カッコいいね、って言わないで

バズった翌週から、明らかに空気が変わった。

SNSでの反響は数日間続き、学校の友人だけでなく、地域の大人たちまでが「あの執事の子、羽山さん?」と声をかけてくるようになった。中には、私の顔を見ただけで小さく拍手してくれる人までいた。目を合わせただけで微笑んでくれる人、名前を呼んでくる人、記念に握手を求めてくる人まで現れて、私はどんどん自分の輪郭を失っていくような感覚を抱いていた。

そんな反応に、どう返していいかわからず、私はただ笑ってごまかすしかなかった。笑うといっても、口角を少し上げるだけの、作り笑いに近い。それ以上のものは、どうしても出てこなかった。

無表情が“ウケた”からといって、これからも無表情でいろとでもいうのだろうか。

それとも、笑えば「イメージが違う」とでも言われるのか。

いずれにせよ、それは私の“本当”とはほど遠かった。

「羽山、今日もよろしくね」

開店前、高坂レイが声をかけてきた。彼女のトーンはいつもと変わらない。落ち着いていて、どこか余裕がある。その余裕が眩しくて、同じ制服を着ているはずなのに、私とはまるで違う世界の人間のように見えた。

「……うん」

私は視線を合わせずに頷いた。彼女の眼差しを真正面から受け止めるには、まだ覚悟が足りなかった。

レイは私と違って、役を演じることに迷いがないように見える。立ち居振る舞いも、言葉の選び方も、すべてが洗練されていて、隙がない。見惚れてしまうほどに“完璧な執事”だった。

その姿を見て、私は初めて、少しだけ嫉妬を覚えた。

私は、演じるのが苦手だ。うまく笑えないし、言葉もうまく出てこない。それでも、なぜか“カッコいい”と言われることが増えていく。

対してレイは、きちんと努力して、完璧な自分を積み上げているのに。

その理不尽さに、私は言葉にならない不安と罪悪感を抱えていた。

「羽山さん、やっぱ人気あるね」

休憩中、石井がにこにこしながらスマホを見せてきた。

「“無表情の彼女にハートを射抜かれた”とか書いてる人いたよ。なんか、冷たいのに優しそうに見えるらしい」

「冷たいのに優しい……って、どういうこと?」

「たぶん、ギャップ萌え的な?」

私は曖昧に頷いた。自分でも、自分のどこに“萌え”があるのか、さっぱりわからなかった。優しさなんて、どこにもなかった。ただ、表情を作る余裕がないだけだった。

レイは黙って紅茶を口に運びながら、それを聞いていた。目線はスマホには向けず、遠くを見ていた。

「人気なんて、すぐ終わるよ」

静かな声がした。抑揚のないトーン。でも、その言葉には棘があった。

「レイ?」

「続けられる人が、勝つんだって。中途半端な注目なんて、ただ消費されるだけ」

その言葉は、まるで自分に言い聞かせているように聞こえた。そう言ったレイの目が、一瞬だけ、疲れているように見えた。

「……高坂さんは、続けたいの?」

私の問いに、彼女は小さく肩をすくめた。

「わかんない。でも、“完璧”でいることに慣れちゃうと、やめ方がわからなくなるんだよ」

私は何も返せなかった。その言葉が、妙に胸に残った。

完璧じゃない自分を見せることが、レイにとってどれほど怖いことなのか、ほんの少しだけ、想像ができた気がした。
週末のカフェ営業も、四回目を迎えた。

最初のころに感じていた緊張は、少しずつ形を変えていた。声を出すことにも、接客にも慣れてきた。立ち居振る舞いも自然になってきた。けれどそのぶん、別の違和感が心の奥に沈殿していくのを感じていた。

慣れてきたはずなのに、胸の奥には小さな棘のようなものがずっと引っかかっていた。それは、不快とまでは言えないけれど、確実に私の輪郭を少しずつ削っていくような、微かな痛みだった。

「羽山先輩、今日もめっちゃかっこよかったです!」

元気な声とともに、ぴょんと隣に飛びついてきたのは、後輩の朝倉あんりだった。彼女は一年生で、このプロジェクトに自ら志願して参加してきた子だ。

長いまつげがくるりと上がっていて、大きな瞳がきらきらしている。言動は無邪気で、いつもテンションが高い。その明るさは、このチームの潤滑油のような存在だった。

「わたし、羽山先輩みたいなクール執事になりたくて! 最近、お客様に笑わないで接客してみたんですけど、やっぱり全然ダメで……! 羽山先輩って、どうしてあんなに自然に無表情でいられるんですか?」

「え……」

無表情でいられる理由。そんなもの、考えたこともなかった。演技をしているつもりはなかった。ただ、笑顔を作る余裕がなかっただけ。言葉を取り繕う知恵が足りなかっただけ。

「先輩、ほんとにすごいです! 尊敬します!」

目を輝かせて真っ直ぐに言われて、私は言葉に詰まった。あんりの瞳はまるで、スポットライトのように強く、まっすぐに私を照らしてくる。その光が、怖かった。

尊敬? 憧れ?

