昨日、陽翔と芽衣が話しているところを目撃してからというもの、胸のざわめきがおさまらなかった。まるで小さな虫が心臓の周りをうろついているような、落ち着かない感覚。

 ――二人で、俺のこと、なに話してたんだろ。ってか、陽翔さん、なんて答えたんだろ?

 一瞬聞こえてきた、芽衣の「叶翔のこと本気なんですか?」という陽翔への投げかけは、あまりにも直球すぎて息が詰まる。その答えが、イエスでも胸が痛くなるほど怖いし、ノーであっても……どこか失望してしまう自分がいることに気づいて、もっと怖くなる。

 考えれば考えるほど胸がズキズキと痛み、自分の呼吸が浅くなっていくのがわかった。

 ――いっそのこと、芽衣に俺がゲイで、高校の時のこと話そうかな……。

 この前、俺が少し自分の心を吐露した時、芽衣は全く嫌な顔をしなかった。複雑そうな表情ではあったが、何か察したような、優しい眼差しだった。それを思い出すと、少しだけ呼吸が楽になる。

 そう考えていた矢先、明るい声で名前を呼ばれた。振り返ると、そこには春の陽気のように明るい笑顔で、芽衣が手を振りながらこちらへ向かってやってきていた。

「やっほー、叶翔!」

「……芽衣」

 頑張って笑顔を作ってみるが、自分でも顔がひきつっているのが分かる。頬の筋肉が硬直して、不自然な形になっている感覚。もう何年も心から笑ったことなんてないから、どうやって表情を作ればいいのかさえ忘れてしまっていた。

「何? 次、空きコマ?」

「……うん。芽衣も?」

「うん! 予定ないなら、ちょっとしゃべらない?」

 近くのベンチに二人で並んで腰掛けた。春の日差しが暖かく二人を包んでくれて心地よい。頬に感じる陽の温もりが、少しだけ緊張をほぐしてくれる。

 まずは、この前、少しキツく言ってしまったことを謝ろう……。

「この前は、ごめん」

「え? 何が?」

「……えっと……、友達とか恋人とか……期待したくないとか……ちょっと強く言ってしまったなって」

 言葉につまりながら、視線を足元に落とす。こんな風に人に謝るのも久しぶりで、何を言えばいいのかわからなかった。

 芽衣はケラケラと明るく笑った。風鈴のように澄んだ、心地よい笑い声。

「なーんだ。そんなこと? 全然気にしてないよ?」

 あっけらかんとそんなことを言われて、俺はほっとした。本当に芽衣はサバサバしていてあまり物事を気にしないタイプなのだろう。そういう人は、俺みたいな複雑な人間と違って、生きやすいのかもしれない。

 そこで、俺は覚悟を決めて、過去の話を芽衣に伝えることにした。喉が乾いて、言葉を発する前に一度唾を飲み込む。

「ちょっと、話聞いてもらいたいんだけどいいかな?」

 芽衣は、「もちろん」と言って笑顔で俺が話し出すのを待った。その笑顔に背中を押されて、言葉が少しずつ出てくる。

 やはり、過去のトラウマの話をするのは、思い出すだけでも心が痛い。胸の奥にぎゅっと閉じ込めていた記憶が、鋭い刃物のように内側から突き刺さる。

「……俺、ゲイなんだ……。高校の時、ゲイバレして、SNSで名前晒されてすごく嫌な思いしたことがあるんだよね……」

 その時のことを詰まりながらも、ゆっくり話をしていった。言葉にしていくうちに、胸に詰まっていた何かが少しずつ溶けていくような感覚。芽衣は何も言わず、ずっと俺の話を聞いてくれていた。時折、理解を示すようにうなずいてくれる姿に、少しだけ心が軽くなっていくのを感じた。

 話が終わると、芽衣の表情が優しく柔らかくなり、俺の頭をポンポンと撫でて言った。

「ありがとう。こんな辛い話、あたしに言ってくれて。苦しかったよね……」

 その言葉に、俺は目頭が熱くなった。まるで長い間閉じ込めていた感情の蓋が、少しだけ開いたような感覚。初めてだ。俺の思っていたことを他人に伝えて、理解してもらえたことなんて。

