文化祭2日目。今日は一般公開の日で、保護者含め地域の人々が校内に入ることとなる。

八尋にとって昨日は長い片想いが終わった素晴らしい一日であった。

だから今日は、朝待ち合わせをして学校に向かうのも、目が合う瞬間も名前を呼ぶ声も、いつも通りなのに全然違う。世界がキラキラ輝いている。ちとせも自分を好きだという夢のような事実に浮かれ、口笛を吹きスキップをしたい気分で登校したわけなのだが。

学校からすれば昨日は良い一日とは言えなかった。

例のボヤ騒ぎのせいで教師はピリついており、現在朝のホームルーム中には何度も何度も火の元の確認と事故を起こさないための注意事項を聞かされ生徒達も辟易としている。

「それじゃあショートホームルームを終わるので、くれぐれも事故と怪我のないように」

起立、礼の掛け声を終え、生徒達の気が緩む。

「あー、もうひとつあった」

教室を出ようとしていた担任が立ち止まり、大きな声を上げた。ゴツゴツとした両手を何度か叩き、「静かに」と叫ぶ。

「後夜祭の花火は中止。これも昨日の騒ぎを受けて職員会議で決定しました。以上」

担任は生徒からの非難を避けるようにそそくさと教室を後にした。

教室は様々な声で溢れる。多くは残念がり嘆く声であった。

「花火、やりたかったのに」

前の席のちとせが八尋を振り返り、寂しそうに言う。八尋が「だな」と同調すると、自分達とは比べられないほどにショックを受ける声が耳に届く。

「さくらちゃんと花火できねーじゃん!!」

サッカー部の男子だ。
時々ちとせと親しげに会話をしている集団の一人が、その場で膝から崩れ落ちている。

「え、五組の?ついに付き合ったの?」

ちとせが珍しくわくわくした声をあげ、自分から彼等の元へと寄って行く。八尋は何気無くそれに着いていく。

「付き合ってねーよ。文化祭誘ったら花火だけならいいよって言ってくれてさ……」

それは確かに、叫びたくなるのも頷ける。

「クラス出店はやるのに花火中止はおかしくね?」

「ボヤ起こしたのさ、生徒会長と文実委員長のクラスなんだって。責任問題なんじゃない」

そう言われ、八尋は真面目な生徒会長の顔を思い出す。

「生徒会長、火が上がった時すごい冷静に避難誘導して、それですぐに収まったのに、可哀想だね」

ちとせはしんみりと言った。

「新島、あの場にいたんだ……」

サッカー部の集団が、先日大きな火傷跡を目の当たりにした集団が、しん、と静まり返る。

「もういいって、俺、平気だから」

ちとせは気を遣われるのが耐えられない様子で気丈に振る舞った。八尋は、昨日までの自分が彼等と同じように接していたことに気が付き、思わず目を逸らす。

「八尋ー!八尋どこいる?」

その時、廊下から悠太の声が響く。
昼から舞台裏で顔を合わせるというのに、何の用だろうか。八尋は教室の中から「なにー?」と叫び返した。

「八尋、はやくこっち来いっつってんだろ!」

ちらほらと生徒達が残っている教室の中に、悠太の怒鳴り声が響き渡る。

「あれはまずいわ」

八尋は呟いて、悠太の元へと駆け寄った。
能天気で馬鹿で温厚な悠太が怒鳴るなど、年に一度あるかないかの出来事だ。

「どしたの」

「これ、このクラスの人中心に書いてもらって。できれば下まで埋めてほしい」

慌てた様子の悠太は早口で言った。

八尋は差し出された紙を受け取る。
そこには後夜祭の花火中止に抗議する文言が書かれており、それに賛同する者の署名欄が用意されていた。

「一時間後に回収するから、よろしく」

「待て待て待て、昼まで部活とクラス当番で時間ない」

