に着くと母親が文化祭の日程を尋ねてきた。
ちとせは無視して部屋に入り、大きな音を立ててドアを閉める。

何も考えたくなかった。
電気もつけず、ベッドへと身を投げだし、ただ目を瞑った。


スマホのバイブ音がやけに長く鳴っているのが、眠りの縁で聞こえてきて、ちとせは目を覚ました。
見渡せば部屋も窓の外も暗いままだ。帰宅後寝てしまっていたのだろう。

「電話?」

暗い部屋を明るく照らす画面を見ようと手を伸ばすと、着信は切れてしまった。
眩しい目を擦り通知を開けば、八尋からの数件のメッセージと着信履歴が一件入っている。

何事かと慌てて掛け直すと、ワンコールもせずに八尋は電話に出てくれた。

「ちとせ、今どこ」

「え、家だけど」

当然だろ、というふうに告げると、八尋は電話の向こうで安心したように溜め息を吐いた。

「どうしたの、電話とか珍しい」

「勝手にいなくなってるし、連絡付かないし、部屋暗いから帰ってないと思って。なんか、あったのかと思って」

八尋は淡々とそう告げた。
よくわからないが、心配してくれたのか。

「ありがとう?」

「もしかして寝てた?声ふにゃふにゃ」

「寝ちゃってた」

そう答える寝ぼけたままのちとせの頭は少しずつクリアになっていく。

「待って、部屋暗いって家まで来たの?」

「あー、うん」

歯切れの悪い八尋の声を聞き、ちとせは飛び起きた。時計を見ると、22時を過ぎている。
電話の向こうからは虫のジリジリとした声が今も聞こえていた。

「まだ近くにいたりする?」

その問いにさらに歯切れ悪く「まぁ、いないこともないけど」と答える八尋。

「ちとせの無事がわかったから帰るよ」

そう言い終わる前に、ちとせは二階の自室から階段を駆け下り、家を飛び出した。

「うわ、いいのに出てこなくて」

八尋は家のすぐ近くで足を広げしゃがみこんでいた。

「夜に見る八尋、柄悪い」

「しゃーない、もうちょいで庭まで侵入するとこだった」

「非常識すぎ」

ちとせが笑うと、八尋も笑った。

良かった、ちゃんと笑いあえている。気にしすぎはよくないな、と思い今日の出来事は記憶から消そうと心に決める。

「そうだ、俺さ、彼女なんていないから」

ちとせの決心を前に、八尋はぶり返すような一言を告げた。

「……でも、好きな子はいるんだろ?」

八尋の顔を見ると、じっと目を見つめられた。
そこにいつもの笑顔はなく切ない表情をしている。八尋はこんなにも素敵な人間なのに、こんな表情になるほど恋愛で悩んでいるのだろうか。

首を傾げたまま見つめ返すが、八尋は何も言わず、立ち竦むだけであった。

ああ、まただ。また距離を置かれている。

物理的ではなく、精神的な話。八尋は昔に比べて自分のことを話さなくなっていた。
ちとせはそれに気がついて、ここ最近はいつも寂しかった。

「八尋、俺に恋の話とかしにくいんだろ。前からそういう話あんまり振らないよね、俺が女苦手で男が好きだから……」

ちとせが言うと、八尋は「え?」と本気で驚いた声を上げた。

「いや違う違う違う、え?何その思い込み」

八尋が演技ではない様子で驚き大きく否定する姿を見て、どうしてか、ちとせの目には涙が浮かんでいた。

「なに、なんか、気にしてた?」

八尋は眉根を寄せ、ちとせの顔を覗き込む。
泣いているところなど見られたくなくて顔を背けると、八尋のひんやりとした指先が頬に触れて、涙を拭われる。

「俺、ほんとわかってないんだな、ちとせのこと」

反省の声を上げる八尋に、ちとせは顔を上げて首を横に振ってみせた。

涙が止まらず「ごめん」と謝ると、「散歩でもしよっか」と手を引かれる。八尋の手は本当に冷たくて、だけど、その温度で壊れ物でも触るみたいに優しくちとせの手を握るのだった。

その夜、二人は誰にも見つからないように、慣れた道を歩いた。
近くの公園に着くと、その手を離し、自販機で水を買い渡してくれた。

八尋はやっぱり優しいな、と思う。

受け取った水をごくごくと飲み、ちとせは息をつく。それから二人は人気のない公園のベンチに並んで座った。

「ちとせが男の人好きだからって、俺は何かを変えたつもりはないよ」

八尋はちとせの目をしっかりと見て言う。
その言葉がすんなりと信じられるわけでもなく、ちとせは俯いた。

「泣くくらい思うことあるなら言って」

八尋は少し鋭い声でそう言った。

「今日、見学しに行った時、八尋は最初すぐにいなくなっただろ」

「それはちとせが翔先輩に誘われたって言うから」

八尋はいつもの優しくて少し間抜けな表情ではなく、目を鋭くしてそう言う。

「翔先輩の話すると、ツーンて顔するよね」

「いや、そんなことないけど」

八尋は慌てて否定した。

「そんなことあるよ。だから本当は男が好きな俺が受け入れ難いんだろうなって、ずっと思ってた」

初めて打ち明けたあの日からずっとそう思っていたが、それでも横にいてくれるのは八尋にとってちとせが友達としての価値が高いからだと信じてきたのに。
八尋の交友関係を目の当たりにし、秘密の話ばかりされ、その自信がなくなっていた。

「うーんと、今日避けたように見えたかもしれないのは、ごめん。ちとせは翔先輩と居たいと思って、俺は邪魔だなって、そう思ったんだ」

「え、なにそれ」

ちとせは驚き、目を見開いた。
八尋の方も「なにそれってなにが」と驚いた様子で言う。

「邪魔とか別に思うわけないだろ」

「えー、そうなんだ。まじでわかんねえな」

ということは、今までもふらっといなくなってしまっていた八尋は気を遣ってくれていただけなのか。

そんなこと、しなくていいのに。

「受け入れ難いとか全く思ってないし、俺は結構ちとせが大事だから、あんま悲観的になんないで」

八尋はぽんぽんとちとせの頭を撫でた。
"大事"という言葉が嬉しいちとせは、お互いを誤解していたことに気が付き、少しだけ安心していた。

やっぱり八尋はちとせをわかっていないが、ちとせも同様に八尋をわかっていなかった。

「あのさ、八尋は好きな子のために毒を飲めるって言ってたけど、それ聞いて俺は絶対に無理だなあって思ったよ」

「はぁ?先輩のことそんな好きじゃないじゃん」

「そうみたい。それか八尋がその子のこと好きすぎるだけかも」

からかうように言うと、八尋は柄にもなく顔を真っ赤に染めて、照れくさそうに首の裏を抑える。

「そうかもね」

ちらりと横目でちとせの方を見てから、すぐに目を逸らす八尋はやっぱり物憂げな表情で耳まで赤く染めていた。

え、俺……そんな顔、見たかったわけじゃないのに。

あれ、じゃあいったいどんな顔をしてほしかったんだろう。自分でもわからない。

ただ、胸がズキリと重く痛むのを感じた。否定しない八尋が、どうしてかすごく嫌だった。

八尋が、ちとせの知らない誰かのために毒を飲んで死んでしまえるなんて。そんなの絶対にダメなのに。

この前聞いた時にはそこまで気にならなかったのに、どうして今、こんなに嫌な気持ちになるんだろう。

「どうした?」

八尋が心配そうにこちらを見ていた。
ちとせは声を絞り出し、笑って見せる。

「いや別に、応援する、ね」

そう言う声が少し震えてしまったのを、誤魔化すように更に笑った。

八尋は少し困ったように微笑んで、「うん」と頷いた。
そこで自覚してしまう。
この人を誰にも取られたくない、と。

八尋の隣に、自分以外の誰かがいるなんて、考えたくもなかった。

上手くいっていないなら、そのまま上手くいかなければいい。応援なんてしたくない。

なんて、醜い感情ばかりが湧き上がった。

八尋だけは好きになっちゃダメなのに。
それはずっと揺るぎない自分の中の掟だったのに。

蓋がズレて外れてしまったのか、中身が溢れそうになる。

「一個だけ、聞いてもいい?」

ちとせは醜く暴れる自分の感情にもう一度蓋をしながら問う。

「なに?」

「どういうところが、好きなの、その子のこと」

こんなこと聞いたって何にもならないのに、聞いてしまっていた。

「あえて言うならだけど、前向きで優しいところ、とかかな」

ぶっきらぼうに言われたその言葉が、心の奥にずしりと響いた。

聞かなきゃ良かった。
そんなの自分と真逆じゃないか。
その事実が、痛くて堪らない。

「さすがにもう遅いし、帰ろ」

そう言い立ち上がる八尋。
ちとせは身体に力が入らず、立ち上がるまでに時間がかかった。

また手を引いて欲しい。
だけどそんなこと言えるわけもなく、微かに痛む足でとぼとぼと横を歩くことしかできなかった。

自分はいったい、八尋に何を求めてしまっているのだろう。


新島ちとせは、中学校に上がると共に今住む街へと引っ越してきた。

成績も運動神経も見た目も人より良かったちとせはすぐに友達ができた。そして同時に女子生徒から"そういう目"で見られることも増えていた。

「私だけ、ちとせって呼んでもいい?」

中学二年に上がったばかりの頃、クラス一だか学年一だかの美人に、大勢の前でそう言われ、ちとせは顔を強ばらせた。

女らしい媚びた声と笑顔が気色悪く、頭の奥でキンと金属が鳴るような耳鳴りが響いた。

「え、嫌だ」

どうしても嘘など付けず正直に言えば、彼女は泣いて教室を飛び出して行ってしまった。

「お前バカじゃねーの、すぐ謝りにいけよ」

友人に謝罪を強いられ肩を捕まれたが、気分が悪くてそれどころじゃない。
頼むから身体を揺らさないでくれ、と目を瞑り祈っていると、ふいにそいつの手が離れていった。

目を開けると、後ろの席の男が間に割って入り止めてくれていた。
それが八尋だった。

「名前にいい思い出ない奴だっているし、今のは新島も被害者だろ」

「平気か?」と顔を覗き込み、青褪めたちとせの顔を見て、手を引き教室から連れ出してくれた。

保健室まで無言で歩き、その扉を開く。

「先生いないな」

八尋はちとせをベッドに座らせた。
なんか飲み物ないかな、と呟きながら勝手に保健室を漁る姿を見て、ちとせは恐る恐る口を開いた。

「名前が嫌だったわけじゃないんだけど、その、ありがとう」

「あっそう、まあなんでもいいけど」

八尋は大してこちらに興味がない様子で飲み水すらみつけられないことを嘆いていた。

「先生もすぐ戻ってくるだろうし、休んでな」

そう言い残し行ってしまいそうになる八尋の手を咄嗟に掴んでいた。

「なに、寂しいの?」

呆れて笑う整ったその顔を見て、胸が締め付けられる。

この人の興味を引きたい。

「女が苦手なんだ。五歳の頃、母親が俺を巻き込んで心中しかけたせいで」

「は?」

それにしても唐突だった自覚はある。
今日初めて話をしただけの同級生にそんなことを言われたら、困るだろうな。

八尋の困惑した表情を見てすぐさま反省した。

「……それで、フラッシュバック的な?」

それでも八尋はその手を振り解かずに、ベッドの横に腰掛けてちとせの話を聞いてくれた。

「そこまでじゃないけど、女の子が怖くて、身体が拒否反応でるみたい」

「お母さんは今どうしてる」

「……母さんはそのまま死んだ。俺だけが、助かった」

真っ赤な視界。燃え盛る炎の中で、母さんに手首を捕まれ動けないちとせ。嫌だ嫌だと泣き叫ぶちとせに、母さんは何度も「仕方ないの」と言っていた。

若くて美人で可愛らしい自慢の母さんだったのに……その入念に手入れされた美しい茶髪は、ぐしゃぐしゃに乱れてしまっていた。

優しさと、笑顔と、暖かさと柔らかさ、そしてそれが醜く歪む豹変っぷりを目の当たりしたのが酷くショックで。女性らしさという皮を被った化け物がその中にいる気がして。

その後救助が来て、ちとせの身体は消防隊に拾い上げられた。

『やめて!連れていかないで!』

そう泣き叫ぶ母さんの声だけがちとせの耳にこびりつき、いつまでもその声色だけは忘れることが出来なかった。

救助が遅れたからか、母さんが抵抗したからなのかはわからないが、結果として自分だけが助かってしまった。
生まれ育った家も母さんも、消えてしまった。

父さんは、ちとせに何度も謝罪をした。
どうやら両親は上手くいっていなかったらしい。

「今はね、父さん再婚して新しい母親が家にいるんだ」

「へー、切り替え早。懲りないもんなんだな」

八尋は遠慮なく感想を述べた後、やべっという表情でちとせに謝った。

「いいよ、俺もずっとそう思ってるし」

笑い飛ばすと、八尋はその倍は楽しそうに笑った。

「案外明るく話すのなおまえ、途中で泣いちゃうかと思ったのに」

その後、お互いのことをなにも知らない二人は自己紹介をするかのように自分達のことを語った。
何が好きで何が嫌いかとか、小学校の頃なにが流行っていたかとか、好きなゲームの話とか、中身は思い出せないくらいどうだっていい話。

だけど、波長が合うと言えばいいのだろうか、話をしているだけで楽しくて、笑うタイミングが同じであった。

八尋はベッドに横たわると、「あーあ、授業サボっちゃったな」と、しんみり呟いた。

「教科書読めばなんとかなるよ」

ちとせはそう言いながら八尋と向き合うように寝そべる。

「おまえ、まつげ長いのな」

八尋はちとせに顔を寄せてそう言った。

「母さんに似たんだと思う」

ちとせは答えた。

「じゃあ相当の美人だったんだ」

言葉の隙間にゆっくりと時間が流れていた。

「庇ってくれてありがとう」

もう一度礼を言うと、八尋は眉を下げて微笑み、ちとせの頭を撫でる。

その瞬間、うるさく鳴る心臓に戸惑いながらも、ちとせは気づいてしまった。
自分の恋愛対象が男かもしれないという事実に。


そして現在、

八尋が好きな人に随分とメロメロであると知ってしまった、その翌日。
ちとせはいつもより二時間も早く目が覚め、一時間も早く学校に着いてしまっていた。

こんな時間に学校に来たのはサッカー部の朝練以来だろう。
教室にいても落ち着かないので図書室へと向かおうと思い立つも、こんなにソワソワとした状況で本なんか読めるのだろうかと思ったりもして。

「新島?」

階段を昇るちとせの背中を呼び止めたのは、椎名翔の声であった。

「朝早いな、どこ行くの?」

爽やかな笑顔を向けられ、心臓の音がトコトコと早くなった。

「早く着きすぎちゃったので、図書室に行こうかと」

翔は「俺も行っていい?」と尋ねながら、ちとせの返事を待たずに横に並び歩き始めた。

二人で図書室に入る。誰もいないその部屋を見渡し、電気とエアコンをつけた。

「先生も不在みたいですね」

ちとせはなんとなくその辺にあった本を手に取り、いつも座る窓際の席に座った。翔は慣れない様子で周囲を見回しながら、ちとせの後を追い、すぐ横に腰掛ける。

「落ち込むようなことあった?」

翔は持っていた台本を開きながらちとせに尋ねた。
人のことをよく見ている翔のことだ、ちとせが漠然とした不安と焦りを抱えていることなどお見通しなのだろう。

「……先輩は、好きな人とかいますか」

ちとせは思い切って尋ねた。
反応が怖くて顔が上げられず、言葉を待つ間は鼓動がとにかく早くなる。

「うん、いるよ。この学校の人じゃないけど」

「……そうなんですね」

思ったよりもショックは受けなかった。
残念ではあるが、やっぱりな、とか当然だよな、とかそういう感情が先に立ち、受け入れてしまう。

八尋の話を聞いた時のような拒否反応や重い痛みとは同じじゃない。
もしかして、自分の翔への思いは本当にたいしたものではなかったのだろうか。

「恋愛で悩みがあるの?」

翔は黙り込むちとせを不安そうに見ていた。
その通りだったが、当事者でもある翔に打ち明けにくく、俯いたまま言葉を探す。

「俺実は女の人があんまり得意ではなくて」

「あぁ、なんとなくそうかなとは」

「ずっと避けてたのでこう……恋愛とか、そういうのがいまいちピンとこなくて」

上手く言葉に出力しきれないちとせの気持ちを翔は汲み取ろうと真剣に話を聞いてくれていた。

「人を好きになるってどんな感じかなぁっていう、それだけなんですけど、悩んじゃって、翔先輩にまでこんな相談してる現状です……」

一通り話し終えたちとせが翔の方を見ると、翔は難しい表情でこちらを見ており、その真剣な顔はやっぱり単純にかっこいいと感じてしまうのであった。

「俺はさー、たぶん新島と逆で、すぐ人を好きになるんだよね。友達とか憧れとか、いろんな好きがあるからさ」

ちとせは困惑した。
好きな人という言葉がさらに広いものとなってしまい、自分の気持ちがより一層大きな迷路に迷い込んでしまった様であった。

「だから参考になるかわからないけど、新島は具体的にはなにを悩んでるの?」

「……好きな人のこと思ったより好きじゃないのかも、と思ったり、好きになっちゃいけない人を好きかもしれないと思ってしまったり、です」

翔は台本の裏に雑な相関図のような物を書き記しながらちとせの話を聞いていた。

「人それぞれ基準は違うだろうけど、自分にとって一番必要な人イコール好きな人ってのがいいと思うけどね」

「必要な人?」

「そ、一番自分のことわかってくれてるなとか、他の人に取られたくないとか、ずっと一緒にいたいとかも自分にとって必要ってことじゃない?」

"必要"という字を書き込み、それを何度もぐるぐると丸く囲っている。

「たいして必要ないのに付き合ったりするからみんなすぐ別れたりするんだよ」

「必要な人、友達のままじゃダメなんですか」

「別にいいけど、その大事な友達が別の人と付き合ったりしたら横から必要ってねだるのも罪になるから、友達で満足はオススメしないかな」

先輩の経験談ね。と明るく言ってみせるが、その笑顔にはほんのり切なさも混ざっているように見える。

「じゃあ翔先輩は好きな人のために毒、飲めます?」

「あー、ロミジュリ?俺本当に絶対に万が一にもあんな結末嫌だけど、飲んじゃうだろうね、絶望して」

みんな飲める物なのか……?とちとせは驚き動揺した。みんな、恋愛に命をかけすぎている。

「新島はどっちのためなら飲めそう?」

自分がロミオで、翔か八尋が愛おしい人だとして。その想像をしてみようとしても、難しかった。

想像してしまうのは、ちとせだけが観客席に座る姿。同じ舞台にすら立つことのないポジション。男である自分は愛し合う想像をすることさえ許されない気がして、毒すら手に入れられない。