「叶翔の気持ち、よく分かるよ。だってあたしもレズだし」

「ええっ! そうなの?」

 大学に入って一番大きな声を出したかもしれない。周りからじろりと見られて、すぐに俯いた。背中が熱くなるのを感じながら、小さな声で続けた。

「芽衣も……、なんだ」

「ほら、女の子同士って手を恋人繋ぎとかしてても、『仲いいんだな』って見られるだけだから意外とバレないんだよね」

 そう言って、少し寂しそうに微笑む芽衣の横顔を見た。そう言えば、こんなに明るい性格なのに、他の誰かとつるんでいるのを見たことがない。いつも一人で過ごしているのは、もしかしたら自分と同じ理由なのかもしれない。

「叶翔を見た時、なんとなく、同じ匂いがしたんだ。だから話しかけたって言うのもあるし――」

 ニヤリと笑いながらじっと俺を見つめた。その目は好奇心と楽しさで輝いていた。

「あたし、腐女子でもあるんだよねー」

「ふ、腐女子?」

 ――なんだそれ?

 不思議そうな顔をしていたのがバレたのか、芽衣がふふっと笑いながら説明した。彼女の笑顔にはいつも人を安心させる魔法がある。

「腐女子ってね、男性同士の恋愛の創作物が好きな人のこと。それでねー、ついつい BL転換しちゃうクセがあってね、それで――」

 イケメンカプとか尊いし? 心を開かないウケが明るいセメから絆されていくのを見るのが楽しいし?

 へへっと笑いながら楽しそうに話しているのだが、俺には何が何だかさっぱり……。まるで、外国語を話されている気分になり、目が点になった。もしかして、俺は彼女からいろいろと妄想されているのか? その考えに、頬が熱くなる。

「だからね、叶翔と陽翔さんのこと応援したいの」

 芽衣が言った言葉に、心臓が一拍飛んだ。

「お、応援って……。陽翔さんと俺は別に……」

 そうだ。彼は別に俺のことなんて、一時的に興味を持っただけで……。どうせ飽きるんだから。長い黒髪で目元を隠しながら、そう自分に言い聞かせる。

 そう思うと、胸が痛くなって俯いた。自分でもわからない感情の混乱に、息をするのが辛くなる。

「ま、とにかく、あたしは叶翔の味方ってことっ! それだけは覚えといて!」

 まるで犬を扱うみたいに頭をがしがしと撫でられた。その仕草が妙に心地よくて、ほんの少しだけ笑みがこぼれる。

 ありがたい。俺の性癖を知っても嫌悪を抱くことなく、味方となってくれる人が現れてくれて。まさか大学に入って俺のことを認めてくれる友人ができるなんて思ってもみなかった。一人だと思っていた世界に、小さな光が差したような気がした。


 芽衣のカミングアウトを聞いて、自分以外にも同性を好きな人がいると知れただけでも心が軽くなった。この大学の中に、自分と同じような人がいるということが、どれだけ大きな支えになるか。

 その日はチューリップが美しく咲き誇っている花壇近くのベンチに腰掛けて、昼食を食べようとパンをバッグから取り出した。パンのほんのりとした甘い香りが鼻をくすぐる。

 花壇の上にはミモザが黄色い花をゆらゆらと揺らしている。まるで春の風に踊るように、柔らかな黄金の花びらが光の中で輝いていた。パンを齧りながら花を眺めていると、次は花のイラストでも描こうとアイデアが湧いてくる。色とりどりの花々を紙の上に再現したくなり、パンを食べたらスケッチをしようと思っていたところに、急に後ろから走って近づく音が聞こえ、声をかけられてビクッとした。

