2限と3限のあいだ――二時間の空白を埋めるように、俺は図書館の最奥へ足を運ぶ。
机の前に腰掛けて、スケッチブックを開く。何度も撫でて馴染ませた厚紙の感触は、掌にだけ許された秘密の温度を宿している。
鉛筆を寝かせ、紙を撫で――浮かびあがった輪郭は、バンドのボーカル風の青年。目鼻立ちのはっきりとした、まるでモデルのような整った顔立ち。髪の毛は金色に近い茶色で、朝日を浴びたような輝きを放っている。マイクの代わりに、赤い薔薇の花を一輪持たせた。
その表情はいつもの人好きのする明るいものではなく、静かに熱のこもった優しい視線をこちらに向けている。どこか儚げで、見る者の胸を締め付けるような、切なさを湛えた瞳だった。
ラフが仕上がり、絵の顔の部分に愛おしそうに指を滑らせた。冷たいスケッチブックの上で、指先だけが熱を持っているように感じる。
――陽翔さん、この前、寂しそうな顔してたな……。
いつもの眩しいほどの笑顔ではなく、熱っぽく俺を見つめる目。その瞳にいつも引き込まれそうになり、その度に俺は目を逸らした。本当は目を合わせて、自分の気持ちを伝えたいのに、それができない自分が情けなくて仕方がない。
「このイラストになら、いくらでも目を合わせることができるのになぁ……」
スケッチブックの上で肘をついて手を組み、その上に額を乗せた。陽翔を避けるようになってから、ため息ばかりが出る日々が続いていた。胸の奥に重たい石が積み上げられていくような感覚だ。
次の授業まではまだ時間があるので、急いで絵を仕上げることにした。鉛筆の線を消しゴムで軽く擦り、適度な加減で影を入れていく。線一本一本に、言葉にできない想いを込めながら。
授業終了後、キャンパスの桜の木の新緑がサワサワと爽やかな風に揺れ、夕暮れの光が葉の間から漏れていた。俺は芽衣と木の下のベンチに腰掛けていた。周囲には他の学生の声や笑い声が遠くに聞こえる。
バッグの中からスケッチブックを取り出し、今日の空き時間で書いたイラストを芽衣に見せた。手が少し震えていることに自分でも気づく。
「……これ、見てくれる?」
ページをめくって、イラストを見せる。芽衣は目を見開き、息を呑んだ。
「これって……」
芽衣がゴクリと唾を飲み込むのが見えた。彼女の瞳が驚きと何かを理解したような色に変わる。
「陽翔さん……、だよね? 創作垢にアップする予定なの?」
俺はこくんと頷いた。心臓が早鐘を打っている。
「うん。これから、アップしようと思ってる」
「でも、この陽翔さん、いつものライブの時のギラギラ感とか、普段の明るい表情じゃないね。きっとこれ、叶翔の目から見た『陽翔さん』の表情のような気がする……」
――俺から見た、陽翔さん。
夕暮れの中、ベンチに一人空を仰ぎ、寂しそうな表情をしていた陽翔を思い出した。あの時、彼の肩には誰にも見せない孤独が乗っていた。人気者なのに、なぜか一人で佇む背中が、胸を締め付けるほど切なかった。
「……俺だけが、見た、陽翔さんの顔だから」
ぼそりと聞こえるか聞こえないかわからないぐらいの小さな声で呟いた。喉の奥が熱くなる。
ずっと描きたかった。陽翔のみんなの前で笑顔を振り撒き、騒いでいる時の顔ではなく、寂しげで儚げだがどこか熱のこもった瞳。俺が好きになったのは、眩しい笑顔の陽翔ではなく、あのまっすぐな目だったんだ。他の誰も知らない、彼の本当の表情。
「……叶翔の気持ち、ちゃんと"描けた"んだね」
芽衣がにっこり笑いながら、俺を覗き込んできた。彼女の声には温かさと理解があふれていた。
「それって、もう、陽翔さんに"恋してる"ってことでしょ?」
スケッチブックを閉じながら、俺は少し微笑みながら小さく頷いた。頬が熱くなるのを感じる。自分でも驚くほど素直に頷いていた。
「叶翔の絵はさ、いつも気持ちがこもってるじゃん。どの絵も、嬉しい、楽しい、誇らしい、辛い、悲しい、どんな気持ちも伝わってくるもん。この陽翔さんの絵からは『愛』しか伝わってこない。ホント、素敵な絵だなぁ」
芽衣は、創作アカウントにアップされるのを楽しみにしてるね、と言い残し、その場を立ち去った。
芽衣が去った後、再びスケッチブックを開いて陽翔のイラストを見つめた。夕陽に照らされた絵の表情が、より一層深みを増して見える。そういえば、陽翔も俺のアカウントをフォローしていた。そのことを思い出すと、胸が締め付けられるような痛みと、どこか期待に似た感情が混ざり合う。
――これをアップしたら、俺の気持ちに、気づくかな?
