芽衣へ俺の過去やゲイであることを打ち明けてから、不思議と彼女とは親しくなっていた。常に一緒にいると、一見すれば恋人同士に見えるかもしれない。だが、ゲイとレズという同性を好む二人が恋人になることはありえない。

 こうして自分のことを受け入れてくれる人がいるという安心感からか、芽衣といる時は声を詰まらせることなく話せるし、笑顔も自然に浮かぶ。目を合わせることを恐れてうつむく必要もない。

「そういやさ、あれから陽翔さんとはどう?」

 ゴホッ!

 唐突な問いに、思わず飲んでた水を吹き出しそうになった。

「な、なんだよ、急に……」

 咳き込みながらジロリと芽衣を睨みつけた。視線が合うと、彼女はニヤリと意味ありげな笑みを浮かべる。

「だってぇー、この前、陽翔さんと一緒にお弁当食べてたじゃんっ!」

 芽衣は身を乗り出すようにして俺の顔を覗き込んできた。その目は好奇心に満ちている。

「お、おまっ! 見てたのかよ?」

 確かあの時、周りには誰もいなかったはずなのに……。

 唐揚げを食べさせてもらったことを思い出し、頬が熱くなるのを感じた。少し前までは考えられなかった距離感だ。

「二人で仲良く肩を並べて座ってたでしょ? 叶翔、すっごく嬉しそうな顔してたから、こっそり覗き見しちゃった」

 ぺろっと舌を出してウインクする芽衣は、まるで悪いことなど何一つしていないといった表情だ。

「それにさぁー。推し二人が仲良くしているのは嬉しいものだよ?」

 ん? 以前、芽衣は陽翔のバンドが好きでこの大学に入ったと言っていた。推し二人とは? もう一人は俺?

「推しって、陽翔さんのことだろ?」

「あたしは叶翔も推してるんだよ」

「へ?」

 何を言っているんだと思っていたが、芽衣はスマートフォンを取り出し、画面をスクロールさせた。

「ほら、これ。叶翔の創作垢でしょ?」

 うぐっ!

 目の前に差し出されたのは、誰にも明かしていない俺のイラスト創作アカウント。そういえば、芽衣には何度か下書きを見られていた。彼女の観察力は本当に鋭い。

 しかし、芽衣は俺を否定したりからかったりする人間ではない。そのアカウントが俺のものだと認めてもいいかもしれない。

「よ、よくわかったね。でも、誰にも言わないで! お願いっ!」

 パンっと両手を合わせて懇願すると、芽衣は不思議そうな表情を浮かべた。

「えー? なんでよ? 別にいいじゃん。素敵なイラストだし」

「で、でも……。高校の時みたいに、実名晒されたりするのイヤだから……」

 過去のゲイバレでのSNS晒しが、俺の心を深く傷つけた。誹謗中傷の嵐に耐えられず、人と目を合わせることすら怖くなった。

「……あ。そっか。ごめん……なんか……」

 いつも明るい芽衣が目を伏せて寂しげな表情を浮かべた。その様子を見て、ちょっとだけ罪悪感が芽生えた。

「でもね。あたし、このイラストにすごく励まされたんだよ」

 芽衣の声は柔らかく、少し震えていた。

「自分がレズで周りと違うって悩んでた時、イラストが『自分らしくいていいんだよ』って励ましてくれたの。まるであたしに微笑みかけてるみたいに……」

 そうか。自分がゲイで「キモい」と言われ、悩み苦しんだ経験。それでも自分らしくありたいと願い、それを表現したくて描いた絵だった。自分で自分を励ましていたつもりが、同じ思いを抱える誰かの心に届いていたんだ。