「はあ?使えねーな」

苛立ちを露わに、悠太はその紙を八尋から奪い取る。理不尽に叱られたことが納得できないものの、悠太の勢いがあまりに強く何も言い返せない。

どうしたものかと首の裏をかくと、いつの間にか傍に来ていたちとせが八尋の背中からひょっこりと顔を出した。

「俺でよければ、集めて一時間後に渡せるよ」

ちとせが悠太の持つ紙に手を伸ばす。

「ナイス!助かった、じゃ集まったら電話して」

悠太はそれだけ言い残し、人混みを掻き分けて廊下を走り去った。

その後ろ姿を見送った後、隣に立つちとせの表情を盗み見る。受け取った用紙を真剣な眼差しで見つめていた。

「署名、そんなに集められる?」

お互いの友人の名前だけでは到底埋まらない大きな枠。それだけの名を集めるのは、八尋でも苦労するだろう。

「心配しなくていいから、八尋はさっさと部室行きな。あとで迎え行く」

ちとせはそう言うとサッカー部の集団の元へと戻り、その紙に署名を集め始める。

なんだか珍しいその光景に少しの違和感を覚えながら、八尋はスマホで時間を確認する。着替える時間を考えればもう部室に着いていなければいけない時間だ。

小さなため息と共に、八尋は廊下をとぼとぼと歩いた。


八尋は浴衣を身にまとい部室の中でぼんやりと座っていた。朝イチのこの時間に体験に来る人は少なく、たいして話したこともない後輩と二人きり。

昨日と同様、この時間が一時間も続くのは耐え難い。

八尋は小さくあくびをした。

それから先程の、悠太とちとせのやり取りを思い出す。

とても真面目とは言えない悠太が署名活動をしていることも不思議で仕方がなかったが、ちとせが協力するのはもっと意外だった。
あまり人と話したがらない男が、なんの心境の変化だろうか。

考えていると、開放された部室の扉の向こうから、こちらを覗く人影が目に入った。

「恵美子!なんでいんの?」

八尋は驚き、母親の名前を呼ぶ。
普段人前では"母さん"と呼ぶようにしているが、思わぬ登場に慣れた呼び方が口をついて出た。

「タケちゃん、朝陽、こっち!八尋いたよ」

八尋の母はその大きな声で家族を集結させる。

「午後から来るって言ってなかった?」

「タケちゃんがね、八尋のたこ焼きじゃなきゃ意味がないって言うから早く家出たの」

八尋母は困った表情を浮かべているが、後から顔を見せたタケちゃん、つまり八尋父はニコニコと穏やかな笑顔で八尋に微笑みかける。

「たこ焼きだけじゃなくてお茶も飲めそうだね」

八尋は急いで家族を部室へと招き入れ、お茶とお菓子を振る舞う。母も姉も茶道を習っていたため口煩く指摘でもされるかと身構えていたが、三人はただ「美味しいね」と笑った。

「たこ焼きは何時から?朝ごはん食べてなくてお腹減った」

姉の朝陽が細い腹を抑えて言った。

「あと五分でクラスの方行くけど、俺たこ焼き作る係じゃないよ」

八尋のたこ焼きが良い、と言っていた父に向かって言うと、母は「やっぱり」と呆れた顔をした。

「ほーら、言ったじゃない!八尋は演劇の練習ばっかりでたこ焼きの話なんて全然してなかったんだから」

「いいんだよ、八尋が渡してくれるだけで。八尋が当番ってだけでいいんだ。気持ちの問題だろう?」

父は朗らかに笑う。
八尋はマイペースな家族を放って茶碗を片付け、後輩に一言告げて少し早く当番を終えた。

家族揃って部室を出ると、廊下の先から浴衣姿の玲奈が歩いてきていた。そうか、次の当番は彼女だったのか。
振った振られたの関係が気まずい八尋は、目が合ってしまう前に、と急いで目を逸らす。