「そもそも俺はロミオにも、ジュリエットにもなれないです」

必要としてはいけないのだ。

翔が手に握っているシャーペンをその手ごと動かし、"必要"という文字にバツを書いた。

翔は神妙な表情のちとせを目の前に言葉を失い、弱々しいバツをじっと見ていた。

その時、沈黙を裂くように予鈴が鳴った。
窓からは校舎の方へと吸い込まれていく生徒がよく見える。

「そろそろ戻りますね、俺」

ちとせは逃げるようにして一人で教室へと戻って行った。

教室はいつも通り賑わい始めていた。
後ろの席の八尋はまだ来ていない。思い出される昨夜の失態の数々に正直顔を合わせたくない。

机に突っ伏し外界からの情報をなるべく減らしてやろうと抗っていると、席の近い男子達が佐藤柚希の話をしているのが聞こえてくる。

「佐藤柚希はオタクじゃなきゃなぁ」

「わかる美人なのにまーじでもったいない」

「中身キモくなきゃ付き合うのに」

なんて品のない会話。
本人やその友達が聞いていたらどうするんだ、と顔を上げると案の定、彼女達はその声が聞こえるであろう場所で俯いていた。

「新島もそう思うよな」

男子集団に話を振られ、ちとせはゆっくりと彼等の顔を見た。時々話すことはあれどあまり接点のないクラスメイトの顔をじっと見つめて溜め息を吐く。

「子供っぽ」

思わず本音が漏れる。

「なに?」

聞こえているのかいないのか。
下手に騒ぎになっても困ると思い「なんでもない」と言ったが、彼等は引き下がらずにちとせに突っかかった。

「なんでもなくないだろ」

目が笑っていない彼等を見て、ちとせは小さく口の中で舌打ちをした。

「いや、本人聞こえてるってわかってやってるんでしょ。そんなやつ佐藤さんの方から願い下げだろ」

寝不足が判断を鈍らせたのか、佐藤柚希なんかのために面倒事に巻き込まれる発言をしてしまった。

ちとせとその集団が良くないオーラを放っているのは周りにも伝わっており、クラスメイトは皆こちらの様子に耳を傾けながら下手くそな雑談をぽつりぽつりと続けていた。

奇妙な空気。

そこに担任が入ってきて、緊張感に満ちたその空間は少しずつ崩れていく。

担任は生徒達の微妙な空気などおかまいなしに出席を取る。

「川島」

先程ちとせに話を振った男、川島がふてぶてしい態度で返事をした後、こちらを振り返り睨みつけてくる。

めんどくさいやつに目を付けられてしまった。
ちとせは自分の行動を後悔しかけて、思い直す。あそこで嘘の同調をして人を傷付ける方がよっぽど気分は悪かっただろう。

間違ったことはしていない。

「新島」

背筋を伸ばし担任の呼ぶ自分の名前に返事をした。

「野沢……あれ、野沢は休みか?」

振り返るとそこに八尋の姿はなかった。
机の下でスマホを開くと『寝坊した』と一言メッセージが届いている。

それに返事をしている時、また別の通知が届く。

『さっきはありがとう』

『返信不要です』

友達登録していない名前『ゆず』は佐藤柚希のことだろう。

『気にしなくていいよ』と不器用な言葉だけを返しスマホを閉じた。


「ちとせ、これ柚希がおまえにって」

その日の放課後、八尋はチョコクッキーの箱を差し出しながらそう言った。

自分の机で持ち帰る教科書を整理していたちとせは、ちょうど小腹が空いていたためラッキーだと思いながらそれを受け取り、早速箱を開けて一枚口に投げ入れる。八尋はちとせの机の上に遠慮なく座りその様子をじっと見ていた。

「なに、欲しいの?」

もう一枚取り出し、八尋の方へと向ける。

「やった」

八尋は微笑むと、ちとせの手からそのままクッキーを食べた。

「おやつ欲しがる犬みたい」

ちとせはそう言って照れ隠しをし、また一枚、自分の口へとクッキーを運ぶ。

今日一日、遅刻で二限目からの登校をしてきた以外、八尋はいつも通りの様子であった。
ちとせが泣いたことなどたいして気に留めていないのか、いつも以上にこちらの顔を見ていない気がする。

まあ気にしていないならそれはそれで良いのだ。
ちとせを大事だと言った八尋の言葉に嘘はないと信じ、これからも一番の親友でいる。
それは難しいことではない。

自分が翔を好きだとしても、八尋を好きだとしても、どちらにせよ男同士など叶わぬ恋だ。
せめて八尋の恋が上手くいきませんようにと意地の悪いことを祈りながら死ぬまで孤独でいるのだろう。

そんなことを考えながら八尋の横顔から目を離し、何気なく廊下へと目をやると、見覚えのある影がじっとこちらを見ていたようで、その人物と目が合う。
反射的に「最悪」という表情を浮かべたちとせは、それに気がついていない八尋の袖を引っ張った。

「今日って演劇練習あるんだっけ?」

「ないけど、みんなで出かける約束してて他クラのホームルーム待ち」

「ジュリエットも一緒?」

そう尋ねながら教室の前に居座る女、ジュリエット役の久城玲奈を睨み続ける。

「久城が言い出してさ、一年と二年合同で飯だって」

八尋はまだその姿に気がついていないのかスマホの画面を見ながら「ちとせ、もう一枚」とクッキーをねだる。
再び餌やりのごとくクッキーを与え、なぜかキッと睨み返してくる久城玲奈をしばらく見ていた。

「疲れるから行きたくないんだよね」と嘆く八尋に「なら行かなきゃいいのに」と言うと、八尋は少しだけ嬉しそうにこちらの顔を見た。

「ちとせが行かないでーって言うならやめるけど」

「はあ?調子乗ってんだろ」

睨む先を八尋へと変えてそう口にする。
ただそんな自分の一言でこの男の行動を制限できるかと思うと妙に嬉しくワクワクした。なんだかんだ八尋は自分に甘いのだ。
もしかしたら本当に、ちとせが必要だと言えばそれに応えてくれるかもしれない。

「じゃあ行かないで」と口にしてしまいそうになりぐっと堪える。"必要"という文字にかぶせたバツ印が思い出された。

「悠太終わったっぽい」

八尋がスマホから目を離し顔を上げて廊下を見た。
そこには篠山悠太の姿があった。続け様に久城玲奈の姿にも気がついた八尋はあからさまなため息を吐いた。

「ていうか、ちとせも来る?」

突然そう言われ、首を横に振った。
昨日の練習の時も思ったがあのハイテンションなジュリエット役だけは見ているだけでイライラする。かなり苦手なタイプであった。とても一緒に食事を囲みたいと思えない。

「おい八尋いつまで待たせんの」

篠山悠太が痺れを切らした様子で言いながら遠慮なしに教室へと入ってくる。

「やっほー新島ちゃん昨日ぶり、そろそろ八尋返してもらっていい?」

冗談めかしく言ってみせる悠太に、ちとせはなにも言い返すことができなかった。
こういうノリも苦手なんだよな、と自分の退屈さに嫌気がさす。口へと運びかけていたクッキーもこのタイミングで食べて良いのかわからず迷子になってしまった。

「いやいや悠太くん、残念ながら俺はちとせの物なんで」

八尋が、ちとせをフォローするかのようにそう言って、迷子のクッキーもパクりと食べてしまった。
冗談だとわかっていても、その言葉に昨日までの不安がほんのり薄まる。

悠太はそんなちとせの気持ちもお構いなしにまた冗談らしく文句を言い返し、早く行こう早く行こうと子供のように駄々をこねている。「わかったわかった」と友人をなだめる八尋に「行かないで」など間違っても言えそうにない。

「じゃあ俺行くけど」

八尋は心配そうにこちらを見た。
けど、なんだ。と聞いてやりたくなったが口を噤む。

「俺は、八尋がいなくても平気」

安心してくれ、という気持ちで言って顔を上げると「振られてやんの」と揶揄う悠太の横で、八尋は不機嫌そうにこちらを見ていた。

「あっそ、じゃあいいや」

子供のように不機嫌を隠さないその態度が珍しく、「え」と声が出た。

冷たかったり、甘かったり、怒ったり。

長いこと親友をやっているが最近の八尋はやっぱりなにを考えているのかわからない。

荷物をだるそうに持ち教室の外へと消えていくその姿を眺めながら、クッキーの箱を探る。気がつかないうちに最後の一枚を食べてしまっていたらしく、箱の中にはなにも残っていなかった。

三年前、中学二年生の春。
保健室で初めて二人で話したあの日。
恋愛対象が男かもしれない、と思った幻のようなあの日は日毎に薄れ数ヶ月が経って、

季節は巡り夏になっていた。

その頃にはすっかり八尋の親友となってしまった自分はその居心地の良さに慣れ、八尋を想う自分の気持ちが恋かどうかなど気にしなくなっていた。

「あれ、ちとせいる、ラッキー」

そう声をかけられたのは、期末テスト初日のこと。
その日はほとんどの生徒が二教科のみのテストを受けさっさと下校しており、教室にはちとせ一人であった。

「八尋帰ってなかったの?」

「テストの名前書き忘れて呼び出されてた」

「え、怒られた?」

「ぜんぜん!」

八尋はなに一つ痛くない表情で首を横に振っていた。

「ちとせは勉強?エアコン止められてて暑くない?」

「暑いけど図書室閉まってて行くとこないんだよ」

ちとせが嘆くと、八尋は少し考えた後に「じゃあさじゃあさ」と嬉しそうにこちらを見つめた。

「俺の家くれば?一緒に勉強しよ」

急に押しかけて平気なのかと何度も聞いたけれど、八尋は大丈夫としか答えなかった。ちとせはその言葉に縋るように後を追って、初めて八尋の家へと上がり込んだ。

八尋のお母さんは最初こそ良い顔をしなかったが、事情を伝えれば優しく受け入れてくれた。リビングで勉強をしていたお姉さんも微笑みかけてくれて、ちとせの強ばった表情はだんだんと綻ぶ。

それから八尋の部屋で大人しく勉強をした。余計な会話はなく、お互い教科書と向き合っていた。人がいると中々集中できないちとせだが、八尋とだったら平気なようだ。

「コンコンコーン、ドア開けてくれる?」

扉を開けると、八尋のお母さんがお盆を持って立っていた。

「ちとせくんは甘いもの平気?手作りのあんみつなんだけど、食べられるかな」

ツヤツヤの白玉とカラフルなフルーツ、そして粒あんと抹茶アイスがバランスよく盛り付けられた透明な器が目の前に置かれると、ちとせは嘆声をもらした。

「大丈夫、目キラキラ輝かせてるし」

先程の問いに八尋が代わりに答えると、八尋のお母さんはニコニコと嬉しそうに「じゃあ勉強がんばってね」と部屋を出ていった。

八尋が優しくて暖かくて真っ直ぐな人であるということに理由があるとすれば、この家で育ったことが答えなのだろう、とぼんやり思いながら冷たいあんみつを口いっぱいに頬張った。

「ちとせって美味しそうに食べるよね」

こちらを見る八尋と目が合う。
口の中のものをゆっくりと味わいながら、首を傾けて見せた。

「かわいいなあ」

そう発する八尋の笑顔に動揺し、少しむせた。

「なに、かわいいって」

「言葉通り」

八尋はそれだけ言って、教科書へと視線を移す。

そう、こんなふうにして八尋はちとせをかわいがるのだ。特別扱いという言葉が似合うほど、他の人に対する接し方とはまるで違う。出会った頃とも違い、好かれているのだと自覚させられる。

その度に勘違いしそうになって思い留まる。特別だとしても、親友以上ではないというのに、時々それを忘れてしまいそうになる。

「これは違うんだ」と自分に言い聞かせると共に、自分から八尋に向く矢印も否定して、互いの思いは美しい友情であると脳に刷り込ませて。


そしてまた次の春。中学三年生。
クラス替えの結果、八尋と違うクラスになった。

部活のない日は一緒に帰る約束をしたりお互いの家で遊んだり、なるべく一緒の時間を減らさないよう努力していた。

そんなある日の帰り道、いつもはよく喋る八尋が随分と大人しくて、具合でも悪いのかと尋ねた。

「ごめん考え事してた」と呟くので、何を考えていたのかと質問責めにすると、八尋は首の後ろを抑えながら、

「隣のクラスの女子に告白された。返事保留にしてて」

なんて、信じられない言葉を口にした。

「え、付き合う気あるってこと?」

聞くと、嫌いではないから付き合ってもいいかな、とかなんとか適当な事を言いだすので、ちとせは思わず「だめ」だなんて言ってしまって。

「彼女なんかできたら、もっと一緒にいる時間なくなっちゃうだろ……ほら、クラスも離れたのに」

置いていかれるような寂しさに理由をつけてそんな言葉を並べると、八尋は少し驚いた表情でこちらを見て、歩くスピードを遅くした。

「その子のこと好きだって言うならあれだけど、違うなら、俺といた方が楽しいよ」

そう言う自分の足取りが重くなっていることに気が付く。ほとんど前に進めていない両足を引きずり、八尋の顔を見上げる。

八尋は優しいから、「そうだな」と嫌な顔ひとつせず微笑んでくれた。

「ちゃんと好きになった子と付き合えよ」

そうだ、そうそう、女の子にも失礼だし、自分のこのわがままな主張は間違っていないはずだ。

「好き……かぁ」

八尋は深い溜息の後、こちらを振り返りじっと見つめてくる。

「ちとせのかわいい顔に慣れすぎて他が霞むんだよな」

そんな冗談かわからない言葉をかけられ、ちとせは少し悔しかった。だからだと思う。

「じゃあ、一生好みの顔が現れなかったら俺と付き合えばいいよ」

そんな普段は言わないようなことを言ってしまったのは。

「え、本気で?」

八尋の困惑を含む大きな声を聞いて、怖くなった。友達間の冗談としてはやりすぎたセリフだっただろうか。

「冗談!なんて顔してんだよ!」

心臓が少し痛い。自分に嘘をつくのは何度目だろう。

「ああ、びっくりした」

八尋がどこか安心したように見えて、また、胸が突き刺されるように痛んだ。

その翌日から八尋はあまりこちらを見なくなった。かわいいと口にすることも無くなり、特別扱いも減ってしまった。クラスが離れたからなのか、自分の失言が理由なのかわからないけれど、一緒に帰ろうとか遊ぼうとか、少しだけ言いづらくなってしまった。

それでも避けられたわけでもないし、笑いかけてくれるし、親友には違いなくて。

小さな変化に翻弄される自分が、ただそこに居るだけだった。


そんな昔のことを思い出したのは、その頃の夢を見たからだった。開けたまま寝てしまった窓の外からひんやりとした空気が入り、現実へと引き戻される。

気が付けば10月になり、文化祭まで残り僅か。
ワイシャツに加えてカーディガンが必要な季節に変わっていた。

八尋はこの間の放課後以来、ちとせを置いてどこかへ向かう際に拗ねた様子で「俺がいなくても平気だもんな」と意地悪を言うようになり、ちとせはその度に「根に持つなよ」と笑った。

それと同時に川島という男とも険悪な雰囲気が続いており、ちとせが授業で発言すれば鼻で笑われたり、すれ違う際にわざとぶつかられたりと軽微な嫌がらせを受けていた。

チクチクと当たられていても、文化祭のクラス出店の準備も自分の担当はほとんど終わっているため学校生活に支障はない。相手が気が済まなければどうしようもないのだと特に気にはしていなかった。

それ以外は特段変わったことのない日が続いていたその朝、ちとせは朝ごはん代わりのヨーグルトを食べようとリビングに降りていく。そこで目についたのは用意された朝ごはんと父の姿。

「父さん、仕事は?」

「美紗の体調が悪いから有給を取ったんだ」

そういえばここ最近の母親は元気がなかったかもしれない、と思い返しながらダイニングテーブルへと座る。「いただきます」と手を合わせて綺麗に巻かれた卵焼きを箸で掴んだ。

「ちとせに話がある」

父さんはちとせの目をじっと捉えたまま真面目な表情で言った。

「美紗と打ち解けづらいというのはわかるが、もう少しだけ優しく接することはできないか」

「……どういうこと?」

父さんは珍しく口篭り、少し考え込む素振りを見せてから口を開く。

「瞳は育児に対して少しノイローゼのようなものになっていたんだ」

瞳は死んだ母さんの名前だ。
父さんからその名前を聞くのは何年ぶりだろう。

「父さんはあの時、瞳に対してなにもしてやれなかった。同じことを繰り返したくないから、お前にこうして向き合おうと決めたんだ」

「母さんも美紗さんも、俺のせいで体調を崩したって言いたいわけ?」

「そうじゃない、ただ父さんにもお前にもできる事があったんじゃないかって後悔していて……」

この人は何を言っているんだ。
頭にカッと血が登り、持っていた箸を机に置いた。

ちとせがいくら気丈に振舞っていたとしても、今の言葉はあんな経験をした息子にかける言葉だろうか。

ちとせの思い出にはいつも笑顔の母さんがいたのに、その母さんはちとせ諸共死んでしまおうと家に火をつけたのだ。自分は被害者であり、その傷が完全には癒えていないというのに、父さんはその何ひとつもわかっていない。

