創作アカウントを非公開にしてから丸三日。

 ゴールデンウィークは想像以上に静かで、窓の外を流れる雲さえ止まって見えた。

 スマートフォンの電源は切ったまま。どれほど拡散され、どんな罵声が飛び交ったか――考えるだけで胃が軋む。舌打ちの音が頭の中で鳴り響く。まるで高校時代の悪夢の続きのように。

「どれだけの人が、俺のこと知ったんだろう……」

 気持ちが沈み、はぁ……と大きくため息をはいた。吐き出した息が冷たく感じる。

 創作アカウントは非公開にしたものの、この休みの間、ライフワークとも言えるイラストの創作活動は止められなかった。手が勝手に動いて、ペンが紙の上を舞う。毎日、絵を描き続けた。気づけば、イラストのほとんどが陽翔を描いたものばかりになっていた。陽翔の笑顔、陽翔の横顔、ステージに立つ陽翔。彼の姿が脳裏から離れなかった。

 机の上にスケッチブックを広げて、今日もイラストを描いている。鉛筆の芯が紙の上で軽い音を立てながら走る。窓から差し込む柔らかな春の光が、スケッチブックの上で踊っている。

 カーテン越しの淡い光が午後を告げた頃、スマートフォンがバイブレーションで震えた。胸がひくりと跳ねる。渋々手に取ると、芽衣からの着信だった。何かあったのかと思い、通話に応じた。

「芽衣? なにかあった?」

「やっほー、叶翔―。生存確認、よし! ゴールデンウィーク、堪能してる?」

 相変わらず明るい声で話しかけてくる。その明るさに、俺の心は暖かさを取り戻した。芽衣の声には、いつも不思議な力があった。曇りガラスに差し込む日差しのように、心の奥まで届く。

「堪能って……。別に、毎日、絵を描いてるだけだよ」

 軽く笑って答えると、芽衣が「よかった」と小さく安堵の息をつくのが聞こえた。

「叶翔が、絵を描くのをやめてなくて嬉しい! あ、そうそう。今日は伝えたいことがあって電話したんだった」

 明るい声で言うのだから、大した話ではないだろうと思ったが、耳にした言葉はかなり重いものだった。

「あの"ナナ"のアカウント、潰しといた。あと、BLUE MOON出禁にしてもらったから」

 マグカップでコーヒーを啜りながら話を聞いていたが、ブーっと盛大に吹き出してしまった。喉に詰まったコーヒーが鼻から出そうになり、咳き込む。

「つ、潰したって……。あと、出禁って……どう言うこと?」

 言葉を絞り出すのが精一杯だった。芽衣の言葉の意味が頭の中でぐるぐると回る。

「あー、あたしね、BLUE MOONのマネージャーみたいなことしてて、ファンクラブの運営をしてるんだけど、ナナはファンクラブメンバーだったの」

 耳元でずずっと啜る音がしたので、芽衣は何か飲み物を飲んだようだ。

「バンドのことを拡散する場合は公式アカウントから引用でする決まりになってるんだけど、あの子、ずっとルール無視しててさ。メンバーとツーショット撮ったみたいに写真加工して拡散したりとかさ。規約違反は即BAN。ナナは何度も無断転載してたし、今回は名誉棄損レベルだったから。んで、今回の叶翔のことで、陽翔さんと晴臣さんの逆鱗に触れてしまったってわけ」

 きっと、二人は俺のために怒ってくれたんだ。陽翔が、俺のために……。その思いが胸の奥でじわりと広がる。

「そう……なんだ」

 俺は驚きのあまり、言葉を失った。俺のために、いろんな人が動いてくれた。以前のように孤立することはなかったことが嬉しくて、涙が込み上げてきた。喉が熱くなり、目の奥がじんとする。

「あり……がとう……」

 涙声で芽衣にお礼を言うと、キャハハと明るい笑い声がスマートフォンから聞こえてきた。その笑い声は、曇った空に差し込む一筋の光のように感じた。

「何言ってんの! あたしたち友達でしょ? 大切な人守るの、当たり前じゃんっ!」

 俺は鼻をぐずぐずさせながら、再度お礼を言った。声が震える。こんな風に、誰かに守られることがあるんだと、胸が熱くなった。すると、芽衣が思い出したように、あっと小さく声を上げた。

