鏡の前でまばたきをするたび、瞼の腫れが鈍く疼く。

 昨夜あふれた涙と同じ重さが、まだ目の奥に残っている気がした。

 春学期も半ば。ツツジが濃い朱を膨らませるキャンパスを、学生たちの笑い声が跳ね回る。けれど俺の靴裏は鉛のように重く、地面へ吸いこまれそうだった。

「叶翔っ! ど、どうしたの……? 目、パンパンじゃん」

 翌朝、キャンパス内で教室に向かう途中、早速芽衣に見つかった。新緑の薄緑色がキャンパスを明るく彩っている。鳥たちのさえずりが爽やかな朝の空気に混じり、春も半ばに差し掛かっていることを感じさせた。その風景とは裏腹に、俺の心の中は重たい霧に覆われたようにどんよりとしていた。

「ん……。ちょっとね……寝不足」

 朝起きた時には、目も開けられないほど腫れていたのを、冷やしてようやく目が開くようになったのだが、それでも腫れはひかなかった。目元が重たいのは、胸の中の重みと連動しているようだった。

 それは、陽翔に伝えた『無理』だという言葉。彼を突き放した俺の弱さだ。

 キャンパスを楽しそうに行き交う人たちを横目に、そっとため息をついた。

 ――俺は、陽翔さんにこれからどう接したらいいんだろう……。

 陽翔は俺のことを好きだと言ってくれた。俺も同じ気持ちだ。だけど――。

 過去のトラウマが何度も頭をもたげてくる。好きだった人に告白した時の、あの、嫌悪感に満ちた顔。「ゲイはキモい」と言われて名前を晒されたこと……。

 陽翔はそんな人ではないとは分かっている。彼の表情やしぐさ、眼差しを見れば本気であることも伝わってくる。

 でも……。

『やっぱり男と付き合うのは無理でした』

 そう言われるのが怖い。そう言われたら、またあの時みたいに心が壊れるんじゃないかと思うと胸が痛くなる。怖くて壊れたくなくて。自分の心が臆病で小さいということをあからさまに感じてしまう。

 大勢の学生が教室へと行き交う中、陽翔の姿が目に入った。桜の若葉が揺れるその先に、明るい金色の髪が春の光を受けて輝いていた。明るくて、いつも真っ直ぐで、見つけたらすぐわかる人。

(……いた……)

 俺は思わず木の影に身を潜めて、陽翔が通り過ぎるのを息を潜めてじっと待っていた。目で彼を追いかけてしまっている自分がいる。だが、直接会う勇気が出ない。行動と気持ちがちぐはぐ過ぎて心が苦しい。

「何やってんのよ? なんで陽翔さん避けてんの? なんかあった?」

「……」

 ――避けてるんじゃない。ただ、会ってしまったら、あの時の顔を思い出して、心が壊れそうになるから……。

 必死に心の中で言い訳をしている自分がいた。決して俺は、逃げているんじゃないんだ……、と。でも本当は、逃げていることも分かっている。それが自分を責める気持ちに繋がっていた。

「何か困っていることがあったら、なんでも話してよ? あたし達、友達なんだから」

 芽衣が俺の肩をポンポンと優しく叩いた。その温かな手の感触が、少しだけ心を和らげる。

「……うん。今はちょっと言えないけど……。ありがとう」

 俺が目を伏せて礼を言うと、「授業に遅れるから、早く行くよっ!」とグイグイ手を引っ張りながらその場を離れた。

 芽衣は俺が話すまで深く追求することなく、その後も優しく見守ってくれていた。この気遣いも、俺をさらに罪悪感で苦しめた。

 授業が始まる前、スマートフォンが震えた。画面を見ると陽翔からのメッセージだった。

『今日のお弁当、頑張ったよ! 俺の好きなものいっぱい入れたけど、気に入ってもらえたらいいなー。お昼に会えるのを楽しみにしてるね。中庭で待ってるから』

 昨日、俺があんな態度をとってしまったのに、律儀に今日もお弁当を作ってくれていたようだ。画面の端にはニコニコとした顔文字も添えられていて、どこか明るさを取り戻した様子が伝わってくる。返信することなく、未読のまま画面を閉じると胸の奥がチクリと痛んだ。

 ――ご飯一緒に食べようって、あんなにうれしそうに言ってたのに……。

 しかも、俺は昨日、陽翔にひどいことを言った。無理って、俺の方が陽翔を傷つけてしまったはずなのに……彼は何も言わずに、また笑顔で接してくれようとしている。その優しさが逆に胸を締め付けた。

