「八尋、購買行こう」

九月中旬、高校生活二回目の夏休みが明けて一週間。
八尋の失恋発覚から一年が経っていた。

かったるい古文の授業が終わったすぐ後でもちとせの笑顔は美しく、眩しい。

「暑くて教室出たくない。俺、弁当あるし。たまには一人で行けよ」

蝉の声はまだまだ煩く、夏は続いていた。

「やだ、一緒いこう」

そのわがままに「仕方ないな」と答えると、ちとせは満足そうに笑う。
エアコンで冷えた教室を出て生温い階段を下りると、購買に並ぶ行列ができていた。いつもの光景ながら、呆れてしまう。

太陽の光がこれでもかと射し込む廊下は蒸し暑く、身体的に不快だ。ネクタイを少しゆるめても意味はなく、小さく溜息が漏れる。

「文句言いながらも一緒に来てくれて、八尋は無駄に優しいよな」

ちとせはニコニコ笑いながら八尋の腹をポンポンと叩いた。
ほどなくしてその笑顔が崩れて、視線は八尋から別のところへと移る。その視線の先には椎名翔がいた。

少しもブレない真っ直ぐすぎる横顔。
恋する視線とはなんて物憂げで残酷なんだろうか。

「翔先輩とみきちゃん先生ってめずらしい」

「みきちゃん先生って誰」

「選択授業の美術の先生」

目立つ2人だと思った。先生も、椎名翔も。
なんでもない教室の前で、少し前屈みになって熱心に話を聞く翔とそれを厳しい表情で見上げる先生。
ちとせ以外の人間だってふと目が止まるだろう。

ちとせは普通にしているようでいてさりげなく、翔の様子を伺いながら購買での買い物を終えた。

「今日買いすぎじゃない?」

オムそば弁当、菓子パン2つとシュークリーム、そして牛乳を買ったちとせはそれらを両手いっぱいに抱えた。
何か持ってやらないと落とすだろうと手をかけるが心配は遅かったらしく、弁当以外のものをばたばたと落としてちとせは慌てふためいている。