「そんな風に思ってもらえて……、俺、うれしい。実際、そう思いながら描いてたから」

 にっこりと微笑みながら芽衣の背中を優しく撫でると、彼女は顔を上げ、嬉しそうに言った。

「ほら! やっぱり叶翔は笑顔が素敵だって。美人だわー」

 キャハハと楽しげに笑いながら俺の顔を覗き込んでくるものだから、思わず口元を手で覆った。

「も、もう、見るなよ……」

 あはは、と芽衣の明るい笑い声が春の陽だまりのように周囲に広がった。俺も「やめろよ」と言いながら、くすくすと笑みをこぼした。

「叶翔くん?」

 二人で笑い合っていると、突然声をかけられてビクッと肩を震わせた。振り返ると、そこには陽翔が立っていた。いつも輝くような表情なのに、今日は少し曇っている。

「え? 陽翔さん……?」

 陽翔は眉を下げ、どこか寂しげな表情を浮かべていた。それを見た芽衣がスッと立ち上がる。

「あ、そういやあたし、昼ごはん買いに行かなきゃだった。じゃあね、叶翔!」

「ちょ、ちょっ、芽衣!」

 芽衣は手をひらひらと振って、俊敏な身のこなしでその場を後にした。


 芽衣が立ち去った後、陽翔は俺の隣にストンと腰掛けた。相変わらず肩が触れるほど近い。横にずれようものなら、追いかけるようにずれてくるだろうから、そのまま動かなかった。

(でも、こんなに近くにいるの、イヤじゃないんだよな……。逆に、嬉しい……)

 そう考えている自分に驚いて軽く頭を振った。

 いやいやいや、何が嬉しいだなんて思ってるんだ、俺っ!

 だって、きっと陽翔には他にいい人がいるだろうから……。

 そう考えると、胸がキュッと締め付けられるような感覚に襲われた。

「……あのさ……」

 いつもより明らかに低いトーンの陽翔の声が耳に届き、俺はハッと我に返った。

「な、なんですか?」

「さっきの子……、彼女?」

「へ?」

 驚きのあまり、思わず陽翔を見上げてしまった。彼は俯いて視線を落としていた。長いまつげが頬に優美な影を落としている。

 ――さっきの子って芽衣のことだよな?

「すごく、親密そうに見えたから……」

 陽翔の声は心なしか震えているように聞こえた。手の甲に血管が浮き出るほど拳を強く握り締めている。いつもの明るい陽翔とは別人のように見えた。

「宮下さん……芽衣は、俺の彼女じゃないです! 学部が一緒で同じ授業が多いから仲良くなって……。それに――」

 ――俺はゲイなんで。

 思わず口から出かけた言葉を慌てて飲み込んだ。喉の奥がカラカラと乾いた。

「……それに?」

 陽翔が続きを促すように首を傾げた。彼の真剣な表情に、心臓が早鐘を打った。

「いえ、なんでもないです……」

 消え入りそうな小さな声で答えると、陽翔の表情が一変した。暗かった顔が、まるで太陽が雲間から顔を出すように、パッと明るくなった。

「そっか。よかったぁ。でも……」

 陽翔はこてんと俺の肩に頭を乗せてきた。

 ちょっ、ちょっとっ!! 心臓に悪いんですけどっ!

 突然の接触に体が硬直する。柔らかな茶色の髪が頬をくすぐり、シャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐった。