 でも、今はあの目を見れない。きっと優しくされてしまうと、また期待してしまうから。

 昼休み、自然と足は中庭に向かっていた。体が勝手に動き、一歩、また一歩と陽翔の方へ向かっていく。そこにはすでに陽翔がいて、テーブルの上にお弁当箱がふたつ置いてあった。春の柔らかな陽光が彼の金色の髪を輝かせていた。

 俺は陽翔のところに向けて一歩踏み出すことができずにいた。膝がガクガク震えていて、そのまま茂みの影に座り込んでしまった。背筋を伝って冷たい汗が流れ落ちる。

 陽翔は俺を待ちながらずっとスマートフォンをいじっていたが、二十分ほど過ぎた頃、微かに肩を落とし、寂しげな表情で弁当箱の蓋を開けて食べ始めた。いつもの明るい笑顔は消え、寂しさが滲み出ている。どことなく箸を運ぶ手も元気がない。もうひとつの弁当箱の蓋は開けられないまま紙袋の中に片付けられた。

 その姿を見ていると、胸が引き裂かれるように痛かった。

 次の日もその次の日も、陽翔からはお弁当を作ったというメッセージが届いた。それでも俺は中庭に行けなかった。陽翔のことを考えると、苦しくて仕方がなかった。会いたいのに会えない。会えないのに会いたい。矛盾した思いが心をかき乱す。

 午後の授業が始まる前、芽衣がこそっと耳元でつぶやいた。

「最近、陽翔さん、元気ないよ」

 ――全部、俺のせいだ……。

 俺は胸が苦しくなり、胸元をギュッと握りしめた。シャツの布地が握りしめられ、しわが寄る。心が自分自身を責め立てる。


 図書館の窓際の席は、午後の光がやわらかく差し込んで、春のくすんだ日差しに包まれていた。昼下がりの陽の光が床に長い四角形の明るさを作り出している。誰にも見つからずにそっと過ごせるこの場所が、俺のお気に入りの場所だ。

 スケッチブックを広げて鉛筆を走らせる。無意識に書いていたのは、あの横顔。鉛筆の先が紙の上をなぞるたび、その線はどんどん彼の輪郭に近づいていく。

 目鼻立ちがはっきりした、まるでモデルのような顔立ち。そこに描かれた笑顔はこの上なく眩しいほどだった。自分でも、誰を書いているのかは、言うまでもなかった。

「すごい、うまいね。絵を描くのが好きなんだ」

 不意に背後から声をかけられ、体が跳ねた。思わず両手でスケッチブックを覆う。ゆっくり振り向くと、そこにはインディーズバンド"BLUE MOON"のメンバー、藤堂晴臣(とうどうはるおみ)が立っていた。

 黒い春用のニットに白いシャツを合わせた出立ちは、どこか洗練されている。整った顔立ちは誰もが目を引くほどの美形なのに、そこに張り付いている笑顔が、なぜか "作りもの"のように見えた。

「……藤堂さん……?」

 絵を描いているところを見られたことに驚き、返事が少し遅れた。

 晴臣はゆっくり隣の席に腰をかけると、机に肘をついて俺の方を向いた。

「ごめんね。覗くつもりはなかったんだけど、すごい真剣に描いていたからしばらく後ろから見させてもらってたんだ」

 晴臣の声は低く落ち着いたものだった。陽翔のように明るく眩しい感じとは正反対に、なんとなく棘のあるような、冷たい風に包まれたようだ。その声質は魅力的なはずなのに、どこか警戒感を抱かせる。

「その絵さぁ、陽翔だよね? どうなの、最近。陽翔と……」

 思わぬ名前を聞かされて、肩がビクッと震えた。頬が熱くなるのを感じる。

「どう……って。別に……何も」

 晴臣は俺から何かを見透かそうと、じっと見つめてくる。表面上は穏やかな表情だが、その瞳の奥には何か冷たいものが潜んでいるように感じた。俺はすぐに目を逸らしたが、軽く握った手が小刻みに震えていた。

「ふーん。ちょっと気になるだけ。アイツ、最近、誰かのことを話す時だけ、表情が明るくなるからさ」

 さらりとそう言って、晴臣はずいっと俺の方に顔を寄せた。

 その顔は笑っているが、目はどこか冷たい水の底のような冷徹さを湛えていた。わずかに漂う香水の香りが、さらに彼の存在感を際立たせる。

「……そう……なんですか……」

 俺はゴクリと唾を飲み込んだ。誰かってもしかして、俺のことだろうか……。背筋に冷たいものを感じた。

「でもね、綾瀬くん。前も言ったと思うけど、アイツさ、熱しやすく冷めやすいんだよね。昔からそうでさ。自分が『好きだ』って思ったら一直線だし。でも、その熱が持続するかどうかは別なんだよ」