そんなことを思いながら、絵をスマートフォンで撮影し、創作アカウントにアップロードした。不安と期待が胸をざわつかせ、投稿ボタンに触れる指先が震えていた。
翌日、大学内には強い風が吹き荒れていた。乱れる髪の毛を抑えつつ、教室へ向かおうとすると、俺の耳に話し声が聞こえてきた。
「ねえ、見た? ほら、"BLUE MOON"の自称ハルトの彼女候補って言ってる、誰だっけ? ナナだっけ? あの子のアカウント」
「うん、見た見た! なんかハルトにストーカーまがいのことしてる人がいるって話じゃない?」
ひそひそと話しているのだろうが、陽翔の名前に敏感になっている俺には、普通に聞こえてしまった。体が石のように固まる。
「なんでも有名な絵師さんらしいじゃん。この大学の男子学生だって言ってたよ」
「え? 男子? キモっ! やめてほしいよねー、あたしらのハルトにストーカーとか」
「でもさぁ、ナナのハルトとのツーショット写真も合成って噂だし、そのストーカー話も盛ってるだけかもよ?」
「ハハっ! ありえるね」
キャハハと楽しそうに二人で会話しながら過ぎ去っていくのを横目に、俺の背中には冷たいものが流れ落ちていくのを感じた。もしかして、俺のアカウントが晒されたのか……。全身から血の気が引いていく。
――まさか……。そんな……、俺を特定できるものは、あのアカウントには何もアップしていないはず。
自分に大丈夫だと言い聞かせながら教室へ向かっていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、そこには芽衣が血相を変えて俺の元へと走ってきた。
「叶翔、大変っ!」
芽衣は肩を上下させて息を荒くしている。その顔には焦りと怒りが入り混じっていた。その様子を見ると、ただ事じゃないと言うのが窺えた。恐怖が背中を駆け上がる。
「どう……したんだよ。そんなに焦って」
芽衣は荒くなった息を整えて、ゆっくり深呼吸した。彼女の瞳には怒りの炎が灯っていた。
「これ、見て」
芽衣はスマートフォンの画面を俺に向けた。その画面を見た俺は、全身から血の気が引くのを感じた。足が震え始め、立っているのも辛くなる。
SNSのアカウントは"ナナ"のもので、俺が昨日アップロードした陽翔のイラストを引用する形で投稿していた。
『この絵師、キモい! BLUE MOON・ハルトにストーカー行為。実名は"綾瀬叶翔"でハルトと同じ大学の一年』
キャンパス内の学生が俺に目を向けているように感じて冷や汗が止まらない。息が荒くなり、周囲の音がどこか遠くに聞こえる。
「この絵垢の人、同じ学部らしいよ」
「絵師のアイコン、ハルトと似てね?」
"ナナ"の投稿を引用する形でさらに拡散されていく。あちこちから囁き声が聞こえてくるようで、頭がぐらぐらする。
不安になって、俺は自分のスマートフォーンを開いてSNSのアイコンをタップして愕然とした。通知が止まらない。フォロワー数も鰻登りで増えている。画面を見るたび、心臓が痛いほど締め付けられる。
俺が投稿した陽翔のイラストを無断転載され、さらにイラストのコメント欄には「気持ち悪い」「ストーカー」などといった心無い言葉が次々に投げかけられていた。画面から聞こえてくるかのような罵声に、耳を塞ぎたくなる。
「あの時と……、同じだ」
ゲイバレした高校一年の時、実名をさらされ、ネット上で誹謗中傷を受けたあの光景が、鮮明に蘇ってきた。教室で孤立し、SNSで晒され、友達だと思っていた人たちに裏切られた記憶。
「また、みんなに見られて、笑われて、汚いもののように扱われる……」
――俺はまた、同じ場所に戻ったんだ……。全部バレた。終わった……。
呼吸が速くなり、息苦しさを感じる。胸に手を当てて、動悸を抑えようとするが胸の苦しさは少しもおさまらない。手先は冷たくなり、膝はガクガクと震えてその場に立っているのも辛いほどだった。視界がぼやけ始める。
「叶翔……、大丈夫? 顔色悪いけど」
芽衣が背中をさすってくれるが、全く感覚がない。芽衣の声も遠くから聞こえてくるようで、現実感がなかった。
「……芽衣……、俺……」