「あの子にしてたみたいに、タメ口で笑いながら話しかけて欲しいなぁ……」

「……っ!」

 肩に頭を乗せたまま上目遣いで見つめられて、恥ずかしさに目を逸らした。頬が熱い。耳も熱い。顔中が火照っているのが自分でもわかる。

「わ、わかりました……」

「ほらぁ、もうっ! 敬語じゃん!」

 ぷうっと頬を膨らませて抗議する表情が、不思議と愛らしく感じられた。バンドのボーカルというより、甘えん坊の弟のようだ。

「わ、わかった……」

「うん! じゃあ、一緒にお昼食べよっ!」

 陽翔は機嫌良さそうにガサゴソと紙袋からお弁当箱を二つ取り出した。

「はい、これ、叶翔くんの分。作ってきたよ」

 誇らしげに弁当箱を一つ俺の前に差し出した。割り箸も丁寧に添えられている。

「えっ? もし会えなかったら、ど、どうしたん……の?」

 敬語になりそうなのをタメ口になんとか切り替えた。今までほとんど陽翔へ話しかけたことがないから、自然な言葉遣いが難しい。

「あ、そうだね。ずっと連絡先交換しようと思ってて忘れてた。今、連絡先交換しよ?」

 陽翔はポケットからスマートフォンを取り出した。画面を開いた彼の顔は、どこか嬉しそうに輝いていた。

 連絡先を交換し終えると、陽翔はスマートフォンをギュッと胸に抱き締め小さく「……うれしい」と呟いた。

「え?」

 俺の聞き間違いかと思って聞き返すと、頬を赤らめて、ぱあっと明るい笑顔を俺に向けた。

「やっと叶翔くんの連絡先もらえて、うれしいって言ったの」

 ――なんか、陽翔さん、乙女みたいでかわいい……。

 いや、何思ってるの、俺!

 思ったことをストレートに口にする陽翔といると、どんどん自分の心の扉が開かれていくのがわかる。本当は固く閉ざさないといけないのに、それができない。

 お弁当は相変わらず色とりどりで栄養満点の内容だった。これを朝から作っている陽翔の姿を想像する。エプロンをつけて、鼻歌を歌いながら楽しそうに調理している姿が目に浮かび、思わず顔がほころんだ。

「プリンも作ってきたよ。食べる?」

 食後、スッとプリンを差し出してきた。容器の表面はひんやりと冷たい。保冷剤でしっかり冷やされている。

 スプーンですくって口に含むと、程よい甘さが口の中に広がった。思わず頬が緩む。

「……おいしい……」

「ホント? よかったぁ」

 俺はコクコクと頷いて、ひとくち、またひとくちと口に運んだ。喉を通るプリンの滑らかさと甘さに、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 陽翔は目を細めて微笑みながら、俺が食べるのを見ていた。その視線は愛情に満ちていて、まるで子供を見守る母親のようだった。

 お弁当といい、プリンといい、手間暇かけて作ったのが伝わってくる。

 なんで俺なんかにこんなことしてくれるんだろう?

「嫌いなものとか、苦手なものとかない?」

「俺、好き嫌いないんで……」

「そっか! じゃあ、明日もまたお弁当作ってくるね!」

 ウキウキと楽しそうに言う陽翔に俺は思わず尋ねた。

「なんでそんなことしてくれるの?」

「え?」

 陽翔が一瞬言葉に詰まった。彼の瞳には、少しだけ戸惑いの色が浮かんだ。

「……好きだからだよ?」

 あっけらかんとした言葉で告げられ、俺は息が詰まりそうになった。心臓が胸を突き破りそうなほど激しく鼓動した。


『好きだからだよ』

 この言葉が何度も頭の中で繰り返される。陽翔の言う「好き」とは恋愛感情ではないはずだ。ペットとかに向けられるのと同じような「好き」のはず……。だって、自分から人を好きになったことがないって言ってたから。

 午後からの授業はその言葉が頭の中を駆け巡り、全く身が入らなかった。教授の声も遠くからかすかに聞こえてくるような気がするだけで、ノートを取ることすら忘れていた。

 それにしても、自分の思ったことをさらっと言える陽翔はすごいと感心する。俺は言葉にするのが苦手だし、相手がどのように受け取るのだろうと思うと怖くてなかなか口に出すことができない。

 今日の授業が全て終わり、夕陽に染まる大学の様子をスケッチしようとしたが、なかなか手が動かない。鉛筆を握る指先が震え、頭の中には陽翔の笑顔や言葉が次々と浮かんでくる。