「あ……先輩、おはようございます」

狡い八尋と違い、玲奈はいつも通り。いや、いつもより少し控えめに挨拶をした。八尋は目を合わせないまま軽い会釈を返す。

「あらあら、すっごく綺麗ね」

そう言ったのは八尋の母であった。

「浴衣は自分で着たの?とっても綺麗で似合ってる」

「……はい!たくさん練習しました!」

玲奈はいつもの笑顔で答えていた。
昨日見た泣き顔の記憶が、花が咲いたような笑顔で塗り替えられていくようだ。

八尋母は玲奈の周りをぐるぐると回り、完璧ね、と笑う。いきなり失礼だろと止めても、褒めているのだからいいのだ、と八尋を睨んだ。

「久城は浴衣もそうだけど、ワンピースも似合うんだ。ジュリエット役だから見てあげて」

興奮冷めやまぬ母にそう告げると、玲奈は一瞬だけ動きをピタリと止めた。けれどすぐに綺麗な笑顔を取り戻して「見ててくださいね」と、よく通る透明な声で告げた。

「八尋、遅いぞ」

その声に振り返れば、ちとせが一眼レフカメラのレンズでこちらを見ていた。
ちとせは昨日から、どうしてか八尋の写真ばかりを撮るのだ。

「ちとせくん!」

八尋が声に出すよりも早く、母と姉が声を揃え、嬉しそうに名前を呼んだ。

玲奈はすぐに目を逸らし、部室の中へと入っていく。八尋はどうすることもできなくて、どうするべきでもなくて、ほんの少し心を痛めながら、ちとせの元へと向かった。


安っぽい布が巻かれたカチューシャの中央に、タコのマスコットがちょこんと乗っている。
八尋はそれを半ば強引に頭に着けさせられ、なし崩し的に会計係を任されてしまった。

隣に立つ同じ係のちとせはタコの足をモチーフにした洒落たカチューシャをしており、随分と様になっているというのに。

姉の朝陽に馬鹿にされ何枚か写真を撮られたが、たこ焼きを渡せば大人しくなり、それを食べ終えたあと八尋の家族は立ち去った。

「演劇楽しみにしてるね」と言葉を残して。

「悠太から頼まれてたの、どうなった?」

たこ焼きを待つ人の列が途切れ、ちとせに尋ねる。

「ばっちり署名集めて渡したよ。すげー感謝された」

「なんで……」

なんで、わざわざ悠太のこと手伝ったの?

と口をついて出そうになって、急いで止める。
その聞き方は、否定的なようで。

「なんで、花火なんかに必死なんだろうな、あいつ」

「理由は聞いてないけど、落ち込んだ生徒会長に大量の食べ物差し入れしてた」

詰まった言葉の先を言い換えると、ちとせは少しも疑わずに答えた。

「生徒会長?」

「そう。だから多分、あの人のためだと思うけど」

またもや八尋の頭の中には真面目な生徒会長の顔が浮かんでくる。八尋と悠太の二人乗りを注意した生徒会長。倒したままの自転車を駐輪場に戻し、謝罪のメモと鍵の隠し場所を丁寧にメモに残した生徒会長。

確かにそうか、メモのことも鍵のことも、悠太は呆れながらも笑顔で語っていた。二人は思ったより親しい仲だったのだろう。

「悠太ってほんと謎だな」

「いや、八尋が鈍いだけだろ」

ちとせは笑うが、八尋はその意味がいまいち理解できず首を傾げた。


午後、八尋は舞台の衣装を準備するため、控えの教室へと向かった。

「わ、新島くん……も、来たんだね」

先に来ていた柚希は明らかに動揺し、持っていたポーチを床に落とした。中身が飛び出し、櫛や化粧道具が転がる。柚希はそれに気が付いていないのか、ちとせの顔から目を離さない。