それどころか、たった5歳だったちとせのことを加害者だと思っているのか。

ふつふつと湧き上がる怒りと失望、そして悲しみを抑えながら、食べかけの朝食を残し席を立つ。

「待ってくれ、美紗と良好なコミュニケーションをとる努力をしてほしいんだ」

どうして新しい母親の肩を持つのだろうか。

そもそも大切な母さんがああなってしまったのは父さんと上手くいっていなかったからではないのか。

「……母さんは、どうして死んだの」

「どうしてって」

「父さんが、火事になったあの家に駆け付けたのは火が消えたずっと後だっただろ」

おまえのせいだ、という気持ちが父さんに対して消えないでいる。遠回しに責めるような言葉ばかりが口をついて出てしまった。

「父さんが早く駆け付けていても何も変わらなかったよ」

そういうことを言っているわけではないのに。
話が通じず苛立ちが募るばかりだ。

そしてふと思う。母さんの死後その事に向き合って話すことは今日が初めてだな、と。今なら何を聞いてもはぐらかしたりせず答えてくれるのだろうか。

ちとせはリビングの扉にかけた手を一度離し、父さんの方を振り向くことはせず口を開く。

「母さんは、救助が間に合わなくて死んだの?それとも逃げたくなくて抵抗したの?」

その言葉に、父さんはすぐには答えなかった。

「答えてよ」

痺れを切らし振り返ると、父さんは俯きほんの少し肩を震わせている。泣いているのだろうか。

「瞳は、お前が助け出された後、救助隊の前でパニックになったまま、台所の包丁で自分の胸を刺したんだ」

父さんは小さな声でぽつりぽつりとそう言った。

ちとせは目の前がぐらりと揺れ、扉に体重を預けた。耳が篭もるような感覚の後、「連れていかないで」と泣き叫ぶ母さんの声を思い出す。

ああどうして。

耳から、離れない。

どうしたら良かったというのだ。

ちとせはリビングの扉を開けて這うように自室に戻り、スクールバッグを持って急いで家を出た。

父さんは何度も何度もちとせの名前を呼んでいたようだったが、鳴り止まない耳鳴りが邪魔をしていてよくわからなかった。

例えその声が聞こえていたとしても、受け止める心の隙間なんて、少しも残っていない。


そしてその日、大きなショックを受けている割にはいつも通りに過ごせるもので、むしろ目の前の勉強に集中することで朝の出来事を考えずに済むようで。

自分の名前を呼ぶ、いつもと変わらない八尋の声を聞くだけで母さんの声は薄れていく。

「ちとせ、また明日」

放課後、八尋は演劇の練習があると言って手を振り教室を出て行った。
自分達の教室も文化祭出店の準備のため賑わっており、ちとせの居場所はどこにもなかった。

いつも通り図書室に行って時間を潰そうかとも考えたが、今あの静かな空間にいるよりはこの賑やかな場所にいた方が正気を保てそうだと思うと身体が動かない。

「ごめん新島、もし時間あったら作業手伝ってくれない?」

ぼんやりと席に座っていたちとせを見て、サッカー部で一緒だったそこそこ仲の良いクラスメイトが声をかけてきた。

「俺たちみんな部活の方ばっか行ってて作業進んでないんだ」

たこ焼きを入れる紙パックやビニール袋、メニュー表やら細々とした備品の準備を担当しているらしい彼等は眉を下げてちとせを見た。

「新島の字綺麗だし可愛い絵も描けるだろ」

メニュー表の清書を頼まれる。ちとせは「いいよ」と返事をしてカラーペンとケント紙を受け取った。

なんでもない雑談に混ざりながら、ちとせは作業を進めた。サッカー部の頃を思い出しほんのりと懐かしい気持ちになる。

「練習さ、新島もたまには顔出せよ」

去年膝に負った怪我は選手生命を経つものであったが、日常生活には支障なくお遊び程度の運動はできる。

それを知っている彼らはちとせが部活を辞める際も大袈裟に悲しんでくれた。

「文化祭終わったら遊びに行こうかな」

ちとせが言えば彼等はまた大袈裟に喜びハイタッチをするのであった。そんな姿を見ているとなんだか安心する。

自分は生きていて良いのだ、と。

無事に清書を終えてえんぴつの跡に消しゴムを掛けていると、突然机がガタンと揺れる。

顔を上げると川島がわざとらしくぶつかったようで、すぐ横でこちらを睨んでいた。気にしても仕方がないし、こちらが謝る義理もなくちとせは黙ったまま止めていた手を再び動かした。

「まじでうぜーなお前」

無視をしたのが面白くなかったのか、川島は珍しく直接的にそう言った。

「おいやめとけよ」

川島の友人は半笑いで言うが、本気で苛立っているらしい川島はもう一度ちとせの机を大きく蹴った。

「なにしてんだよ」

それを横で見ていたサッカー部の友人達も声を荒らげて立ち上がった。

いやいやそんな大事にしないでくれ。と内心思いながらも、自分がなにか言えば火に油を注ぎそうで口を開くことができなかった。

無視し続けるちとせが気に入らなかったのか、川島は舌打ちをした後、ほぼ完成したメニュー表をぐしゃぐしゃに丸めて投げ捨てる。

気にしないフリは得意なはずなのに。
アイスをスプーンで削りすくうように、ちとせの心はえぐれていった。

「川島おまえいい加減にしろ」

ちとせの代わりに叫んでくれる友人に「メニューならまた書くから大丈夫」と無理して笑って宥める。
たしかに腹立たしくショックも大きいが、怒ったところで何になるんだ。

「こいつ本気で頭おかしいんじゃねーの、ムカつくんだよ」

川島の声色はさらに怒りを含んだ物へとヒートアップし、川島の友人もさすがにまずいと思ったのか彼を止めようと肩を掴んでいる。

「俺、メニュー表もう一回家で書いてくるから今日は帰るよ」

自分がこの場から立ち去るべきだと思い言うと、「逃げんじゃねーよ謝れよ」と川島は主張した。

何に対して謝ったらいいのかわからないが、謝れば済むのだろうか。教室を見渡せばみんなこちらに注目しており、随分と大事になってしまっている。サッカー部の友人にも迷惑をかけたくなかった。

「わかった、全部俺が悪かった。この前も失礼なことを言ってごめんなさい」

立ち上がり頭を下げる。
これで少しは収まってくれと願ったが、ちとせの大人な対応は川島にとって気持ちの良いものではなかったようだ。

彼はちとせが狼狽え動揺し、嘆き怯える姿が見たかったのだろう。

川島の苛立つ足はまた近くの机を蹴飛ばした。その机は中に入っていた教科書をばたばたと落としながら床へと倒れる。

「噂通り、どっかおかしいんだな新島って」

声を荒らげ、ちとせの目の前へと一歩近づく川島。

「家庭環境が性格に出てる」

その声に、ちとせの表情はついに強ばる。

「おいさすがにやめとけって」

川島の友人はそう言いながら必死で肩を抑えていたが強く振り払わられ、後退りをした。

「腰、見せてみろよ」

その言葉が落ちると同時に、川島の手がちとせのワイシャツとカーディガンへと伸びた。拒む腕を押さえつけられ、布地は容赦なく引き剥がされた。

胸下から腰にかけての、大きな火傷跡。
ちとせの秘密が白昼に晒される。

教室の中は息を飲むような気配と、「……え」という、誰かの困惑の声。

川島は笑っていた。「噂通りだ」って。

目の前がぐわんと揺れて、気分が悪い。
世界が二重にぶれてガクガクと揺れ続ける。
平衡感覚がわからず立っていられない。

どうしよう。

どうしたら良いのだろう。

どうして、自分はこんな目に遭わなければいけないのか。

「ちとせ」

目を瞑ったその時、八尋の声がした。

教室の扉を勢いよく開けて、人混みを割ってこちらに向かってくる。その姿だけを捉えると、ちとせの瞳には光が戻った。

クラスメイトを掻き分けた八尋は、川島の肩を思い切り掴み、ちとせの前から引き剥がした。

「大丈夫か」

血相を変えて、という言葉が一番適している。
額に汗を滲ませる八尋はいつになく真剣な表情でちとせを見ていた。頷くだけしかできないちとせを椅子へと座らせた八尋はそれ以上何も言わない。

それに対して川島は八尋に突き飛ばされた事に腹を立ててまだなにか言っている。

ちとせはぐるぐると回る視界で俯くことしか出来なかった。

「野沢くん、危ない!」

叫ぶような佐藤柚希の声が耳に入る。
顔を上げると、川島が背後から近づき八尋の頬を殴り付けた。

「やめて」と小さな声がちとせの口から漏れるが、その声は周囲の悲鳴で掻き消される。

八尋の口元にはじんわりと血が滲んでいた。

大人しかった八尋は口元を拭った右手でそのまま川島を殴り返す。いつもの優しい表情は一転し、怒りで自分を見失っているようだった。

川島が机ごと崩れ落ち、反撃の意思を見せなくなった後も、何度も、何度も。

八尋は怒っていた。
言葉がそこまで上手じゃないから、こんなことでしか表現できないんだ。

「八尋、もういいから」

ちとせの声は届かなかった。
こんなの、望んでいないのに。

周りの者も八尋を止められず、数名の女子が教師を呼びに走り出す。
このままでは八尋ばかりが罪に問われてしまうだろう。

ちとせは意を決して殴られ続ける川島を庇うよう、二人の間に割り込んだ。

その瞬間、鈍い痛みがちとせの脳に響く。

……俺の親友はこんなにも強く人を殴れるのか。
じんじんと痛むこめかみを抑えながら、八尋の目を見つめる。

「……なんで」

八尋は酷く掠れた声で呟いた。

「俺のためにそんなことしないで。俺はなんにも、痛くないから」

ゆっくりと首を横に振れば、八尋は動揺した様子で、その瞳がぐらぐらと揺らいでいた。何かが崩れてしまうように力が抜けていき、八尋の身体は、小さく小さく震えながら床へとへたり込む。

「俺ばっか、こんな痛いのか」

八尋は自分の膝を抱え込み、呟いていた。
口元と鼻から滲み出た血が八尋の白いワイシャツを汚す。

「保健室、行こう」

ちとせは八尋の手を取った。その指先は驚くほどに冷たい。自分の温度を分け与えるようぎゅっと握りしめて、そのまま教室を出る。

廊下を歩き、階段を降り、また廊下を歩く。

その間ずっと何も言ってくれない八尋だったが、握る掌だけはちとせを離さないようしっかりと力が込められていた。

最低の一日だった。
でも、今こうして薄暗くなった廊下を、大切な親友と歩いている。
それだけで、今日一日の悲しみも、怒りも、なかったみたいに思えた。
ただ、穏やかでいられる。

必要だ。

なによりも八尋が必要だ、と。
頭の中でその文字を思い出す。


八尋が髪を金色に染めたのは、去年の夏。
高校一年生の夏休みだった。

先輩を好きだと打ち明けてからほとんど目が合わなくなってしまったから、髪を染めた理由なんて知らない。

篠山悠太という新しい友人や他校の柄の悪い先輩とつるむことが増えて、どんどん知らない人になってしまうんじゃないかって、すごく不安で。

暖かくて優しい八尋の笑顔が曇っているのが見ていられなくて。目を背けていたから、その夏の八尋のことをよく知らない。
こんな、見ている先すらちぐはぐな二人は、親友と言えるのだろうか。なんて随分悩んだりして。

ちとせが大怪我をしたのは、夏合宿の最中であった。時々膝が痛むのを誤魔化し練習をしていたら、激痛が走りその場に倒れ込んでしまった。

「新島!」

大丈夫か、なんて心配の言葉よりも早く、ちとせの身体を支えグラウンドの外へと運んでくれたのは翔先輩だった。

男らしい鍛え上げられた腕に抱えられ、安心した。
感じたことのない強烈な痛みの中でも泣き叫ばずに済んだのは、先輩がいてくれたからだろう。

それからちとせはすぐに病院に運ばれることとなった。膝の靭帯断裂、その中でも前十字靭帯という他の場所に比べ痛みも強く治りも遅い場所の怪我で手術も必要だと言われた。

夏休みの間に手術を受けてリハビリもして、しばらく松葉杖の生活が続いた。サッカー部に復帰したいという気持ちはあまりなく、部活を辞めることに決めた。

松葉杖で外に出るのも億劫で、自室に引き篭っていた夏休みの最終日、八尋が家にやってきた。

金色の髪で、顔に小さな怪我を負った姿で。

「手術したって聞いた。これ、お見舞い」

そう言いながら箱に入ったお菓子を渡される。
良いところのどら焼きらしい。

ありがとうと受け取る声が少し震えて、誤魔化すように咳払いをした。妙に緊張していたのだ。

「なんで教えてくれなかったの」

「なに?怪我のこと?」

「そう」

「だって八尋、忙しそうだったから」

そう言うと、八尋はちとせの膝に触れた。
怪我をした左の膝を。

「痛くない?」

「うん、もう痛くないよ」

「……部活は、どうすんの」

「辞めるよ、完全に復帰するにはまだ数ヶ月かかるし、その後も膝の違和感残るかもしれないって言うし、そもそも高校の部活でそんだけ時間空いたら戻れないよ」

「でも、小学生の頃からサッカーやってたんだろ」

「だからって感情でどうにかなるものでもないだろ」

ちとせは心の底から仕方ないことだと思い、割り切っていた。サッカー選手になりたいわけでも、大会で結果を残したいなどという目標もなかったし、なんとなく続けて、なんとなく縋っていただけだったから。

でも、八尋の目にはそう映っていなかったのだろう。

俯いたままの八尋は微動だにせず涙を流していた。大粒の涙が床へと落ちていて、ちとせはぎょっとしたのだ。

「え、え?」

八尋の涙を見たのはこの日が最初で最後だった。
ちとせは酷く動揺してしまい、見ていることしかできなかった。

なかなか泣き止まないその姿に、ちとせはサッカーを始めた経緯から今の気持ちまで事細かに語り、本当に大して気に病んでいないことを伝えた。

「なんなら変な期待とかプレッシャー受けなくて済むから丁度良かったんだよ。成績下がってたし、俺ほんとは勉強してる方が好きだしさ」

「そう、それならいいんだけど」

八尋は腫れぼったい目でこちらを見ていた。

「変な顔、別人みたい」

ちとせが笑うと、八尋は微笑んだ。

「でも俺は、俺以外にはなれないよ」

そんな意味ありげな言葉を残して立ち上がる。

「もう行くの?ゲームでもしていけばいいのに」

「髪色戻してくる。明日から学校だから」

そう言ったのに、八尋の髪色は真っ黒には戻らなかった。前髪だけ金色という特徴的な髪色で、なんだか知らない笑顔を浮かべていて。それが、二人が確かに変わってしまったという証のようで。どうしても好きになれなかったんだ。


薄暗い廊下の乾いた空気の中。
血で汚れた肌と金色の前髪が、とぼとぼと歩く度、隣で揺れていた。
俯いたままの八尋は前すら見ないから、ちとせが保健室の扉を開いた。

「先生いないね」

ちとせがそう言っても、八尋は黙ったままだった。

自然と手が離れ、口を閉じたままの八尋は保健室の冷蔵庫を勝手に開け、ペットボトルの水を取り出しちとせに手渡した。

「飲んで、座ってて」

言葉少なにそう告げてベッドを指さす。

そして再び冷蔵庫の前へと立つと、どこからか取り出した氷のう(ひょうのう)に氷を詰め始める。どうしてそんなに慣れているのか、尋ねようとしてやめた。なんだか頭がぼんやりとしてどうでもいいかと思ってしまう。

ベッドに腰かける。ペットボトルのキャップはすでに少し緩んでいた。八尋が先に回してくれていたのだろう。
冷たい水を流し込むと、変に強ばっていた身体の力が少しずつ抜けていった。

「これで冷やして」

氷のうを手渡される。

「いや冷やさなきゃいけないのは八尋だろ」

それを突き返すと、八尋はちとせの隣に座り「いいから冷やして」と乱暴な声で言った。

「怒ってる?」

頭を冷やしながら、おずおずと尋ねる。

「ちとせには怒ってない」

八尋は笑顔なく言って俯いた。

「血、拭いた方がいいよ」

ティッシュの箱を差し出すと、八尋は受け取ろうともしなかった。こんなにも余裕なく落ち込んでいる姿、久々に見た。

「演劇の通し練習、まだ終わってない時間なのになんで教室にきたの?」

「……柚希の友達が連絡くれたんだ、川島が暴れてるって」

「それで来てくれたの?」

八尋は頷いた。

「あいつ、前に柚希に振られたから逆恨みだと思う。ちとせが柚希を庇ったのも聞いてたから、なんかあったらって焦って。で、案の定。もう少し早く駆けつけられたら良かった」

そうか、佐藤柚希のためでもあったのか。
ほんの少しの安心が混ざり複雑な心境へと変わる。

そして静かな時間が流れたあと、八尋は顔を上げてちとせのこめかみ辺りを撫でた。

「頭、痛い?」

氷のうで冷やしていたその場所を触れる八尋の指は温度を感じられなかった。

「痛くないよ」

「本当に?」

ちとせは頷く。冷たさで麻痺してしまっていて、痛みなどよくわからなかった。身体的にも精神的にも疲れの方が勝ってしまっている。
けれど八尋が、あまりにも心配そうに、自分を責めるように寂しい瞳でこちらを見るので、ちとせは無理して笑顔を作る。

「膝やった時もへっちゃらだっただろ、痛みに強いんだよ」

その笑顔が下手くそだったからか、八尋は眉を下げて微笑んだ。

「ちとせは優しすぎるね」

八尋の目にはそう映るのか。

「朝、父さんにもっと優しくなれって言われたばっかなんだけど」

自虐的に言うと、八尋は目を丸くした。

「今のままでいいよ」

「でも実際、空気読むのも苦手だし気遣うのも苦手だから今日もこんなことになったんだろうなって。巻き込んで、ほんとにごめん」

少し早口で自分を責める口振りで言えば、八尋は何度も首を横に振った。

「ちとせはなにも、悪くないだろ」

八尋はゆっくりと言った。

肯定されるほど、じゃあどうして、と思ってしまう。

母さんはどうして火をつけたのか、父さんはどうしてちとせを責めるのか、美沙さんはどうして体調を崩しているのか、川島はどうしてちとせを気に入らないのか。自分はどうして普通になれないのか。