吐き気がして手で口を覆った。立っていられなくて、その場にしゃがみ込んでしまった。冷たい地面に膝をつく感覚だけが、かろうじて俺を現実に繋ぎとめていた。
「叶翔。あたしがコイツ、絶対、潰してやるから……。今日はもう、帰りなよ」
芽衣の声は、今まで聞いたことないほど低く、怒りが溢れているのが分かった。ギリギリと歯ぎしりをして、瞳は氷のような冷たさをまとっていた。俺は、こんなに親身になって心配してくれる友人がいることをありがたく思った。高校の時には、誰も味方はおらず孤独だったから……。
芽衣の温かい手が肩に触れる感覚が少しだけ心を落ち着かせる。
「……ありがとう……。でも、今日、課題提出があるから……、行く」
俺はよろよろと立ち上がり重い足取りで教室へと向かった。周りの人から、好奇の目で見られているような気がして、誰とも目を合わさないように、俯きながら歩いた。芽衣はそんな俺を支えるようにして、一緒にいてくれた。俺に付き添っていることで、芽衣も変な目で見られるんじゃないかと思うと、気が気じゃなかった。
「今日はもう、帰ろう……」
いつもなら、創作活動のために、イラストを描く場所を探してキャンパスをうろうろするのだが、さすがにそんな元気は、今日は、もう、ない。体の中に入れた食べ物も、喉を通らず、心も身体も疲れ果てていた。
今日一日、長かった。特に、創作アカウントについて誰からも直接、声をかけられることはなかったが、キャンパスのあちこちで「ハルトのストーカー」の噂話が聞こえてきた。聞こえないふりをしても、その言葉だけが耳に残る。
実名が晒されたことで、近いうちに俺がそのアカウントの持ち主だと言うことが陽翔にもバレるだろう。大学内でもそのことが広まったら、また、あの誹謗中傷が俺を襲ってくる。そう考えただけで膝がガクガクと震えた。喉が渇き、息が浅くなる。
授業が終わった時、芽衣が「何かあったらいつでも連絡して!」と念を押してきた。高校の時のゲイバレ事件についても芽衣には話しているからか、心配してくれているのだろう。彼女の目には心からの友情が見えて、少しだけ救われた気がした。
その時、隣を歩いているグループから話し声が聞こえてきた。
「ねぇ、見た? あのハルトのイラスト」
その声を聞いて俺はまた背中が冷たくなるのを感じた。またキモいとか言われるんじゃないかと思うと、これ以上話を聞きたくないと思ったが、それでも耳に彼女たちの声は届いた。
「すごいうまいよねー! しかもさぁ、あのイラストの表情、めっちゃ良くない?」
「わかるー! なんか愛しさが伝わるっていうか、愛が溢れているよね!」
思いがけない優しい言葉を聞いて、全員が俺のことを悪く言っているわけじゃないんだと思ったら、目頭が熱くなった。うっかり瞬きをすると、涙がこぼれ落ちそうになる。
「きっとさ、あの絵師さん、ハルトのこと本気で好きなんだよ。だからあんな素敵な絵が描けるんじゃないかな……」
うふふと頬を赤らめて言っているその人の声に、俺は心が温かくなった。だが、みんながみんな、こんな反応ではないはずだ。そう考えると、気が滅入った。胸に小さな明かりが灯ったと思ったのに、すぐに闇に呑まれていく感覚。
重い足取りでキャンパス内を歩いていたら、誰かが走っている足音が聞こえた。鼓動が跳ね上がる。
「やっと見つけた!」
振り返るとそこには息を切らした陽翔が立っていた。彼の髪は風で乱れ、瞳には真剣な光が宿っていた。
「叶翔くん、やっと見つけた……」
安堵したのか、くしゃっとした笑顔を俺に向けた。その顔には心からの安心感が広がっていて、見つめる目に嘘がないことが痛いほど伝わってくる。
「ねぇ、何があったの? なんか、BLUE MOONのタグでエゴサしてたら、すごいヒットして……。叶翔くんの名前もSNSで流れてきて……。お願い、話して……」
陽翔が真剣な表情で手を伸ばしてきた。その手は少し震えていて、俺を心配しているのが伝わってきた。ずっと避けていたのに、なんで――。
「……もう、俺に、関わらないで……」
俯いて小さく呟くと、陽翔がひゅっと息を吸ったのが分かった。心が引き裂かれるような痛みを感じる。言いたくなかった言葉なのに、恐怖が俺の口からそれを吐き出させた。