床に転げる食料たちを救ってやろうとしゃがみこむと、目の前でいちごジャムパンが別の手に拾い上げられた。

「派手にやらかしてるやつがいると思ったら新島だ」

「翔先輩、ありがとうございます」

数分前まで美術教諭と話し込んでいた翔が、遠くでキラキラを振りまいていた翔が、いま目の前でちとせだけを見て優しく微笑む。

「どう考えても買いすぎ。お前のほっそい身体のどこにこれが入るんだよ」

翔は角張った大きな手でいちごジャムパンをちとせのもつ弁当の上に置いた。

「あとは相棒にもってもらいな。それじゃ」

ひらひらと手を振って八尋たちと反対方向へと向かう翔。

「あ、翔先輩!」

ちとせは翔を引き止めたが、どうしたのと聞かれると、歯切れ悪くやっぱりいいですと俯いた。

八尋はそれをただぼんやりと見つめながら、空腹で起こる目眩のような、そんな不快感を味わっていた。


午後の授業はロングホームルームだった。十月末の文化祭のために、一ヶ月以上も前の今日から準備をするのだ。

「去年もこんな早くから準備したんだっけ」

前の席のちとせに聞く。
シュークリームを頬張っていたらしいちとせは椅子ごと振り返りもぐもぐと飲み込んでから口を開いた。

「去年演劇でたから、すげー覚えてるわ」

「あー、そっかそっか。今年はどうすんの」

各学年各クラスから最低二名以上の代表者を募り行う学園演劇。
演劇部の演劇とはまるで違いクオリティは低いが、それに参加する者は暗黙の了解で顔の良い人気者ばかりだ。

何年か前にミスコンテストやミスターコンテストが廃止され、代わりにこの演劇が行われるようになったとどこかで聞いた事がある。

「翔先輩は……多分、今年も出るよね」

「あの先輩のあの性格なら出るだろーね」

顔の良い翔は2年連続でメインキャラクターを演じてきたらしい。
去年はちとせと共に現代版『三銃士』の一人を演じていた。

「どうせロミオ役になるんだろうな……」

ちとせがじーっと見つめるプリントには『ロミオとジュリエット』という文字がでかでかと書かれていた。

購買での出来事を思い出す。翔を呼び止め何も言えなかったのは、もしかして演劇のことを聞こうとしていたのだろうか。

「なんにせよ、どの役も女と距離が近すぎるよな」

「まあ、メインキャラになるとね」

ちとせはきっと、翔が女子生徒と親しくする姿を見たくないのだろう。
難しい顔をしたちとせがうーんと唸っていると、ホームルームの議題も演劇の話へと移った。

「今年のうちのクラスから有志として選出する2名なんですが、昨年演劇に出ていた新島君がいるのでぜひ……」

視線がちとせの元へと集まる。

「悪いけど今年は出ません」

クラス中がザワついた。
誰もがちとせがやると思っていたのだ。

「そ、それじゃあ……去年は確か野沢君も演劇のセットの準備のために出ていたと思うので今年もぜひ……」

今度は八尋の元へと視線が集まる。

去年八尋は2名のうちの1名に立候補した。別々のクラスで会う時間も減ってしまっていたちとせが一緒がいいと頼みに来たからだ。裏方の仕事もあると言われしぶしぶ名乗り出た訳だが、スポットライトの下で笑う翔とちとせを、舞台袖から見てばかりだった。