「落ちてるけど、いいの?」

ちとせは呑気に尋ねた。

「いいわけないだろ」

八尋はそう言いながらポーチの中身をかき集め柚希に手渡す。

「あの、新島くん、ちょっとだけ野沢くんと二人で話してきてもいい?」

柚希はポーチを机に置くと、ぷるぷると震える指先で八尋の袖を摘む。
二人が教室の外で話そうと目で合図しあうと、それを見ていたちとせが口を開く。

「だめ。八尋は俺のだから」

「え」

一瞬時が止まり、言葉の意味を理解してから顔に熱が集まった。そんなふうにちとせにときめいてしまうのは、八尋だけではなく柚希も同様であった。

なにも言わない、いやなにも言えない二人を見て、ちとせはふっと笑う。

「冗談。ごゆっくりどうぞ」

ちとせはそう言うと窓際の机の上にひょいと座り、ガラスの向こう側へと視線を向けた。

「やばいびっくりしたびっくりしたびっくりした」

「野沢くんうるさい」

もはや小声とは言えない声量で囁き合う二人は互いの肩を押し合うように廊下を歩きその教室から少し離れる。

その様子を人混みは気にも留めずに流れてゆく。

「今のやばくね?めちゃくちゃ可愛くなかった?」

「ね……火力高すぎて消えてなくなるかと思った……」

「俺、こんな幸せでいいのかな」

なぜか震える両の手のひらを見て八尋は言った。

「なにその幸せ自慢!もっと聞かせてほしくて早く来てって言ったのに、なんで新島くん連れてきたの?」

八尋の腕をがっしりと掴んでぶんぶんと振りながら、柚希は拗ねた口調で言った。

「いや、柚希と準備するからって言ったんだけど、ついて行くってきかなくてさ」

そう伝えると、柚希ははっとした表情を浮かべ、八尋の腕から手を離す。

「やっぱり私、警戒されてるよね」

「警戒?」

「うん、新島くんて意外と独占欲強いもんね」

八尋の頭上にクエスチョンマークがいくつも浮かぶ。

「え、そうなの?」

「もう、野沢くんって本当に鈍い」

柚希はため息を吐いた。
それから、これ以上話すことはないと言いたげな態度で八尋に背を向け教室へと戻ろうと歩きだす。

「え、じゃあさ、言った方がいいかな、柚希に相談乗ってもらってたこと。怒るかな?」

八尋にはまだまだ話したいことが沢山あった。その気持ちが前に前にと出てしまい、思わず柚希の腕を掴む。

「知らないよ〜、二人のことでしょ?そのくらい自分で判断しなよ」

柚希は嫌そうな顔で掴まれた腕を見ている。

「なにその顔、傷付くじゃん」

「私これ以上新島くんに誤解されたくないの!そもそも二人ってコミュニケーション不足だよね!」

周囲の喧騒に紛れ、柚希が何時にもなく声を荒らげた時、教室の扉はガラガラと音を立てて開いた。

「誰と誰がコミュニケーション不足だって?」

いつの間にか二人は、ちとせのいる教室の前まで戻って来ていたのだ。

「新島くん……」

柚希は本日二度目の動揺を見せながらも、ちとせの顔を穴が空くほど見つめる。

「あんた、俺の顔じっと見るよね」

「あ、あ、ごめんね、新島くん……」

柚希は慌てて目を逸らした。

八尋はといえば、二人のそのやり取りを見て妙な違和感を覚え顔をしかめる。

「その手、さっさと離せば?」

ちとせのロボットみたいな視線がこちらを向いたので、慌てて柚希の腕を離した。

「で、佐藤さんはどこまで聞いてるの?」

「え?」

「八尋が俺のこと大好きって事、ずっと知ってたんだろ?」

平然と言ってのけるちとせを前に、二人は言葉を失いその場で立ちつくし、顔を見合せた。
もはやその態度が答えになっていると気が付かずに。

その少し後、妙な違和感は今もまだ目の前にあった。

八尋はただ椅子に座り、柚希の指示通りに目を閉じたり開けたり上を見たり、そんなことしかできないというのに。
軽い舞台メイクを施される間、柚希とちとせはなにやら楽しそうに話をしている。

八尋の知らない漫画の話だ。

知らない言葉が飛び交う間、八尋はただただ考えていた。

ちとせって、こんなに女子と話せたっけ?