「そうそう。明日、春フェスがあるじゃん?」

「春フェス?」

 俺は聞き覚えのない単語に首を傾げて聞き直した。

「ほら、うちの大学、ゴールデンウィーク明けにさ、サークルの合同フェスティバルあるじゃん。文化系のサークルがやる催し物」

 そう言えば、入学時のオリエンテーションでもそんなこと言ってたような気がする。手元のカレンダーを見て、日付を確認した。

「あ……うん、あれか」

「うん。それにBLUE MOON出るからさ、一緒に観に行こ!」

 そう言えば陽翔が目下、バンドの練習はこのフェスに向けてやっていると言ってたのを思い出した。彼の真剣な表情が脳裏に浮かぶ。

 しかし、BLUE MOONの演奏があると言うことは、かなりの人数が集まるのではないか……。人の多い場所は苦手だし、アカウント拡散のこともまだ気がかりだった。胃の辺りがキリキリと痛む。

「それ……たくさん、人、来る?」

 おずおずとした口調で芽衣に尋ねると、芽衣はうーんと唸った。スマートフォン越しに彼女が頭を抱えている姿が想像できる。

「平日の開催だし、学祭みたいに外部の人が参加できないはずだから、そんなに多いってわけじゃないと思うけど。あたしも初参加だからさ。公式SNSで見ただけだから、なんとも言えないけど」

 陽翔が聴きにきてほしいと言ってたのを思い出した。彼の細い指がギターの弦を優しく弾く姿、マイクに向かって歌う姿を想像する。ずっと避けてばかりで。でも、彼のことを諦められなくて。大勢の中の一人だったら、陽翔と目を合わせることもないだろうし、一度、彼の歌う姿を見てみたいと思ってしまった。

 意を決して、俺は言った。

「分かった。行く」

「やった! じゃあ、明日正門前に、九時集合ねー」

 芽衣は嬉しそうに明るい声で明日の約束を交わし、じゃあねと通話を終了した。耳元で電話が切れる音が聞こえた後も、俺は長い間、スマートフォンを握りしめていた。明日、陽翔を遠くからでも見ることができる。その一言が、心の中でずっと響いていた。


 次の日、芽衣と待ち合わせをしている正門に向かうと、おびただしい数の人が門を潜っていた。人の波が次々と流れ込んでいく様子に、一瞬たじろいだ。

「おいおいおい、なんだよ、この人混み……。うちの大学って、こんなに学生、いたんだ……」

 いくつかの食べ物系のサークルが模擬店を出していて、開店準備をしている。焼きそばの香ばしさ、たこ焼きの甘い醤油の香り、綿菓子の甘い匂い。様々な香りが鼻腔をくすぐる。

 芽衣を待っている間、多くの人が俺の横を過ぎ去っていく。肩がぶつかるたびに体が硬直する。目を合わせないように、前髪をおろし、目を隠して誰とも顔を合わせないように俯いた。心臓がドクドクと早鐘を打つ。

 その時、元気よく手を振りながら芽衣が現れた。細身のブラックジーンズに、編み上げブーツ。黒いシャツを着て、首には銀の大ぶりなネックレス。耳には銀色のロングピアスがゆらゆら揺れていた。まるでロックバンドのボーカルのようなスタイルに身を包んでいる。

「お待たせー。待った?」

 彼女の声には人混みを切り裂く力があった。まるで太陽の光のように明るい。

「うん。ちょっと。でも大丈夫」

 俺は小さな声で答えた。これだけの人混みの中でも、彼女の姿を見つけられたことに安堵する。

「じゃあ、行こうか!」

 芽衣のブーツのカツカツという足音が響き渡る。凛と伸びた後ろ姿がとてもかっこいい。芽衣の背中を追いながら、俺は人混みの中で彼女を見失わないように必死だった。

「ステージパフォーマンスは午後からだから、それまでいろいろ堪能しようよ!」

 イケメンな芽衣に手を引かれるような形で学内を見て回った。彼女の手は温かく、安心感を与えてくれる。

 春フェスは小規模な学祭のようだった。文化系サークルに所属している人たちが、サークルの紹介も兼ねて行っているフェスティバルだ。

 写真の展示や映画やアニメの上映などもある。素人集団のはずなのに、どれも真剣に取り組んでいるのが分かった。写真サークルの展示には、夕暮れの校舎や満開の桜、笑顔の学生たちの姿が収められている。どの写真からも、撮影者の愛情が伝わってくる。