「……はい」

 晴臣は俺から目線を外して、窓の外に向けた。窓の外からは学生の楽しげな話し声が聞こえている。春の陽気に、みんな心浮き立っているようだった。

「期待しない方がいいって言ったのは嘘じゃない。でも、アイツに振り回されるのは、結構疲れるよ」

「そう……ですか」

 その言葉は嘘ではないと感じた。俺自身も先日の陽翔からの告白で気持ちがぐちゃぐちゃだからだ。しかし、それは陽翔のせいではない。俺自身の心が弱いからであって、誰のせいでもないのだ。

 それでも、陽翔から直接聞いた言葉と晴臣の言っていることは食い違っている。晴臣は陽翔のことをきちんと理解していないように感じでしまう自分がいた。それは、陽翔自身から直接「自分から本気で好きになったことはない」という言葉を聞いたからだ。晴臣の言葉は俺を陽翔から遠ざけようとしているようにも聞こえた。

「君みたいな子には……陽翔は、アイツの気持ちは、きっと重いと思うよ」

 そう告げた晴臣の横顔は少し寂しそうに見えた。言葉とは裏腹に、何か本音が隠されているようだった。

 二人の間に、重い空気が流れた。それを打ち破ったのは芽衣だった。

「うわっ! なんなのよ、この重たい空気。二人の後ろに黒いモヤが見えるの、気のせい?」

 静寂を打ち破る明るい声に、俺と晴臣は同時にそちらに目を向けた。芽衣はいつの間にか図書館に入ってきて、肩に掛けたカバンを揺らしながら近づいてきた。

「あれ? 芽衣ちゃんじゃん。久しぶり」

「やっほー、晴臣さん、久しぶりー。なになに? また優男営業でもしてんの?」

 芽衣は俺の向かいの席に座わるなり、手にしていたペットボトルのミネラルウォーターを机の上にトンと置いた。その音が図書館の静けさの中で妙に響く。

 一見、軽口を言っているように見えるが、芽衣の目は笑っておらず、本気だった。その視線には明確な警戒心が宿っている。

 晴臣は肩をすくめて言った。

「営業じゃないよ。ちょっと綾瀬くんと話してただけ」

「へぇー。珍しいね。晴臣さんが陽翔さん以外と話をするのって。そもそも、いつ、叶翔と知り合ったの?」

 芽衣の顔は笑っているが、目は全く笑っていない。俺の目には晴臣を牽制しているように見えた。芽衣の指先がペットボトルを軽く叩く音が、緊張感を際立たせる。

「陽翔が綾瀬くんのことをよく話していたからね。だから、ちょっと興味あって話しかけてみたんだよ」

「で、陽翔さんの話をしてたわけ?」

 芽衣は冷たい笑顔を晴臣に向けていた。それを難なく交わし、晴臣が言った。

「……俺が、アイツの話したらダメ?」

「いえいえ、興味深いなって思っただけで。だって晴臣さんいつも『アイツは子供っぽくて面倒』って言ってたじゃん」

 晴臣が声を抑えながら、喉をククッと鳴らして笑った。その笑いには、どこか冷ややかなものが混じっていた。

「確かに俺、そんなこと言ったね。今も、そう思ってるけど」

 淡々と答える晴臣に対し、芽衣は肩を揺らして笑った。ただ、その笑顔には鋭さが隠されていた。

「やっぱ、陽翔さんって、ちょっとバカなんですよ。あー、もう、顔はイケメン王子様なのに、中身はバカ犬。感情だけで突き進むタイプ」

「……バカ犬って……」

 思わず口からこぼれた俺の言葉に、芽衣は俺の方を振り返ってニヤリと笑った。確かに、陽翔は一直線に向かってくる犬のようだ。好きな人の前で尻尾を振るような無邪気さもある。俺もふふっと笑ってしまった。

「でもね、そのバカ犬が、叶翔のこと好きすぎて、尻尾がちぎれんばかりに振ってるの、わかってる?」

「そんな……」

「綾瀬くん!」

 俺が芽衣に口を開いたのと同時に、晴臣が俺の言葉に被せるように割り込んできた。

 静かなトーンだが、その言葉は冷たさと同時に重さも加わっていた。晴臣の表情が一瞬引き締まるのが見えた。

「正直、陽翔のこと、どう思ってるの?」

「……っ! 俺はっ……!」

 晴臣は目を細めて俺を見つめた。その眼差しはまるで氷のように冷たかった。まるで俺の心の奥底まで見透かされているような気がして、言葉が詰まった。

「いや、答えなくていいから。でも、考えてみて。もしかしたら、陽翔の『好き』は君が思っているよりも、軽いかもしれないし。逆に重いかもしれない。それにさっき言った『熱しやすく冷めやすい』ことも本当だから」