 振り返ると、そこには息を切らせた陽翔が立っていた。額に薄く汗をにじませ、胸を上下させながら、まるで何かに追われるように駆けてきたようだった。

「もうっ! 叶翔くん! 中庭に全然来ないんだもん。探したよ」

 その言葉に、胸がきゅっと締め付けられる。

 ――いやいやいや、俺は陽翔さんを避けてたんだってば……。もう二度と、間違いを犯したくなくて――。

 まっすぐ見つめてくる眼差しが痛くて、俺はスッと目を逸らした。視線を合わせると、吸い込まれそうで怖い。今までの努力が全て無駄になりそうで、怖い。

「お、俺、毎日行くって、言ってない……」

 ボソッと呟くと、陽翔は目を伏せて悲しげな顔をした。長いまつ毛が頬に影を落とす様子が、どこか儚く美しい。

「俺は、毎日中庭に行って、待ってたんだよ……」

 寂しそうな声色と表情に、申し訳なさと同時に、どこか温かいものが胸の奥で広がるのを感じた。陽翔は悲しげな顔をしながらも、当然のように、スッと俺の横に腰を下ろした。

 ――なんか、表情と行動がちぐはぐなんですけど……。

 肩が触れ合いそうなほど近くに座られたので、お尻をうかして少し横にずれる。心臓が早鐘を打ち始め、呼吸が荒くなるのを感じた。すると陽翔も同じく腰をうかしてピッタリと俺にくっつくように座り直した。桜の香りのする柔らかな春風が二人の間を漂う。

 なんだ、この人は……。

 横にずれても逃げられないと観念して、思わずため息が出た。熱いものが体中に広がり、どうしていいかわからない。

「最近は、中庭以外でお昼食べてたの?」

 ――っ! 声、近っ!

 体が触れ合うほどの距離に座ってこちらを向いているからか、耳の近くで陽翔の声が聞こえて、背中がゾクゾクとした。耳たぶから首筋にかけて、電流が走ったような感覚。

 バンドのボーカルだけあって、低音で耳障りのいいイケボだ。その声は、耳に心地よく響き、思わず体が緊張で強張る。

 ――だめだ、だめだ! こんな近くにいたら、また誰かに勘違いされてしまう……。

「でもよかったぁ。会えなかったから毎日叶翔くんのこと探しててさ。やっと見つけることできたっ」

 明るい声で嬉しそうに言うので、また勘違いしそうになる。本当に俺のことを探してくれていたのだろうか。それとも、ただ暇つぶしの対象として見ているだけなのか。そんな疑念と希望が入り混じって、胸が締め付けられる。

 横目で陽翔を見ると、心の底から嬉しそうに目を細めてずっと俺のことを見てる。キラキラした笑顔が眩しい。まるで太陽そのもののような、あたたかな光に満ちた笑顔。

 ――でも、声が楽しそうで、少し、嬉しい。

 陽翔の一時的な気の迷いで、すぐに飽きられると分かっていても、こんな風に楽しそうにしてくれるのはとても嬉しかった。その笑顔の前では、いつもの防御本能が少しずつ溶けていく。

 離れなきゃと思っていても、離れたくないという気持ちが少しずつ頭をもたげてきているのが分かって苦しかった。その矛盾した感情に、心が引き裂かれそうになる。

「ところでさ、一緒にお弁当食べない?」

 陽翔は紙袋を持ち上げて見せてきた。この中にお弁当が入っているらしい。何だか嬉しそうに、誇らしげな表情を浮かべている。

「お、俺、さっきもう……パン、食べ終わって……」

 断る言葉を口にしながらも、どこか後ろ髪を引かれる感覚。本当は、もう少し一緒にいたいような気持ちが、心の何処かにある。

「パン、一つだけでしょ? まだお腹いっぱいじゃなかったら食べるの手伝って!」

 ガサゴソと紙袋から弁当箱を取り出し、テーブルの上に置いた。パカっと蓋を開けると、中には色とりどりの野菜、唐揚げ、おにぎりがぎっしりと詰まっている。栄養バランスも考えられている内容で、見た目も美しい弁当だ。食欲をそそる香りが立ち上り、思わず唾を飲み込んだ。