「みんな、サークルって楽しんでるんだな」

 周りの学生がキラキラ輝いて見えて、俺はボソッと呟いた。俺は一人で地味にイラストを描いているだけだ。彼らの輝きと比べると、自分が影のように感じる。

「えー、叶翔もイラスト描いてるじゃん。しかもフォロワー多いし。あ、あのアカウント早く復活してよー。叶翔のイラスト不足で元気出ないんですけど」

 芽衣が少し茶化して明るい声で俺に言ってきた。彼女の言葉には、いつも俺を勇気づける力があった。周りの楽しげな雰囲気と芽衣の明るさのおかげで、ゴールデンウィーク前に塞ぎ込んでいた気持ちも徐々に上向きになってきた。肩の力が少しずつ抜けていくのを感じる。

「……うん。考えとく」

 少し微笑みながら言うと、芽衣がほっとしたような表情をした。その瞳には安心の色が浮かんでいた。もしかしたら、俺を元気づけようと、明るく振る舞ってくれていたのだろうか。もしそうだとしたら、いつまでも落ち込んでもいられない。

 そう思っていたら、急に模擬店の呼び込みの学生に囲まれた。

「よかったら、焼きそば食べませんかー?」

「カフェラテありますー」

 やいやいと大勢に囲まれて、俺は一人オロオロしてしまった。誰とも目を合わせたくなくて俯き、自然と猫背になってしまう。息が詰まりそうになり、冷や汗が背中を伝う。

「叶翔、なんなのよ、その猫背! むしろ狙われに行ってるんですけど?」

 芽衣からばちんと背中をたたかれて「ひっ!」と変な声が出た。自然と背筋が伸びる。打たれた場所がじんと熱くなる。

 周りの学生は「君、面白いね」とニコニコして笑っていた。その表情には悪意はなく、ただ純粋に楽しそうだった。

 その顔を見ると、恐れていたことが起こっていないと言うことに気づく。高校の時のように、全員が冷たい目を俺に向けてくると思っていたのだが、そう言う人はいなかった。笑っている顔、楽しそうな顔、好奇心に満ちた顔。全てが、温かかった。

 ――もしかして、そんなに怖がること、なかったのかも?

 芽衣に目を向けると、ニヤリと口角をあげて笑っていた。まるで「ほら、見たでしょ?」と言わんばかりの表情だ。

「さ、せっかくきたんだから、焼きそば! いや、たこ焼き買って行こ」

 芽衣は俺の手を引っ張って、たこ焼きの模擬店へと向かった。

 俺は、あまりの人の多さにクラクラきながらも、芽衣の優しさに感謝した。彼女がいなければ、こんな場所に一歩も踏み出せなかっただろう。


 ステージパフォーマンスの始まる時間まで、芽衣と二人で模擬店を食べ歩きした。どの人も俺に冷たい目を向ける人など一人もおらず、ホッとした。たこ焼きの熱さで舌を火傷しそうになりながらも、久しぶりに外の空気を満喫していた。

 その時、急に一人の女子学生から声をかけられた。

「あの……。ハルトのイラストの絵師さんですか?」

 安心しきっていたところに、アカウントのことで声をかけられ、体が固まってしまった。喉がカラカラに渇き、背中に冷たいものが伝った。足がわずかに震え始め、逃げ出したい衝動に駆られる。

