高校一年生のときのことを思い出すだけで、今も胸がきしむように痛む。

 淡い期待を抱いて入学したあの高校での生活は、初めこそ順調だった。クラスにもうまく溶け込み、特にクラスの中心的存在だった彼と親しくなるのに、それほど時間はかからなかった。

 行きも帰りも一緒で、休み時間にはたわいない会話を繰り返し、昼食を並んで食べる。体育祭を経てさらに距離が縮まり、その関係は周りから見ても「仲の良い親友」と言えるものだった。いつの間にか彼の笑顔が、自分の中で特別な意味を帯びるようになっていた。

 俺が男を好きだと自覚したのは、中学の頃。

 同級生数人でエロ動画を見ていたときのことだ。友人たちは映像に映る豊満な女性の身体に興奮していたが、俺の視線は真逆の場所へ向かっていた。

 引き締まった体躯や厚い胸板、割れた腹筋、男らしさを象徴する無骨な指先。それらに不可解なほど惹かれ、「こんなふうに抱かれてみたい」とさえ思ってしまった――その瞬間、自分が「男を好きになる」という事実をはっきりと知ったのだ。

 高校に入り、彼と過ごすうちに高鳴っていく気持ちを抑えられなくなったのは、一年の三学期頃だった。親友として当たり前に接している日常が、恋心の芽をひそやかに育てていったのだろう。いつしか“好き”という言葉が喉の奥までこみ上げ、とうとう告白せずにはいられなくなった。

 決心を固め、部活終わりの夕方に呼び出した彼を待つ教室は、冬の夕暮れが早くに落ちていて、蛍光灯の冷たい光が教室の隅々を浮かび上がらせていた。廊下から聞こえる遠い笑い声とは対照的に、二人きりの教室は張りつめた静寂に包まれていた。

「……好き、なんだ。お前のことが……」

 声が震え、心臓も壊れそうなほど鳴っていた。けれど、その言葉がどういう結末を招くのかは、まるで想像できなかった。

 彼は目を見開き、言葉もなく硬直していた。驚きと戸惑いがない交ぜになった表情。その奥に見えたのは“嫌悪”だった。徐々に顔色が青くなり、吐き気を催したように唇を歪めると、何も言わないまま走り去っていった。

 俺は机に突っ伏してそのまましばらく動けなかった。

 次の朝――いつも一緒に登校していたはずの彼から「先に行く」とだけ連絡がきた。胸に嫌な予感を覚えながら教室に入ると、机の中には一通の手紙が入れられていた。

 そこには下品な罵倒と、ゲイを揶揄するような言葉が並んでいた。告白を目撃していた誰かが、面白半分でこんな手紙を仕込んだのか。それとも、もう彼本人が誰かに“相談”してしまったのか――。思考は混乱を極め、心臓がどんどん冷たく固まっていくのがわかった。

 翌日からは、SNSで俺の実名が晒され、「ゲイ」「キモい」という書き込みがタイムラインを埋め尽くす。クラスメイトだけでなく学年全体、そしていつの間にか学外にまで広がったその侮蔑と中傷の嵐は、俺に生きている心地を奪った。

 ――好きになったのはただの“人”であって、性別が男だったというだけなのに……。

 しかし世間は、それを“気持ち悪い”と糾弾する。

 朝が来るたびに恐怖で吐き気を催し、学校へ行けなくなった。結局、心を壊す寸前になり、転校を余儀なくされることになった。

 そして、新しい学校では、もう誰とも深く関わりたくないと思った。SNSを見られたらまた同じことが繰り返されるかもしれない――そう思うと、すべてが怖かった。

 母は「ゲイでも何でも、あなたは私の大切な子」と言ってくれたが、その言葉を聞いても、俺の傷ついた心はすぐには癒えなかった。自分の身を守るために、誰の目も気にせず生きていきたい。その思いが何より強かったから。

 ――それから俺は、どんな場所でも“目を合わさず、声を出さず、気配を消す”ことに必死で生きてきたのだ。


 大学に進学した今でも、その傷跡は決して消え去ったわけではない。いつものように、始業の十分前に教室へ入り、一番後ろの窓際の席を確保する。もうすっかり、これが“定位置”になってしまった。