この二人がこんなにも自然に会話を続けられるなんて想像もしていなくて。挙句の果てには自分が蚊帳の外に出されるなど、夢にも思っていなかったから。

八尋は終始落ち着かず、居心地が悪かった。

「あ、俺そろそろ行かなきゃ」

楽しげな会話の隙間で、ちとせは思い出したかのように言って立ち上がった。

「どこ行くの?」

「体育館。早めに座っとかないと良い席埋まっちゃうから」

八尋は納得し、名残惜しくも「そっか」と頷く。

「いいなあ、私も本当は観客席で見たいんだ」

柚希が呟く。
彼女は舞台に上がることもなく、音響や照明を担当するわけでもないので本当は観客席に座っても良いのだ。

八尋が一人で準備をできていれば、彼女はオペラグラスでも携えて一番よく見える席を確保していただろう。

「準備手伝ってもらっちゃってごめんな」

柚希は「これも楽しいから」と微笑む。ちとせは立ち上がったまま二人のやり取りを見ていた。

そして少し考える素振りをしてから、柚希の顔を見る。

「俺の横でよければ、席取っておこうか?」

「え、新島くんは私の隣でいいの?」

柚希は本日三度目の動揺を見せて、セットしていた八尋の髪を強く引っ張った。痛みに声が出るが、柚希とちとせには聞こえていないらしく、二人は会話を続ける。

「知らない女子の横よりマシだから」

「嬉しい……!今度新島くんの好きな購買のブラウニー買ってくるね!」

ちとせはその言葉にふわりと微笑むと、「じゃあ八尋、頑張ってね」と軽い言葉を残して教室を後にした。

「えーーー、ねえ見た?今日すごい優しい、野沢くんに告白されたのがよっぽどうれしかったんだね。はあ幸せ……」

柚希は興奮気味に早口で言葉を発し、八尋の髪を掴んだままぴょんぴょんと飛び跳ねた。柚希が首から下げているスマホのストラップ部分がカチャカチャと音を立てている。

「痛い痛い痛い」

その手を制止し、八尋は小さな手鏡を覗き込み自分で髪を整える。

「ていうかバレバレだったね、私達がこそこそしてたの」

「ちとせは人のことがよく見えるから」

「うん、野沢くんと大違いだよね」

「喧嘩売ってんの?」

八尋はメイクを施された迫力のある顔で柚希を睨みつける。柚希はちとせと会話ができたことがよっぽど嬉しかったのか、八尋の視線などお構い無しに鼻歌を歌いながらポーチに道具をしまった。