「なんで? 俺、何かした? 違うなら、ちゃんと教えて!」
陽翔の声には焦りと、どこか傷ついたような色が混じっていた。俺は何も言うことができず、ただ頭を振ることしかできなかった。喉が閉ざされたように声が出ない。
「俺ができること、なんでもやるから! もしかしてあの"ナナ"のアカウントのこと? だったら俺がなんとかするから」
彼の声には力強さがあって、まるで俺を守ると誓っているかのようだった。そんな陽翔の姿を見て、胸が苦しくなる。俺は俯いたまま拳を握って言った。
「……そんなことしたら、陽翔さん、困るんじゃ……」
有名バンドのボーカルが、男のストーカーとの噂に関わったら、きっと大変なことになる。今後、メジャーデビューも視野に入れているバンドなのだ。そんな迷惑はかけられない。言葉にならない思いが、喉の奥で詰まる。
「何言ってるの? 好きな子、守れないなんて、俺、絶対、嫌だからっ!」
陽翔の叫び声があたりに響き渡った。その声には哀れみなどは一切なく、真剣さが伝わってくる。そして――「好きな子」という言葉が、俺の心に刺さった。
――それでも、陽翔さんからキモいとか、思われたくない……。
「……陽翔さんにまで、俺のこと、キモいって見られたら……、もう、俺、壊れちゃうから……」
目から涙が溢れ出て涙声になる。陽翔が伸ばしていた手に背を向けて、俺はその場から立ち去った。振り返らなかったけれど、陽翔の気配が、ずっと背中に残っていた。
自宅マンションに帰り、電気をつけることもせず、ベッドの上で膝を抱えてスマートフォンでSNSを眺めていた。外の光すら入れたくなくて、カーテンを閉め切っている。どんどん増えるフォロワーと、通知。そして心無い辛辣な言葉の数々。それらが、俺の心を少しずつ削っていく。
俺は耐えきれなくなって、創作アカウントを非公開にして鍵アカウントにすることで、今後、勝手にフォローされないようにした。そして、今までフォローしていたアカウントを全て解除していく。指先が震えているのに、画面をタップする動きは機械的だった。コメントは返信制限をかけて、誰からもコメントを受け付けないようにした。
非公開アカウントにしたら、少しは無断転載や拡散されるのは落ち着くかもしれないが、それでもすでに拡散されているのを抑え込むことは難しい。暗い部屋の中で、スマートフォンの画面だけが青白く光っている。その光が、俺の顔に涙の跡を照らし出す。
「……また、前みたいに拡散されちゃうのかな……」
SNSの拡散にうんざりする。もう、これ以上は見てられない。そう感じてスマートフォンの電源を落とそうとしたちょうどその時、芽衣からメッセージが届いた。
『叶翔の描く世界は、誰のものでもなく、叶翔自身のものなんだよ。誰も邪魔できないんだから。好きって気持ちまで、閉じ込めなくていいからね』
メッセージを見ている画面に、涙がぼたぼたと落ちた。芽衣に返信することはできなかったが、その言葉だけが心の隅に残った。暗闇の中で、ぽつんと灯る小さな希望の光のように。
――絵を描くのも、陽翔さんを好きなことも、どっちもやめたくないな……。
誰かに見られて、辛い言葉をかけられるのが嫌で、アカウントに鍵をかけてしまった。でも本当は、見て欲しかった。陽翔にだけは――。
胸の奥がズキズキと痛むのが分かった。暗い部屋の中で、俺は陽翔の姿を思い浮かべる。彼の「好きな子守れない」という言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返される。その言葉が、今は痛みを伴うけれど、温かさも同時に持っていた。
――もう一度、あの目を見たい。もう一度、陽翔さんと話したい。
だけど、恐怖が俺を縛り付ける。高校の時のトラウマが、蘇ってくる。信じて裏切られた記憶が、俺の心を引き裂く。どうすればいいのか分からなくて、ただベッドの上で体を丸めたまま、夜が明けるのを待った。
窓の外の闇が少しずつ色を変えていく中で、俺の中にも小さな変化が生まれ始めていた。
机の前に腰掛けて、スケッチブックを開く。何度も撫でて馴染ませた厚紙の感触は、掌にだけ許された秘密の温度を宿している。