 窓から差し込む春の日差しは穏やかで、外の木々には若々しい新緑がきらきらと揺れている。陽射しを浴びて暖まる教室の空気の中で、ふと息をつく。

 ――今日は、陽翔(はると)さんと同じ授業はなかったよな……。

 そう思うと、ほっとするような、なぜか寂しいような、不思議な感情が湧き上がる。自分でもその落差に戸惑い、首を振って打ち消す。

(……俺はあんな人を信じられるわけない。怖くないかもしれないけれど、信用しすぎるなんて絶対にだめだ……)

 胸の奥をざわつかせる思いを閉じ込め、ノートの端にラフスケッチを描き始める。この時間こそが俺にとっての逃避であり、心の拠り所だ。ペン先が滑り始めると、周囲の雑音から切り離されたような集中力が得られる。

 しかし、その平穏は突然、明るい声で破られた。

「やっほー、叶翔(かなと)くん! おはよー!」

 頭上から降ってきた声に顔を上げると、そこには宮下芽衣(みやしためい)が立っていた。先日から何度か声をかけてくれる。

 俺は慌ててペンを止め、かろうじて小さな声で返事をする。

「……お、おはよう……」

 芽衣は笑顔のまま隣の席を当たり前のように確保すると、ちらりと俺のノートを覗き込む。

「昨日も思ったんだけど、ほんとにイラスト上手だね。すっごく引き込まれちゃう」

 ぎくっ……と胸が強張る。もしこの絵を芽衣が特定してしまったら――あの嫌な思い出がふと脳裏をかすめる。

 しかし、芽衣は怪訝そうな目で見つめるわけでもなく、ただ純粋に興味を持っているように見えた。それでも俺は、スケッチブックをそっと閉じ、身を縮こまらせるようにノートの上に手を置く。

「み、宮下さん……」

「もう、芽衣でいいよ。あたしも“叶翔”って呼びたいし、呼び捨てで気軽に話そ」

 彼女はまったく悪意を感じさせない瞳で、言葉を続ける。彼女はサバサバした性格だが押しつけがましくなく、人と関わるのが本当に上手いのだろう。下手に自分を大きく見せようともせず、かと言って妙な距離を取ろうともしない。俺のような陰キャだって構わず会話してくれるのはありがたいが、警戒心が残るのも事実だった。

「……じゃ、じゃあ……芽衣、って呼ぶ……」

 正直、女の子を名前で呼ぶなんて、生まれて初めての経験かもしれない。俺がそう答えると、芽衣は大げさに顔を輝かせ、声を弾ませた。

「わーい! やっぱ名前で呼ばれるのって嬉しいよね。よろしくね、叶翔!」

 そのあまりの人懐っこさに、思わずくすぐったいような気持ちになる。大学生になったばかりだというのに、こんなふうに新しい“友達”ができるなんて、想像もしていなかった。ほんの数日前までは、大学では誰とも関わらずに過ごすつもりだったのに……。

 芽衣は少しだけ目線を落とし、何か含むように口を開く。

「そういえばさ……陽翔さんのこと、どう思ってる?」

「……え?」

 予想外の直球に息が詰まる。まさか、こちらから切り出されるより先に、相手の方からその話題を振られるとは。

 芽衣は真剣な表情で、俺の目を覗き込むようにして続けた。

「実はね、あたし、昨日からずっと見てたんだけど……やっぱり陽翔さん、叶翔にだけ特別な感じがするんだよね。目の色が違うっていうかさ」

 どくん、と心臓が大きく跳ねる。

 ――本当に、俺を特別扱いしている? そんなのあり得ない……。

 あの日、陽翔が「一緒にランチしよう」と言ってきたときの笑顔を思い出す。確かにあの笑顔は“無差別”とは思えないほど真っ直ぐで、俺に向けられているという実感があった。だけどそれを認めてしまうのが、どこか怖い。

「一途なイケメンって、案外レアだよ? だからちょっと応援したいんだよねー、あたし。……まあ、これはあくまで推測だけどさ」

「……そんなの、やめて……」

 思わず強い口調で遮ってしまう。芽衣は驚いたように目を瞬いた。

「……ごめん……。ただ、俺は……人から好かれるとか、そういうの……向いてない。期待なんかしたくない……」

 言葉を吐き出しながら、胸がきしりと痛む。彼女に悪気はないとわかっているのに、感情が暴れそうになる。

 過去の苦い記憶がフラッシュバックし、喉の奥が塞がるような感覚に襲われる。

「……期待するのが……いちばん怖いんだ……」

 声が少し震えてしまったのを自分でも感じる。芽衣は一瞬困惑したように黙り込み、けれど目をそらさず、まっすぐ俺を見ていた。彼女の瞳には複雑な思いが混じり合っているように見える。