 ――今日は陽翔さんのことで頭がいっぱいで、スケッチどころじゃないな。

 パタンとスケッチブックを閉じて、家に帰ることにした。

 大学の裏門から出た住宅街の一本道を自宅マンションへ向けて歩き出した。入学してからこのルートで帰るのが一番近いと言うことについ最近気づいたのだ。

 この時間は帰宅を急ぐ学生が多く通る。春の夕暮れは、まだ少し風が冷たい。ぶるっと身震いをして家へと急いだ。

「叶翔くん!」

 後ろから声をかけられて振り向くと、そこには陽翔が立っていた。夕陽に照らされた彼の姿は、まるで舞台上のスポットライトを浴びているかのようだった。

「陽翔さん?」

 なんでここにいるのだろう? 陽翔の帰り道はこちらなのだろうか。

「たまたま、見かけたからさ。追いかけてきちゃった」

 屈託のない笑顔を見せられると、思わず胸がキュッと締め付けられる。

「陽翔さんもこっちなの?」

「えーっと……、う……うん。多分?」

 目を泳がせている陽翔を見る限り、きっと違うのだろうな。わざわざ俺を探して来たんだ。その考えに、温かな感情が胸に広がる。まぁ、話に乗っかっておこう。

「一緒に帰る?」

「うんっ!」

 子供のような無邪気な笑顔で頷く陽翔を横目に見て、俺はクスッと笑ってしまった。

「あ、今、笑ったでしょ? 絶対笑った!」

 そう言いながら俺の方を穴が開くほどガン見してくる。あまりにもしつこく見てくるので、恥ずかしくなって目を逸らした。

「あー、もうっ! 今の顔、写真に撮りたかったー! 保存して待ち受けにしたいぐらいだった」

 まったく……。こんなことを平気で言うんだから困ったもんだ。そう言われると、もう笑えないじゃん。

 陽翔といると心がふんわりと柔らかくなる。だから、多分……止められないんだ。自分の気持ちが。本当は止めないといけないと分かっているのに。

 いまだに目を合わせることはできないが、気が緩んでいるのが自分でも分かる。

「陽翔さん、大げさ。写真なんか撮らなくても、明日も一緒に昼ごはん食べるんだろ?」

「だってさー、叶翔くんの笑顔、めちゃくちゃ可愛いんだもん」

 えへへと嬉しそうに飾らない笑顔を向けてくる。こんな子供っぽく笑うこの人が、本当に、あの、人気バンドのボーカルなのだろうかと疑いたくなる。

 そして、毎度毎度、ストレートに自分の気持ちをぶつけてくる陽翔の言葉に思わず閉口した。

「そ、そんなことないよ……。俺なんて……」

 口元に手をやり、俯いた。頬が熱っているのがバレないように話を逸らしてしまおう。

「あ、あのさ……。俺、あんまり音楽には詳しくないんだけど、陽翔さんのバンドってどんな音楽やってるの?」

 ゆっくりとした歩調で歩きながら何気ないそぶりで聞いてみる。俺たちの周りには穏やかな時間が流れているようだった。行き交う人も少なく、夕暮れ時の静けさが二人を包んでいる。

「そうだなぁ。強いて言えばロックになるかな? あ、そんなハードな感じじゃなくて、ポップス寄りというか……」

 顎に手をやってうーんと唸りながら真摯に答えてくれた。その姿はまるで音楽の授業の先生のようだ。

「俺、陽翔さんたちのバンドの曲聴いたことないから、今度演奏しているところを見てみたいな……」

「そっかぁ。最近ライブやってないからな……。直近だと春フェスでライブやるから、必ず観にきて!」

 メジャーデビュー目前という噂だから、きっと観客はものすごい数が来るんだろうな。有名人の横にいる自分を想像して、少し緊張する。

「……うん。観に行く」

 二人で肩を並べて人気のない住宅街を歩いていると、陽翔が急に立ち止まり俺を見つめてきた。

 夕暮れの陽が二人の影を長く伸ばしていた。ゆっくりとした風が吹き抜け、俺の髪の毛をサラサラと揺らした。

「あのさ、叶翔くん……」

 陽翔がゴクリと唾を飲み込んだのが分かった。喉仏が上下に動く。彼の声は少し震えていて、いつもの自信に満ちた様子とは違った。

「俺……、叶翔くんのことが好き……なんだ」

「……っ!」

 陽翔の瞳は真っ直ぐに俺を射抜いていた。俺は目を合わせることができないが、それが本気であることが分かる。瞳の奥に熱い光がゆらゆらとゆらめいているのが感じられた。茶化しているわけでもなく、冗談で言っているのでもなく、本気だった。