鉛筆を寝かせ、紙を撫で――浮かびあがった輪郭は、バンドのボーカル風の青年。目鼻立ちのはっきりとした、まるでモデルのような整った顔立ち。髪の毛は金色に近い茶色で、朝日を浴びたような輝きを放っている。マイクの代わりに、赤い薔薇の花を一輪持たせた。
その表情はいつもの人好きのする明るいものではなく、静かに熱のこもった優しい視線をこちらに向けている。どこか儚げで、見る者の胸を締め付けるような、切なさを湛えた瞳だった。
ラフが仕上がり、絵の顔の部分に愛おしそうに指を滑らせた。冷たいスケッチブックの上で、指先だけが熱を持っているように感じる。
――陽翔さん、この前、寂しそうな顔してたな……。
いつもの眩しいほどの笑顔ではなく、熱っぽく俺を見つめる目。その瞳にいつも引き込まれそうになり、その度に俺は目を逸らした。本当は目を合わせて、自分の気持ちを伝えたいのに、それができない自分が情けなくて仕方がない。
「このイラストになら、いくらでも目を合わせることができるのになぁ……」
スケッチブックの上で肘をついて手を組み、その上に額を乗せた。陽翔を避けるようになってから、ため息ばかりが出る日々が続いていた。胸の奥に重たい石が積み上げられていくような感覚だ。
次の授業まではまだ時間があるので、急いで絵を仕上げることにした。鉛筆の線を消しゴムで軽く擦り、適度な加減で影を入れていく。線一本一本に、言葉にできない想いを込めながら。
授業終了後、キャンパスの桜の木の新緑がサワサワと爽やかな風に揺れ、夕暮れの光が葉の間から漏れていた。俺は芽衣と木の下のベンチに腰掛けていた。周囲には他の学生の声や笑い声が遠くに聞こえる。
バッグの中からスケッチブックを取り出し、今日の空き時間で書いたイラストを芽衣に見せた。手が少し震えていることに自分でも気づく。
「……これ、見てくれる?」
ページをめくって、イラストを見せる。芽衣は目を見開き、息を呑んだ。
「これって……」
芽衣がゴクリと唾を飲み込むのが見えた。彼女の瞳が驚きと何かを理解したような色に変わる。
「陽翔さん……、だよね? 創作垢にアップする予定なの?」
俺はこくんと頷いた。心臓が早鐘を打っている。
「うん。これから、アップしようと思ってる」
「でも、この陽翔さん、いつものライブの時のギラギラ感とか、普段の明るい表情じゃないね。きっとこれ、叶翔の目から見た『陽翔さん』の表情のような気がする……」
――俺から見た、陽翔さん。
夕暮れの中、ベンチに一人空を仰ぎ、寂しそうな表情をしていた陽翔を思い出した。あの時、彼の肩には誰にも見せない孤独が乗っていた。人気者なのに、なぜか一人で佇む背中が、胸を締め付けるほど切なかった。
「……俺だけが、見た、陽翔さんの顔だから」
ぼそりと聞こえるか聞こえないかわからないぐらいの小さな声で呟いた。喉の奥が熱くなる。
ずっと描きたかった。陽翔のみんなの前で笑顔を振り撒き、騒いでいる時の顔ではなく、寂しげで儚げだがどこか熱のこもった瞳。俺が好きになったのは、眩しい笑顔の陽翔ではなく、あのまっすぐな目だったんだ。他の誰も知らない、彼の本当の表情。
「……叶翔の気持ち、ちゃんと"描けた"んだね」
芽衣がにっこり笑いながら、俺を覗き込んできた。彼女の声には温かさと理解があふれていた。
「それって、もう、陽翔さんに"恋してる"ってことでしょ?」
スケッチブックを閉じながら、俺は少し微笑みながら小さく頷いた。頬が熱くなるのを感じる。自分でも驚くほど素直に頷いていた。
「叶翔の絵はさ、いつも気持ちがこもってるじゃん。どの絵も、嬉しい、楽しい、誇らしい、辛い、悲しい、どんな気持ちも伝わってくるもん。この陽翔さんの絵からは『愛』しか伝わってこない。ホント、素敵な絵だなぁ」
芽衣は、創作アカウントにアップされるのを楽しみにしてるね、と言い残し、その場を立ち去った。
芽衣が去った後、再びスケッチブックを開いて陽翔のイラストを見つめた。夕陽に照らされた絵の表情が、より一層深みを増して見える。そういえば、陽翔も俺のアカウントをフォローしていた。そのことを思い出すと、胸が締め付けられるような痛みと、どこか期待に似た感情が混ざり合う。
――これをアップしたら、俺の気持ちに、気づくかな?