「……ちとせと話せて嬉しかった?」

「え、うん。当然だよ。え、見たでしょ?さっき私に微笑みかけてくれたんだよ」

「いやー、そうすね。ばっちり見てましたけど。なんか腑に落ちないんだよなぁ」

別に良いのだ、ちとせと柚希が仲良くなるのは。これで八尋の好きな者たちがみんなで仲良くできるのならば、これ以上に嬉しいことはない。

だけど、

「付き合い始めてすぐは俺が優先されるべきじゃね?」

「ヤキモチだ、かわい〜!」

柚希は八尋の気持ちに寄り添うことなく可笑しそうに笑う。腹立たしいその表情に軽いデコピンをくらわせ、八尋は窓の外を見つめた。

舞台に上がるこの後だけは、八尋だけを真っ直ぐ見ていてくれますように。

柄にもなくそんなことを思いながら。


「八尋八尋、ちょっと良い?」

「……どうしました?」

舞台袖で声を掛けてきたのは椎名翔であった。

この男を敵対視し続けてきたけど、それももう終わり。八尋は昨日までとは違い、幾分か余裕な表情で返事をした。

「悠太どこいるか知ってる?」

「悠太?」

そういえば姿が見えない。開演まであと5分もないというのに。

「はあ、昨日は八尋で今日は悠太か」

まさに問題児の世話をする上級生。翔はやれやれと頭を搔く。

「ご迷惑おかけして、すみませんでした」

苦い言葉に、八尋は改めて頭を下げた。

「いや俺にはいいんだよ。舞台の真ん中でアドリブ効かせて場を繋いだのは玲奈ちゃんだから」

「え?」

「聞いてない?ジュリエットがシンデレラに電話かけて惚気けるっていう謎の名シーンの話」

八尋は驚き首を横に振った。
なんだその無茶苦茶な設定は。完成された舞台の中でいったいどうやってそれを組み込んだというのか。

「みんなに頭下げるより、玲奈ちゃんにありがとうって言いな」

翔は言った。八尋の視線はドレスアップした玲奈の方へと向く。それから「そうですよね」と小さな言葉を零して、玲奈の方へと歩みを進める。

「久城さん」

「わ、八尋先輩」

背後から声を掛ければ、玲奈は一瞬嬉しそうな表情を浮かべ、だけどその後すぐに俯き「どうしたんですか」と不貞腐れたような表情を見せた。

「昨日、シンデレラに電話かけてくれたんだって?」

「あ……それは、はい。そうですね」

いつもの笑顔を作ることなく、玲奈は愛想悪く言う。

「ありがとう」

そう告げると、玲奈の時間が止まってしまったかのようにぴたりと動かなくなり、八尋はそれをどうしたものかと眺めていた。

「それだけ、言いたかっただけだから」

言葉が続かない居心地の悪さに、今まで玲奈がたくさん話題を振ってくれていたことに気が付いた。いつでも笑顔で、やかましいほどの言葉を投げかけてくれていたことに。

八尋は多少、それに救われていたということに。

「それじゃあ」

そう言って立ち去ろうとすると、玲奈はやっと口を開いた。

「……ただの罪滅ぼしのつもりだったんですけど」

罪滅ぼし?
その言葉の意味がわからず、八尋は首を傾げる。

「なに、どゆこと?」

「でも私、お幸せになんて言わないですから」

玲奈は八尋の問いを無視してそう言い残し、走りにくそうな丈の長いワンピースのまま小走りに友人の元へと駆けていった。

それを追って問い質すべきか否か悩んでいると、開演のアナウンスが体育館へと響き渡る。

翔が「悠太はまだか」と聞いて回っている。八尋は舞台袖のカーテンに隠れながら観客席を見渡し、こちらへ向かう友人の姿がないか探すが見当たらない。

自由人なのは今に始まったわけではないけれど、無責任な奴ではない。すっぽかしたりはしないと思うのだけれど……。

それにしても人が多い。
用意されたパイプ椅子では足りず、立ったまま観劇に臨む人達で溢れている。

その様に圧倒されながらも、観客席の中からちとせを見つけた。右隣には柚希がいて、その反対隣には八尋の家族達が座っていた。無事に良い席を取れたみたいでよかった。

「みんな聞いて、やっぱり悠太と連絡がつかない。あいつの出番は少し先だから予定通り始める。最悪の場合台本書いた青木が代役として出ることになるから」

翔は冷静に言い放ち、「八尋は色々教えてやって」とこちらを向いた。

青木という一学年上の男は少々冴えない眼鏡をかけ、自信がなさそうに下を向いていた。八尋は傍に寄り、昨日も同様に困らせてしまっていたであろうことを謝罪した後、青木と共に台本を開いた。

「篠山くん、決闘のシーンには間に合うと思う」

「なにか聞いてるんすか?」

「……どうせ会長が折れるだろうから」

答えになっていないその言葉に「どういうことすか」と聞き返すも、八尋の最初の出番が迫っており舞台袖のスタンバイ位置へと手招きされる。

今は集中しなければと思い直し、自分の頬をぺちぺちと叩く。ちとせに格好悪いところは見せたくない。今日は誰にも迷惑をかけたくない。その一心で、心優しきティボルトは舞台に立った。


結果として、舞台は大盛況に終わった。

悠太は自分の出番ギリギリで姿を現し、涼しい顔で台詞を言い放った。その様子がなんだかご機嫌そうで、八尋は少し安心したのだ。

それから、ロミオとジュリエットが結末改変により手を取り合って結ばれた所で舞台の幕が降りる。昨日よりも観客が多い分歓声も多く、なんだか現実味がなく、ぼんやりと夢を見ているような気分だった。

まさか自分が人前で演技をして拍手をもらうなんて、そしてそれを、楽しかったと思うなんて。

八尋は興奮冷めやらぬまま舞台を降りて、自分を待つであろうちとせの姿を探す。

こちらに気が付いたちとせはほっそりとした両の腕を大きく上げて、手のひらをフリフリと揺らした。柚希と八尋の両親もこちらに気が付き、観客席に座ったまま「おつかれ」だの「良かったよ」だのそれぞれ言っている。

「八尋、一番かっこよかった!」

ちとせだけがこちらへと駆け寄り、煌びやかな衣装を身にまとった八尋の胸へと飛び込む。

ふんわりといつもと同じちとせの匂いを感じ、なんだか安心する。けれど同時に人前で熱烈なハグをもらった事実が小っ恥ずかしくて顔が熱くなった。

それがバレてしまわないよう、衣装が熱いフリをしてパタパタと顔を仰ぐ。

ちとせはそんな八尋の表情を見上げ、悪戯に笑っていた。

「そうだ!花火結局やるって!後夜祭一緒に参加しよ!」

どうしてかご機嫌なちとせの言葉。

「え、そうなの。悠太知ってるかな」

八尋は条件反射のように悠太の顔が浮かび、ちとせの身体を離し、自由気ままな奴の姿を探そうとする。

探そうとしただけなのだが。

ちとせはそれを許さず、離れていく八尋の腕を掴みぐいと抱き寄せる。その強引さに抗えぬまま、八尋は振り返りちとせを見た。どうしたと聞けば、ムスッとした表情のまま口を開いた。