あの日々の惨めさを思い出し、首を横に振る。

「いや俺、去年も好きでやったわけじゃないし、無理です」

そう断ると、クラスから悲鳴があがった。
どうやら八尋達が断ると思っていなかったらしい。

消極的なこのクラスの人間は、顔とノリの良い、いわゆる陽キャだけが参加できるこの演劇に参加したいと思わないのだろう。

名乗り出る者がいないままこの議題は置き去りにされ、クラス出店がたこ焼き屋に決まる。八尋とちとせは屋台作りを担当することになった。

「楽そうな仕事ゲットできてよかった」

どうにも機嫌が良いらしいちとせが八尋の方を振り返り笑う。クラスの空気も和らぎ文化祭への期待がふくらむばかりの様子だ。

「演劇の有志が決まらないとホームルームが終わらないぞ〜」

その空気を壊すかのように、今まで口出しをしていなかった担任が声を張る。クラスの住人達が気まずそうにあちこちに目を配り、目を逸らし、誰も口を開こうとはしない。

どうなるんだか、と他人事のように考えていた八尋のスマホが机の中で震える。

『やぴろ今年も演劇の裏方やる?よね』

『俺も今年は参加することになたよᴖ ̫ᴖ 』

『体育館でバスケし放題~~笑笑』

別のクラスになった友人、篠山悠太(ささやまゆうた)からのメッセージだった。

調子に乗っているこの男に今年は参加しないことを教えなければ、そう思いメッセージアプリのパスコードを開こうとすると、手元に影が落ちる。

「まだ授業中だぞ野沢」

担任が横に立って八尋の顔を覗き込む。
慌ててスマホを机の中に放り込み俯いた。

「去年参加した君らがやってくれれば丸く収まるんだがな……」

担任の声に同調するように頷くクラスメイトもいた。

「俺、去年の怪我で歩き方変になっちゃって……人前、出たくないんです」

ちとせが悲劇を演じるように言うと、担任は「そうか」と引き下がる。サッカー部を退部するほど大きな怪我は、時々便利な言い訳に使われるんだ。

「野沢は理由があるのか?部活も運動部じゃないよな」

「ま、まあ、はい」

苦し紛れにロミオとジュリエットに興味が無いと告げたが笑いすら起こらず静まり返り、最低な空気が数分続く。

「わかりました、わかりました!やりますよ」

その場の空気に耐えられず言うと、ちとせが大きな素振りでこちらを振り返る。口には出さないが驚いた表情。

「今年も二人で参加しよう、そうしたら丸く収まる」

ちとせに耳打ちするが嫌だ嫌だと首を振っている。

「あ、あの!私やります!」

ちとせと八尋に注目が集まる教室の隅で、清楚な雰囲気の大人しそうな女子生徒が手を挙げた。

「よし、それじゃ野沢と佐藤で決まりな」

周囲から拍手があがる。
「ちょっとまって」と焦るちとせの声は掻き消されそのままホームルームは終わった。

「八尋、なんで急にやる気になったわけ?」

「空気……と、あと悠太もやるって言うし参加してもいいかなって」

少し不機嫌そうなちとせは八尋の流暢に動く口元を見て顔をしかめる。

「一緒にクラスの仕事やれると思ったのに」

あからさまに大きなため息を吐き出すちとせ。こんなこと言ったら絶対に怒られるけれど、不貞腐れ拗ねるような姿が、なんとも可愛い。

「あ、あの……野沢くん」

後ろから飛んできた声に振り返る。

「佐藤さん」

一緒に演劇へと参加する佐藤柚希(さとうゆずき)が友人二人と共にこちらを見ていた。

「行ってくるね」と告げるがちとせはこちらに興味がない様子でスマホの画面を凝視したまま適当な相槌を打った。

ちとせに構いたい気持ちは隅に置いて女子グループに声をかける。何気無い挨拶や去年の様子を軽く聞かれ、八尋は丁寧に答えた。ほとんど話をしたことがない相手だったが柚希がよく笑う子だったため、場は和やかだった。

「ごめん話長くなっちゃった。新島くん帰っちゃったね」

柚希にそう言われ、ちとせの席を振り返るとカバンごとその姿はなくなっていた。

「平気、よくあること」

笑ってみせる。本当によくあることなのだ。ちとせは気まぐれで自由奔放、そんな所も好きだった。強がりじゃない、ちとせのありのままが好きだった。

「また演劇の集まりで話そうね」と柚希が微笑み八尋は教室で一人となった。

一人で帰るのは久しぶりだ。スクールバッグを背負う形で持ち、教室を後にする。スマホの画面を開き、随分と放置してしまった友人、悠太に返信をする。

『バスケ楽しみ』

まだ日の落ちきっていない帰り道。
夏の陽射しが肌に刺さり、八尋はワイシャツの袖を折って第二ボタンも外した。蝉の声が精神的暑さを際立てる。

スマホがポケットの中で震える。
悠太の使うよくわからない猫のキャラクターのスタンプが画面に表示され、口元が少し綻んだ。


「悪い、遅れた」

数日経ち、学園演劇の顔合わせの日となった。放課後の空き教室に遅れて着いた八尋は柚希の隣に座る。

「今ね、あの先輩がロミオに決まったところ」

柚希が目線を送った先には翔がいた。
八尋はやっぱり、と小さく口にする。柚希は「さすがの人気だね」と翔を眺めている。

「今はジュリエット決めてる途中?佐藤さんやれば?」

当然自分は役者にはならないと決め込んでいる様子の柚希はぶんぶんと首を振った。
そうこうしているうちにジュリエットは一年の小柄な女子に決定してしまう。

「私達は大人しく裏方やってよう」

そう笑う柚希。そういえばどうしてこの子はあの時、演劇に参加すると立候補してくれたのだろうか。

「佐藤さんってさ」

それを尋ねようと口を開いたちょうどその時、

「ティボルト役は、野沢八尋先輩がいいと思います!」

どこからか発せられる自分の名前と信じられない推薦に動揺し、八尋は小さく「え?」と呟いた。

「野沢くん、あの子知り合い?」

柚希にそう聞かれ声の主をよく見ると部活の後輩の女子であることに気が付く。ジュリエット役に選ばれた久城玲奈(くじょうれな)という人物も同様に部活の後輩で、彼女の方とは何度も会話をした覚えがあった。

