大学の授業は、高校と違って一つひとつの教室が変わる。授業と授業の合間に移動しなくてはならず、開始時間ギリギリになると出入口周辺は学生でごった返す。そんな状況は、なるべく人の視線を避けたい俺には地獄以外の何物でもない。だからこそ、少しでも落ち着いて席を確保するために、俺は毎回少し早めに教室へ入っていた。

 この日も二限目が行われる教室へ、開始の十分ほど前に入室する。百人は入るであろう中規模の講義室で、段差になっている座席を見渡しながら、一番後ろの窓際へ滑り込む。窓から見える桜の木は、すっかり花が散ってしまったが、時折舞い落ちる花びらが窓ガラスに貼りついたままになっていて、微かな春の名残を感じさせた。

 鞄からノートとペンケースを取り出し、ファスナーを静かに引いてペンを取り出す。なるべく物音を立てずに――そう自分を戒めながら準備をしていると、前方の扉から見覚えのある金色の髪が目に飛び込んできた。

 桐ヶ谷陽翔(きりがやはると)

 見るからに華やかなオーラをまとい、教室に入るなりあちこちから声をかけられている。彼はそのたびに笑顔で手を振り、軽やかな調子で返事をしていた。そんな陽キャの塊のような存在に、俺は反射的に視線を逸らす。

 ――また、隣に座ったり……は、しないよね。

 切実にそう祈ったのも束の間、迷うことなく彼は一直線に俺の方へ向かい、やけに自然な動作で隣の席へ腰を下ろす。

「また会ったね!」

 さも当然のように笑いかける彼に対して、俺は返事どころか顔を向けることすらできなかった。どうしてこんな目立つ人が、俺なんかの隣に座ろうとするんだ。周囲の学生たちがこっちを見ているのではないか――そう考えるだけで心臓がドクドクとうるさく鳴り、冷たい汗が背中をつたう。

「叶翔くんと同じ授業がいくつもあるなんて、なんか運命感じるなぁ。ほら、他にも一緒になるかもね」

 陽翔は頬杖をついて、まるで楽しそうに俺を見つめている。俺は視線を合わさないよう、必死にノートへ集中するふりをした。だって、目が合ったら、また呼吸が苦しくなる。

(――なんでこんなに構ってくるの……?)

 彼なら、もっと他に友達がいそうなものなのに。モテ男だし、普段はバンド仲間だっているはずだ。それなのに、なぜ俺を追いかけ回す? 朝からずっと不思議で仕方がなかった。

 ちらりと周囲を窺うと、意外にも彼の近くに座ろうとする学生はいないようだ。もちろん、彼を“有名バンドのボーカル”として遠巻きに見ている人はいるだろうが、こちらをじろじろ見る人はいない。

「――あ、今日もかわいいね、叶翔くん」

 ふふっと柔らかく微笑みながら穏やかな声で、さらっとそう告げられた瞬間、驚きのあまり思わず陽翔に目を向けてしまった。彼の瞳はまっすぐで、どこか熱を帯びている。頬もほんのり赤く染まっていて、本気らしき表情だ。

(――か、かわいい……? 冗談でしょ。俺のどこを見てそんなこと言ってんだ……)

 この手の褒め言葉なんて、生まれてこのかた一度も言われた記憶がない。苛立ちと困惑で息が詰まり、咄嗟に視線を逸らす。もしかしたら罰ゲームか何かで、陰キャをからかっているだけなのかもしれない――そう思わなければやっていられなかった。

 結局、授業中も彼の存在が気になって集中できないまま、チャイムが鳴る。テキストをノートに挟んで鞄へ突っ込み、急いで教室を出ようとする俺に向かって、陽翔が元気よく話しかける。

「ねえ、この後、一緒に昼メシ食べない?」

 そんな笑顔を向けられても、俺は耐えられるはずもなく、慌てて頭を下げる。

「……ごめんなさい……!」

 それだけ言うと、全速力で逃げ出した。大きな声で名前を呼ばれるのが背後から聞こえるけれど、振り返ったら余計に目立ってしまう。恥ずかしさと怖さで胸がいっぱいになりながら、昼食をとるために中庭へと駆け込んだ。


 ところが、今日の中庭はいつも以上に人が多い。ぽかぽかと暖かい陽気に誘われて、ベンチやテーブルには先客が溢れている。仕方がなく、植え込みの石段に腰を下ろし、コンビニで買ってきたパンにかぶりつく。

(――あんなモテる人が、なんでわざわざ俺とご飯なんて……)

 どう考えても不自然だ。絶対、軽い冗談か冷やかしだ。そんな思いが頭を支配して、パンの味すらわからない。木陰に漂うひんやりとした空気が、今の自分の心を映し出しているかのように感じた。