自分が悪くないなら、その存在が悪いのか。

「最初から俺がいなければ」

声がわずかに震えた。それがバレていないといいなと思った。

「そんなこと、言うなよ」

八尋は消えそうな声で呟いて、ちとせの身体を強く抱き締めた。その左腕は腰の火傷跡を服の上から優しく撫でるようで、それが無自覚なのか不思議に思う。

触れ合う場所だけが熱を持つ。
八尋の手はこんなにも冷たいのに、身体は暖かいんだ。そんなこと知らなかった。

安心からか、ちとせの視界は滲む。

「でも、俺がいなければ、母さんはああなってなかった」

頭の中で何度も思い浮かんではその度に消そうとしていた、向き合いたくない言葉が堰を切ったように流れ出す。

すると八尋はいっそう強くちとせを抱き締めて、その額をちとせの肩に預け押し付けた。

「それでも俺は、ちとせがいなかったら、ほんとつまんない人生だったよ」

か細くも力強い声だった。
ちとせは妙に冷静にその言葉を聞いていた。

「ちとせはそうじゃなくても、俺にはちとせが必要だ。多分なによりも、必要なんだ」

どんどんと縮こまっていく八尋を見ていた。
ちとせを抱く腕に込められる力が強くなる。

空いた両腕をどこに置けば良いのかわからず、不器用に頭を撫でた。

たった一人の親友は、ちとせの代わりに何倍も強く怒ってくれた。そして今、何倍もひどく悲しんでくれている。

いつだって八尋がいてくれたから、自分の感情の輪郭が見えた。そうか、こんな時は泣いていいのか、怒っていいのか、笑っていいのか。なんてそんなことを、ずっと繰り返して。

この人がいなければ、自分はとっくにダメになっていただろう。

「八尋がいてくれて良かった」

ちとせが呟くと、八尋は抱きしめる腕を緩めた。

「あれさ、やっぱ変わんないかな」

ぐしゃぐしゃの前髪の八尋は顔を上げ、どこかをぼんやりと見つめながらそう言った。

「なに?」

「ちとせは、俺のことを、好きにならないから安心してって言っただろ」

そんなこと、本人に言っていただろうか。
ちとせは記憶を辿る。男が好きだと初めて打ち明けたあの日、ひどく顔をしかめた八尋の表情が頭に浮かぶ。嫌われたくなくて、咄嗟にごまかすように言ったあの言葉。

そういえば、そうか、それがきっかけで好きになってはいけないと、より一層自分に言い聞かせたのだった。

「それがどうしたの」

「だからそれ、変わることないかなって思っただけだけど」

やっぱいい、と続けてベッドへと倒れ込む八尋。

待って、それってどういうことだ。ちとせの頭の中にクエスチョンマークが何個も浮かび、心臓がバクバクとうるさいほどに重く鳴りだす。

好きになっていいの?
違う?それなら他にどういう意味がある?
八尋の好きな子って、誰だ。

軽くパニックになるも、「口の中めちゃくちゃいてーな」と乾いた血を拭う八尋はその話題に触れてほしくないように見えて、ちとせも考えることを辞めて、なんとか鼓動の速さを誤魔化し歯を噛み締める。

「俺、停学とかなったらどうしよ」

八尋は笑っていた。

「あのさ、初めて話した時、覚えてる?あの時も保健室で横に並んで話しただろ……授業サボってさ」

ちとせはそう言いながら八尋に向き合うように寝そべる。心臓はまだ、鳴っていた。

「覚えてるよ、目がやたら印象的だった」

「目?」

「ビー玉みたいに綺麗だなって」

その言葉に顔が熱くなる。

「今日の八尋、変だよ」

照れ隠しで言うと、八尋は眉を下げて笑った後、あくびをしてから目を瞑った。

ちとせはしばらくその整った顔を見ていた。

普段は横顔ばっかり見ていたから、新鮮でいつまでも見ていられる。どうか目を開けませんようにと願いながら、少しだけ顔を近づけた。
それでも目を開けない、寝てしまったのだろうか、呼吸の音すらもしない静かな空間だった。

自分は今もまだ毒の小瓶を手に入れられていないけれど、目の前の八尋がもう二度と目を覚まさないというのなら、ジュリエットと同じことをするだろう。

その腰の短剣が例え錆びついていても、それを手に取り自分を貫く。

「やっぱり俺は、母さんに似たんだな」

小声で呟いて、八尋の目元にかかる金髪を耳にかけてやった。

八尋が好きだ。

微かな期待を抱きながら、自分の気持ちに丸を書き、あとを追うように目を閉じた。

「この間は本当にありがとうございました」

月曜日、八尋は登校して一番に柚希の席へと向かい、菓子折りの入った紙袋を差し出した。
柚希とその友人は驚いた表情で顔を合わせた後、元気そうで良かったねと微笑む。

先週の金曜日、川島と問題を起こした後の教室で担任に事情を伝え場を収めてくれたのは柚希だった。

元々柚希と川島の間にあった問題を含め説明し、ちとせと八尋は悪くないと庇ってくれたおかげで厳重注意と反省文のみの罰に留まった。

川島は所属していた野球部の顧問にこっぴどく叱られた上、しばらく別室登校となるらしい。

「新島くんは平気だった?」

平気なはずはないと、柚希もどこかわかっていただろう。それでも聞かなければいられない様子で、こちらに縋るような視線を送る。

「まあ、うん。少しだけ落ち込んでたけど今は元気だと思う」

「……そうなんだ」

柚希もその友人達も心配そうな表情で、なんと言ったらいいのかわからない様子である。

「今日も家の事情で休みだけど、ありがとうってすごい感謝してたから」

八尋が言うと、柚希はほんの少しだけ嬉しそうに頷いた。

その直後、話している八尋達の元へクラスメイトが駆け寄る。サッカー部の男子達だ。

「新島も野沢も平気だった?」

「俺ら、新島庇ってやれなくてさ」

彼等もまた申し訳なさそうに心配そうに眉を下げ、八尋の言葉を待った。

「怪我もなかったし、みんなにありがとうって言ってたよ」

大事にしちゃってごめんなと続けると、みんな首を横に振った。ちとせの無事に安心した面々は自分たちの席へと戻っていく。

教室はいつも通りの喧騒へと包まれていった。
八尋も自身の席に着き、空いている目の前の席を眺める。脳内には別の光景が浮かんでいた。

川島が余裕のない表情になっても殴るのを辞められなかった自分の右腕と、その腕が大切な親友を殴ってしまう瞬間。感触。動揺。

わかっていた。川島がいくら憎かったとして。
殴ったって何も残らない、何も産まない。
ちとせの怯えきった表情を見た瞬間に、頭で考えられる事なんて全て消え去ってしまったんだ。

ちとせは、八尋や川島を責めずに「俺は大丈夫」と笑った。儚くも愛おしいその姿。それらがただひたすらに何度も何度も浮かんでしまう。

正直、ちとせの精神面を一番気にしているのは八尋である。

今まで隠してきた火傷跡も、保健室で呟いた弱音も、たった16歳が一人で抱えていいものではない。それなのにちとせの味方は少なかった。八尋にすら全てを話そうとしないちとせの、大したことじゃないんだと振る舞うその姿は、前よりずっと痛々しく見えた。

隣にいる自分だけが、その辛さを少しでも軽くさせてやりたいと思っているのに。
八尋にしてやれることは少なく、むしろちとせが自分を否定すればするほど八尋もえぐれるような胸の痛みを覚えて励ますことすらままならない。

その無力さが不甲斐なく、八尋は週末、なんの気力も起きずにただベッドで寝転び時間を浪費した。

今だって無意識に手に力が入り、握りしめた掌には三日月型の爪痕がくっきりと残っている。八尋は自分の掌を見つめた後、亜麻色のカーディガンの袖を下げ、情けないその跡がそれ以上深くならないようにと隠す。

あの日保健室で口にした、自分よがりな想いは、ちとせの邪魔をしていないだろうか。

今日だってちとせは、新しいお母さんの具合が悪いからと学校を休まざるをえなかったりと、家庭の状況はあまり良くないのだと思う。家族のことや過去のトラウマで頭を抱えることも多いであろう親友に、これ以上悩みの種を増やしたくはなかったのに。

『だからそれ、変わることないかなって思っただけだけど』

そう言った自分の言葉を思い出して、本当に嫌になった。あんなの、弱っているちとせにかけていい言葉ではない。

関係を崩すような発言ですらあったのに、自分はどうして口走ってしまったのか。
そもそも川島を殴って殴ってその手を止められなかったのも、ちとせのためではなかった。

八尋は反省することばかりの自分の行動を振り返り、その度無意識に拳を握りしめ奥歯を食いしばってしまう。
それを自覚し軽い深呼吸をしてから、机に突っ伏しうずくまる。空いた目の前の席を、見ていたくなかった。

ホームルームも朝の清掃も授業も、何もかも身に入らなかった。


「野沢くん、お昼一緒に食べよ」

一人で弁当を広げようとしていた八尋の元へ柚希が駆け寄る。その手にはグレーのランチバックが握られていた。

「いいけど、友達は?」

柚希が行動を共にしているグループはいつも通り椅子を集めて弁当を囲んでいた。

「野沢くんに話があるの、察してよ」

柚希は少しだけ小声で言って、「はやく行こ」と歩き出した。

教室以外で昼食を取ることが普段ない八尋は一体どこへ連れていかれるのだろうと思いながら、スタスタと進む柚希の後ろを歩く。

「ここにしよっか」

着いた場所は校舎棟の屋外階段へと続く扉の前。
柚希は鍵を開けて、階段を少し登り踊り場へと歩みを進めた。柚希がこういう、普通はしないことをするのは少し意外だった。

「こんなところ始めて来た」

生ぬるい穏やかな風が吹いている。太陽は雲に隠れたり出てきたりを繰り返し、緩やかに階段を照らしていた。

二人は踊り場に並んで座る。

「で、話ってなに?」

八尋はさっそく弁当を広げながら柚希に問う。

「お節介かもしれないんだけどね、野沢くんが落ち込んでるから、相談に乗れることないかなって思ったの」

柚希は弁当の包みを開く手を動かすことなく言った。

「落ち込んで見える?」

八尋は聞いてから、プチトマトを食べた。

「そりゃあもう!」

柚希は声を張り上げたあと、ハッとしたような顔つきに変わり、今度は悲しそうに眉を下げる。

「ごめんね、私が川島くんを怒らせなければ二人に迷惑かけなかったのに……」

怒らせた、というのは告白を断ったことを言っているのだろう。

「だからそれは仕方ないことだって言っただろ」

問題を起こしたあの日の夜、メッセージでも何度も同じように柚希は謝っており、その度『仕方ない』とか『柚希は悪くない』など伝えていたが、それでもきっと、気にせずにはいられないのだろう。

「新島くんが目を付けられたのも、私が新島くんのファンだったからだし、ほんと、最悪」

八尋の相談に乗ると言ってくれた柚希だが、そんな余裕はないように見える。大袈裟に嘆き頭を抱える柚希の横で、八尋は弁当に入っている煮物を食べながら少しだけ微笑んだ。

柚希は横目で八尋を見ながら、小さく唇を尖らせた。

「なんで笑うの……」

「俺らってちとせのことになると余裕ないなーって思っただけ」

言うと、柚希も少しだけ笑みを浮かべて「そうだよね」と呟いた。

「あの日、大丈夫だった?新島くんも、野沢くんも」

「いやー全然ダメ。ちとせのこと殴ったし、告白まがいの発言したし」

「……ん、え?」

柚希は弁当箱を開けようとした手を止め、状況がいまいち掴めていない様子で「いま、なんて言った?」と聞き返した。

「まず俺、殴ったじゃん」

「うん」

「で、保健室行ったじゃん」

「うん」

「そこで、まあ、俺のこと好きになってくんないかな的なことを言ったというか」

「え……うそ」

柚希はそう言ったあと興奮気味にキャーと叫ぶ。

「お前ばか、静かにしろよ!」

八尋はキョロキョロと周りを見渡し、外を歩く人がいないか確認した。

「この時間は誰も通らないよ!もっとちゃんと詳しく教えて!」

「ごめんだけどこれ以上ないよ、言うこと」

「嘘でしょ、新島くんはなんて答えたの?」

「ちとせがなんか言う前にやっぱいいやって言ったから、あいつは何も。そもそもあんな弱ってる時に言うことじゃなかったし」

八尋が言うと、やっと弁当箱を開けた柚希はタコさんウインナーをひとつ食べる。

「それで、その話には触れずそのまま帰ったの?」

「そう、ちとせが家帰りたくないって言うからうちに泊めて、二人で俺の母さんに叱られた」

柚希は持っていた箸を置き、えー!と叫びながら頭を抱えた。

「なんであんなこと言っちゃったんだろ、あれからずーっとしらばっくれて、ちとせの横で平然と取り繕ってんだよ。疲れたわ」

「いやいやいや、そんなの絶対、作戦成功でしょ!」

作戦、とは。
もっと好意をアピールしてあわよくば好きになってもらおう作戦、という柚希発案のネーミングセンスがなさすぎる作戦のことを言っているのだろう。

ちとせが泣きながら「男が好きな俺が受け入れ難いんだろうなって思ってた」と言ったあの日。
あの誤解が明らかになって以来、八尋は反省し、柚希の言う通り前よりは好意を隠さないようにしていた。

しかしそれが成功したとは思えない。

「漫画の世界じゃないんだから」

ちとせが翔に恋をしている事を柚希は今もまだ知らない。だからそんなに都合の良い捉え方ができるのだ。
八尋がため息混じりに言うと、柚希はムッとした顔でこちらを睨んだ。

「最初から諦めてるの、かっこ悪いよ」

「かっこ悪くて結構」

「一位取れるわけないからって真面目に跳ばない大縄と一緒、跳んでみなきゃどうなるかもわかんないのにさ」

八尋達のクラスは、体育祭練習で三回しか跳べなかった大縄跳びで当日優勝をした。それは全員が跳び続けられるかも、と希望を持っていたから叶ったことだろう。

けれどそれとは話が違う。たった一人で跳んで転んで怪我をして歩けなくなるくらいなら、八尋は最初から跳びたくなんてなかった。

「ちとせとさ、うちで母さんの作った肉じゃが食べながら説教されて、俺の姉ちゃんはそんな怒らなくてもって宥めてて、父さんは一人でテレビ見て笑ってて、すげーうるさい家族なのにさ、ちとせはいい家族だねって笑うんだよ」

柚希はそれまで楽しそうにふざけながら話をしていたが、八尋が真面目に話しだすと、真剣な表情へと変えてただ耳を傾けてくれた。

「なんか俺、堪んなくてさ、ちとせを困らせたくないのに、自分勝手なことばっかして情けないんだ」

そう嘆くと、柚希は少し考えた後、弁当箱の中でちょこんと赤く座っていたタコさんウインナーを箸の反対側でつまみ、八尋のご飯の上に乗せた。

「新島くん、困ってないと思うよ」

八尋はそのタコさんウインナーをすぐに口に運ぶ。

「新島くんはなんていうか、自分のことあんまり大事にしない人でしょ?野沢くんが代わりに怒ってくれたり好きになって欲しいとか伝えるの、嬉しいと思うけどね」

ああ、そうか。
八尋はずっと、ちとせに自分を大切にしてほしいとどこかで思っていたのだ。

「これ以上傷付いて欲しくないのになあ」

八尋はため息を吐いてから残りの弁当を掻き込む。柚希もそれに同調しながらもぐもぐと卵焼きを食べていた。

秋風を感じながら二人は解決策の出ない幸せについての議論を交わし、弁当箱を閉じる。

予鈴がなると、柚希は階段を降り室内へと続く扉に手をかけた。八尋も重い足取りでそれに続く。午後の授業がめんどくさいな、なんて思いながら。

「あれ」

柚希は取っ手をガチャガチャと動かしながら「開かないかも」と呟いた。

「は?なんで?」

「誰かが中から鍵かけたのかな……」

柚希に代わって八尋も扉を開けようと力を尽くすが、確かに鍵がかかっているらしく扉は動かなかった。

「俺これ以上問題起こしたくないのに!」

八尋は階段をさらに降り、別の階の扉が空いていないか確認した。しかしどこも鍵がかけられており、微かな期待は打ち砕かれる。

「あきちゃん達に連絡して来てもらお!!」

柚希は友人へと電話をかけ始める。
八尋はその横で最初にくぐった扉を外側からドンドンと叩き、誰かが通り掛かることを祈った。

その時、本当にタイミング良く悠太が通り掛かった。八尋がドンドンと叩く手の力を強めると悠太はこちらを見て目を見開く。

「いや〜がちびびった」

悠太は扉を開けて第一声、笑いながらそう言った。

「まじでナイスタイミング!助かった!」

「篠山くんありがとう〜!」

心からの感謝を完結に伝えたあと、授業に遅れないよう二人は走って教室へと戻る。

なんとか次の授業の教師が教壇に辿り着く前に席へと着いた二人は、何事も無いフリをしてノートと教科書を準備した。

その時、八尋のポケットが震える。
画面を開くと、悠太からのメッセージ通知が目に入る。

『さっきジュリエットがうろついてた』

『おまえのこと探してたぽい』

なんの用事だろう、と思いながらも返信は後回しにし、学級委員長の声とともに起立と礼をし席へと座り直す。

ふと気が付けば、朝よりずっと、手の力が抜けていた。


「わ〜怪我なかったんですね」

久城玲奈が八尋に飛びかかり、八尋の身体をその細い腕で抱き締めながら、泣き真似なのかわからない「えーん」という声を発している。

「喧嘩したって噂聞いて先輩に怪我があったらどうしよう!って。私ほんと、気が気じゃなくて」

「まじか、俺は今の方が危機感じてるから離れてくんない?」

「えーー、なんですかその言い方」

玲奈に拘束された八尋は身動き取れずたじろぐ。
放課後、わざわざ一階の端の部室まで来たのは玲奈に会うためではないというのに。

「はらちゃん先生めちゃくちゃ睨んでるんだって」

茶道部顧問の原先生が部室の入口を塞ぐ玲奈と八尋を冷ややかな目で見ていた。

「仲良しなのは結構ですが、部室に入ったら切り替えてくださいね」

原先生はそう言いながら反対側の扉から部室へと入っていく。玲奈は「はーい」とにこやかに返事をした。

「昼ん時二年の廊下にいたっていうのも心配故すか?」

八尋は玲奈を引き剥がしながら聞く。
ふいに柔らかなショートヘアに触れてしまい、少しだけ動揺した。いちごミルクのような妙に甘い香り、香水のような強さではないこれは髪から香るのか。

「そうそう!悠太先輩ちゃんと伝言してくれたんですね!」

キャッキャとはしゃぐ玲奈は、今度は八尋と腕を組むように身を寄せた。

「久城、さすがに俺のこと好きすぎじゃね?」

やめよーね、と言葉を続けて再びその身を剥がすと、玲奈はいつも通り微笑んで八尋を見上げる。

「えーそりゃもう!彼女にしてくれます?」

何を考えているのかわからない、作った笑顔が少し不気味だった。

「残念、俺は心に決めた子がいるんで」

言いながら、ちとせの横顔を思い出した。
あれもまた何を考えているのかわからないが、名前を呼んで、こちらを振り返って笑う姿に嘘はない。

八尋はヒラヒラと手を振り、行かないでと呼び止める玲奈を無視して部室へと入る。

その日の部活の内容は今週末に迫っている文化祭に関する打ち合わせだった。当日は浴衣を着て当番制でお客さんにお茶を振る舞う。

女子の多い集団の中に混じり、八尋は演劇とクラス当番のない時間に名前を書いた。昨年もそうであったが、これに参加しないと部員として認められないと原先生は脅すので渋々浴衣の準備をするのだ。