「篠山なんてどうでもいいだろ、八尋はずっと俺といて」

「はあ?なに、言ってんの、」

大きな声が出た。

「観客席じゃ遠すぎた。俺は八尋の横がいい」

「なに、寂しかったの?」

その強引さに呆れ笑って見せると、ちとせは少し驚いた様子で目を見開いた後、眉を寄せ少し照れたように「うん」と頷いた。

それがあまりにも可愛くて可愛くて、八尋は一生この子を離さないと心に誓うのだった。


「俺達、コミュニケーション不足らしいじゃん」

「え?うーん、八尋はそう思うの?」

後夜祭はグラウンドと体育館の二箇所で行われた。八尋とちとせはバンド演奏で騒がしい体育館ではなく、幾らか静かなグラウンドで手持ち花火の束を手に取った。

生徒会が用意した着火ライターと小さなバケツも受け取り、乾いた土の上を歩きながら、八尋は会話を続ける。

「まあ、今日一日ちょっと気になってることがありまして。それを聞くか悩んでたんだけど、あーそっか、こういうのをちゃんと聞いとくべきなんだなって……」

「なに?じゃあはやく聞けよ、回りくどいな」

「いや、ちとせくん、今日様子おかしくないすか?署名活動頑張ったり女の子と話したり」

ちとせはきっと俺の自由だろ、と言うのだろうけれど、それでも行動原理を掴みたいと思ってしまうのだ。これじゃあまた叱られてしまうだろうか。

そわそわと落ち着かない八尋に対し、ちとせは顔色ひとつも変えずに「うーん」と声を漏らしながらしゃがみ込み、八尋の持つ花火を一本手に取り火をつけた。

シューと大きな音を立てて緑やピンクに色を変える火花が、黙ったままのちとせの顔をカラフルに照らす。

八尋はそれが羨ましくなって、ちとせの物より少し大きな花火の先端に火をつけた。

「俺、昨日、聞いてたんだ」

ちとせの不意の言葉に顔を上げると、目が合う。

「ジュリエットに告白されてただろ」

八尋の心臓がドクンと大袈裟に跳ね、言葉を失った。

「偶然、聞いちゃってさ」

ちとせは燃え尽きた花火をバケツに放った。
ツンとした、火薬の匂いがする。

「あの子の前ではっきり俺のこと好きって言ってくれて嬉しかった」

ちとせは微笑んだ後、「けど」と続ける。

「本当は久城さんとか佐藤さんとか、ああいう子達と並ぶ八尋の方がなんかしっくりくるから、俺はそういうの全部奪ったんだって思うと、すげー悪いことした気分になってさ」

「待って、なにが言いたいの?」

そもそもこれは八尋の問いかけた内容に関係のあることなのだろうか。

話の先が読めず困惑する八尋を見ても、ちとせの顔色は変わらなかった。長く綺麗なまつ毛を伏せて、手に取った線香花火に火をつけそれを眺めている。

さっきは「八尋の横がいい」と可愛いことを言ってくれたというのに、一体どうしてこんなお通夜のような空気にならなくてはいけないのか。

重い沈黙の中、線香花火の火の玉は落ちることなく消えていった。八尋もちとせもただそれを眺めるだけだった。

「俺のことなんか好きにならなきゃ可愛い後輩と付き合う可能性があって、俺はその未来を潰したんだ」

完全に手の中の灯りが消えて、ひんやりとした風が吹いて、ちとせがそう言って。

「いや、え?俺から好きになったんだから関係なくね?」

八尋は焦り、口早に言った。
どうしてこの期に及んで悲しいことばかり言うのだろうと不安ばかりが募る。

「八尋、昨日なんか舞台降りてまで俺のとこ走ってきただろ。俺の罪悪感とかなんも知らないで、無視して、馬鹿みたいに重い衣装で走ってくるんだ」

「俺は……ちとせがいちばん大事だから」

八尋は言った。
まるで叱られた子供が言い訳をするように、情けなく自信の無い声で。

「それは嬉しいけど、俺がいなければ八尋はもっと簡単に幸せになれたのにって思ったんだよ」

「それで結局、ちとせはなにが言いたいの?」

怖かった、昨日のはやっぱりなしだと言われたら、八尋はとても受け入れられないだろう。