そんなふうに見られるような自分じゃない。

私はただ、演技が下手で、表情を作れなくて、笑えなかっただけなのに。自分では自覚すらしていなかったその“欠け”を、誰かが“魅力”として見ている。そんなズレが、胸の奥をじくじくと痛めつけた。

「……ありがとう」

やっとのことで、それだけを返した。

けれど心の中では、その言葉が自分の口から出たことを、どこかで後悔していた。

私は、誰かの憧れなんかじゃない。なりたい自分になれているわけでもない。ただ、“誰かが期待する役割”を演じているだけなのに。

なのに、あんりはその“役割”を、本物だと信じている。その純粋さが、刺さるように痛かった。

彼女の瞳に映っているのは、きっと私ではない。仮面のような執事姿の、“理想の先輩”だ。

レイが言っていた。“完璧でいることに慣れると、やめ方がわからなくなる”。

あんりの視線に触れるたび、私はますます“やめられなく”なっていく気がした。

あの視線を壊してしまうのが怖かった。だけど、同時に、あの視線に縛られている自分に気づいてしまったことが、もっと怖かった。
日曜の営業が終わったあと、片付けをしていた手が止まった。

教室に戻ると、柳原先生が立っていた。手にはタブレット。おそらく来客数やSNSの反響をチェックしていたのだろう。教員でありながら、このプロジェクトにおける“運営者”としての顔を持つ彼女は、こういうとき、いつも冷静すぎるほどに冷静だった。

「羽山さん、ちょっといいかな?」

いつもと変わらない、にこやかな口調。けれど、その笑顔の裏に、どこか“数字の話をされる”予感がして、私は無意識に背筋を正した。

「今日の来客数、過去最高だったよ。特にね……羽山さんに会いたいって指名してくれた人が、十組近くいたんだって」

「……そうですか」

どう返せばいいのかわからないまま、私は曖昧にうなずいた。事実として嬉しいはずなのに、心の奥がひどく静かだった。

「SNSの反響も好調。動画も結構拡散されてるみたいでね。やっぱり、羽山さんのキャラクターは、このプロジェクトの“顔”になってるんだと思うよ」

“キャラクター”。その単語に、心が微かに軋んだ。

私の中で、それは“演じているもの”という意味にしか聞こえなかった。

「ですからね、来週からはちょっと接客回数を増やしてみない? 新しいメニュー紹介も羽山さんに任せてみようかなと思って」

先生はそう言って、まるで私がそれを喜ぶ前提で話を続けた。

「もちろん無理はしないでって言いたいけど……ね、せっかく注目されてるし。このチャンスは逃したくないよね?」

その笑顔が、やけに明るくて、やけに遠かった。

“注目されていること”が、いつの間にか“活用されるべき価値”に変わっている気がして、心の奥がそっとざわついた。

断る言葉が、喉まで出かかった。でも言えなかった。言ってはいけないような空気が、先生の優しげな口調の中に確かに潜んでいた。

“無理はしないで”と言いながら、“期待には応えてほしい”という声の圧が、確かにそこにあった。

「……わかりました」

私はまた、“いい子”である選択をしてしまった。

先生は満足げに頷き、「じゃあ、よろしくね」とだけ言って去っていった。その背中を見送りながら、私はずっと胸の奥を押され続けているような感覚を抱えていた。

片付けに戻ったあとも、あの笑顔の残像が頭から離れなかった。重たかった。何より、自分で「わかりました」と答えたその声が、いちばん重かった。

それは、たった五文字の返事だったのに、まるで鎖のように私の足元に絡みついて離れなかった。
それは、小さなすれ違いだった。

日曜の午後、カフェは予想以上の混雑を見せていた。SNSの影響もあってか、前日から整理券を求めて並ぶ人もいて、会場は一日中、熱気とざわめきに包まれていた。照明の下で反射する銀のティーセット、制服のきっちりとしたシルエット、流れるような紅茶の香り。そのどれもが、まるで作り込まれた舞台装置のようだった。