「前からお伝えしておりましたが、どうしても浴衣の用意ができない人はこのまま残ってください」

原先生はそう言ったあと「野沢くんも残ってくださいね」と八尋を見る。

返事をすると、その日は解散となった。

「八尋先輩、なんで居残りなんですか」

解散後、玲奈はまたしても八尋の傍へと寄ってきて小声で聞いた。

「浴衣がいくつ足りないかって話するだけ、説教されるわけじゃないから久城は早く帰んな」

「浴衣?」

キョトンとする玲奈に答えようとすると、原先生は八尋を呼んだ。

「浴衣がない子は野沢くんのお母様が用意してくださるものを着て頂きます。あくまでお借りするものなので、汚したり雑に扱わないよう十分に注意してください」

八尋はその説明を横で聞いた後、貸し出すことのできる浴衣の一覧を数名の女子に見せる。

「これ持っていっていいんで、好きなの選んでメッセージで教えてください。そしたら前日に渡しに行きます」

八尋はそれだけ言って部室を出る。

「八尋先輩のお母さんて着物屋さんなんですか?」

「着付け教室とか色々やってんの」

帰ろうと2階の昇降口へと向かおうとする八尋の横を、玲奈はどこまでも着いて歩く。

「えー!また1個、八尋先輩のこと詳しくなれちゃいました!」

「あっそ、よかったね」

下駄箱から靴を取り出し履き替えると、玲奈は慌ただしく叫ぶ。

「私の下駄箱ここじゃなかった!急ぐので下で待っててください……!」

八尋の返事を待たずに玲奈は走り出す。

家に帰るだけだからまあいいか、と思う反面、とっとと帰ってしまおうかとも考えた。
しかし八尋は聞こえなかったふりなどできず、校舎の前で大人しく玲奈を待つ。

「お待たせしました!」

笑顔で駆け寄ってくる玲奈は、先程と雰囲気を変え、前髪をピンでとめていた。

「駅前で新作ドリンク飲みませんか?抹茶のやつ気になってて」

そこまでの元気は残っていないから、なんとしてでも断らないと。そう考えていると八尋のスマホが震えた。

妙に長いそれは、ちとせからの着信だった。

「ちとせ、どうしたの」

玲奈から離れ、電話に出る。

「……あ、ごめん。あのさ、」

珍しく歯切れの悪いちとせ。八尋は胸騒ぎを覚えながら次の言葉を待った。

「俺の母親、入院することになっちゃって」

「え、美紗さん?なんで」

「流行り風邪と肺炎が重症化……みたいな、手術とかそういうんじゃないんだけど」

ちとせは電話越しでもわかるくらい、声が震え動揺していた。

「今ちとせはどこにいんの」

「家。父さん出張でさ、俺が美紗さんの着替えとか必要なもの持っていかなきゃなんだ」

それを聞いて八尋は走り出した。
これはどう考えたってちとせからのSOSだろう。

後ろから玲奈の呼ぶ声が聞こえ、振り返り片手でごめんのポーズをする。

「病院は何時までに着けば平気?」

「19時とか」

校舎の時計は17時過ぎを指している。
時間に余裕はありそうだ。

「30分でちとせん家まで行くから」

「……ごめん、ありがとう」

ちとせの声はそれでもまだ震えていた。


八尋はいつもは15分ほどかかる駅までの道を7分で走り、電車に飛び乗った。快速に間に合ったのでちとせに嘘なく到着できるだろう。

二人の最寄駅についてからも八尋は休むことなく走った。
随分と涼しい夕方だったが、汗ばんでワイシャツが張り付く感覚がする。八尋は赤信号を眺めながらカーディガンを脱ぎネクタイを外した。

「とうちゃーく、っと」

小さく呟いてインターホンを鳴らす。

「……ほんと早いな」

玄関の重い扉を開けるちとせの声はもう震えていなかった。

「ちとせは体調平気なの?」

靴を脱ぎ、遠慮なく玄関に上がる。
八尋にとってこの家は自分の家の次に慣れた家だろう。

「俺は平気。今日の朝まで美紗さんと話してなかったし」

そう言うちとせはマスクをしていた。
家の中も窓が開いているからかひんやりとしており、アルコール消毒か何かの匂いも仄かにしている。病原菌を排除するその徹底ぶりは少し冷たくも感じられた。

「荷物はなんとか用意できたんだ。だから、このまま一緒に病院まで行ってほしい」

ちとせは家中の窓を閉めながらそう言った。
八尋は「どこまででも付き合うよ」と答えながら、キッチンの高い窓を閉める。

「入院は今日決まったんだろ、病院は美紗さん一人で?」

「いや、俺が救急車呼んだんだ」

淡々と答えるその横顔は、感情を感じさせないロボットのような表情。

救急車を呼ぶなんてよっぽどのことがあったのだろう。
そもそもちとせが学校を休み、付きっきりにならなければいけない病状だったのだから。

八尋は想像を巡らせて、それ以上聞くのをやめた。

「疲れてるだろうし、座ってて。俺が窓閉めてくる」

ちとせの両肩を掴み無理やりソファへと誘導する。「あとは2階?」と尋ねるとちとせは頷いた。

「俺の部屋、おっきい窓だけ」

階段を上りちとせの部屋の扉を開けると、そこはどの部屋よりも冷え切っていた。透明な風がカーテンを激しく揺らしている。
八尋は薄着であることを後悔しながら、部屋を夕焼け色に照らす大きな窓を閉めた。

リビングに戻ろうと振り返ると、乱れたローテーブルの脇に封筒が落ちていた。風で落ちたのだろうか、封筒からは中身の紙が少し出てしまっている。

「あれ、懐かしい」

拾い上げようとして気がつく、これは中学の修学旅行の写真が入った封筒だ。
壁一面に貼られた写真からほしいものををみつけて申し込みをするという時代に見合わぬアナログなシステムを思い返す。

中学三年の頃は別のクラスだったから、ちとせの修学旅行の様子はよく知らない。
八尋は何の気無しに写真を取り出し何枚かめくって、今よりほんの少しだけ幼いちとせの顔を見た。

あどけなくも芯のある表情はやっぱり可愛いな、などと癒されている場合ではない。

病院に行かなければと思い出して封筒をベッドの上に置く。

「じゃあ行こっか、荷物は俺が持つから道案内よろしく」

八尋はカーディガンを羽織り、用意された大きな鞄を持ち家を出る。
病院行くんだからと八尋もマスクを強いられほんの少し息苦しいままバスに乗り、20分程度の距離を一番後ろの座席で二人横並びに座った。

ちとせは気疲れからか何も言葉を発さずに、途中からは目を瞑り揺られていた。

揺れる車内。肩が当たる度に、その骨ばった硬さと、当たるほどの二人の距離を意識してしまう。

病室の扉を開ける。
ちとせの義理のお母さんである美紗さんは点滴を打たれた姿で眠っていた。

前に会ったのがいつだったかはよく覚えていないが、その時よりもやつれている様子であった。病気なので、当然だけれど。

ちとせは置き手紙と共に荷物を置いて、看護師さんにも言伝をお願いして病室を出る。

口数が少ないまま早足で病院の中を歩き外に出ると、ちとせは小さくため息を吐いた。八尋はその様子を見守りながら、病院が苦手だと言っていたことを思い出した。

「今日、頑張ったな」

病院の前の歩道で立ち止まったまま動かないちとせに声をかける。

「頑張ったから、お腹すいちゃった」

ちとせはこちらを見て微笑んだ。

「どっかで食べて帰る?」

聞くとちとせは首を横に振って、「人が多いところには行きたくないかも」と呟いた。弱々しい声だった。

八尋は少し考えたあと、スクールバッグに入れたままのどら焼きを取り出した。家を出る前からずっと鞄に入れていたので少し潰れて歪な形になっているが、なんとか形を整えてちとせに差し出す。

「昼に食べ損ねたのあげる。ぺちゃんこだけど許して」

「俺これめちゃくちゃ好き」

ちとせは喜んで受け取って、さっそく袋を開けて中身を食べ始める。

「一旦それで我慢して、弁当買って帰ろ」

「八尋もさ、一緒に来てくれる?」

意外だった。けれど、それを悟られないように「もちろん」と言ってみせた。

「どこまででも付き合うって言ったろ」

八尋が歩き出すと、ちとせもどら焼きを頬張りながらとぼとぼと歩みを進めた。

バスに乗る前に、二人は近くにあったコンビニで弁当を買った。八尋はオムライスを。ちとせは焼きカルビ弁当を。

帰りのバスに乗って数分揺られる。
その間、ちとせは眠ってしまっていた。

窓の外はすっかり暗くなっていて、街の灯りが車窓を流れるたび、揺れる光がちとせの頬にきらめいた。
眠る横顔は穏やかで、まるで子どものようだった。

ちとせの、前向きなところが好きだ。

お母さんとのことも大きな火傷跡もそれを理由に自分は不幸だと思い込まないところが好きで。

怪我をした時だってそうだ、大きく嘆く事も上手くいかない言い訳に使うこともせず、ただそれを受け入れて次の日には別の事へと没頭している。

動じたりせず、そういうものかと受け入れ前に進み続ける姿勢が心の底から魅力的だと思っていた。

強くて、前向きで、けれど繊細で人の痛みがわかる優しい人。誰かに好かれるためではなく、誰かのために優しくできる人。

だけどその強さや優しさは、人を頼れぬ不器用故なのかもしれないと、ふいに思った。

たった一人でよく頑張ったね、と誰が彼に言うのだろう。

八尋はきっと、その誰かになりたかったのだ。
ずっと横でその存在を肯定していたかった。

「次は、氷川神社前。お降りの方は……」

バスの自動音声がちとせの家の近くの停留所を読み上げる。八尋は手を伸ばしてボタンを押した。
八尋に寄りかかるように眠るちとせは、まだ目を覚ましていない。

今日のちとせは今までにないほど、素直に八尋を頼ってくれた。例えこちらを見ていなくたって、それでいい。作戦が失敗しても、それでも隣に居座り支えていたい。

八尋は決心した後、すやすやと眠るちとせを起こして座席を立ち上がった。


「八尋は、お酒飲んだことある?」

弁当を食べ終わったちとせは冷蔵庫を覗きながらそう聞いた。

「まあちょっとは」

「そっか、人の殴り方も知ってるんだもんな」

ちとせはそう言ってから、お茶のボトルを片手に冷蔵庫を閉めた。八尋は何も言い返せずに机の上の空いた容器達を見る。

「八尋が嫌いな麦茶しかないけど、いい?」

麦茶の入ったグラス二つをこちらへ運びながら問うちとせ。
嫌だという選択肢は端からないのだろう。

椅子に座り直そうとしないちとせは麦茶を飲み干した後、大きなあくびをした。時計の針は21時を指そうとしている。

「俺もう帰るから、さっさと寝な」

八尋も立ち上がり机の上を片付け始めると、ちとせはぴたりと身体の動きを止めて八尋を見上げた。

「帰んの?」

「え、帰んない方がいい?」

思わず聞くと、ちとせは俯いた。

「あー、うん、だめじゃなければ……いてほしい」

伏し目がちな視線を上げたちとせと再び目が合う。丸い瞳には深い影があり、そのコントラストが綺麗だった。

「りょーかい、シャワーだけ借りてもいいすか?」

胸が跳ねるので慌てて目を逸らし、なんでもないように言った。

その後、風呂など沸かさずシャワーだけを浴びた。借りたタオルで髪を拭きながら、八尋は歯ブラシを持っていないことに気がついた。
新品がないかと視線を巡らせるが見当たらない。ちとせに聞こうにも、先にシャワーと寝支度を済ませた彼は部屋にこもってしまっている。

コンビニに買いに行くにもドライヤーをかけていない髪はびしょ濡れで、正直外に出るのは億劫だった。

仕方なく重い足を動かしちとせの部屋へと入り、布団の中で丸くなるその男に「寝た?」と声をかけてみる。

「……寝てない。どしたの」

「新品の歯ブラシあったりする?」

「あぁ、そっかごめん。用意するね」

ちとせは少しよれたトレーナー姿のまま布団から出る。

「……あのさ、さっき部屋戻ったら封筒がベッドの上に置いてあって」

「あぁ、修学旅行の写真?さっき下に落っこちてた」

「中、見た?」

八尋に背を向けるちとせの表情はよくわからなかったが、声は鋭く焦りも含む様子だった。

「ちらっとだけ見た。外に出てたのだけだけど……見ちゃだめだった?」

「いや、なら平気。忘れて」

ちとせはそう言い残し洗面所へと向かう。

「てか俺はどこで寝たらいい?」

「選択肢としては、俺のベッドかリビングのソファしかない。八尋の家と違って」

八尋の家は八尋母が張り切って来客用の布団を用意してくれるのだ。

「じゃ、俺ソファで寝るね」

「身体痛くなるよ」

「でも俺がベッド借りたらちとせがソファ行くんだろ」

「まぁそうだね。それか一緒に寝るとか」

ちとせは新品の歯ブラシを棚から取り出し、八尋へと手渡しながらそう言った。

結論として、八尋は「じゃあそうしよう」なんて言えるはずもなく、薄いタオルケットを借りてソファで寝ることになった。

だってそうだろ。寄り添うことは、弱ったちとせにとって、優しさになるのか?自分の欲を正当化したいだけじゃないのか?よく、わからない。

自分の頭の中がごちゃごちゃしていた。

22時をすぎた夜は、眠るのには少し早いとも思える時間であったが、慣れない看病で疲弊したちとせにとっては遅すぎる夜で、彼はあっという間に自室で眠りに落ちてしまった。

八尋の方はしばらくは寝付けず、ぼんやりと考え事をしながら、暗闇に慣れた目でリビングを見渡す。整理された小綺麗な部屋はモデルハウスのようで落ち着かない。

モダンな壁掛けの絵画はちとせのお父さんの趣味だろうか。窓際に置かれた観葉植物はきっと美紗さんが育てているのだろう。

絵画も植物も美しいのに、どうして寂しいのか。

「あぁ、なるほど」

写真がないのか。

八尋の家には自分や姉の幼少期の写真が並んでいる。その傍にはメモ帳とペンがあり、顔を合わせなくても要件を書き残す習慣があった。

そういう気配がないから冷たくて、寂しいんだ。

タオルケットを口元まで上げて、身体を縮こませる。次第に手足の力は抜けて眠りに落ちていた。


夜明け前、目を覚ましたちとせがリビングへと降りてきていた。小さな物音ひとつで、浅い眠りから冷めた八尋はちとせの名を呼ぶ。

「ごめん、起こした」

「いーよ、てかさっむいな、夜は冷える」

まだ日は昇っておらず、部屋は青く暗かった。
薄いロンT1枚の八尋はズレ落ちたタオルケットを拾い上げて肩にかける。

ちとせは冷蔵庫から離れ、今度は食器棚からスプーンを持ち出した。

「腹減っちゃって、ヨーグルト食べるけどいる?」

「んー、いらない。水だけ飲んでいい?」

「水道水か麦茶しかないよ」

ちとせはそう言いながら麦茶のボトルを取り出す。八尋の分を注ぐと中身は空になってしまった。

八尋はキッチンの方へと向かい、置かれたグラスを手に取る。

「麦茶もさ、嫌いなわけじゃないんだ」

好きじゃないだけ、と付け足してコップの中のそれを勢いよく飲み干した。やっぱり香ばしい麦の味が苦手であった。

「朝って寒いんだな」

ちとせは立ったままヨーグルトを口に運びそう言う。

「朝って言ってもまだ3時じゃん。てか冷たいもん食うからだろ」

八尋は思わずあくびをし、ポケットに入れたままのスマホを開いた。充電が10%を切っている。

「充電器借りれる?」

「俺の部屋のベッドの横の、勝手に差し替えていいよ」

八尋はのそのそと階段を上り、ちとせのスマホに刺さっている充電コードを抜き、自分のものへと差した。

その時ヨーグルトを食べ終えたらしいちとせが部屋に戻り、まっすぐ布団へと向かい潜り込んだ。

「目覚ましさー、今日はかけないから朝起こしてくれます?」

この部屋で鳴っても仕方ないので設定を切る。
暗い室内で見る画面は眩しく、目を細めていると首筋にひんやりとした感触がし、「つめた」と声が漏れた。

振り返ると、ちとせの手が目の前にあった。
枕を肘置きにしてベッドの脇の八尋の方へと少し身を乗り出したちとせは、その反応がおかしかったのか笑っていた。

「俺の手、キンキンでしょ」

「ガチのやつじゃん、真冬にやったら洒落になんないレベル」

思わずその手を掴む。
スベスベとしたその手は冷蔵庫から出したばかりのように冷たかった。

「珍しく八尋の手があったかい」

「眠いからね」

そのまま指先がゆっくりと触れ、絡め取るように重なった。
まるで、温もりを奪うような動きであった。

「俺がまた寝るまで、こうしててくれる?」

「……まあ、いいけど」

しゃがんでいた足を崩し、毛足の短いラグの上に体育座りをした。体を動かす間も、ちとせはその手を離そうとしなかった。

「八尋」

ふいに名前を呼ばれる。
ベッドに背を向ける八尋は振り返ることなく返事をした。

「今日の俺、わがままかな」

聞かれて、「そうかもね」と頷くと、ちとせは黙り込んだ。

「……でもまあ、必要とされてて嬉しいっすけどね」

八尋が言うと、ちとせは繋いだ手の力を緩めた。

「こっち、見てくんない?」

ちとせの、少しだけ掠れた声。
俯いて目を瞑っていた八尋は、その声に素直に従い振り返った。

ちとせはじっと八尋の顔を見る。たった数秒だったと思うが、心臓が変に高鳴り顔が熱くなった。

おかしな表情は、部屋が薄い暗いからきっとバレていないだろう。八尋は平然を装い「どうかした?」と声をかけた。

「美紗さんさ、なんかあったら呼んでってスマホですぐ電話かけれるよう準備しておいたのに、一回も鳴らしてくれなかった」

ちとせは目を伏せて話し出した。

「俺はずっとリビングにいて、お皿とか洗ってたら……急に大きい音がしたんだ。美紗さんの部屋から酷い咳と唸り声が聞こえて、扉開けたら倒れてて」

繋いだ手の力が再び強くなる。指先は僅かに震えていた。

「怖かったんだ、大袈裟なのはわかってるけど、また死んじゃうのかって。あの時よりも、怖かった」

八尋は何か言う代わりに、繋いだ手の親指でちとせの冷えた手を撫でる。

「……それでも父さんは、帰ってこない」

ちとせは乾いた笑いを零した。

「よく、頑張ったな」

八尋はもう一方の手でちとせの頭を撫でた。
そこからふんわりと、ちとせの香りがする。

「八尋は絶対死なないで」

「死なないよ。俺なんか心身共に健康そのものだろ」

撫でていた手をぽんぽんと弾むように動かした後、「安心しな」と笑いかけると、ちとせは一層真面目な表情で八尋の目を見つめた。

「俺より先に死なない?」

「うん」

「毒も、飲まない?」

一瞬なんのことを言っているのかわからなかったが、すぐに思い出した。ロミオとジュリエットの話をした時に八尋は確かに毒を飲むと言ったのだ。

それはちとせが死んでしまったら、と考えた時の話であったのだが……そんな事どうでも良いか。

「うん、飲まないよ」

安心させたくてそう言った。

「俺が死んでも、毒も短剣も飛び降りも、火事も……だめだから」

ちとせはどんどんと弱々しくなる声でそう言ってからパッと手を離した。

「ずっと生きててね」

どういう意味か、と八尋は少し考えてしまい返事ができなかった。するとちとせは「ごめんもう寝る」とだけ言って、八尋に背を向け布団に潜り込んだ。

残された方の苦しみを知っているちとせが、どうしてこんな意地の悪いことを言うのか、よくわからなかった。

そもそも『俺が死んでも』という言葉はどういう意味か。八尋の気持ちは見透かされているのだろうか。それよりもなによりも、ちとせが本当に何処か消えてしまうのではないかと不安で、布団に潜り込んだちとせの身体を揺らした。