「私、あのアカウントのフォロワーなんです。絵のタッチが大好きで。いつもイラスト見て、今日も頑張るぞ! って思ってたから、新しくアップされないの、寂しいです」

 俯いたその女子学生は、本当に寂しそうな顔をしていた。その瞳には、嘘偽りのない残念さが浮かんでいる。

「ハルトの絵も素敵でした! またハルトとかバンドメンバーのイラスト上げてください!」

 女子学生は頬を赤らめて、丁寧にお辞儀をしてその場を去っていった。小さな背中が人混みの中に消えていく。

 キモいとかサイテーとか言われるのかと思っていたのに……。俺のアカウント、みんなの心に浸透していたんだと思うと、じんと心の奥が暖かくなった。目に涙が浮かぶ。

「ほら、みんな叶翔のイラストが好きなんだってば。BLUE MOONの公式でも叶翔のアカウント紹介してたしねー。メンバーもみんな、好きみたいだよ」

 芽衣の言葉に、胸の中で何かが溶けてくような感覚があった。

「……うん、うん。……考えてみる」

 俺はコクコクと頷きながら、急な嬉しい出来事に、頬を赤らめて俯いた。顔が熱くなるのを感じる。

 ――うれしい。

 フォロワーの生の声。本当に、人の役に立ててるんだと思うと、今までにない高揚感に襲われた。この気持ちは、以前の俺なら想像もできなかった。

「叶翔、そろそろステージに行こうよ」

 芽衣がキャンパス内に設置された特設ステージへと引っ張って行ってくれた。そこではすでにパフォーマンスが始まっていて、今は『戦隊ヒーロー研究会』のパフォーマンスが行われていた。五人がそれぞれテーマカラーの衣装を纏い、戦隊ヒーロとなって敵を倒していくパフォーマンスをしていた。観客は歓声を上げたり、笑ったりしている。

「遊園地とかショッピングモールでショーやってますので、みなさんぜひ見にきてください!」

 パフォーマンスが終わったら、赤い戦隊服を着た男子学生が大きく手を振りながら宣伝して帰っていった。観客からは「がんばってー」「見にいくねー」と声をかけられ、笑顔を振りまいて袖に下がって行った。

「いろんなサークルがあるんだな……」

 俺はサークル活動には全く興味がなかったので、感心してしまった。それぞれが情熱を持って活動している姿に、何か心を動かされる。

「そうだよねー。みんな楽しそう」

 芽衣は気にもたれかかりながら、たこ焼きを食べている。見た目はロッキーでかっこいいのに、中身はいつもの芽衣だった。そのギャップに思わず笑みがこぼれる。

 二人で他愛もない話をしながら次のステージの開始を待っていると司会者の声が聞こえた。

「それではみなさん、お待たせいたしました! こちらのステージ最後のパフォーマンスは、お待ちかね、軽音サークルのBLUE MOONです。それでは、どうぞ!」

 その声を合図にキャーと黄色い声があちこちから上がった。周りの熱気に飲み込まれそうになる。

 ステージに目をやるとバンドメンバーが三人すでにスタンバイしてた。センターの一番前に、ギターを肩から下げた陽翔が立っている。前髪をアップにして、モデルのような顔は普段より大人っぽく見えた。いつもの優しい眼差しではなく、ギラギラとした『俺に惚れてくれ』と言わんばかりの笑顔を見せつけていた。その表情には、かつて見たことのない魅力があった。

「お前ら、待たせたな」

 陽翔はスタンドマイクの前で声を出した。ファンの女子学生たちの黄色い悲鳴が響き渡る。その声に埋もれそうになりながらも、俺の耳には陽翔の声だけがはっきりと届いていた。

「それじゃ、今日は楽しんでいってくれ」

 そう言うなり、曲が始まった。ギターのリフが会場に響き渡り、拍手と歓声が沸き上がる。会場全体がBLUE MOONの楽曲に体を揺らしている。陽翔もギターを揺らしながら、ノリノリでパフォーマンスをしていた。彼の姿は、まさに輝きそのものだった。

 俺はただ陽翔だけを見つめていた。その姿に目が離せなかった。

「……すごいな……」

 あまりの迫力にびっくりしたと言うより、陽翔が輝いて見えて、遠い世界の人のように感じてしまった。ステージの上の彼と、こんな場所にいる自分とでは、世界が違いすぎる。

「ね、すごいでしょ? メジャーデビュー、きっと在学中にすると思うよ」

 芽衣の声が遠くに聞こえる。ライブの音が大きいからじゃなくて、陽翔の歌声をひとつも聴き漏らしたくないと言う気持ちからかもしれない。

 周りの喧騒から切り離されたように、陽翔の声しか届いていなかった。その声は、まるで俺だけに歌っているかのように感じられた。

 ――あぁ……。陽翔さんは、こんな遠い世界の人だったんだな……。

 俺が近づこうなんて、間違いだったのかもしれない。星を手に入れようとするかのような、無謀な挑戦だったのかもしれない。

 そう思うと、胸が苦しくなった。心臓が締め付けられるような痛みが走る。


 気づくと、ライブパフォーマンスは終わって、BLUE MOONのメンバーは手を振りながら舞台裏に下がって行った。陽翔の姿が見えなくなると、何か大切なものを失ったような気持ちになった。