 ――何か言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない……。

 頭の中が真っ白になり、喉から声を絞り出すことができない。

「俺、君のこと……ずっと前から気になってた。入学式のあの日から……。叶翔くんの美しい目に釘付けになったんだ」

 そういえば、入学式の時、俺を見て固まっていたのを思い出した。それで、次の日から俺に付き纏っていたのか……。

「でも、今は、好きだって、はっきり言える」

 躊躇いのない告白に胸がギュッと締め付けられる。鼓動が早まり、耳の奥でドクドクと血液が流れる音が聞こえた。

 (ダメだ。こんなこといわれたら、勘違いしたくなる……)

 陽翔の"好き"という言葉は、きっと、間違い……の、はず……。

「叶翔くんが目を逸らすときも、笑わないときも、俺は好きだよ」

 熱い眼差しを向けられて俺の胸は早鐘を打った。足がすくみ、その場から動けなくなる。

 (そ、そんなこと言われたら、信じたくなるじゃないか……。信じたら、ダメなのに……)

 信じたいという気持ちと信じてはいけないという思いが入り混じって、頭の中がパニック状態になった。


「俺、前にも言ったかもしれないけど、本気で恋愛したことなくて……。告白されることはあっても、したことなくて」

 夕日のせいだろうか、陽翔の顔が真っ赤に染まっていた。平静を装っているようだが、声が少し震えている。

「初めて、本気で好きになったのが、叶翔くん……なんだ」

 口元を手で覆い、恥ずかしそうに俯いた。陽翔のこんな姿を見るのは初めてだった。いつもの自信に満ちた態度とは違い、今は不安と期待が入り混じった表情をしている。

 俺はなんと言葉を返せばいいのかが分からず、しばらく沈黙が続いた。だが、それを破ったのは陽翔だった。

「叶翔くん、好きだ。俺と、付き合ってください」

 陽翔はギュッと拳を握っている。関節が白くなるほど強く握りしめ、血管が浮き出ていた。真っ直ぐに俺を見ている瞳は嘘偽りがないことを示していた。

 ――なんて、答えたら……。

 陽翔といる時間は、今まで感じたことないほど、心が暖かくなる。そう、高校一年の時、親友に恋した時と似ている。俺の中に、そのような気持ちが芽生えているのは、感じていた。

 だが陽翔は、ノンケのはずで……。俺に対する好きは、恋愛の"好き"じゃないのではないのかと思ってしまう。

「あ、そっか。叶翔くん、俺が男だから……。やっぱ、嫌だよね……」

 陽翔は目を伏せて、悲しそうな顔をした。今まで見たことのない表情だった。こんな悲しそうな顔、見たくなかった。

「……イヤじゃなくて、俺は……」

 ――ゲイだから。

 その言葉をまたも飲み込んだ。喉の奥が痛いほど乾く。

 過去のトラウマがいまだに俺を苦しめる。俺のことを好きだと言ってくれた陽翔でも、俺がゲイだと知ったら、あの時のように、気持ち悪いって思われるかもしれない。

 (そう思われるのは、嫌だ……)

 俺は俯いて、眉間に皺を寄せた。あの時の悲しさが蘇り、目元が熱くなり涙が出そうになる。胸の奥がギュッと締め付けられる感覚。

 その時、陽翔が一歩近づいて距離を縮め、俺の顔を覗き込んだ。

「叶翔くん、泣いてるの?」

 スッと陽翔の手が俺の頬に触れた。その瞬間に俺の心拍数が一気に上がったのが分かった。陽翔は緊張しているのか、指先が冷たい。しかし、手のひらは不安を拭い去るような温かさが滲み出ていた。