「ちとせ、俺さ……」

続く言葉など考えていなかった。何か言わなければと思いながら、こちらを振り返るその顔を見つめる。

カーテンの隙間から射し込む街灯の光がちとせのうるんだ瞳をキラキラと照らしており、思わず身体が動いた。

細く脆い身体に覆いかぶさる。

八尋は、その眦に唇を当てた。

「なに……してんの」

目の前の親友は心底驚いた様子で目を丸くして、小さく言った。

ほんと、なにをしてるんだ。

「ごめん」

八尋はそう言ってから慌てて部屋を後にした。
そうする他に、どうすべきかわからなかった。

心臓が煩いほどに鳴る。
一気に手足は冷えていき、口の中が乾いた。

階段を駆け下り、カーディガンを羽織る。それからスクールバッグと制服を抱えてちとせの家を飛び出した。

朝を待つ街の、随分と歩き慣れたその道は全く知らない別世界のようで。

八尋は酷い後悔を抱えたまま、自分の家まで足を止めずに走りきった。世界が閉ざされたように、ただただ息苦しかった。


それから数日後。

「ま〜た来ちゃったの」

例の外階段で携帯ゲームを握る悠太が顔を上げずに言った。
まだ何も声をかけていないのだが、扉を開け階段を登る足音で八尋の存在に気が付いたのだろう。

画面の中を覗き込むと、虫あみを持った人間が水色のヤギと会話をしていた。

「飽きないんだな」

八尋は感心して言って、隣へと腰掛ける。
ここ何日かの放課後、悠太はこの肌寒い屋外階段の踊り場で同じゲームをプレイしていた。

「俺の日課なんで」

「文化祭準備サボってゲームするのが?」

「文化祭より無人島開拓の方が重要だろ。こいつら俺がいないと家すら建てられないんだぞ」

悠太は少しムキになりながらも楽しそうに言った。

「八尋クラスの子達と仲良いのになんでここに来ちゃうわけ?意味もなく隣にいんのまじで謎」

「クラスにいたって仕事ねーもん」

本当のところは探せばやることは残っていた。
文化祭前日ともなれば、屋台の設置や事前の打ち合わせなど大詰めだというのに、八尋はふらっとここに来てしまう。

「トントンかんかん、どこもうるさいよなあ」

悠太は眉をひそめて言う。
教室内から中庭まで準備に勤しむ人々の声や作業の音で賑やかであった。

「どうせサボるんなら、今日は帰るか」

悠太は続けて言ってから、画面の中でセーブボタンを押す。

「めずらし、おまえ家帰りたがんないのに」

「いや家は帰んないよ、ボーリングして帰ろうぜ」

「は?なんで急に」

八尋はそう言ったが、悠太についていくことにした。クラスのみんなに心の中で「ごめん」と呟き、昇降口を出て校門へと向かう。

「新島ちゃんと喧嘩でもしてんの?」

駐輪場から出てきた悠太は黒いボディの自転車を押しながら言った。

「え、なんで」

悠太が八尋の交友関係に口を出すのは珍しかった。

「いや〜あの組み合わせ久々に見たなと思って」

「は?」

なんのことを言っているのかと悠太の指差す方向を見れば、ちとせは椎名翔と二人並んで歩いていた。仲睦まじそうに話をしながら校門をくぐり、駅方面とは反対の方向へと姿を消す。

「新島ちゃん怪我した時出回ってただろ、椎名翔のお姫様抱っこ写真。学校中の女子が保存してるやつ」

ケラケラと笑って話す悠太を他所に、八尋は少し早足でその後ろ姿を追った。離れていく背中を眺め、どこへ行くのかと考える。

「悠太、あっちってなにあんの」

高校を近いからという理由だけで選んだ悠太に尋ねる。

「んー、なんもないよ。ちょっと大きめの公園と業務用スーパーくらい。この辺でなんかすんなら駅の方だろ」

自転車に跨る悠太は駅方面に身体を向けている。
八尋は二人の行方が気がかりで、どうにも動けそうになかった。

数日前、ちとせの顔にキスをしてしまった。
あれは誤魔化しようのないことであった。

その上走って逃げ帰った八尋のことを、彼は一言も責めたりしなかったのだ。

学校で顔を合わせた時、八尋が置いて帰ってしまったスマホを差し出しながら、『気にしてないから』とただ一言。

それでもやっぱり何処かよそよそしい態度をとるちとせを見て、八尋はなんでもないフリをしながら理由を付けて距離を取ることしかできなかった。

「そーんな気になんなら追っかける?」

悠太は少し苛立った様子で語尾を強めて言った。
八尋は自転車の荷台に跨り「いや、いいよ」と呟いた。

「なんて言うんだっけ、おまえのそれ。庇護欲?みたいな……護衛騎士みたいっつーか、なんつーかさあ」

言葉を探す悠太の背中を見ていると、八尋は誰かに肩を叩かれた。

「二人乗りは違法だから、早く降りて」

振り返ると生徒会長である三年男子が怖い顔をして八尋達を見ていた。

「そうでなくても君はその髪や先日の問題行動が目立っているんだから……」

ガミガミと小言を続ける真面目な生徒会長にうんざりとしながら自転車を降りた。それに対して悠太は腹を立て、大きな舌打ちをする。

「八尋は悪くねーよ、自転車は俺のだし殴ったのも友達のため」

「理由があったら暴力が許されるとでも?それに、文化祭では地域の方も多く来るんだから誰が見ても誤解されないような行動を心掛けてくれ。何度も言わせるな」

「はーほんと頭硬いな。いくぞ八尋」

悠太はその場に自転車を倒し、八尋の腕を引き歩き出した。横倒しの自転車のタイヤが、誰も乗っていないのに空しくカタカタと回っていた。

それを無視して向かう先はちとせと翔が消えていった道の方であった。

「え、チャリは?」

「真面目な会長さんがどうにかしてくれるだろ」

「で、ボーリングは?」

「八尋の気持ちを汲んで尾行デートに変更」

「いやいいって」

「じゃあ普通に俺とお散歩ってことで」

悠太はキョロキョロと周囲を見渡しながらどんどんと歩みを進めていく。八尋はその背中を見て少し微笑み、それ以上何も言わずに横を歩いた。


「あの噂、本当だったのか」

立ち止まった悠太が言う。

「噂って?」

「翔パイセン、アパートの角部屋で一人暮らししてるってやつ」

翔とちとせが小綺麗なアパートに入っていくのを見て八尋は妙な焦りを感じていたが、悠太はそんなのお構いなしでぽかんとした表情で建物を見上げていた。

「噂っつーかただの事実じゃね」

「そう、そんでさ、入居当時に部屋間違えて扉壊したらしいんだよ。どんだけ怪力なんだっつー話」

「絶対ねーだろ」

八尋はふざけた話を繰り広げる悠太を小突いた後、来た道を戻ろうと歩き出す。

「あの先輩も悪い人じゃないし取って食ったりはしないっしょ」

八尋の焦りを察してか悠太は言った。

取って食ったりせずとも、二人きりでごく個人的な空間に入っていくのを見るのは辛かった。なにか用があるのかもしれないが、それでもちとせは翔に恋焦がれているのだ。
用があろうとなかろうと、何をしようとも、ちとせの笑顔が奪われてしまうのが嫌だった。

「ま、早く仲直りしなさいな」

喧嘩をしたわけではないけれど。

「悠太は気まずい相手とどう仲直りすんの」

「は?んなこともわかんねーのかよお子様だな」

ケラケラと笑う悠太をもう一度小突く。
「わかったわかった」と悠太は言ってから少しだけ格好付けた様子で口を開いた。

「その一、謝る。その二、思ってること全部言う。その三、また謝る。例え俺が一ミリも悪くなくても、嫌な思いをさせた事実に謝る」

「へえ、意外とちゃんとしてる」

「俺は嘘なく楽しく生きてたいからね」

八尋は少しだけ考え込み、自分にはできそうもないと思った。あれを蒸し返し謝罪するのはハードルが高く、出来ることならなかったことにしてしまいたい。

「まあでも新島ちゃんのこと信じてやんなよ」

「別に信じてるけど」

「いや信じてないだろ、いつも目逸らしてる」

「俺が?」

「そ、なにが怖いのか知らないけど、新島ちゃんはちょっとのことじゃおまえを嫌いにならないだろ」

いや、でも。
嫌われなくとも、好きにはなってもらえない。

ちとせは翔を好きだから、自分のことなど見てくれない。最初から諦めたフリをしていたのは、向き合って否定され傷付くのが怖かったからだ。

転ぶなら跳びたくない。
怪我をするなら跳びたくない。

だけどここ最近はずっと、地面に這いつくばったまま大怪我ばかりをしている。

「仲良し小良しでいたってダメになることもあんだからさ、せめて自分に正直でってのが俺のスタイルね」

悠太は八尋の肩を抱き、偉そうに笑う。
どんなアドバイスよりもストン、とその言葉は胸の中へと入っていった。

そうか、たしかにそうだ。
このままちとせとの仲が壊れるくらいなら、いっそ。

「見習っていーよ」

「……じゃ、そうする」

八尋はその時、逃げ続けた自分の気持ちをちとせに伝えようと決心した。

「おまえにできて俺にできないことないから」

しおらしい態度が嫌で挑戦的に言うと、悠太は満足そうに笑って、「ボーリング行くぞ」と走り出した。

いつもそうだ、悠太には引っ張ってもらっている。

八尋は振り返り、もうだいぶ小さくなってしまったアパートを横目で見つめる。悠太が「はやくしろ」と大声を上げるので、近所迷惑にならないよう仕方なくその足を前へ前へと踏み出した。

明日は文化祭。
なんでもない平日よりはよっぽど思い出に残る日だから、少しでもちとせと笑っていたい。
***

「トロピカルレモネード、一つください」

「柚希レモネードなら私も!あ、あきちゃんも?そしたら三つお願いします」

朝一のクラス当番を終えた佐藤柚希は、同じクラスの友人二人と校内を見て回っていた。文化祭初日。一般非公開で、生徒達だけで文化祭を楽しむ日である。

受け取ったレモネードは少し濃いオレンジ色から透明な色のグラデーションになっており、カップに貼ってあるシールも可愛らしい。

柚希は首から下げていたスマホのカメラを起動し、レモネードの写真やそれを飲む友人を写真や動画に収める。

三人で画面を覗き込み撮れた画像を見ていると、メッセージの通知がポコンと上から降りてくる。

『大縄跳んでみる。振られたらなぐさめて』

差し出し人は野沢八尋であった。
柚希は画面を急いで隠し、友人達に見られていないか二人の表情を盗み見る。

「また野沢くんだ!」

「焦んなくても文字まで見えてないよ」

二人は揶揄うような口調で言った。

ひとまず八尋の秘密が守られたことに安心し、再度きちんと読み返す。やっぱり見間違いではない、彼はきっと想い人に気持ちを伝えようと決心したのだろう。

「ごめんね、一瞬返信させて」

「はいはい、どうぞどうぞ〜」

ニヤニヤと微笑む二人を他所に、スマホのキーボードを迷いなくタップする。

『野沢くんなら跳べる!ちなみにいつ挑戦するの??』

既読マークがすぐに付き、返信もすぐに来た。

『いつにしよっかな』

決めていないのか、と少々落胆し、またすぐに文字を打ち込む。

『文化祭で告白すると成功率1.5倍だって!』

『いま友達といるからまた舞台袖で話そ〜!応援してます!!』

柚希はそれだけ打ち込みスマホを閉じた。
なんだかドキドキしてしまい、落ち着かない。持っていたトロピカルレモネードをかき混ぜてストローを咥えた。

「もういいの?もしあれだったら野沢くんと文化祭回ったら?」

友人に言われ、柚希は首を振る。

「仲良くはなったけど、ほんとに違うからね。好きとかじゃないよ」

「えーでもお似合いだよ」

柚希は八尋と過ごすのが嫌いではなかった。
むしろ仲良くなってからは学校に来るのが楽しみだった。

好きな人の話をする彼が、あまりに優しく微笑むから。そして想像以上に悩み臆病になっているから。ついつい声を掛け、大丈夫だよと言ってあげたくなってしまう。

柚希が川島という男に言い寄られ困っていた時も、何度も相談に乗ってくれて、時には駆け付けてくれた。初めてできた、心の底から信用できる男友達。なんて言葉が一番しっくりとくる。

「野沢くんはもっとお似合いな人いるから」

そう言った声が少し掠れてしまった。
柚希はもう一度レモネードを飲む。

「あ、柚希先輩だ!」

三人が中庭のエリアへと足を踏み出すと、どこからか甲高い声が聞こえてきた。
キョロキョロと周りを見回すと、クレープ屋の屋台の裏から派手な髪飾りをいくつも付けた久城玲奈が顔を出した。

「こんにちは、八尋先輩が今どこにいるかわかりますか?」

そう尋ねられて、心にモヤがかかる。

「さあ、知らないかな」

「そっかあ、もし見かけたら玲奈宛にメッセージくださいって伝えておいてくれますか?」

「……うん、わかった。文化祭楽しんでね」

あくまで女の勘だけれど、きっと玲奈は八尋の事が本気で好きなのだろう。柚希はずっとそう感じていた。

八尋がそれに応じるわけがない。
わかっていながらも、二人の関係が近付く度に胸がざわついた。
嫌いなわけじゃない、女から見ても可愛い子だもん。ただ、怖いだけ。気が付けば敵視してしまうだけ。