私は、予定されていた以上の接客に追われながらも、なんとか笑顔――いや、“無表情のクール執事”を保ち続けていた。レイと交代しながらホールを回り、あんりや他のメンバーたちとも声をかけ合っていた。額に汗が滲んでも、呼吸が浅くなっても、“いつものように”振る舞うことが当然になっていた。

そんなときだった。

「すみません、オーダー間違ってるんですけど」

女性客の鋭い声が、ふいに空気を切った。周囲のざわめきが一瞬止まり、視線が一点に集中する。

トレーを持って立ち尽くすあんりが、困惑したようにこちらを見ていた。

「えっと……あの、すぐにお取り替えを――」

「違うよね? 最初から言ったよね? それとも、聞いてなかったの?」

静かに苛立ちを込めたその声に、空気がぴんと張り詰めた。目には見えない緊張が、店内をきつく締め付ける。

私は咄嗟に駆け寄り、あんりの前に立った。

「ご注文内容、こちらで確認いたします。お待たせして申し訳ありません」

丁寧に頭を下げながら、胸の奥で冷や汗が滲むのを感じていた。視線の圧力。沈黙の期待。誰かが笑い出す前に、何とか場を収めなければならなかった。

「先輩、ごめんなさい……」

あんりの震える声が耳元に届いた。

「大丈夫。下がってて」

私が代わりに謝罪を引き受け、奥で状況を整理して対応を進めた。最終的にはメニューの説明不足だったことがわかり、客も落ち着きを取り戻したが、あの一瞬、確かに“場”の空気は揺らいだ。

営業終了後、私は裏方の控室であんりとふたりきりになった。

「本当に……ごめんなさい。私、ちゃんと聞いてたつもりだったのに……」

顔を伏せて泣き出しそうなあんりを見て、私は言葉を失っていた。手元のエプロンを握りしめる指先が震えていた。

「……私がもっと、ちゃんとフォローすればよかった」

そう口にした瞬間、自分が嘘をついている気がした。私は彼女を守ったわけじゃない。ただ、“トラブルを起こしたくなかった”だけだ。あの場の沈黙に耐えられなかっただけだった。

「羽山さん、ちょっとお時間いい?」

その声に振り返ると、柳原先生がドアの前に立っていた。

あんりはぴしりと立ち上がり、私の背後に隠れるように下がった。彼女の肩越しに見える先生の笑顔が、なぜか薄く見えた。

「今の件、少し聞いたんだけどね」

先生は、変わらぬ笑顔で言った。

「羽山さん、今週の土曜日だけど……お休み、しない方がいいと思う」

「……どうして、ですか?」

「今、羽山さんが来ないと、お客さんの反応が鈍くなる気がして。SNSの勢いも落としたくないし、今が正念場だと思うんだよね」

言葉の端々が、まるで“商品価値”を語るようだった。私の存在が、誰かのための道具みたいに聞こえた。

「……わかりました」

またその言葉を、私は口にしてしまった。声に出した瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
疲れていた。

体力的にも、精神的にも。

終わらないように思えた接客がようやく終わり、控室のソファに沈み込んだ私は、制服のタイをゆるめたまま、動けずにいた。肩から力が抜けると同時に、胸の奥に沈んでいたものが静かに浮かび上がってくる。

柳原先生の言葉が、耳の奥で反響する。「今が正念場」「来ないと反応が鈍る」――あの笑顔は、私に選択肢なんて与えていなかった。私はただ、自動的に「わかりました」と返事をしていた。まるでプログラムされた機械みたいに。