 芽衣はそれを聞いて眉を寄せた。目を細めて晴臣に向けて冷たい声で言った。

「晴臣さん、それ、脅し?」

「ははっ。違うよ。『忠告』かな」

「ふーん」

 芽衣はペットボトルの蓋を開けてゴクリと一口水を飲み、くるりと席を立った。彼女の動きからは怒りが感じられた。

「それって、晴臣さんがそう思っているだけじゃないの? でも、あたしは知ってるけどね。陽翔さんが誰にでもそうじゃないって。それに、陽翔さんの本心は、陽翔さんしか知らないと思うよ」

 芽衣はそう言い残して、スタスタと図書館の出口へと歩いて行った。俺はその背中をただ見つめるしかできなかった。

 そう言えばこの前、芽衣は陽翔と何やら話していたのを思い出す。その時に、俺のことを話したのだろうか?

 芽衣の靴音がやけに耳に残った。その音は次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 残された俺は、視線を落としたまま、何も言えなかった。スケッチブックの上で指先が小刻みに震えている。

 芽衣の言葉も、晴臣の声も、心の中でまるで温度の違う水のようにぐるぐると渦を巻いている。温かいものと冷たいものが混ざり合い、判断を鈍らせる。

 陽翔の俺に向けた"好き"という言葉は――。

 初めて人を好きになったと言った。本当に熱しやすく冷めやすいのなら、このまま距離を置いた方がいいのか?

 だが俺の中で陽翔の存在は日に日に大きくなっていく。思い出すたびに胸が熱くなる。彼の笑顔、声、仕草……全てが鮮明に思い浮かぶ。

 答えが分からなくて、胸の奥がひどく苦しかった。


 陽翔を避けてしばらく経った日の放課後。スケッチする場所を求めて大学内をうろうろしていると、ベンチに座っている陽翔を見かけた。

 陽翔は一人、空を見上げていた。その表情はいつも俺に向けている熱っぽいものでもなく、みんなの前で振り撒いている明るい表情でもない。何かを考え込んでいるような顔だった。

 俺は陽翔のその姿に見入ってしまった。真剣だが、どこか悲しげな表情は、今まで見たことない。明るい陽翔には不似合いな憂いを帯びた横顔。それをさせているのは、もしかしたら俺なのかもしれないと思うと、胸の奥がズキズキと痛んだ。

 ふと、先日、晴臣からかけられた言葉を思い出す。

『正直、陽翔のこと、どう思ってるの?』

 ――俺は……。

 ベンチに座っている陽翔を見ているだけで、鼓動が激しくなるのが分かった。これは、もう、自分の気持ちに正直になるしかない。心臓が胸の中でドクドクと脈打つ。

 ――やっぱり、陽翔さんが、好きだ。

 胸の痛みを和らげたくて、胸元をギュッと掴んだ。シャツの布地が握りしめられる。

 陽翔が本気で人を好きになったのが初めてだと言ってくれた。俺自身も、こんな気持ちになるのは初めてだ。ただの憧れでも一時的な感情でもなく、誰かを深く思う――この感覚が、本当の「好き」なんだと分かる。

『俺も、陽翔さんのことが好きだ』

 言いたい。

 だけど、その度に過去のトラウマが頭をよぎる。再び、拒絶されたことを考えると、怖い。手が小刻みに震えている。恐怖が足を縛り付ける。

「昔は、こんなにヘタレじゃなかったのにな……」

 俺は苦笑いした。

 どんなに想っていても、それを伝えないと相手には届かない。沈黙は何も解決しない。

 そんなことを考えている時、陽翔がこちらを見た。俺は慌てて陽翔に背を向けた。少しひんやりした風が俺の頬をかすめた。

 こっちを見ないでほしい。でも……、見て欲しかった。俺もずっと見ていたい。そんな風に思ってしまうなんて、……俺はやっぱりおかしい。

 目を逸らしたのは、信じるのが怖かったからだ。それなのに、ずっと見ていたいし、見られたいと思うなんて……。

 陽翔のまっすぐな瞳がいつまでも忘れられなかった。陽の光を浴びて輝く、琥珀色の瞳。その中に映る自分の姿を、いつか真正面から見つめられる日が来るのだろうか。