八尋(やひろ)は、俺がどんなやつでも友達でいてくれる?」

今でもはっきり覚えている。
高校一年生の夏だった。期末テストの勉強中、24度に設定されたエアコンが妙にうるさい中のこと。
ローテーブルの向こう側に座る親友が、密かに想いを寄せる相手が、歯切れ悪くそう言い出したのが始まりだった。

「なに、今さら」

珍しいなと思った。
自分から悩みや考えは言わないタイプで、別に平気だよって平然と言ってしまうようなやつだったから。

「答えろよ……」

キラキラと光を集める瞳が真っ直ぐにこちらを捉えている。長い下まつげはくるりとカーブしていて、小さな唇は力が入り震えていた。

「今さらお前と他人になんてなれないだろ、なんでそんなこと聞くの」

計算式を書いて、引いて、かけて、足して、答えを書き込む。カチカチとシャーペンの芯を出す、次の問題を解く、ペットボトルの緑茶を飲む。

八尋はそんなふうに次の言葉を待っていたけれど、あまりに口を開かないから名前を呼んだ。

「ちとせ、なんか悩んでんの」

顔を上げ、ちとせの表情を伺うと今まで見たこともないような顔でこちらを見ていた。
眉間にシワがよっていて、口をへの字に曲げて、時々ため息をつく。その一つ一つの動作を見て、八尋の方まで顔を歪めた。

「本当にどうかしたの、具合悪い?」

ちとせは24度の部屋で汗ばんでいた。
対して八尋の腕や首元はひんやりと冷えきっていて、居心地が悪かった。

目の前の男の様子は只事じゃないなと思ったけれど、急かしても仕方がない。

口を開くまで数学の問題を解いていようとシャーペンを持ち直し問題集に目をやると、ちとせはやっと声を発した。

「男の人を、好きになったかもしれない」

「え?」だか、「は?」だか、覚えていないけれど無神経な声が漏れたような気がする。そしてちとせの顔を見て、血の気が引いていった。

全身にめぐる血管までもが急にひんやりとして、落下していくみたいな感覚がしたのだ。あの時自分はどんな顔をしていたのだろう。

「サッカー部で一緒の、八尋も知ってるだろ、椎名翔(しいなかける)先輩。俺はあの人が好きなんだと思う」

ちとせは、真っ赤な顔で、丸くてでかい目を伏せて物憂げに言う。薄手のカーテンから透ける光はその顔を照らしていて、やけに眩しかった。

冷えきった血管はどんどんと身体中の温度を下げて、指先までもが氷のように冷たくなっていったのを感じた。変な汗が出て、口が乾く。

そして椎名翔とかいう男の顔がぼんやりと浮かんでは消えてを繰り返す。
サッカー部のエースで頭も良い、高身長で顔が整っていて、髪色も性格も明るく、誰にでも馴れ馴れしい、八尋とは真逆の男だった。

「八尋には隠せないと思ったんだ。バレて引かれるより、自分から言った方がマシかなって」

驚いた?とヘラヘラ笑ったちとせは八尋の目を一瞬だけ見て、すぐに逸らした。


新島(にいじま)ちとせという男は、簡単に人に懐かぬ野良猫のような奴だ。

中学二年生の時に知り合ってから、大きい声で笑うのも、悪態をつくのも、悪戯な冗談を言うのも、一番親しい八尋の前でだけ。
誰とでも話しはするが、八尋以外は全員知り合い程度の距離を保つ、壁の厚いちとせが、恋をして、こんなにも感情を乱すなんて。

「キモイよな、普通に。わかってるからさ、友達やめたいなら何も言わないで出てってくれると一番ダメージ少ないかもしれない」

ちとせは立ち上がり、机から離れて部屋の端のベッドに座りなおした。

八尋の方は何分経ってもその場から動けないまま、だんだんと腹の底が痛くなるのを感じていた。顔色も悪かったんじゃないかと思うが、そんなことお構いなしのちとせは一人でべらべらと話を続けた。

「元々男が好きとかそういう訳じゃなくて、多分、あの人だからなんだ。八尋に対してどうこうは思ってないし、好きにならないから、それだけは安心してほしい」

そう言われて、殴られたみたいな気分になった。
気持ち悪いとか、ありえないとか、冗談だろとか、笑い飛ばしてやったとして、この事実が嘘だったと笑えるわけではない。
なにをしたって、ちとせは自分のことを好きにはならない。

たった今、そう告げられたのだから。

「……そんな顔すんなよ。俺はちとせが誰を好きでも友達だし、応援する」

怖い顔で俯くちとせを見て、流暢に嘘が出た。
そう言うしかなかった。ちとせを傷付けたくなかったから。

「本気で言ってる?無理してない?」

無理しているに決まっている。一年半の片想いが最悪の形で打ち砕かれたのだ。

「大袈裟なんだよおまえは、勉強しろ」

最初から叶わぬ恋だと思っていた。男の親友を好きになるなんて、茨の道に決まっている。

そんな親友が男に恋をしたからって、自分にチャンスがあるとはとても思えない。椎名翔のことを思うちとせの表情があまりに強烈で、残酷で。

自分には一生かけたってそんな顔させられないから。

「八尋、いいやつだよなほんとに」

そう言ったちとせの声は少し震えていた。でも、どんな顔をしていたかはわからない。見たくなくて、顔を上げられなかった。

「緊張したら喉乾いたし、冷蔵庫みてくる」

ちとせがそう言って部屋から出ていった。

いつも二人で笑い合うこの部屋で、一人きりになった八尋は心臓を抑えうずくまる。

そして一呼吸遅れて自覚する。
俺、野沢八尋(のざわやひろ)はたった今、失恋したのだ、と。

ちとせが戻ってくるまでの数分が、やけに長く感じた。