 会場内では「すごかったね」とか「感動した」などと言った言葉が飛び交い、ざわめいていた。興奮した表情の学生たちが、口々に感想を述べ合っている。

「叶翔、どうだった?」

 芽衣は俺の顔を覗き込みながら聞いてきた。彼女の目には、期待の色が浮かんでいる。

「……うん」

 俺は喉から言葉が出て来ずに、それしか言うことができなかった。心の中は感情が渦巻いていたが、言葉にできない。

「なによー、もっとなんかないの?」

 肘でウリウリと突かれる。その感触で現実に引き戻された気がした。

「……陽翔さん、かっこよかった。そして、遠い人に感じた……。俺が近づいたらいけない人、みたいだ」

 胸の奥底から絞り出すように言葉を紡いだ。言葉にした途端、その気持ちがより鮮明になる。

「……っ!」

 芽衣が息を呑むのが分かった。その表情には驚きと何か、言いようのない感情が混ざっている。

 俺だってそう思いたくないが、あのライブを見たら、そう思わざるを得ないほど、陽翔は俺の手の届かない人だと分かった。輝きに満ちた彼と、影のような自分。その差は埋められないほど大きかった。

「そんなことないから! ほら、アンコールあるから、聴くよ!」

 芽衣が俺の腕を取って、ずるずると引っ張っていく。俺はその場に踏ん張って止まろうとしたが、芽衣は見かけによらず力が強い。紐をつけられた犬のように引っ張られて行った。

 ステージから十列目ぐらいの場所まで連れて行かれて、仕方なくその場に佇んだ。周りはBLUE MOONのファンで埋め尽くされていて、芽衣は周りから声をかけられて楽しそうに喋っている。

 アンコール、アンコールという声が徐々に大きくなって言った。会場全体が大きく拍手とアンコールという声で溢れたその時、メンバーが手を振りながら再びステージに戻ってきた。

 汗に濡れた衣装を変えて、さっぱりした表情だが、陽翔ひとり、少し緊張した面持ちだった。その表情に何か違和感を覚える。いつもの自信に満ちた表情ではなく、どこか不安そうに見えた。

「……最後に、俺の大切な人に届けたい曲です」

 今までざわついていた会場が、一気にしんと静まり返った。まるで時間が止まったかのように。

 演奏が始まる。その曲は明るく切ないラブソングだった。優しいメロディに、俺の胸は締め付けられるような気持ちになる。

 陽翔は歌い始めると、会場を何かを探すように目を動かしていた。彼が誰かを探している。そう気づいた瞬間、陽翔の視線が俺をとらえた。まるで人混みの中にいる俺だけが見えるかのように、真っ直ぐに見つめてくる。

 その時、陽翔の歌声が、わずかに震えた。それでも彼は懸命に最後まで歌いきった。その声には、言葉では表せない感情が込められていた。

『君の瞳に恋をした。
 目が合ったその瞬間から。
 キラキラひかるその瞳には俺が映っていた。
 いつまでもその瞳に俺を映し続けていたい。
 俺はもう戻れない。
 守るよ、その笑顔を。
 君を誰にも渡したくない。
 愛してる』

 涙が滲み、視界が揺れる。終盤、陽翔の喉がわずかに震えた。それでも最後まで歌い切り、息を吐くとマイクから少し離れた。

 陽翔の歌うラブソングに感動しているファンは、涙を流しながら鼻をすすっている。俺の隣でも何人かの女子が「素敵……」と呟きながら目を潤ませていた。

 俺は、陽翔の全てを目に焼き付けたくて、彼の瞳を見た。今まで目を合わすのが怖かった、陽翔の瞳を。彼の目には、今まで見たことのない真剣さと、温かい感情が溢れていた。

 こんなにたくさんの人がいるのに、陽翔が見ているのは、俺だった。あの輝く世界の中心にいる彼が、自分だけを見つめている。その事実に、胸が熱くなった。

 歌い終わった陽翔は、スタンドからマイクを外して、手に握った。汗で濡れた前髪が額に張り付き、その下から覗く瞳が真剣に俺を捉えている。そして大きく息を吸い込んで叫んだ。