「野沢くん大人気じゃん」

友人に言われ、柚希は「そうだよ」と笑った。

「ちょっと怖いイメージもあるけど、根が優しすぎるからみんなに好かれてるし、実は照れ屋で臆病なとこもあるみたいで、コロコロ変わる表情がおもしろいの」

柚希は笑顔でそこまで語った後に、友人二人の表情を見て、ハッとした。ついつい得意気に話してしまった事を後悔する。

「推しを語るいつもの柚希とやっぱりちょっと違う気がする」

「やっぱ柚希も好きなんじゃん!」

揶揄う二人に「だからやめてって」と笑いかけながら、柚希は八尋のメッセージを思い出す。

『振られたらなぐさめて』

彼はそんなふうに言うけれど。
たぶん2人は、両想いだ。
柚希はずっとちとせのことも、八尋のことも見ていたのだから、これはきっと間違いない。

だけど……もし彼が振られてしまったら。
その時は、その時だけは横にいたい。

慰めて、崩れそうな笑顔を見ていてあげたい。

そうじゃなければ、自分の出番などなくて良いのだ。

大好きな二人が結ばれる。
そんなハッピーエンドを願っている。

心の底から願っている。

ストローから流れてくるレモネードは、あまりに酸っぱくて。柚希は少し顔を歪めた。

***

「トロピカルレモネード一つちょーだい」

「はーい、って玲奈か。お前ひとりで文化祭回ってんの?」

久城玲奈は隣のクラスの男子から冷たいカップを受け取って気が付く。佐藤柚希達が飲んでいたのはこれだったのかと。

「ひとりじゃない。八尋先輩と約束してんの!」

「え、一緒に回んの?」

「ううん。ちょっとだけ時間作ってくれるって言うから……告ってみよっかなって」

今まで冗談のように口にしていた想いを、今日こそはきちんと伝える。

「先輩に好きな人いたとかなんとかってすげー泣いてたじゃんお前」

「うん、だから振られる覚悟だけど、それだけじゃ終わってやんないから」

玲奈は得意気に言った後、レモネードを勢いよく飲む。混ぜていなかったからか、シロップの濃い味で舌がびりびりと痺れた。

「なにを企んでんだよ……どうせ失敗すんだから大人しくしとけって」

「うるさいな、こうでもしなきゃスタートラインにすら立たせて貰えないの!」

ついムキになって大きな声が出てしまった。

「……わかったよ。泣きすぎて明日まで目腫らさないようにしろよ。おまえのジュリエット姿、うちの両親めちゃくちゃ楽しみにしてんだからさ」

玲奈は「はいはい」とそっぽを向いて答える。
この男とは幼馴染で家族ぐるみの付き合いだった。

「あっれ玲奈じゃん!髪めっちゃ可愛い写真撮ろ〜!」

別のクラスの友人に声をかけられ写真を撮る。「あとで送って〜!」と愛想を振り撒き手を振ったあとは、笑顔がすっと引き、無表情に戻った。

「その切り替え方怖いんだよ、俺にも愛想良くしてろって」

「はぁ?なんの得があんのよ」

玲奈はかき混ぜた後のレモネードの味が薄くて少し不機嫌だった。

「味薄い」

「おまえ最初混ぜずに飲んだろ。貸して」

そう言ってカップを受け取ると、蓋を開けてシロップを追加してくれた。それを受け取り飲もうとしたところで、また別の喧騒が近付いてくる。

「カラフルラムネ二つとミラクルアイスティーくださーい」

知らない集団が飲み物を頼み始めたので、それを横目に歩き出す。受け取ったカップの中身を今度はきちんとかき混ぜて飲んでみるが、全体的にシロップ多めで甘ったるい。

文句を言う相手もいないままスマホを開く。

『着替えたら話せるけど、どこ行けばいい?』

八尋からのメッセージが届いていた。

『まだ部室にいますか??迎えに行きます!』

震える指で文字を打ち込み、時計を見る。
もう少しで12時。作戦通り事は進んでいる。

焦るな、焦るな。

きっと大丈夫。

トロピカルレモネードを飲み干してゴミ箱に放り、そのまま化粧室に駆け込み鏡と向き合う。髪を整えお気に入りのグロスも塗り直し、最後に笑顔の練習。

本気の想いが、きちんと伝わりますように。

階段を駆け下りて、部室の前でスマホの画面を眺めている八尋を見つけた。
大好きなその姿に自然と笑みが浮かぶ。練習なんて要らなかったのかもしれない。

「八尋先輩!お待たせしました!」

小走りで近付くと、八尋は視線を上げてこちらに向けた。

「へぇ、髪も爪も随分可愛くしてんだな」

玲奈はいつも通り「でしょー」と笑って見せたあと、嬉しくて飛び跳ねてしまいそうになる気持ちを必死に抑え込んだ。

女の子に対して、第一声でこんな褒め言葉をかけられる人間を他に知らない。本当に優しくて大人でかっこいい。

「その爪さ、普通のと違うよな。ちゃんとしたやつ」

「ジェルネイルです!お姉ちゃんネイリストなのでやってもらいました」

「怒られたりしないの?」

「ジュリエット役に必要だって言って誤魔化したらバッチリスルーです!」

「ふーん」と興味があるのかないのかわからない反応を浮かべた八尋は、大人しく玲奈の歩みに合わせて階段を上る。

玲奈は妙に緊張し始めてしまい、それ以上の会話を続けられなかった。

「で、どこ向かってんだっけ?」

「あ……少しゆっくり話したくて、その、屋上扉の前なら誰もいないから、そこに向かってみてます」

美術室や化学室が並ぶ廊下を通り過ぎてから、屋上に続く階段を上る。出店もほとんどないその辺りは不安になるほど静かだった。

少しだけ埃っぽいその場所で、階段を上りきらないうちに玲奈はスマホの画面を見た。

もうあと1分もせずに12時になる。
どこか遠くから、扉を閉める音がした。

踊り場まで上り、こちらを振り返る八尋を見上げ、玲奈は焦って口を開いた。

「あの、私……八尋先輩が好きです!」

よく通る声は、人の少ない校舎に反響する。

八尋は表情を変えないまま、だけどどこか困った様子で言葉を探しているようだった。玲奈は階段をまた上り、八尋と同じ高さまで足を運んだ。この人が何か言ってしまう前に、言葉を続けなきゃ。

玲奈は浅い深呼吸の後、また口を開いた。

***

11時45分

「甘酸っぱいトロピカルレモネードいかがですか〜2階で販売してま〜す」

大きな看板を持った、おそらく下級生の男子がちとせ達の横を通り過ぎようとしている。

「八尋、後ろ」

浴衣を着て立ち止まる八尋の腕を引き、その大きな看板を通してやった。

「ありがと」

八尋はそう言ってから、再び廊下の中心でその壁を眺める。張り出された美術部の作品が気に入ったらしく、一つ一つ真剣に見ていた。

ちとせは首から下げた重い一眼レフカメラを構え、真剣な横顔を撮影する。

「八尋、こっち見てよ」

そう言うと、八尋は楽しそうにピースをしてレンズを見た。カメラを挟んで目が合う中で、一番良い瞬間にシャッターを切る。

八尋はまたすぐに壁の絵に視線を戻してしまうので、それ以上欲張るのはやめて、カメラのプレビューボタンを押した。

廊下から差し込む、陽の光に照らされた浴衣姿の八尋がきちんと収められていた。

「俺、もう着替えて行かなきゃなんだった」

八尋はいつの間にか絵を見るのをやめて、スマホで時間を確認していた。

「もう演劇の時間?」

「いや、12時からちょっとあって、演劇はその後」

「そっか13時開演だっけ」

ちとせも担任に呼ばれているので、この後向かわなくてはならない。加えて13時からはクラスの会計担当なので、今日の公演は見に行けない。
八尋とはしばらく別行動になる。

「じゃ、また午後ね」

ちとせがさらりと言うと、八尋は「あ、」と何か言いかけてから、こちらをじっと見つめる。
しばらく次の言葉を待ってみたが何も言おうとしないので、名前を呼んだ。

「八尋、なに?どうかした?」

「あ、いや……いいや、後で」

落ち着かない態度の八尋を不思議に思いながらも頷く。この前家に泊めた日から、八尋はずっとこんな調子だ。

まあ……色々あったから、お互いぎこちないのも、当然なんだけど。

「外寒いから、店番の時はあったかくしとけよ」

八尋はそう言いながら背を向け、部室の方へとだるそうに足を運んで行ってしまった。

ちとせは少しだけその背中を見送った後、進行方向を変えるためにくるりと振り返る。

「いて、」

勢いよく振り返り足を踏み出したところで、誰かの肩に頭をぶつけた。

「うわー、ごめんめっちゃ痛いよな今の、平気?」

顔を上げると、椎名翔が申し訳なさそうに眉を下げてちとせの顔を見ていた。

「平気……平気です」

翔がちとせの前髪を掻き分けておでこを触ろうとするので、それに抵抗し首を振る。
「ほんとごめんな」と過剰に謝る翔は、視線を少し下げると、今度は嬉しそうに眉を上げた。

「カメラ、どう?」

ちとせが首にかけている一眼レフカメラを指さす。

「ちょうどいま、すごい綺麗に撮れました」

八尋の写真を思い出し笑みを浮かべると、翔は安心したように微笑んだ。

「お願いって言ったら見せてくれる?」

「あはは、絶対に嫌です」

「まあ今日のとこは咎めないでやるか」

太陽みたいな眩しい笑顔で冗談めかしく言う翔は、ちとせの横を通り過ぎて壁に展示された絵の前で立ち止まった。

「美術部の作品、見に来たんですね」

「うん」とだけ言って絵を見つめるその姿に、ちとせは何も言えなくなった。

「じゃあ俺、担任に呼ばれてるので」

そう言ってその場を離れる。

ガチャン、と鍵のかかった重たい扉を開けて、少し寂しげなアパートの一室に足を踏み入れた、昨日の自分。そのふたつの目に飛び込んだ、大きな大きな絵を思い出した。

『翔先輩、絵なんて描くんですか』

『そう、まだまだ練習中だけどね』

木の縁に、布が貼ってある。大きな大きなキャンバス。なんの絵なのかと言葉にすることは難しい、前衛的な模様のような何か。その色の動きの中に誰か女性の影を感じる。

不思議と、誰かを想う暖かい気持ちが滲み出るような、意味のある絵に感じた。

『好きな人の絵ですか』

そう聞くと、翔は『うん』と頷いた。
この暖かい絵に見合う優しい笑顔だった。

『まあそんなことは置いといてさ、これでいい?一眼レフカメラ』

『わ、すごい、ほんとに大きいんですね』

話を本題に戻した翔は、ゴツゴツとした大きなカメラを差し出した。

『今だとさ、インスタントカメラとかも人気だけど、本当にこれで平気?』

『はい、大袈裟な方が、多分ちゃんとこっちを見てくれるんで』

『もしかして……好きな子?』

『あ、そうでした。俺にとって必要な人がわかったんです』

翔はちとせの手からカメラを取り上げて、レンズを外し少し短いものへと付け替えた。

『そう、それは良かった』

翔はそう言ってから、カメラのストラップをちとせの首に通し、『頑張れ』と言った。

たったそれだけ、それだけの時間を思い返し、廊下を歩くちとせの胸はいっぱいになる。

そしてちとせは化学準備室に辿り着くと、その扉をノックし開けた。

しかし担任はおろか、誰もいない。

ポケットの中の黄色の付箋には『12:00~化学準備室』と確かに書かれているのに。
化学を担当する担任は付箋で伝言を伝えることが多かったので、なんの疑いもなくここへ来たわけだが、何かおかしい。

そもそも文化祭の昼に呼び出しなんてするものだろうか。

扉を勢いよく閉めると、窓の外から12時の鐘が聞こえてくる。学校のチャイムではなく、街のスピーカーから流れるものだ。

ちとせは少しだけ窓の外を眺めた後、担任も誰も現れる気配は無いので来た道を戻ろうとした。

その時だった。

「八尋先輩が好きです!」

人通りの少ない渡り廊下の方からよく通る声が響いて聞こえてきたのだ。

ジュリエット……?

思わず息を止めた。

そして、この耳に障る声はジュリエット役の久城玲奈だと気が付くと、ちとせは足音を立てないように声のした方へと近づく。

しかしどこにも人影は見当たらない。
不思議に思っていると続けて声が聞こえてきた。

「八尋先輩、前に好きな人がいるって言ってましたけど、それって絶対叶わない恋ですよね」

どうやらこのうるさい声は、閉め切られた屋上に続く暗くて埃っぽい階段の上から聞こえてきているようだ。

ちとせは階段から少し離れた廊下の柱の陰に、ちょこんと座り込んだ。
教室棟から離れたこの辺りは人気もなくあまりに静かで、玲奈の声がよく聞こえる。

「叶わないのに、その人のことばっかり。私なんて眼中にないのわかってます、だけど……それでも、好きなんです」

やっぱり、本気で好きだったのか。
彼女の視線はいつも八尋に向いていた。それを思い出し、ちとせは俯いた。

「なんか勘違いしてない?好きな相手教えた覚えないけど」

「そんなの、見てればわかりますよ」

随分と強気に話していた玲奈が語尾を弱くして押し黙った。

ちとせは自分の上履きをぼんやりと見つめたまま考えた。
八尋は絶対に断るだろう、と。
なのに自分がここから立ち去れないでいるのはどうしてだろう、と。

それから手に握っていた付箋を見返して気がつく。文字がやけに丸く女らしいことに。

「あの女……」

口の中で呟いて、付箋をぐしゃぐしゃに潰した。

付箋を書いたのはおそらく玲奈なのだろう。
そしてこんな場所で告白をしているのは、ちとせに聞かせるためだ。

ちとせを睨む彼女の視線を思い出した。

いったいなにをかき回そうとしているのか。
恋に熱を上げる女の考えることはわからない。
うんざりとしてため息が漏れた。

まんまと盗み聞きをしている自分がみっともなくて思えた。慌てた立ち去ろうとすると、黙り込んでいた玲奈はまたうるさい声でぺらぺらと喋りだした。

聞きたくない、はやく行かなきゃ、そうちとせは焦った。

足音を立てないように階段から少し離れた頃。

「新島先輩ですよね、八尋先輩の好きな人」

その声が、また階段の上から落ちてきた。
そうしてちとせは再び、足が動かなくなってしまう。

もう一度その場に座り込み、カメラの電源を入れて、プレビューボタンを押した。小さな箱の中の、その笑顔は眩しいままだ。

***

「新島先輩ですよね、八尋先輩の好きな人」

驚いた。それ以外に、今の心境を的確に表す言葉はない。
シンプルな感情に包まれ、八尋は小さく口を開いたまま言葉を見つけられないでいた。

普段の作ったような笑顔さえ浮かべられない玲奈を見て、はぐらかして良いのか迷ってしまう。自分を誤魔化すことは、彼女の想いもまるごと誤魔化すようで、決まりが悪い。

仕方がない。

「うん……俺はちとせのことが好きだから、久城の想いには応えられない」

八尋は少し迷った末、正直に告げて頭を下げた。
もちろん、それが正しいとはっきり思えたわけではない。自信がなかった。それでも、まっすぐ向き合いたかった。

「でも、新島先輩は八尋先輩のこと好きにはなりません。だって、男だもん。男女だって難しいのに、そんな奇跡みたいなこと起こりっこない。八尋先輩だったら他にも、別に玲奈じゃなくたって、柚希先輩とかもっとお似合いな人がいるのに、なんで、ですか」

ついに泣き出してしまった玲奈は声を途切れ途切れに言う。

「なんでって言われても、お似合いとかそういうので決まるもんじゃないだろ」

「でも、叶わない気持ち抱えてるの、こんなに辛いのに」

目の前で肩を振るわせる玲奈も、望みのない恋心を大事に抱えていてくれたのだろう、と気が付き、なんとも言えない胸が締め付けられる感覚に陥った。

「ちとせが、別の人を好きだって聞いた時、俺は諦めた方がいいなって思った。でも無理で、横に居られんなら友達でもいいやってずーっと思ったままで。俺、臆病で」

「そんなの」

「だからえらいな、久城は。ちゃんと好きって伝えたんだ。勇気出してくれて、ありがとう。ごめんな」

なにか言おうとする玲奈の言葉を遮り、八尋は言った。すると玲奈はとても綺麗とは言えない踊り場の床に座り込み、顔を覆って泣いた。

八尋は涙を拭うことも、頭を撫でてやることも、優しい言葉をかけることもしなかった。
なにかしてしまったら、それが彼女への呪いとなってしまいそうで。

「先輩、ごめんなさい。ごめんなさい」

八尋は首を傾げながらも、それ以上深くは問わなかった。彼女の涙の理由が、自分に関係するものだと思いもしないまま。

そして、自分の汚れた上履きだけを見つめる。

文化祭で告白したら成功率が1.5倍だと、柚希が教えてくれた。だけど、そもそも望みが0であった場合、何倍にしたって0のままなのだ。

伝えるのが怖い。

八尋は目の前の玲奈と自分が重なり、確かにあった勇気を、どこかへとなくしてしまった。
玲奈の告白を断った後、衣装の準備へと向かった。泣き腫らした目のままの玲奈が少しだけ心配だったが、八尋にはどうすることもできない。

玲奈とは別の空き教室で、柚希と共に衣装の準備を進める。

「野沢くん、それでそれで、いつ伝えるの?」

教室には翔や悠太も含め、数人の生徒達が和気藹々と準備と練習をしていた。

「いややっぱ、言うのやめよっかなって」

周囲に聞こえないよう、柚希と八尋は囁くような声で言葉を交わす。

「え、せっかく勇気だしたと思ったのに」

柚希が残念そうな顔をした。

「悠太にさ、仲良くしてたってダメになる時はあるって言われてさ」

八尋は目を伏せる。

「……確かになあって思ったんだ。なら素直に伝えたほうが、今の俺たちにとってはシンプルな結果になるかもって」

「でもさ」

八尋は口を歪める。

「普通に考えて、“ごめんなさい”って言われて、平気で友達続けられるほど、俺のメンタル強くないし」

「ごめんなさいじゃないパターンもあるじゃん!」

「そのたった0.1%程度の望みにかけるの、アホらしい。横に居られなくなるのが一番きつい」

「でも篠山くんの言う通りさ、このままいたって新島くんに恋人できたり、喧嘩しちゃったり、卒業して疎遠になったり、関係変わる場面って沢山あると思う」

柚希は八尋の衣装の端をピシッと整えながら、優しく語った。

「結局は二人次第なんだから、新島くんのこと、もう少しだけ信じてあげたら?」

信じてやれ、と悠太も言っていたな。

でも、よくわからない。

いつだって、ちとせを信じている。
家族のように、兄弟のように、友人のように、愛する人のように。

そうやって接してきたつもりなのに。

考えながら何気なく悠太の方へと目をやると、ちょうど八尋を探していたらしく、目が合い手招きをされた。

「……文化祭中ってのは無理かもだけど、考えてみる。また相談乗って」

八尋は柚希の耳元でそう言ってから、悠太の元へと向かった。

それはどこか逃げるように、焦るように。

「これより、全学年合同演劇ロミオとジュリエットを開演いたします」

暗幕で窓からの光が遮られた体育館。そのステージの上にいくつかのスポットライトが灯ると、歓声に包まれていた客席は次第に静まり返っていった。

一ヶ月近く練習を重ねてきた成果がやっと発揮される。妙な高揚感と緊張で、八尋は無口になっていた。

「緊張してやんの」

舞台袖で余裕の表情を見せる悠太が八尋の背中を優しく叩いた。

その勢いのまま、モンタギュー家とキャピレット家が争うシーンでさっそく舞台の中心へと立ち、覚えた台詞を口にする。
声を発してみれば自然と次の言葉が口から流れた。思った何倍も緊張せずにやり遂げられそうだ。