誰のために働いているのか。誰の期待に応えるために、私はここにいるのか。

その問いの答えが、最近ぼやけてきている気がしていた。

「羽山、少し話せる?」

その声に顔を上げると、そこには高坂レイがいた。

彼女も疲れているはずなのに、姿勢は乱れていない。けれどその目は、どこか迷っているように見えた。レイにしては珍しい表情だった。

「……いいよ」

控室の片隅、誰もいない一角。ふたりだけの空気の中で、レイは口を開いた。

「さっきの対応、見てた。……すごかったよ。羽山らしかった」

「“らしい”って、何?」

思わず返した言葉に、自分でも驚いた。レイも少し目を見開いた。

「私は……“らしい”って言われると、なんだか怖くなる。誰かの期待を、押し付けられてるみたいで」

「……わかる」

レイの声が、かすかに揺れた。

「私もね、ずっと“完璧”を演じてる。執事役だけじゃない、普段からも。そうしてれば安心されるし、嫌われないし……でも、しんどいよ。最近、とくに」

私は言葉を失っていた。レイが、こんなふうに自分の弱さを見せるなんて、思ってもいなかった。

「私ね、本当はあなたのこと、羨ましかった」

「……え?」

「自然にあの役になってて、みんなに好かれて。でも今日のあの場面で思った。羽山も、私と同じで、“演じてる”んだって」

レイの言葉が、心の奥にじんと染み込んでいく。

「私たち、似てるよね。演じて、疲れて、それでも役を降りられなくて」

「……うん」

私は静かに頷いた。

「でも、ぶつかってみて、ちょっとだけ楽になった。あなたがちゃんと“苦しんでる”って知れて」

「私も。高坂さんがちゃんとしんどいって言ってくれて、ほっとした」

こんなに張り詰めていたのに、たった数行き交う言葉で、こんなにも心がほぐれるなんて、思ってもいなかった。

「……私、いつまでこの“羽山つむぎ”をやればいいんだろうって、ずっと思ってた」

「私も。“高坂レイ”が誰かの理想であるかぎり、やめるのが怖かった」

ふたりの言葉が交錯し、沈黙が訪れた。でもその沈黙は、重くなかった。痛みを分かち合ったあとの、柔らかく静かな空気だった。

涙が出そうになるのを、私は堪えた。

ぶつかっても、まだ私は私でいられる。そう思えたことが、少しだけ救いだった。
週の半ばを過ぎたころ、私はついに限界に近い疲れを自覚していた。

教室で席に着いても、誰かの話し声が遠く感じられる。文字を追っても内容が頭に入ってこない。まるで、自分だけが何層ものガラスに包まれているような気分だった。

鉛のように重たい身体を引きずるようにして日々をこなす。目覚ましの音に反応できなくなる朝。水を飲むだけで吐き気を覚える昼。家に帰れば布団に沈み込みながら、心だけがどこか別の場所に逃げ出そうとしていた。