そんなことを思いながら、絵をスマートフォンで撮影し、創作アカウントにアップロードした。不安と期待が胸をざわつかせ、投稿ボタンに触れる指先が震えていた。
翌日、大学内には強い風が吹き荒れていた。乱れる髪の毛を抑えつつ、教室へ向かおうとすると、俺の耳に話し声が聞こえてきた。
「ねえ、見た? ほら、"BLUE MOON"の自称ハルトの彼女候補って言ってる、誰だっけ? ナナだっけ? あの子のアカウント」
「うん、見た見た! なんかハルトにストーカーまがいのことしてる人がいるって話じゃない?」
ひそひそと話しているのだろうが、陽翔の名前に敏感になっている俺には、普通に聞こえてしまった。体が石のように固まる。
「なんでも有名な絵師さんらしいじゃん。この大学の男子学生だって言ってたよ」
「え? 男子? キモっ! やめてほしいよねー、あたしらのハルトにストーカーとか」
「でもさぁ、ナナのハルトとのツーショット写真も合成って噂だし、そのストーカー話も盛ってるだけかもよ?」
「ハハっ! ありえるね」
キャハハと楽しそうに二人で会話しながら過ぎ去っていくのを横目に、俺の背中には冷たいものが流れ落ちていくのを感じた。もしかして、俺のアカウントが晒されたのか……。全身から血の気が引いていく。
――まさか……。そんな……、俺を特定できるものは、あのアカウントには何もアップしていないはず。
自分に大丈夫だと言い聞かせながら教室へ向かっていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、そこには芽衣が血相を変えて俺の元へと走ってきた。
「叶翔、大変っ!」
芽衣は肩を上下させて息を荒くしている。その顔には焦りと怒りが入り混じっていた。その様子を見ると、ただ事じゃないと言うのが窺えた。恐怖が背中を駆け上がる。
「どう……したんだよ。そんなに焦って」
芽衣は荒くなった息を整えて、ゆっくり深呼吸した。彼女の瞳には怒りの炎が灯っていた。
「これ、見て」
芽衣はスマートフォンの画面を俺に向けた。その画面を見た俺は、全身から血の気が引くのを感じた。足が震え始め、立っているのも辛くなる。
SNSのアカウントは"ナナ"のもので、俺が昨日アップロードした陽翔のイラストを引用する形で投稿していた。
『この絵師、キモい! BLUE MOON・ハルトにストーカー行為。実名は"綾瀬叶翔"でハルトと同じ大学の一年』
キャンパス内の学生が俺に目を向けているように感じて冷や汗が止まらない。息が荒くなり、周囲の音がどこか遠くに聞こえる。
「この絵垢の人、同じ学部らしいよ」
「絵師のアイコン、ハルトと似てね?」
"ナナ"の投稿を引用する形でさらに拡散されていく。あちこちから囁き声が聞こえてくるようで、頭がぐらぐらする。
不安になって、俺は自分のスマートフォーンを開いてSNSのアイコンをタップして愕然とした。通知が止まらない。フォロワー数も鰻登りで増えている。画面を見るたび、心臓が痛いほど締め付けられる。
俺が投稿した陽翔のイラストを無断転載され、さらにイラストのコメント欄には「気持ち悪い」「ストーカー」などといった心無い言葉が次々に投げかけられていた。画面から聞こえてくるかのような罵声に、耳を塞ぎたくなる。
「あの時と……、同じだ」
ゲイバレした高校一年の時、実名をさらされ、ネット上で誹謗中傷を受けたあの光景が、鮮明に蘇ってきた。教室で孤立し、SNSで晒され、友達だと思っていた人たちに裏切られた記憶。
「また、みんなに見られて、笑われて、汚いもののように扱われる……」
――俺はまた、同じ場所に戻ったんだ……。全部バレた。終わった……。
呼吸が速くなり、息苦しさを感じる。胸に手を当てて、動悸を抑えようとするが胸の苦しさは少しもおさまらない。手先は冷たくなり、膝はガクガクと震えてその場に立っているのも辛いほどだった。視界がぼやけ始める。
「叶翔……、大丈夫? 顔色悪いけど」
芽衣が背中をさすってくれるが、全く感覚がない。芽衣の声も遠くから聞こえてくるようで、現実感がなかった。
「……芽衣……、俺……」