「俺が好きなのは――、綾瀬叶翔です! 叶翔、好きだ! 俺と付き合ってくれ!」

 会場が陽翔の公開告白に騒然とする。空気が一瞬凍りつき、次の瞬間、嵐のような歓声と悲鳴が巻き起こった。ファンのキャー! という黄色い声援と共に、陽翔にガチ恋していた人からは、ぎゃーという落胆の声が響いた。

 耳が痛くなるほどの声に包まれながら、俺は陽翔の姿だけを見ていた。彼の顔には、今まで見たことのない決意の色が浮かんでいる。あの時のように、真顔で「好きだ」と言う陽翔の姿に、心が震えた。

 隣では芽衣が「やったー!」と叫びながらガッツポーズをしている。彼女の表情には、純粋な喜びが溢れていた。

 陽翔の公開告白を聞いて気落ちしたガチ恋勢はよろよろとその場から離れて行った。その数の多さを見ると、本当に陽翔はモテるのだと改めて実感した。彼を追いかける人の多さに、少し胸が苦しくなる。でも、彼は大勢の中から俺を選んだ。その事実が、心の奥で輝いていた。

 残ったファンからは「ハルト、かっこいい!」「素敵!」「頑張って!」という温かい声がかけられている。それを聞いた俺は、BLUE MOONのファンの人たちは、メンバーの幸せを一番に考えている人ばかりなのだと思った。その優しさに、胸が熱くなる。

 ステージの上の陽翔は、ずっと俺を見つめ続けていた。その眼差しには不安と期待が混ざっている。そして、徐にマイクを口元から離した。

 ――カ・ナ・ト・ア・イ・シ・テ・ル。

 口パクで届いた、たった八文字。いつもの笑顔をした陽翔の口の動きを見た俺の目からは涙が溢れ出た。頬を伝い落ちる涙を拭うこともできず、ただ見つめ返すだけだった。


 ライブが終わり、名残惜しそうにフェス会場を後にする人たちを横目に、俺は校舎裏に立ちすくしていた。夕暮れの柔らかな光が校舎の影を長く伸ばしている。辺りが静まり、遠くから人々の声が聞こえる。みんなの歓声が遠くに聞こえる。

 胸の高鳴りがいつまでも落ち着かない。ドキドキする心臓の音が、自分の耳にも聞こえるほどに。俺は、胸に手を当てて、ぎゅっと胸元を握りしめた。

 ――陽翔さんに愛されることが、怖いって思っていた。でも、この胸の高鳴りは、誰にも嘘つけない。

 高校時代のトラウマも、最近起きた嫌な出来事も、全て洗い流されるような感覚だった。陽翔の言葉が、俺の心の傷を優しく包んでくれている。

 自分の気持ちを整理するように、深く深呼吸をした。春の夕暮れの空気が肺の中に染み渡る。もう、嘘をつきたくない。この気持ちに。そして、信じてみたい。陽翔のまっすぐな声を。

 そばにいた芽衣が、俺の肩をポンと叩いた。その感触が、現実と夢の狭間にいた俺を引き戻す。

「叶翔。もうそろそろ、自分の気持ちに正直になってみたら?」

 その言葉は俺の胸の奥までまっすぐ届いた。やさしくも、強い言葉だった。

 ――もう、逃げるの、やめよう。

 俺も自分の気持ちに正直になりたい。メジャーデビューも目の前でスキャンダルを避けたいはずなのに、大勢の観客の前で陽翔は自分の気持ちを曝け出してくれた。その気持ちに、俺も、応えたい。

 芽衣が遠くを見て、口角を上げた。

「あたし、そろそろ撤収の手伝いしてくるね」

 芽衣は手を振りながらステージへと向かっていった。新緑の青い香りを纏った温かい風が俺の髪を揺らした。

「君が歌った世界に、俺がいてもいいのなら――、もう、逃げないって、決めてもいいですか?」

 俺はオレンジ色の空を見上げて、陽翔に向き合うことを決めた。恐怖と期待が同じ速度で脈打つ。けれど今は、前に進む足が震えていることさえ誇らしかった。