 陽翔の瞳の奥が揺れていた。顎を掴まれて、顔を上に向けられる。親指でするっと頬を優しく撫で、唇の端をなぞられた。その優しい仕草に、体の奥から熱いものが押し寄せてくる。

「キス……していい?」

 キス、したい。でも、嫌だ。ゲイって知られるのが、怖い。なんて答えたら……。

 答えることができずに躊躇していたら、陽翔の顔がゆっくりと近づいてきた。温かい息が頬を撫で、微かな香水の香りが鼻をくすぐった。

 ――俺も陽翔さんのことが好きだ……。でも……。

 吐息が触れ合うほど陽翔の顔が近づき、唇が触れそうになった瞬間、俺は陽翔の胸をトンっと押し返した。小さな力だったが、手が震えていて、目には涙が浮かんでいた。

「……ご、ごめん……。叶翔くんを怖がらせるつもりはなかったんだ……」

 慌てて後ずさる陽翔の表情に後悔の色が浮かび、それを見た俺の頬には大粒の涙が伝った。

「……そんなことされたら……、俺……、また信じて……、また壊れて……っ! 苦しくなるの……もう……無理……」

 陽翔が申し訳なさそうな顔をしていたが、俺の涙は止まらなかった。決して陽翔に対しての涙ではない。過去のトラウマの辛さを思い出して溢れ出た涙だ。だがこのことは、陽翔には分からないだろう。彼の目には、自分に拒絶された傷だけが映っているはずだ。

「やめて……お願い……っ」

 俺はその場から、夕暮れの街に向かって走って立ち去った。背後から「叶翔くん!」と呼ぶ声が聞こえたが、振り返ることはできなかった。


 自宅マンションにどうやって帰ってきたのか、思い出せない。

 スマートフォンが何度も何度も震えていた。陽翔からメッセージが送られてくるが、目を通す余裕がない。きっと「何があったの?」「ごめん」といった内容なのだろう。

 帰ってきてから電気もつけずに、ベッドの上で、膝を抱えて俯いたままだ。頬には何度も涙が伝った跡が残り、目の周りは熱く腫れていた。

 トラウマの恐怖と、陽翔への態度の後悔で何度も頬を濡らした。彼のことを考えると、また涙が溢れた。温かな手のひらと、近づいてきた顔。そして、傷ついた表情。

「……やめて、なんて、本当は……言いたくなかった……」

 俺は怖かっただけだ。陽翔から優しくされることが、真っ直ぐ見られることが。

 ――好きになってしまったら、彼の優しさが、これまでの態度が、全て壊れると思った。

 好きになっちゃダメだと、あれだけ自分に言い聞かせていたのに、でも――。

 もう、とっくに、陽翔のことを好きになってしまっていた。胸の奥で燻っていた感情は、確かな形を持った恋心だった。

「……俺、どうしたら良かったのかな……」

 陽翔から逃げたはずなのに、胸の奥に残ったのは、好きだと言ってくれた時に感じた、温かさだった。それを思い出すと、また涙が溢れた。

 暗闇の中、スマートフォンの画面が再び明るく灯った。震える手で画面を見ると、陽翔からのメッセージが十件以上届いていた。最新のメッセージを開く。

『叶翔くん、大丈夫? 無事に帰った? 心配だから返事だけでも……』

 指先がスマートフォンの画面の上をさまよった。返事をするべきか、このまま無視するべきか。

 高校時代、あんなに傷ついて、もう二度と誰かに心を開かないと誓ったはずなのに。なのに、なぜ陽翔には、こんなにも簡単に心を動かされるのだろう。

 陽翔さんは違う――そう言いたい自分がいる。でも、また裏切られたらと思うと怖くて仕方がない。

 スマートフォンを胸に抱きながら、俺は小さく呟いた。

「陽翔さん……ごめん……」

 窓から差し込む月明かりが、涙で濡れた頬を優しく照らしていた。