吐き気がして手で口を覆った。立っていられなくて、その場にしゃがみ込んでしまった。冷たい地面に膝をつく感覚だけが、かろうじて俺を現実に繋ぎとめていた。
「叶翔。あたしがコイツ、絶対、潰してやるから……。今日はもう、帰りなよ」
芽衣の声は、今まで聞いたことないほど低く、怒りが溢れているのが分かった。ギリギリと歯ぎしりをして、瞳は氷のような冷たさをまとっていた。俺は、こんなに親身になって心配してくれる友人がいることをありがたく思った。高校の時には、誰も味方はおらず孤独だったから……。
芽衣の温かい手が肩に触れる感覚が少しだけ心を落ち着かせる。
「……ありがとう……。でも、今日、課題提出があるから……、行く」
俺はよろよろと立ち上がり重い足取りで教室へと向かった。周りの人から、好奇の目で見られているような気がして、誰とも目を合わさないように、俯きながら歩いた。芽衣はそんな俺を支えるようにして、一緒にいてくれた。俺に付き添っていることで、芽衣も変な目で見られるんじゃないかと思うと、気が気じゃなかった。
「今日はもう、帰ろう……」
いつもなら、創作活動のために、イラストを描く場所を探してキャンパスをうろうろするのだが、さすがにそんな元気は、今日は、もう、ない。体の中に入れた食べ物も、喉を通らず、心も身体も疲れ果てていた。
今日一日、長かった。特に、創作アカウントについて誰からも直接、声をかけられることはなかったが、キャンパスのあちこちで「ハルトのストーカー」の噂話が聞こえてきた。聞こえないふりをしても、その言葉だけが耳に残る。
実名が晒されたことで、近いうちに俺がそのアカウントの持ち主だと言うことが陽翔にもバレるだろう。大学内でもそのことが広まったら、また、あの誹謗中傷が俺を襲ってくる。そう考えただけで膝がガクガクと震えた。喉が渇き、息が浅くなる。
授業が終わった時、芽衣が「何かあったらいつでも連絡して!」と念を押してきた。高校の時のゲイバレ事件についても芽衣には話しているからか、心配してくれているのだろう。彼女の目には心からの友情が見えて、少しだけ救われた気がした。
その時、隣を歩いているグループから話し声が聞こえてきた。
「ねぇ、見た? あのハルトのイラスト」
その声を聞いて俺はまた背中が冷たくなるのを感じた。またキモいとか言われるんじゃないかと思うと、これ以上話を聞きたくないと思ったが、それでも耳に彼女たちの声は届いた。
「すごいうまいよねー! しかもさぁ、あのイラストの表情、めっちゃ良くない?」
「わかるー! なんか愛しさが伝わるっていうか、愛が溢れているよね!」
思いがけない優しい言葉を聞いて、全員が俺のことを悪く言っているわけじゃないんだと思ったら、目頭が熱くなった。うっかり瞬きをすると、涙がこぼれ落ちそうになる。
「きっとさ、あの絵師さん、ハルトのこと本気で好きなんだよ。だからあんな素敵な絵が描けるんじゃないかな……」
うふふと頬を赤らめて言っているその人の声に、俺は心が温かくなった。だが、みんながみんな、こんな反応ではないはずだ。そう考えると、気が滅入った。胸に小さな明かりが灯ったと思ったのに、すぐに闇に呑まれていく感覚。
重い足取りでキャンパス内を歩いていたら、誰かが走っている足音が聞こえた。鼓動が跳ね上がる。
「やっと見つけた!」
振り返るとそこには息を切らした陽翔が立っていた。彼の髪は風で乱れ、瞳には真剣な光が宿っていた。
「叶翔くん、やっと見つけた……」
安堵したのか、くしゃっとした笑顔を俺に向けた。その顔には心からの安心感が広がっていて、見つめる目に嘘がないことが痛いほど伝わってくる。
「ねぇ、何があったの? なんか、BLUE MOONのタグでエゴサしてたら、すごいヒットして……。叶翔くんの名前もSNSで流れてきて……。お願い、話して……」
陽翔が真剣な表情で手を伸ばしてきた。その手は少し震えていて、俺を心配しているのが伝わってきた。ずっと避けていたのに、なんで――。
「……もう、俺に、関わらないで……」