でも、それでも私は、休まなかった。

それは「頑張りたい」からでも、「責任感」からでもなかった。

ただ、あの場にいない自分を想像すると、得体の知れない不安に襲われたから。

自分がいなくても回る世界。

それを、どこかで恐れていたのだと思う。

誰にも必要とされないことが怖かった。だからこそ、“羽山つむぎ”という役を演じ続けてきた。見られることに怯えながら、それでも“注目される自分”を捨てられなかった。

「羽山、顔色悪いけど……大丈夫?」

放課後、教室を出ようとしたとき、優が小さく声をかけてきた。

「……平気。ありがとう」

「嘘つくの、下手だよね」

そう言って、優は苦笑した。

「休んでもいいんだよ。誰も、責めたりしない」

その言葉が、思った以上に優しくて、思わず立ち止まってしまった。

「でも、今の私……“いないと困る人”でいたいのかも」

口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。

「ふーん……でも、いたい理由がそれでもいいんじゃない? 最初のきっかけなんて、誰だって不純だよ」

優はそう言って、私の背中を軽く叩いた。

週末の朝。控室のロッカーの前。

私は、制服の上から執事服のジャケットを羽織った。

前を留め、襟を整え、鏡の前に立つ。

以前の私なら、鏡の中の自分を他人のように見ていた。誰かが求める“羽山つむぎ”という仮面をただ確認するための儀式だった。

でも今日の私は、ほんの少しだけ、そこに“自分”を見つけた気がした。

あの子に憧れられた私。

あの場で代わりに謝った私。

あの人と本音をぶつけ合った私。

全部、本当の私じゃないかもしれない。でも、それでもいい。

演じているのではなく、ここに“いたい”と、確かに思った。

どんなにぎこちなくても、不完全でも、ここにいたい。

それが、今の私の、ほんの少しの本音だった。

そして、その“少し”が、何よりも確かな希望に思えた。
営業開始の直前、控室の空気がいつもと違っていた。

机の上に並べられた化粧品やアイロン、照明機材。そして、壁際には簡易的な背景パネル。今日は、地域広報誌とSNS用の撮影が入っているという話だった。

撮影のために集められた機材は、どれも本格的だった。照明の角度を微調整するスタッフ、白いレフ板を支える補助の手、スモークマシンの準備まで始まっていた。

「羽山さん、まずこの衣装で一枚もらっていいですか?」

カメラマン役の地域スタッフが、にこやかに声をかけてくる。笑顔の圧がある。それは優しさに見せかけた“期待”だった。

私は小さく頷いて、レフ板の光を正面に受けた。まぶたの裏が熱くなるほどのまばゆさ。目を細めそうになるのをぐっと堪えて、視線をまっすぐにする。

「じゃあ、目線こちらで……そうそう! もう少し笑えるかな?」

“もう少し”。その言葉に、肩がぴくりと震えた。

笑うって、どうやって? どこまでが自然で、どこからが嘘なんだろう。

口角を上げた。けれど、それが自分でも“演技”だとすぐわかってしまった。

写真を確認したカメラマンが「バッチリです」と笑う。でも、その笑顔と“バッチリ”の裏に、私はどこかしらの「納得されてしまった自分」を見た気がして、胸が苦しくなった。

「はい、ありがとうございます! 次は、紅茶を注ぐところも撮りたいです」

撮影は淡々と進んでいく。私は求められる通りの動きを繰り返す。角度、手元の仕草、カップを置くタイミングまで指示される。

まるで、マニュアル化された自分を演じているような感覚だった。

そしてその“演技”が、どんどん自分の本音を飲み込んでいく。

「羽山、疲れてない?」

休憩中、レイがそっと声をかけてきた。

「ちょっとだけ。でも、大丈夫」

「無理しなくていいよ。写真、ちゃんといい表情してたから」

「……ほんと?」

「うん。でも、ほんとの羽山の表情じゃなかった」

その一言に、呼吸が止まりそうになった。

「……それでも、私はちゃんと見てたよ。あの表情が、どんなに頑張って作られたものか」

私は、ふっと力が抜けるのを感じた。強張っていた背中の奥が、少しだけ緩むような気がした。

カメラ越しに映る自分が、誰のためのものかは、もうわからない。

でも、少なくとも今ここにいて、誰かが見てくれている。

演じることが全部悪いわけじゃない。

その中に、ほんの少しでも“私”が残っているのなら。

その“少し”を、私は守りたかった。

だって、そこにしか、私が“私として存在できる場所”はないのだから。
営業を終えた夕方、控室の窓に映る夕焼けが、赤くて、どこか切なかった。

その日も忙しい一日だった。カメラが入り、SNSに上げる用の動画を撮って、来客対応にも追われて、それでも私は“いつもの執事”を演じ切った。

それなのに、胸の中にはずっと、言葉にならない何かが溜まっていた。体の奥底に、鈍い疲労が蓄積している感覚。誰にも気づかれないようにしてきた“自分の声”が、今にも押し寄せてきそうで、私は必死にそれを飲み込んでいた。