「今日、張り切りすぎて作りすぎちゃってさ……」

「えっ? これ、陽翔さんが作ったんですか?」

 思わずいつも陽翔に話す時より大きい声が出てしまい、自分でもびっくりした。

 ――こんな丁寧に作られたお弁当を、学校に持ってくるなんて、すごい。

「おっ! 叶翔くん普通に喋れるじゃん」

 少し茶化されて、頬が熱くなるのが分かった。指先で頬に触れると、確かに熱を持っている。

「ごめんごめん、からかったりして。俺、料理するのが趣味なんだよねー。だからお昼も毎日作ってきてるんだ」

 意外だ。てっきり誰かが作ってくれているのかと思っていたから。イメージしていた陽翔像とは異なる一面を知り、どこか胸がほっとした。

「か、彼女さんとかの手作りかと思ってました……。すごく綺麗に作ってあるから」

 思わず口にした言葉に、自分でも驚く。どうして彼女のことなんか聞いたのだろう。

「あはは。彼女なんて今、いないし。それに――」

 陽翔は少し顔を曇らせて言った。いつもの明るい表情が影に隠れ、何かを思い出すように遠くを見る目をした。

「俺、自分から人を好きになったことなくてさぁ。付き合ってくださいって言われるから付き合ってばっかで。そしたら相手のこと好きになるかなって思ってたけど、全然で」

 目を伏せているその顔は悲しそうで、どこか孤独を感じさせた。人気者で、モテる彼にも、こんな悩みがあったのか。何故だか、少し親近感が湧いた。

「だからさ、そんな気持ちで付き合うのは相手に悪いでしょ? だから、別れを切り出すんだけど……。周りからは、熱しやすく冷めやすいとか、すぐ相手のこと飽きるとか言われるんだけどさ」

 それを聞くと、晴臣の言ってた言葉が頭に蘇った。心の奥がきゅっと痛む。

『でも、あいつ。熱しやすく冷めやすいんだよねー。すぐ飽きるんだよ』

 陽翔から本心を聞いたわけじゃないのに、勝手に相手のことを決めつけていることに怒りを覚えた。気づいたら、拳をきつく握っているのが分かった。指先に爪が食い込む痛みを感じても、怒りは収まらない。いくら長くそばにいたって、相手の気持ちを理解しないのはダメだろう。

「は、陽翔さん……」

 何か慰めの言葉や励ましの言葉を言いたかったのに、何も出てこない。俺、どんだけポンコツなんだ! ここ数年、人とまともに会話したことないから、仕方ないっちゃ仕方ないんだけど。心の中に溢れる気持ちを言葉にできない歯がゆさに、唇を噛んだ。

 俯いていた陽翔はパッと顔をあげた時には、また明るい笑顔に戻っていた。まるで雲間から差し込む陽の光のように、その笑顔は輝いていた。

「変な話してごめん。さ、食べよう!」

 はい、と俵形のおにぎりを手渡される。つやつやとした白いご飯が、清潔な手のひらの上で美しく輝いていた。

「あ、ありがとうございます……」

 受け取ろうとすると、陽翔の手先に触れた。暖かく、少し荒い指先。

 ビクッとして、思わず手を引っ込めた。その一瞬の接触で、電流が走ったかのように全身に震えが広がる。

「あ、おにぎり嫌いだった?」

 陽翔は眉を下げて聞いてきた。心配そうな表情で俺を見る目が、妙に胸に刺さる。

「そんなことないです……」

 今度は陽翔の手に触れないように気をつけながらおにぎりを受け取る。真ん中に帯のように海苔が巻かれたおにぎりはご飯がツヤツヤと光っていて美味しそうだ。

 パクッと一口食べると、口の中でほろっとご飯がほぐれる。絶妙な握り加減だ。それに塩気もちょうどいい。海苔の香ばしさと、ほんのりと香る梅の酸味が絶妙なハーモニーを奏でる。