「茶道部の部活の後輩」

「え、野沢くんて茶道部なの!?」

耳打ちすると、柚希は少し興奮気味に目を見開きそう言った。

「たまにしか顔出さないけど」と続けると、この場を仕切っているらしい翔にやりたいかどうか全員の前で問われる。八尋は申し訳ない表情で首を横に傾げて見せた。

それに負けじと声の主は再び口を開く。

「オリジナル脚本としてアレンジを加える中でティボルトとマーキューシオ役は元々仲の良い野沢先輩と篠山先輩がいいと思います」

「あ、私もお2人が一緒だと心強いし、絶対におもしろくなると思います!」

推薦者に続き久城玲奈が手を挙げる。
急に名前を呼ばれた悠太は状況がいまいち理解できていない様子だった。

「待って待ってめちゃくちゃ推されてるけどなんで?」

柚希が再び小声で尋ねてくる。

「いや、俺が聞きたいんだけど……」

悠太と目線が合い、困ったように眉をひそめあう。

「なんにせよ各学年からバランス良く役者を募らないといけなかったから、他に立候補者がいなければ二人に検討してもらいたいな」

そんな八尋たちの表情が見えていないのか翔は毅然とした様子で言う。もちろん立候補者はいない。現三年は明るく派手な人が多いが二年は覇気のない人物が多い。

「野沢くんいいの?このままだとティボルト役やることになっちゃうよ?」

「ごめん佐藤さん俺台本も見てなくてさ、ティボルト?ってのはどんな役なの……?」

「ティボルトはジュリエットのいとこ。ロミオの親友を殺しちゃって、怒ったロミオに復讐されて命を落とす役。ちなみにマーキューシオはロミオの親友」

「え、俺めちゃくちゃ悪役に推薦されてない?」

教えてくれた柚希は勢い良く何度も頷いた。

「しかも結構大事なキャラだよ」

柚希は心配そうに告げる。
八尋は自分がやるべきではないと思ったが、それと裏腹に悠太の方は「まあ別にやってもいいか〜」と呑気に同じクラスの男と話していた。

「俺と八尋やります!」

挙句の果てに八尋の名前までもを勝手に使い大きく宣言した。
八尋は「自分はやらない」と手を挙げようとしたが、誰にも気づかれないうちに手を下ろす。

まあ、悠太となら面白いかもな。
去年は退屈な思い出で終わってしまったけれど、案外楽しめるかもしれない。

「いいの?」と顔を覗き込む柚希に頷いて見せ、手元の台本を開いた。仕方ない、やるとなったら恥をかかないようにきちんと読み込まないとだ。
それはやっぱり少し面倒だけど、どうしてか少しだけ、ワクワクしていた。

「それじゃあ決まり。楽しみだな」

翔は八尋に笑いかけた。それが含みのある嫌味な笑みに見えてしまい、ぶんぶんと頭を振った。
それと同時に推薦者とジュリエット役の玲奈は嬉しそうに拍手をしており、柚希はそれを見て複雑そうな表情を浮かべていた。

八尋はただそんな空気に身を任せるばかりで、途中から深く考えるのをやめていた。

次回までに台本の読み込みを行うことを指示されその日の集まりは終わった。カバンを持ち教室を出ようと立ち上がると隣にいた柚希も急いで荷物をまとめ始める。

「野沢くん、良かったら一緒に帰らない?」

「あー」

少し考えてからスマホの通知を確認する。ちとせからのメッセージは来ていなかった。

「うん、帰ろっか」

何も予定がない日はちとせと共に帰ることが多いが、絶対の約束にしている訳でもないためこういう時はちとせがどこで何をしているのかわからない。

もう帰ってしまったのだろうか。それともまだ教室にいるのだろうか。わざわざそれを聞くためメッセージを打ち込むことも八尋にはできなかった。


「そういえば佐藤さんってさ」

どうして演劇に参加したのか聞きそびれていたことを思い出して口を開くと、「そうだ野沢くん、柚希でいいよ、佐藤さん沢山いるでしょ」と微笑まれる。

八尋は素直に名前を言い直し尋ねる。

「柚希はどうして演劇に参加したの?あの時急に手を挙げただろ」

柚希はそれまでの笑顔を保ったまま目を泳がせる。彼女は少しだけ考え込む時間を必要としたあと、恥ずかしそうに口を開いた。

「こんなこと言ったら絶対変だって思われると思うんだけど」

八尋は下駄箱から自分の靴を取りだしながら次の言葉を待った。

「新島くんが困ってるように見えたから」

「ちとせが?」

ドクンと嫌に心臓が鳴り、持っていた片方の靴が指先から離れ地面に転がる。
照れくさそうに頷く柚希の表情に嫌な予感がした。

「ちとせのこと、好きなの?」

普段あまり発することのない真っ直ぐでデリカシーのない問いが八尋の口から零れる。柚希は目を丸くした。

「好きなんてまさか!おこがましい!」

「おこがましい……?」

ぶんぶんと頭と両腕を振る柚希に、八尋は先程とは違う種類の戸惑いを覚えた。

そして押し黙る二人。靴を履き替えて階段を降り、賑やかなグラウンドの横を通り過ぎて校門をくぐった。

じゃあさっきのはなんだっていうんだ、そう聞きたかったが少し冷静さを取り戻した八尋は慎重に言葉を選び、蝉の声と運動部の声が響く空気をさえぎり口を開く。

「あの、さっきのって詳しく聞いていいやつ……?」

柚希は少し歩みを進めたあと決心したように大きく息を吸い、八尋の顔をじっと見た。

「新島くんのファンなの」

「ん?」

思わぬ言葉に八尋はさらに困惑した。

「あのほんと、変だよね、アイドルに憧れるみたいな感覚のファンなの……変だよね」

変というか、なんというか。八尋はどう答えたら良いのかわからず駅までの歩みを進めながら黙り込んだ。

「こんなこと、新島くんと仲の良い野沢くんに言うことじゃないよね。でもあの時、怪我をして傷付いたままの新島くんが無理やり演劇に参加させられそうな姿見てたら私がやるしかない!って、なんていうか、母性……?が働いた、というか」