場面の変わるシーンで舞台袖に戻ると、悠太と柚希がニコニコと迎えてくれた。

「かっこよかったよ!」

柚希はぴょんぴょんと飛び跳ねて、興奮気味に八尋の肩を叩く。
自分の演じるティボルトが良い役とは思えないが、そう言われるのは嬉しかった。

「おい、まじかやべーよ」

「俺たちここにいていいのかな」

その時、舞台袖の一角がざわめいた。
出番を控えていた三年の先輩たちが、何かに取り乱している。

「どしたんですか」

悠太が呑気に尋ねると、先輩は持っていたスマホの画面を八尋達に見せた。

「え、これってうちの文化祭すか?」

「そう……これ、俺たちのクラスの」

外に設置された屋台から火があがり、慌てる生徒達の様子が流れていた。
八尋は現実味のないその光景を無心で見つめる。

「待ってこれ、うちのクラスのすぐ横だよ」

「中庭?」

柚希に言われ、八尋は上級生の手からスマホを取り上げた。画面をよく見ようとするも、撮影者が慌てているためか映像は乱れまくり状況が掴めない。

わかるのは、大きな炎が揺れていることだけ。

舞台の興奮が冷め、血の気が引いていく。

「ちとせが当番の時間だ」

思わず手に取ったスマホが手から滑り落ちた。

八尋はステージに立った時よりも嫌な緊張を覚え、気が付けばその場を走り去り、舞台袖から階段を降りて体育館の外へと向かっていた。

ちとせの大きな火傷跡を思い出す。

炎に脅え、ちとせが震えていないか。それだけが、ただ気がかりだった。

重たい衣装のまま連絡通路を走り抜け校舎へと入り、中庭へ向かう。すれ違う人々は皆、八尋のことを不思議そうに振り返った。

ヒソヒソ声などに構ってはいられず、息が切れても走り続けた。そしてその場所に近づけば近づくほどに焦げたような匂いがして、不安ばかりが募った。

中庭に続く廊下へと差し掛かり、見慣れた影が目に飛び込む。

「ちとせ!ちとせ、平気……?平気か」

「え、八尋?」

椅子を運んでいたちとせはそれを床に置き、八尋の元へと駆け寄った。

「なに、なんで?なんでここにいんの、本番中だろ」

八尋の足元から頭までを何度も何度も見ながら、ちとせは困惑した表情を浮かべる。

「火事があったって聞いて、大丈夫かなって」

乱れた呼吸を整えながら言うと、ちとせは一気に顔を歪めて八尋を睨みつけた。

「はあ?そんなことで来たの?ステージ降りてみんなに迷惑かけて?ほんといい度胸してんな」

力強い声で捲し立てられる。
まさかこんなに怒られるとは思ってもみなかった。八尋は酷く動揺し、なにも言えなくなった。

それを見兼ねたちとせは、「さっさと戻るぞ」と言って八尋の腕を力いっぱい引いて歩き出す。

「だって、すごいでかい火、動画で見たんだ」

「一瞬やばいかもって思ったけど、ボヤ騒ぎ程度で済んだよ。先生達が後処理してて俺たちのクラスは一旦引き下げになったけど……ほんとにやばい騒ぎなら校内に避難の声がかかるだろ」

互いに大きな声で言葉を発しながら、廊下の真ん中を通り抜ける。ちとせの勢いに文化祭を楽しむ生徒達は自然と道を開けた。

「まあ、ちとせになんもなくて良かった」

気の抜けた八尋がヘラヘラと笑うと、ちとせはその顔を少し振り返ったあと、また怒りを含んだ声を上げる。

「ほんとさ、いい加減にしろよ。この間から自分の大事なもん放り出して俺のとこばっか来て、馬鹿じゃねーの」

「だって、俺が行かなかったら、ちとせはどうすんの」

「どうすんのってなんだよ、自分でどうにかするよ。俺は八尋に暴力振るわせたくなんてなかったし、舞台を降りてほしいわけでもないんだよ!」

ちとせがあまりに怒鳴るので、八尋は理不尽さに段々と苛立ち、その手を振り払った。

体育館はもう目の前で、連絡通路まで来ていた。
そこにはあまり人通りがなく、乾いた風が吹き抜けている。

「川島のこと、殴り返したのは悪かった。でもじゃあ、俺が行かなかったらどうなってた?美紗さんの病院の時だって、一人じゃ無理だったろ」

「それはどっちも感謝してる。でも俺、美紗さんの時ちゃんと来て欲しいって呼べただろ。だから、そういう時だけでいいって」

「言いたいことはわかるけど、なんでそんな蒸し返して怒ってんのか、わかんないんだけど」

八尋は俯き、鼻を啜った。
泣いているとでも思ったのか、はっとした様子のちとせが八尋に近付き顔を覗き込んでくる。

泣くわけでもなく、奥歯を噛み締める八尋の顔を見て、ちとせはあからさまな溜め息を吐き、黙り込んだ。

八尋は益々腹が立った。たしかに、過保護な部分はあるかもしれない。だけど八尋がそうしなければ、ちとせは簡単に自分を犠牲にしてしまう。

「自分のこと、大事にしてないのはどっちだよ」

八尋は苛立ちを隠さずにそう言ってから、これ以上酷いことを言ってしまわないように、唇までもを噛んだ。

体育館の方から、ロミオのセリフと音楽が聞こえてくる。

ちとせは連絡通路の胸元の高さ程の薄い壁に身体を預け、もう一度ため息を吐いた後、口を開いた。

「……楽しそうに参加してただろ、演劇の練習。髪染めてから八尋変わったから、中学生の頃みたいに無邪気で楽しそうな姿見て、安心したんだ」

その声は、先程までの怒鳴るような口調ではなくいつもの様子に戻っていた。まるで映画のセリフを口にするかのような優しい語り口に、八尋の熱も少しずつ冷めていく。

「寂しいなとか、思わないわけじゃなかったけど、いざ俺のこと優先されると、嬉しいの裏側でごめんなさいって気持ちがでてくる」

「なんで、なんですぐ自分責めるんだよ。俺はちとせのために……」

そこまで口にして、八尋は自分の愚かさに気が付いた。

"ちとせのため"などではなかった。これまでも、今も。ちとせが怒ったり傷付くのならば、それはちとせのためではない。

また自分は、ちとせを想う自分のために、行動していたのか。それを、ちとせのためだなんて偉そうに口にして。

「わかってるよ。ありがとう、いつも俺のこと考えてくれて」

それなのに、ちとせは微笑んでくれる。

八尋は形容し難い感情が喉元に詰まる感覚を覚えた。曖昧で、嘘ばっかりで、はぐらかしてばかりの自分が嫌になった。

冷たい風がまた通り抜ける。
それと同時に体育館から流れる音楽は止まった。

「この話は後でしよう。さすがに戻らないとやばいだろ」

ちとせはそう言って、また八尋の腕を掴んだ。今度は先程までとは違い、遠慮がちな優しい強さで。

八尋はそれを振り払って、今度は自分から、ちとせの手を握った。

暖かくて柔らかい手。

「……好きなんだ、ちとせのことが」

「え……?」

思わず言ってしまった。

だけど、後悔はなかった。

真剣な表情でこちらを見上げるちとせの瞳が、光をたくさん集めるその瞳が、とても綺麗で。

見る見るうちに顔を赤く染める親友の表情をただじっと見つめる。その目がぐらぐらと揺れて取れてしまいそうで、少しだけ可笑しかった。

「ばっかじゃねぇの」

動揺しているらしいちとせは、また怒鳴るような声を上げた。それからぱっと手を離し八尋の背後へと回り込む。

八尋は背中を両手で押され、足をもつれさせながら前へと進んだ。

「そんなの、最近の八尋見てたら嫌でもわかるよ」

ちとせの声が背中越しに響いて聞こえる。

そうか、気付かれていたのか。

……気付かないふりをしてくれていたのか。

どこかから諦めの感情がゆっくりと湧き立つのを感じ、目を閉じた。

「……それに、俺の方が、八尋のこと好きだと思う」

だから、続くその言葉を耳にして八尋は言葉を失った。

なんで、どうして、本当に、と問いただしてやりたくても、驚きが勝り、喉が乾くような息が詰まるような妙な感覚で、何も言えやしない。心臓だって普段の何倍もはやく脈打ち、頭だけでなく身体全体がパニックになる。

今、間違いなく、"俺の方が好き"とちとせは言った。と思う。

背中を押すちとせが立ち止まるので、八尋もそれを振り返り、おそらく真っ赤に染まっているであろう顔で、ちとせのキラキラと輝く目を見つめた。

「八尋のこと想うと、苦しいよ」

頬を仄かに染めるその表情は、ずっと見たかった顔だ。そんな表情を、正面から受け止めている。

「いい加減、舞台上がれって」

「待って、もう一回だけ言ってくんない?」

嘘じゃないか、幻聴じゃないか、不安になって尋ねれば、

「あとで何百回でも言ってやるから、今はさっさと戻れ」

ちとせは眉を下げて、ここ最近でいちばん無邪気な笑顔を浮かべてそう言った。
公演を終えた八尋は、関係者全員に深く頭を下げた後、着替えと片付けを速やかに終わらせ、走ってちとせの元へと向かった。

「仲直りできた」「成功した」そんな言葉だけを悠太と柚希に残し、多くは語らず。

今度はきちんと制服姿で校内を走り抜ける。
息を切らせて中庭に向かうと、ボヤ騒ぎのあった屋台をはじめ、すべての屋台が片付けられてしまっていた。

八尋はその光景に少し動揺した後、すぐにスマホを取り出しちとせに居場所を聞く。

「やーひろ、おつかれ」

返信が来るより先に、ちとせのその言葉が耳に飛び込む。声のする方へと振り向けば、クレープを片手に平然とこちらを見るちとせが立っていた。

「あ、お、おつかれ」

八尋はというと、思ってもみなかった両思いに浮かれ、ふわふわと揺られるような心境であった。

「八尋もなんか食う?」

「……いや、喉乾いた、かも」

走ったからか顔が熱い。手をうちわ代わりに顔をあおぐと、ちとせは「飲み物買おう」と歩きだす。
八尋は後を追い階段を上がり、休憩所と書かれた教室で飲み物を頼む列に並んだ。

「トロピカルレモネード、ひとつ」

「じゃあ俺はマシュマロココア、ください」

教室内の装飾された椅子には座らず、校内を目的もなく歩いた。
レモネードをぐるぐるとかき混ぜ、冷たいそれで喉を潤す。甘酸っぱくて、爽やかな香りが鼻に抜ける。すごく美味しい。

八尋は地味に感動しながら、ちまちまと温かいココアを飲むちとせを見た。

「ひとくち欲しい?」

八尋の視線に気が付いたちとせが言った。
欲しくて見ていたわけではないが、せっかくなので頷きカップを受け取る。

「ちとせがココア頼むの珍しくね?」

「暑くなかったら、八尋はこれ頼んでたでしょ」

「あぁ、うん」

……俺のためだったのか。

思わず頬が緩むのを止められず、そっぽを向いてカップに口をつけた。
いつも飲むココアより、甘く感じる。

「ねぇ八尋、お化け屋敷入んない?今年めっちゃ怖いらしいよ」

いいよ、など一言も言っていないのにちとせは長蛇の列にひょいと加わる。

「なんでおまえ怖がりなのに毎回行きたがるの?」

「なんでだろね」

能天気な返答。

それから列はぐんぐんと進んでいき、その度に中から大きな悲鳴が聞こえる。
二人はなんでもない会話を楽しみ、レモネードもココアもなくなった頃、ついに自分達の番が回ってきた。

なくなった身体のパーツを集めて欲しい、と受付で頼まれた二人は、スマホのライトで暗い教室を照らし歩く。
設定が事故現場であるためか、足元は悪くそこらじゅう血まみれだ。

ちとせは八尋が気が付かないような小さな仕掛け全てに反応し、女子顔負けの高い声で叫ぶ。八尋の右耳はキーンと痛み、また別の恐怖を味わっていた。

「なんか広くね?」

まだ終わらないのか、と内心思い口にする。

「教室三つ分使ってるんだって」

そう答えたちとせは横からお化けに驚かされて、八尋の腕にギュッとしがみついた。

「ごめんまじで怖すぎ、甘えさせて」

薄暗い中、ちとせの髪の匂いがふんわりと漂い、時が止まったように感じた。

前言撤回。
こんなに嬉しいことが起こるなら、日本中のお化け屋敷を回ったって良い。

八尋はそんな浮かれた思いのまま、出口をくぐるその瞬間までお化け屋敷を楽しんだ。

「あー怖かった」

「俺はなんか、夢みたいだった」

気の抜けた八尋は思ったことをそのまま口にしてしまい、はっと口元を手で覆った。

「なに言ってんの」

ちとせも顔を染め、なんともくすぐったい空気が流れていく。

「あのさ、恥ずかしいついでに聞きたいんだけど」

人気の少ない廊下をゆっくりと歩きながら、八尋は心臓をバクバクと鳴らしながら尋ねる。

「いつから気が付いてた?俺がちとせのこと、好きって」

「二人で保健室行ったとき。もしかしてって思って。あと、ちゅーされて確信に変わったかな。冗談じゃしないようなことばっかりだったし、八尋ガチで焦ってたし」

余裕そうに、嬉しそうに話すちとせ。
八尋は数々の失態を思い返し逃げ出したい気分になった。

「ちとせは嫌じゃなかったってこと?」

「あー、うん。驚いたけどね」

「まって、じゃあいつから翔先輩じゃなくて、俺のこと……」

「んー、八尋に好きな人いるって聞いた時かな。嫌すぎて失恋しろって思ってたもん」

そんなに前から、と八尋は驚くと同時に、あれだけ色々なことで悩んだこの約一ヶ月に意味がなかったように思えて少し落ち込む。

「もう良い?恥ずかしくなってきた」

歯痒い内容の質面責めにギブアップの声をあげ、ちとせはふらりと園芸部の部室へと入っていく。

「わあ、すげー綺麗」

園芸部が育てた花を見て、ちとせは微笑んだ。

「良かったら、販売も行っているので」

一人で当番をしている生徒が控えめに言った。
ちとせは楽しそうに教室の中を見て周り、バケツの中を覗き込む。

「これ、球根も売ってるんですか?」

「それは無料でお配りしています。こっちの咲いてるお花が販売用です」

その答えを聞いてちとせは考え込むように動きを止めた。

「欲しいの?」

「いや、美紗さんに買っていこうかなって。文化祭、来られなくなったし」

その言葉が少し意外だった。
美紗さんとちとせは決して良い関係ではなかったが、この前のことで少し変化があったのだろうか。

「これと、チューリップの球根ください」

ちとせはピンクの花を指さして言った。

それから、渡されたビニール袋の中の花と球根を大切そうに眺めながら教室を出るちとせを、横で見ていた。

これからも、ちとせの隣が自分の居場所である。
その事実が嬉しくて堪らなかった。

***

文化祭一日目。色々なことがあったけれど、なんとか無事に終了し、生徒達は帰路につく時間となった。

校門の外へと吸い込まれる人々を横目に、ちとせは外のベンチに腰掛けスマホの画面を見て、父さんからのメッセージになんと返そうか悩んでいた。

父さんとは、母さんと美紗さんのことを言われたあの日以来、あまり良くない関係が続いていた。
そんな中で美紗さんの入院騒ぎがあったので、お互い様子を伺い合って話をしている。

自分が大人になれば済む話だとわかっているのに。どうにもそれができない。

ちとせはベンチの横に置いたプリムラの花を眺め、息を吐く。

『美紗さんのところ寄って帰る』

そう返信し、スマホを閉じた。

いつも美紗さんに冷たい態度を取ってしまうが、美紗さんは何も悪くないと、どこかでわかっていた。
父さんがあっさり再婚したとか、若くて綺麗だとか、そんなことが気に入らなかった自分を少しだけ恥じるようになってきていて。

あの人が倒れてもちとせを呼ぶことができなかったのは、信用されていなかったからだ。

誰が悪いとか悪くないとかは隅に置いて、失いたくないのならもう少しコミュニケーションを取らなくてはいけない。
言葉にしなければ、人の心の内などなにもわからないのだから。

どうか、今度はちとせを頼ってくれるように。

そう思えた点は少し成長したと言えるだろうか。

「ちとせ、おまたせ」

まばらになった人通りの中から八尋の声がする。

ちとせは微笑み立ち上がり、二人並んで帰り道を歩いて行く。

それから、八尋と手を振り別れ病院に向かうと、美紗さんはここ数日で一番元気そうにちとせを迎えてくれた。

お土産と言って、寒さに強いプリムラの花とチューリップの球根を差し出すと、少し涙目になりながら「帰ったら一緒に育てよう」と笑ってくれた。

ちとせはまだ、病院も女の人も苦手だと思ってしまうが、この病室が嫌いだとは思わない。

居心地良いまま文化祭の話を聞かれ、ちとせは色々と話してみせた。
たこ焼きが美味しかったとか、お化け屋敷が怖かったとか、ヨーヨー釣りで校内最高記録を出したことも。心配をかけたくないから、火災の話は伏せておいた。
美紗さんはなんでもない話のどれを聞いても綺麗な絵画みたいに微笑んでくれる。

それから持っていた一眼レフカメラの写真も見たいと言われ、渋々八尋の写真ばかりのカメラを渡した。

美紗さんは八尋と何度も会ったことがあるからか、八尋の笑う顔が見れて嬉しいと言った。

ちとせも帰りのバスでまた写真を眺め、微笑んだ。
高校生の八尋がまっすぐこちらを見て笑う顔が、いつでも見られるなんて。

明日はもっと色々な場所で、色々な八尋を撮りたい。
それにできることなら、二人並んだ写真も欲しい。

欲張っても良いのなら明日だけじゃなくて今後もずっと。

「……カメラ、買おっかな」

口の中で呟き、声が漏れていたことにハッとする。

その後、家に戻ったちとせは、リビングのパソコンとプリンターで写真を印刷した。父さんが帰る前にいそいそと。

一番のお気に入り写真、廊下で撮った浴衣の写真。
印刷したその写真を胸に抱えたちとせは自室に戻り、ローテーブルに置いたままのノートを開いた。

これは絶対に本人に知られてはいけない事だが、そのノートには、中学生の頃の八尋の写真が挟まれている。

修学旅行の別のクラスの時の写真。
ちとせは1ミリだって映っていない写真。

展示の中で、ひときわ眩しく見えたその笑顔が、どうしても欲しかった。

いつも楽しそうな表情は横から眺めていることが多かったから、カメラ目線が嬉しくて、つい手に取った。

ちとせはその写真をしばらく眺める。

思えばずっと、見ていたかったのだ。

その時、スマホが震えた。
画面を開くと八尋の名前が大きく表示されている。電話なんて珍しい。

ちとせは隠し事がバレたような気分になり、今日撮ったばかりの新しい写真も一緒に慌ててノートに挟む。

「どしたの」

「あ、ちとせって黄色と水色どっちが好き?」

何を急に。「もしもし」もなく言われた言葉に、ちとせは戸惑う。

「黄色かな」

ひとまず答えてからなんの話かと聞こうとするも、「わかった」と言った八尋はすぐに電話を切ってしまった。

いつまで経っても八尋がなにを考えているのかわからない。

今日の告白も、突然だった。
突然だけど、生まれてから一番幸せな瞬間だった。

ちとせはもう一度写真を手に取る。
大好きな人のカメラ目線の笑顔を見て、釣られて笑った。

これからは、横顔だけじゃなくて、
真正面から笑顔を見られますように。




次の日に、黄色のフォトフレームをプレゼントされたちとせは、八尋に飛び付いて「ありがとう」と笑った。

今日撮った二人の写真を、そこに飾ろう。

そして増やしていくんだ、二人だけの思い出を。