「こんな美味しいおにぎり、初めて食べました……。これも陽翔さんが?」

 素直な感想が口から溢れる。普段なら絶対に言えない言葉が、自然と出てきたことに自分でも驚いた。

「俺が握ったよ! よかったぁ。喜んでくれて。ほら、唐揚げもあるよ。唐揚げ食べれる?」

 陽翔は唐揚げを差し出してくる。その表情はまるで子供のように無邪気で、純粋な喜びに満ちていた。

「あ、ありがとうございます……」

 あーんと食べさせてもらう形で、パクッと唐揚げを頬張る。ジュワッと肉汁が口の中に溢れた。カリッとした衣の中から、ジューシーな鶏肉の旨味が広がる。

 だが、味はあまり感じられなかった。陽翔に食べさせてもらったことと、こうやって人と食事を共にするということに、急に緊張してしまった。手の震えを隠しながら、もう一度唐揚げに噛み付く。

 ――やべっ! つい、あーんってしちゃったじゃんっ! なんか恋人同士みたいで恥ずかしい……。

 そう思うと、一気に顔が熱った。耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。体の芯から熱が湧き上がってくるような感覚。

 それに……。

 こうやって隣に陽翔が座ってて、笑ってくれてて。それだけで胸がいっぱいになった。心の中が、暖かな光で満たされていくような、不思議な感覚だった。


 食事をしながら、陽翔は嬉しくてたまらないと言う表情を隠すことなく、ずっと笑顔を絶やさなかった。そして、バンドのことやら趣味のことやら自分のことを話してくれた。その声は、春の風のように心地よく耳に届く。

「バンドの練習、ほぼ毎日あるんだけど、好きなことだから楽しいんだよね!」

 そう言う陽翔の目は、本当に音楽が好きなんだなと分かるくらい、キラキラと輝いていた。

「小さい頃、ホントはピアノとかやりたかったんだけど、うち、母子家庭でさぁ。できなくて。中学に入ってすぐに吹奏楽部に入ったよ! それが楽しくてさー」

 陽翔は本当に音楽が好きなのだな、と感じた。音楽の話をする時の表情は、まるで恋する人の話をするような、情熱に満ちていた。音楽の話は尽きない。その話を聞きながら、だんだんと心が開いていくような、不思議な感覚を覚えた。

「春フェスで演奏するから、バンドの方は今そっちの練習が中心なんだよね。絶対、聴きにきてね!」

 そう言って、陽翔は期待に満ちた目で俺を見つめた。その目がまっすぐ過ぎて、思わず目が合いそうになる。

 俺は目を合わすことなく、うん、と小さく笑顔を作って頷いた。柔らかく微笑む自分の唇を感じて、自分でも驚いた。

 それを見過ごさなかった陽翔は、嬉しそうに頬杖をついた。その目には温かな光が宿っていた。

「おっ! 今、笑ったっしょ?」

 そ、そんなこと言うなよ! すごく楽しそうに話すなと思っただけだし。

 思わず頬が赤くなって俯いた。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。

「やっぱ叶翔くん、笑顔かわいいじゃん!」

 ――こういうこと、さらっと言える人、すごいな……。

 こんなに明るくて、怖いほど真っ直ぐで。その言葉に、心の奥がきゅんと痛むような、甘い感覚を覚えた。

 俺には無理だ。人を褒めたりするの。今まで人と関わらないようにしていたせいで、気の利いたセリフなんて言えない。言葉の選び方も、声の出し方も、全て不器用で。

 でも、こんなこと言われても全く嫌な気がしないのは、陽翔が言うからだろうか? その笑顔と言葉には、嘘がないから?