柚希の赤裸々な告白にひとつひとつ頷いた後、八尋は笑った。

「すっごいよく喋るね」

そう言われた柚希は顔を真っ赤にして俯いた。

「ごめん、悪い意味じゃなくて。ちとせのことそんな大切にしてる人がいたんだって思って」

いい意味で、と付け足すと柚希は調子を取り戻し、また口を開いた。

「新島くんの隠れファンは多いんだよ!本人が女の子苦手みたいだから近づく子は少ないんだけど、今年なんて同じクラスになれたことが奇跡って友達と話してたの」

「ちとせってそんな人気なんだ」

単純に驚いた。と、同時に思い出す。中学の頃から、妙に女にモテていて、本人はそれを迷惑そうにしていた。

「野沢くんも好きでしょ、新島くんのこと」

「は、は?」

柚希の言葉に、声が裏返った。

当然誰にもバレていないであろうと思っていた自分の気持ちが当たり前のように言い当てられて、状況がよく理解できない。首筋に汗が垂れる。

「あれ、すごく仲良いよね?」

きょとんとした表情の柚希。

二人の間に沈黙が数秒。

友達として、という意味だと理解し八尋はほっと胸を撫で下ろすと同時に顔に熱が集まっていくのを感じた。

「あぁ、うん。中学の時から仲良いよ」

平然を装い慌てて続けると、「そうなんだ〜」と柚希は頷いた。話が途切れ歩みを進めていると、不意に柚希の足がぴたりと止まる。

八尋は顔に集まる熱を冷まそうとワイシャツの首元をぱたぱたと動かし風を起こしながら、立ち止まった柚希を振り返る。

「どうしたの」

「あの……もしかして、新島くんのこと好きなの?なんか、その、そういう意味で好きだったり……する?」

恐る恐る、といった様子の柚希になんと誤魔化したら良いのかわからず八尋は道端で硬直してしまった。
女の子は鋭いんだな、なんて考えながら自分の人生が閉ざされていくような感覚に落ちていく。

噂が広まり、気持ち悪がれ、ちとせ本人の耳に入り二度と横を歩けなくなり、軽蔑され、学校にも通えなくなる。という自分の姿が、ありもしない自分の姿が、フル回転する頭の中に描き出される。

「偏見もないし誰かに話す気もないんだけど……でも、あの……あはは、勘違いだったら本当にごめんね」

八尋よりも慌てふためく柚希は「また私、変なこと言っちゃった」と静かに呟いた。

八尋は柚希の顔が曇っていくのを見て、諦めに似た感情が湧き上がるのを感じた。数日前に初めて話をした子だけれど、彼女が意地の悪い人間でないことくらい伝わっている。

もういいか、とかこの子なら、とかそういった思いがぐるぐると巡り、考えているうちに足元から身体の力が抜けていく。

八尋は脱力し、その場にしゃがみこんだ。
足が少し震えていた。

「内緒にしてくれる?」

熱くなる頬を手の甲で隠しながら、目線だけで柚希を見上げる。

柚希は顔を真っ赤にして何度も頷いた。


お互いの秘密を打ち明けあった二人は、駅の近くの喫茶店に入ることにした。

「それでそれで……いつから好きなの?やっぱり中学生の頃?」

「うん」とか「まあ」とか歯切れ悪く肯定し、熱の冷めない体内にアイスココアを流し込む。甘ったるさが脳に伝わり、くらりとした。

それに対し頼んだアイスティーを一口も飲んでいない柚希は八尋が何を言っても嬉しそうにキャッキャッと笑う。

柚希は男性同士が恋愛するドラマにハマって以来そういうコンテンツが好きだと語った。
八尋の恋心に対しても物語を消費するかのように「いつから」「どこが」「どうして」を聞こうとしている様子であった。

八尋は中学の時からちとせが好きであったが、その理由を考えたことはあまりなかった。一緒にいればいるほど好きだと思う事が増える。その理由を言語化しようとしたことがなかったのだ。