 だが、まだ出会って二日目の相手に、これ以上の深い事情を話すわけにもいかない。それに、どんなに優しい言葉をかけられても、俺にはどうにもできない“過去”がある。

「……友達とか、恋人とか……俺には、無理なんだ……」

 そう呟いた最後の方は声にならないほど弱々しくなっていたが、芽衣は黙って聞いてくれた。結局、何も言わないまま講義が始まり、その日の会話は自然と途切れてしまった。


 夕方、講義がすべて終わると、俺はキャンパスの片隅でスケッチブックを広げた。夕日に照らされた学舎がオレンジ色に染まり、春の名残の風が頬を撫でていく。

 ――やっぱり絵を描くときだけは安心できる……。

 気づけば夢中になってしまい、ラフから線画にまで手を進めていた。そうしているうちに太陽はどんどん西に傾き、そろそろ帰宅時間だと気づかせるように冷たい風が吹き始める。

(……家に帰ったら、これに色を塗って、創作アカウントに投稿しよう――)

 そんな小さな幸せを噛みしめながら、スケッチブックをカバンにしまってベンチを立ち上がる。キャンパスの一角ではサークル活動に勤しむ学生たちや、友達同士で話し込むグループが楽しそうに笑い合っていた。その風景を遠目に見ながら、俺はそそくさと通り過ぎようとした。

 しかし、ふいに声をかけられ、背筋が強張る。振り向くと、そこには黒髪を綺麗に横分けにしたスリムな男――どこか冷たい美貌を湛えた人物が立っていた。

「君……綾瀬くん、だよね?」

 低く落ち着いた声色は耳障りが良いが、その瞳は笑っていない。どこか底意地の悪い光を感じ、俺は思わず目を伏せる。

「……は、はい。そうです……」

 目を合わせる勇気がなく、咄嗟に視線を下げたまま答えると、彼は“にこり”と口元だけで笑った。

「ああ、ごめん。急に怖がらせたかな。俺は藤堂晴臣(とうどうはるおみ)。BLUE MOONってバンドのドラム担当してるんだ」

(――陽翔さんと同じバンド……)

 思わず顔を上げると、そこには整った容姿があった。陽翔とは正反対のクールな印象。けれど、その目にはどこか鋭い光が宿り、こちらを見据えるように射抜いている。

「最近、陽翔がやけに嬉しそうに君の話ばっかりするもんだから、どんな子か気になってたんだ。……ほんとにちっちゃくて可愛い感じだね」

 口調自体は穏やかだが、その裏には何かしらの意図があるように思えてならない。俺は警戒心を募らせ、自然と身が強張る。

「俺、あいつが誰にでも優しくしすぎるところ、どうかなーと思ってるんだよ。……うん、言うなれば“天然タラシ”ってやつかな。すぐ熱くなって、すぐ冷める。それで何人も泣かせてきたの、見てきたからさ」

 その表情は笑っているのに、目がまったく笑っていない。嫌な汗が背中を伝う。藤堂は続けるように言葉を吐き出す。

「だから……君が陽翔に何か期待しちゃってるんなら、やめといた方がいいんじゃない? いつ飽きられるかわからないし、深入りすると傷つくだけだと思うから」

 そう言うと、俺の肩を指先で軽く“トン”とつつき、「じゃ、またね」と手を上げて去っていった。

 その場に取り残された俺は、全身の力が一気に抜け、息が乱れるのを感じる。

(――……こ、怖かった……)

 けれど、もっと怖いのは、藤堂が言った“真実”かもしれない。彼がバンドメンバーであるなら、陽翔の恋愛事情をよく知っているはずだ。そのうえで「すぐ飽きる」と断言するのなら、きっとあの楽しそうな笑顔も“一時的な興味”に過ぎないのだろう。

 芽衣が言っていた「陽翔さん、叶翔にだけ特別な気がするんだよ」という言葉は、やはり勘違いだったのかもしれない。もしも俺があれを真に受けてしまえば、また痛い目を見るだけだ。