俯いて小さく呟くと、陽翔がひゅっと息を吸ったのが分かった。心が引き裂かれるような痛みを感じる。言いたくなかった言葉なのに、恐怖が俺の口からそれを吐き出させた。
「なんで? 俺、何かした? 違うなら、ちゃんと教えて!」
陽翔の声には焦りと、どこか傷ついたような色が混じっていた。俺は何も言うことができず、ただ頭を振ることしかできなかった。喉が閉ざされたように声が出ない。
「俺ができること、なんでもやるから! もしかしてあの"ナナ"のアカウントのこと? だったら俺がなんとかするから」
彼の声には力強さがあって、まるで俺を守ると誓っているかのようだった。そんな陽翔の姿を見て、胸が苦しくなる。俺は俯いたまま拳を握って言った。
「……そんなことしたら、陽翔さん、困るんじゃ……」
有名バンドのボーカルが、男のストーカーとの噂に関わったら、きっと大変なことになる。今後、メジャーデビューも視野に入れているバンドなのだ。そんな迷惑はかけられない。言葉にならない思いが、喉の奥で詰まる。
「何言ってるの? 好きな子、守れないなんて、俺、絶対、嫌だからっ!」
陽翔の叫び声があたりに響き渡った。その声には哀れみなどは一切なく、真剣さが伝わってくる。そして――「好きな子」という言葉が、俺の心に刺さった。
――それでも、陽翔さんからキモいとか、思われたくない……。
「……陽翔さんにまで、俺のこと、キモいって見られたら……、もう、俺、壊れちゃうから……」
目から涙が溢れ出て涙声になる。陽翔が伸ばしていた手に背を向けて、俺はその場から立ち去った。振り返らなかったけれど、陽翔の気配が、ずっと背中に残っていた。
自宅マンションに帰り、電気をつけることもせず、ベッドの上で膝を抱えてスマートフォンでSNSを眺めていた。外の光すら入れたくなくて、カーテンを閉め切っている。どんどん増えるフォロワーと、通知。そして心無い辛辣な言葉の数々。それらが、俺の心を少しずつ削っていく。
俺は耐えきれなくなって、創作アカウントを非公開にして鍵アカウントにすることで、今後、勝手にフォローされないようにした。そして、今までフォローしていたアカウントを全て解除していく。指先が震えているのに、画面をタップする動きは機械的だった。コメントは返信制限をかけて、誰からもコメントを受け付けないようにした。
非公開アカウントにしたら、少しは無断転載や拡散されるのは落ち着くかもしれないが、それでもすでに拡散されているのを抑え込むことは難しい。暗い部屋の中で、スマートフォンの画面だけが青白く光っている。その光が、俺の顔に涙の跡を照らし出す。
「……また、前みたいに拡散されちゃうのかな……」
SNSの拡散にうんざりする。もう、これ以上は見てられない。そう感じてスマートフォンの電源を落とそうとしたちょうどその時、芽衣からメッセージが届いた。
『叶翔の描く世界は、誰のものでもなく、叶翔自身のものなんだよ。誰も邪魔できないんだから。好きって気持ちまで、閉じ込めなくていいからね』
メッセージを見ている画面に、涙がぼたぼたと落ちた。芽衣に返信することはできなかったが、その言葉だけが心の隅に残った。暗闇の中で、ぽつんと灯る小さな希望の光のように。
――絵を描くのも、陽翔さんを好きなことも、どっちもやめたくないな……。
誰かに見られて、辛い言葉をかけられるのが嫌で、アカウントに鍵をかけてしまった。でも本当は、見て欲しかった。陽翔にだけは――。
胸の奥がズキズキと痛むのが分かった。暗い部屋の中で、俺は陽翔の姿を思い浮かべる。彼の「好きな子守れない」という言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返される。その言葉が、今は痛みを伴うけれど、温かさも同時に持っていた。
――もう一度、あの目を見たい。もう一度、陽翔さんと話したい。
だけど、恐怖が俺を縛り付ける。高校の時のトラウマが、蘇ってくる。信じて裏切られた記憶が、俺の心を引き裂く。どうすればいいのか分からなくて、ただベッドの上で体を丸めたまま、夜が明けるのを待った。
窓の外の闇が少しずつ色を変えていく中で、俺の中にも小さな変化が生まれ始めていた。