「柚希はなんでちとせのファンなの?去年とか違うクラスだったんだろ」

自分ばかり答えられない質問に頭を悩ませるのが癪で、柚希に問う。

「あれだけの美少年だよ……? 入学して二日でみーんな新島くんの名前知ってたと思う」

「そんなに?」

「しかも、私の推しにそっくりでさ……」

「推し?」

柚希はスマホを手早く操作しゲームの画面を八尋に見せた。画面には煌びやかな衣装を纏う可愛らしい顔の男キャラが少しキョトンとした表情でカメラ目線をしているのが映し出されている。

「へぇ、可愛い」

確かに雰囲気は似ているな、目元のほくろも同じ位置にある、と感心しながら八尋はもう一度アイスココアを飲んだ。
ストローを動かし氷がカラカラと音を立てるのを無意識に楽しむ。

「それからファンになって、廊下とかで見かけると嬉しくて、美術部の部室からサッカー部もよく見えたから一方的に見つめてばっかりで」

ファンとは言うが、恋する女の子となんら変わらないような気がして八尋は苦笑いを浮かべる。

「サッカー部も辞めちゃったでしょ、だから今年は同じクラスがすごい嬉しくて」

推しに似ているという点以外でちとせのどういうところに惹かれたのか尋ねると、柚希は嬉しそうに言う。

「掴みどころのない所、かな。目を離したらふわ〜っといなくなって別のところで別の人と可愛い笑顔で話してる。寂しがり屋なのかと思ったら一人で図書室にいたり、本も読まずにぼんやり窓の外見てたりするの。自由な野良猫みたいでいつ見ても飽きない」

八尋は痛いほど柚希の気持ちがわかってしまった。柚希が語った姿は容易に想像できるどころか、自分がいつも見つめている姿そのままであった。
そんなちとせが自分に懐いてくれて気を許しわがままを言うのが、堪らなく好きなのだと改めて自覚する。

何を考えているのかわからない、ちとせの綺麗な横顔がまつ毛の先まで鮮明に思い浮かび、それすらも好きだという感情で支配される。

「俺も好きとかじゃなくて、ファンなのかな」

柚希に同意して見せると、彼女は「そんなわけないよ」と笑った。八尋はどうして断言できるのかと問う。

「私には心ときめくものが沢山あるけど、野沢くんはそうじゃないでしょ」

「どういうこと?」

「唯一無二ってこと!私は新島くんがいなくても他のものでときめき補給するけど、野沢くんは新島くんの代わりとかないくらい大好きっぽいから」

柚希は周りに聞かれないよう目の前に座る八尋の方へと身を乗り出し、声のボリュームを抑えて言った。

「じゃあ、他に代わりがいたら、消えんのかな」

ぼそりと呟く。
ちとせは翔のことが好きなのだ。自分が幸せになる日は来ないとわかっている。

それを聞き逃さなかった柚希は微笑んだ。

「叶うかはわからない恋かもしれないけど、消すことないんじゃない」

簡単に言ってくれるな。

「叶わないのに好きでいるのは、辛いだけだ」

ちとせが別の男に恋をしているなど間違っても言えない八尋は不貞腐れるかのように言う。

「辛いのは、幸せとの落差が大きいからだよ。手放したらどっちもなくなって平坦な毎日でつまらなくなっちゃう」

難しいことを言うものだ。

柚希の大人びた言葉がいまいちピンとこない。
八尋はうーんと唸り、アイスココアを飲み干した。

「まぁでも少しだけ興味の分散ができたら悩みすぎずに済むかもね!」

「興味の分散」

柚希の言葉を繰り返す。先程までの言葉よりもしっくりくるものがあった。

「ねぇ、これだけはやっぱり教えて……新島くんのどういうところが好きなの?」

縋るようにこちらを見る柚希の真剣な顔。
八尋は少し考えてから口を開く。

「前向きで、優しいところ」

それを聞いた柚希は少し意外そうにした後、再び優しく微笑み「素敵だね」と言った。

それから、アイスクリームを追加注文した柚希がそれを食べ終わるまで、お互いの"推し"と"好きな人"を少しずつ語り合った。

八尋は初めて自分の気持ちを打ち明けたことがなんだか嬉しくて、照れくさくて、その日の夜は寝付くまでに随分と時間がかかってしまった。