 翌日から、俺は中庭での昼食を避けるようになった。別に藤堂から忠告されたのが理由というわけではないが、「どうせ飽きられるなら、最初から距離を置いたほうがいい」という思いがどんどん強くなっていく。

 陽翔が有名なバンドのボーカルという立場であることを考えても、陰キャである自分と一緒にいたら余計な噂を立てられかねない。何より、相手がどれだけ好意を向けてくれたって、いずれ捨てられると思えば、傷が浅いうちに自分から離れておくほうが賢い。

「俺なんかが、陽翔さんと話すことなんて、許されるはずないのに……」

 そう自分に言い聞かせるたびに、胸の奥がズキズキと痛む。思わず頭を振って、切ない感情を振り払おうとした。

 ――そもそも、俺はゲイだし、彼はきっとノンケ。モテるから可愛い女の子がたくさん周りにいるはず。

 そう思えば思うほど、陰鬱な気持ちが広がる。陽翔のまっすぐな笑顔を思い浮かべてしまう自分を否定したくてたまらないのに、一度灯った想いは簡単に消えてはくれない。

(……俺には“好き”だとか“本気”だとか、そんな言葉を信じる資格なんかないのに……)

 結局、自分のせいでまた傷つくくらいなら、最初から踏み込むべきではない。そう自分に戒め続けては、ぐるぐると同じ思考に囚われている。

 そんなある日の昼下がり、校舎の裏手を通りかかったとき、ちらりと目に入った光景に足がすくんだ。

 ――陽翔が、芽衣に何か話しかけている。

 急いで物陰に身を隠し、こっそり様子を窺ってみると、陽翔は明らかに落ち着かない様子で、芽衣に詰め寄るような格好になっている。

「ねぇ、君、綾瀬叶翔くんと一緒にいた子だよね?」

 芽衣が少し怪訝そうな顔をする。

「そうですよ。あたし、宮下芽衣って言います。陽翔さん、どうしたんですか? すごい血相ですよ」

「いや……あのさ、叶翔くん、大学来てる? このところ昼食どこにもいないんだけど……」

 切羽詰まったような声の陽翔。そんな彼を前に、芽衣は複雑そうに眉をひそめる。

「来てますよ。そりゃあ、同じ授業も取ってるし……。会えてないんですか?」

「……うん……」

 陽翔がそこで何か言いかけて、声が小さくなる。何を言っているのかまでは聞こえないが、落胆とも焦りともとれる感情がにじむ空気が漂う。

「……陽翔さん、叶翔のこと、本気なんですか?」

 芽衣が低い声で問いかけた瞬間、胸がギュッと縮む。そんなこと、問いただす必要はないはずなのに、彼女は俺のためを思って確認しようとしているのか。

 だが、陽翔の返事は聞き取れないほど小さい。芽衣が「そっか……」と呟く声だけが微かに届く。

 俺は怖くなり、校舎の影からそっと背を向けて逃げるように立ち去った。

 ――目を合わせられないのは、ただ単に“怖い”から。彼の表情や言葉に触れるたびに、心が揺れそうで怖い。

 期待したくないのに、もしかしたら……と淡い望みを抱いてしまいそうになる自分がいちばん嫌だ。

(もう二度と、誰にもそういう気持ちを抱かないと決めたはずなのに……)

 そう自分に言い聞かせても、陽翔のまぶしい笑顔が脳裏に焼きついて離れない。過去のトラウマはまだ癒えていないのに、どうしてまた同じように傷つく道を歩もうとしてしまうのか――。

 大学のキャンパスの風が冷たくなってくる夕刻、俺は人気の少ない廊下を足早に歩きながら、ただひたすらに自分の胸のざわめきを押し殺す。誰かのまなざしを受けるのが怖いのは、高校のときに思い知ったはずなのに……。

 あの日の夜、走り去った彼の背中と、翌日から始まった地獄のような日々――それらが頭をかすめるたび、目をつぶってじっと耐える。

 ――もう二度と、同じ思いはしたくないのに……。どうして俺は、目をそらすことすらままならなくなりそうなんだろう……。

 その疑問に答えてくれる声はどこからも聞こえてこない。けれど、胸の奥には確かに、熱を帯びた痛みが存在している。

 自分がそれを受け入れてしまえば、また裏切られるかもしれない――そう恐れるあまり、俺は顔を上げることを拒否し続けるしかなかった。