「羽山、大丈夫?」

レイがまた声をかけてきた。

「ちょっとだけ」

「羽山先輩」

控室の扉が小さくノックされて、あんりが顔を覗かせた。

「ちょっと、お話できますか……?」

彼女の顔には、戸惑いとためらいが混じっていた。その目は、どこかで何かを決めようとしている人の、それだった。

「……どうしたの?」

「今日、注文ミスしかけて……先輩にカバーしてもらって、ありがとうございます。でも……」

言葉を探すように、あんりは唇を噛んだ。

「先輩って、やめたいって思ったこと……ありますか?」

静かな質問だった。

私は、少し黙ってから、答えた。

「あるよ。何度も」

その一言に、あんりの目が見開かれた。

「笑えない自分を見て“クールでいい”って言われている。……それがどんどん怖くなって、自分が何をやってるのかわからなくなったこともあった」

あんりは、小さく息を呑んだ。

「でも、やめなかったんですね」

「……うん。たぶん、誰かのために頑張るっていうのが、自分の逃げ道になってたんだと思う」

私は自分でも驚くほど素直に話していた。自分の弱さを誰かに打ち明けるのが、こんなにも楽になるなんて、知らなかった。

あんりは、しばらく黙ってから、「私も……わかる気がします」とぽつりと言った。

「頑張ってるふりしてると、本当の自分が消えていく気がして。でも、頑張らないと、誰からも見てもらえないような気がして……」

その言葉に、私は静かに頷いた。

「だからこそ、やめたいって言うことも、自分を守るためには大事だと思った」

あんりは目を伏せて、小さく呟いた。「それって、甘えじゃないんでしょうか……」

私は、少しだけ考えてから言った。

「甘えじゃないよ。きちんと立ち止まって、自分を見つめるって、むしろ勇気のいることだと思う」

そのときだった。控室のドアが再び開いて、柳原先生が入ってきた。

あんりがぴしりと立ち上がると、先生は優しく微笑んだ。

「今週末の営業のことだけど、羽山さんが午後の案内係、入れそうかな?」

私は、少しだけ考えてから、言った。

「……先生、私、今ちょっと考えていて。全部続けるかどうか、自分でちゃんと決めたいです」

先生の笑顔が、一瞬だけ止まった。でも、すぐに頷いた。

「そう。わかったわ」

それだけ言って、先生は静かに出ていった。

その背中を見送りながら、私は初めて、“やめたい”って思ってもいいんだと、ちゃんと口にできたことに、少しだけ誇らしさを感じていた。

そして、あんりが言った。

「先輩の“やめたい”が、私には、ちょっとだけ“やさしく”聞こえました」

その言葉に、私は笑った。ほんの少しだけ、本当の自分で。

心が揺れたままでいい。

迷ったままでも、誰かのそばで自分のことを話せるなら、それだけできっと、意味がある。

そう思えたのは、初めてだった。
最終営業日。

カーテンの奥、控室の椅子に座って、私は静かに目を閉じていた。

騒がしいはずの会場の音が、遠くに感じる。まるで、水の中に沈んだように、すべての気配が柔らかく揺れていた。

この三ヶ月。私はずっと「執事」として、誰かの期待に応えるためにここに立ち続けてきた。

笑うのが苦手な自分も。
演技が下手な自分も。
それでも「クールでいい」と言われて、気づかないうちに「そうであるべき自分」になっていた。

自分を守るために、演じていた。
それは嘘じゃなかった。でも、本音でもなかった。

だけど今は。
「やめたい」と言葉にできて、初めて、私の中に“残っていた自分”を見つけた気がした。

「そろそろ始まるよ」

レイが、控室の扉を開けて声をかけてくれた。
彼女はいつも通り整った姿だけど、どこか穏やかな顔をしていた。

「行こうか」

私は頷いて、立ち上がった。ネクタイを結び直す手に、震えはなかった。

カーテンを開けると、拍手が響いた。

「ようこそ、執事カフェへ。本日もお越しいただきありがとうございます」

それは、毎回言っていたセリフだった。

でも、今日の私は、そこに“私の声”を乗せた。

笑わなくてもいい。求められている自分じゃなくていい。少し声が震えても、言葉が詰まっても。

私はここに、自分の足で立っている。

営業の合間、あんりがそっと寄ってくる。

「羽山先輩……今日の先輩、すごく自然でした」

「自然……?」

「なんか、“演じてる”んじゃなくて、“話してる”感じがして。すごく、安心しました」

私は、ふっと笑った。

その言葉は、きっとあの頃の私が一番欲しかったものだ。

控室に戻ったあと、レイがポツリと呟いた。

「羽山、やっぱり強いな」

「え?」

「“やめる”って言った次の週には、ちゃんと“続ける”って選んでる。しかも、ちゃんと“自分のまま”で」

自分ではそんなつもりじゃなかった。でも、その言葉が、少しだけ自信に変わる気がした。

最後の閉店のあいさつを任されたとき、私は、マイクを握って深呼吸をした。

「三ヶ月間、たくさんの方に来ていただきました。ありがとうございました」

静かな拍手が起きる。

「私は……正直、最初はこの場に立つのが怖かったです。でも、誰かと一緒に働いて、間違って、ぶつかって、笑って……今日、ここにいてよかったって思えました」

言葉が終わったとき、胸の奥に温かいものが広がっていた。

あの日、優に「“いたい理由”が不純でもいい」と言われたことを思い出す。
それが、いつの間にか“ここにいたくて仕方ない私”に変わっていた。

拍手のなかで、ふと視線を向けると、レイがこちらを見て頷いていた。
お互いを少し分かり合えた彼女と、今、同じ場所に立てている。

カーテンが閉まる。

その瞬間、私はふっと肩の力を抜いた。

演じることを、やめたわけじゃない。

でも、“演じなきゃいけない自分”を、手放すことができた。

ここにいた日々が、誰かにとっての物語になったなら、

それだけで、私は、もう十分だった。

これが、“私としてここにいた”証だった。

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