 出会った頃なら、逃げ出したいと思ったのに、今はそんな気持ちは一切湧かない。むしろ、もっとこの時間が続けばいいのにと思ってしまう自分がいた。

「そうそう」

 突然、陽翔がゴソゴソとスマートフォンを取り出して何やら操作し始めた。指が画面の上を滑るように動く様子にも、なぜか見惚れてしまう。

「俺、今、お気に入りのSNSアカウントがあるんだよ。イラストをアップしている垢なんだけど、めちゃくちゃ人気垢でさ。あ、あったあった。これ」

 スマートフォンの画面を見せられて、俺は心臓が止まるかと思った。

 そのアカウントは、なんと俺のアカウントだったのだ。小さな画面の中に映る自分の描いた絵を見て、息が詰まる思いがした。

「ほら、フォロワーさんもうすぐ十万人になるぐらい人気なんだよ。絵のタッチがすごく優しくてほっこりするんだよね。色使いも斬新というか、目をひくんだ」

 画面をスクロールしながら、その絵をうっとりとした眼差しで見ている陽翔の横顔に、胸が締め付けられる感覚があった。柔らかな光が差し込む横顔は、まるでイラストの中の人物のように美しく、思わず見とれてしまう。

 ――まさか、陽翔さんが俺のアカウントのフォロワーだったなんて……。

 俺の趣味は絵を描くこと。それに没頭している時が世間から切り離されたようで一番心が休まる。筆を走らせる音と、頭の中に広がるイメージの世界だけが、俺にとっての安息の場所だった。

 最初は誰かに見せたいと思って書いていたわけではなく、たまたまアカウントを作ってアップしたらバズってしまった。世界中の見ず知らずの人から「癒される」「温かい」といったコメントがつき、いつの間にかフォロワーが増えていった。

 創作垢を持っていると言うことは、リアルでは誰にも言っていない。親友もいないので、言う人がいないと言うだけなのだが……。もし知られたら、また高校の時のようになるのではないかという恐怖が常につきまとっていたのが誰にも言わない理由だ。

「この絵師さん、どんな人なのかなー。こんな優しい絵が描ける人だもん、キレイな心の人なんだろうなぁ」

 陽翔のその言葉に、心がひりつくような痛みを感じた。

 ――陽翔さん、ごめん。キレイな心の人じゃなくて、ただの陰キャだよ。

 恥ずかしくて、顔を上げることができなかった。自分が描いた絵をこんな風に目の前で褒められることなんて、今まで一度もなかった。嬉しいような、怖いような、複雑な感情が胸の中でぐるぐると渦巻いていた。


 ほとんど一人で陽翔がおしゃべりしていたお弁当タイムが終わった。陽翔は弁当箱を紙袋に入れたが、なんだか名残惜しそうに静かに俺の方を見ていた。その目には、まだ言いたいことがあるような、何かを求めるような色が宿っていた。

 俺はというと、陽翔が創作垢をフォローしてくれていたのが少し嬉しかった。直接会ったこともないのに、こんな風に自分の作品を気に入ってくれていたなんて。だが、これが俺のアカウントだと言うことはバレないようにしたい。バレてしまうと、高校の時のようにSNSで実名で晒されることになるかもしれないから。絶対にそれだけは避けたい。

 SNSの拡散力は半端ない。一度晒されると、周りの人から絶対変な目で見られるに決まってる。

 陰キャなのにこんなことして……ってバカにされる未来が見える。それだけは絶対に避けたかった。

 そんなことを考えながらふと顔を上げると、陽翔と視線がぶつかりそうになり、反射的に目を逸らした。心臓が大きく跳ねる感覚があった。

 ――危ない……。油断してた。

 しかし、一瞬ぶつかりかけたその視線は、とても優しい眼差しだった。宝石のように澄んだ瞳の奥に、陽翔のそれは、日に日に熱を帯びているようにも感じた。

 出会った時は、見ないで欲しいと思っていた。ほっといて欲しいと思っていた。その視線が怖くて仕方なかった。

 でも……。今、見てくれたことが嬉しいと思ってしまった。そんな風に思っちゃダメなのに――。

 胸がどくんと鳴った。誰かの目を見て、こんな風にドキドキしたのは初めてだった。

 多分、これは錯覚じゃない。何かが確実に、俺の中で変わり始めている。

(これは、まずい。これは……危ない……)

 目を逸らしても、陽翔の視線の残像が瞼の裏にしっかりと刻まれていた。あの澄んだ瞳と、優しい微笑みが、頭から離れない。

 ただ一緒にご飯を食べただけ。ただそれだけなのに……。

 どうしてこんなに、心がざわつくんだろう――。