二人はもう火のついていない花火を持ったまま、お互いの顔をじっと見つめた。
それから少しして、ちとせが、重たい唇を動かして言葉を発する。

「だからさ、本当に俺なんかでいいの?」

思わぬ言葉に八尋は目を見開いた後、安堵のため息を吐く。

「ちとせは俺にとって最初で最後の好きな子だよ」

「それって結構、重い言葉だよ」

ちとせはここに来て初めて表情を変え、ほんの少し声を張り上げ八尋に食らいついた。
縋るような、求めるような視線に、八尋は心の底から安心する。

なんだ、こんな簡単でわかりきっていることを心配していたのか。

じっとこちらを見つめる大きくて丸い瞳。
暗いグラウンドの微かな光を集めて、深くて優しい輝きを灯すその瞳。
見ているだけで安心する、吸い込まれるようなちとせの両の眼には、いつだって不安と渇望が入り交じっているのだろう。

「大丈夫。誓うから、心に刻んどいて」

八尋はちとせが可愛くて愛おしくて堪らなくて、緩んだ表情でちとせの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

ちとせは張り詰めていた緊張の糸が切れたように無邪気に笑い、また新しい花火を手に取った。

「言質とったから!」

そう言って立ち上がり、火花を散らすカラフルな棒を振り回しキラキラとした笑顔を浮かべた。

八尋はスマホを手に取りカメラを起動しその姿を写真に収める。

重いカメラを抱えたちとせの気持ちが少しわかった気がする。愛おしくて、残しておきたいのだ。今だけではもったいない。この先何年も、見ていたい。

「ねぇ、八尋のさっきの質問さ」

そうだった、八尋は忘れかけていた質問を思い返す。署名活動に勤しんだ理由と、柚希と親しげな理由が知りたかったのだ。

「今日はというか明日からも、八尋の友達とは仲良くしようと思ってさ」

「それはなんの心境の変化なの」

「建前としては、もう八尋が俺のとこ走ってこなくていいように、俺がそっちに歩いて行こうっていう、そういう話」

遠回しな表現を聞きながら、八尋はスマホをポケットにしまって花火を手に取る。ちとせの振り回す火をもらい、八尋の魔法の杖もパチパチと音を立てた。

「で、本音としましては?」

「傍にくっついておけば、八尋のこと取られなくて済むだろ」

またもや無邪気に言うその笑顔に心臓を射抜かれ、思わず自分の胸元をぐしゃりと掴み俯く。

冷たいはずの秋の夜なのに、熱くて仕方がない。

できることなら、失恋を自覚し俯いていた、あの夏の自分に教えてやりたい。あの、やけにエアコンの効いた部屋でうずくまり放心していた黒髪の自分に。

今、こんなに幸せになれたよって。
そのままちとせを好きでいて良いんだよって。

間違ってないよって、言ってやりたい。

長くて冷たい夏は、いつか終わりが来るんだ。

「八尋、聞いてた?」

「聞いてた聞いてた。なんかずっと嬉しくてさ、めっちゃ熱い」

火の消えた花火をバケツに放り、両手で顔を仰ぐと、ちとせは目をまんまるくしたまま八尋に近づいた。

「ほんとだ、暗くてよくわかんなかったけど顔真っ赤じゃん」

「いや、うん、顔に出やすいらしい」

「見てるこっちが恥ずい。俺、もう花火いい」

ちとせは急に我に返ったのか、バケツを持って歩き出した。

「はあ?こんな持ってきたのに?」

八尋は最初こそちとせの勝手な行動に眉をひそめたが、背中を追って歩き出すと、次第にそんなことどうだって良いような気がして笑いが込み上げた。

「じゃー俺、他の奴らと花火してから帰るから!」

背中に向かって言うと、ちとせはぴたりと歩みを止めた。それからくるりとUターンし、真っ直ぐ八尋の元へと歩いてくる。

「わざとやってんだろ」

ちとせは呆れた表情で、でもどこか嬉しそうに八尋の持っている花火の束から、一本の花火を手に取った。

八尋はあまりに幸せな夜に、また微笑んだ。




end