 先ほどの出来事を考えながらぼんやりしていたところへ、突然後ろから元気な声が飛んできた。

「やっと見つけた!」

 肩がびくりと震え、驚いた拍子に手の中のパンを落としかける。

「わっ……!」

 慌てた俺より先に、すっと長い腕が伸びてパンをキャッチしてくれた。

「危なかったね。はい、どうぞ」

 まるで英雄のようにパンを差し出すのは、やはり陽翔だった。彼はまぶしい笑顔を浮かべながら、春の日差しを背に金色の髪をきらきらと揺らしている。

「……あ、ありがとう……ございます……」

 何とか礼を言い、再度逃げようと立ち上がりかけるが、周囲のベンチも通路も人でいっぱいで、すぐには動けない。それを見た陽翔は隣に当たり前のように腰を下ろし、今日はサンドイッチの詰まった包みを取り出す。

 まるでSNSで見るカフェごはんのような、カラフルなサンドイッチ。昨日の手作り弁当もそうだったが、彼が食べているものはどこか手が込んでいて、見た目も鮮やかだ。自分で作ったのか、もしくは誰かに作ってもらったのか――聞きたいけれど、そんな余裕はまったくない。

 隣で「うまいっ!」と満面の笑みを浮かべながら頬張る陽翔とは対照的に、俺のパンはやけに味気ないままだ。

「……叶翔くん、もしかして、俺のこと避けてる?」

 いつも明るく弾むはずの声が、少しだけかすれて聞こえた気がした。ちらりと横目で見ると、陽翔はサンドイッチを持つ手を止め、心細そうに顔を伏せている。

「俺って……そんなに怖いかな……?」

 その言葉には、彼の本音がこぼれ落ちているように感じた。まっすぐで裏表のない彼が、冗談抜きで傷ついている――そんな雰囲気が滲む。

 思えば、陽翔が俺に何か強引なことをしたわけじゃない。ただ距離を詰めようとしてくるだけで、嘲笑や悪意らしきものは感じられない。でも、俺がここまで逃げ回るのは……。

「こわ……くは、ない……。けど……」

 声は消え入りそうだったが、陽翔には届いたようで、ぱっと顔を上げる。

「ほんと? 良かった! なんか嫌われてるのかと思って、ちょっと落ち込んでたんだよね……。俺、叶翔くんと仲良くなりたいんだ。だから、また一緒にランチしてくれないかな?」

 ――仲良くなりたい……。

 その言葉がすとんと胸に落ちた。俺なんかと……と否定したくなる気持ちと、彼の純粋な瞳にほだされそうになる気持ちがせめぎ合う。

 ほんの一瞬、けれど確かに頷いた自分がいた。すると陽翔は、子どものように弾ける笑顔を咲かせる。

「やったー! じゃあ明日からここでお昼食べようね。連絡先、交換……って、やばっ! 俺、次の授業があった!」

 あわててサンドイッチを片付けると、バタバタと走り去っていく陽翔。その背中からは明るいオーラが放たれていて、まさに春の陽光そのものだった。

 残された俺は、まるで小さな嵐が去った後のような静寂の中に一人取り残される。だが、その胸の奥では、得体の知れない“あたたかさ”が広がっていた。

 ――怖いのは陽翔さんそのものじゃない。俺が、人に期待して裏切られることが何より怖いんだ……。

 以前の高校生活のことを思うと、胸がきしむように痛む。あの苦い記憶だけは二度と味わいたくない――。それでも、陽翔の無垢な笑顔に少しだけ心が揺れていることに気づいてしまう。


 三限目の授業がない俺は、そのまま中庭で時間を潰すことにした。ほとんどの学生が教室へ移動した後の中庭は、さっきまでのにぎわいが嘘のように静まり返っている。木々の間から春の木漏れ日が落ち、ベンチやテーブルに柔らかな影を作っていた。

 適当なベンチに腰を下ろし、スケッチブックを取り出す。ペラペラとページをめくって空いたスペースにイラストでも描こうとした、そのとき。

「ねぇねぇ、さっきの授業で桐ヶ谷陽翔先輩に声かけられてたでしょ? すごくない? あんな神イベント滅多にないよ?」

 弾むような、明るい女性の声が聞こえてくる。驚いて顔を上げると、黒髪のショートヘアでスリムなパンツを穿いた女性がニコニコしながら立っていた。少しキツめの目元だが、その瞳は柔らかく、人懐っこい光を帯びている。

「ごめん、いきなり話しかけて。あたし、さっき同じ教室にいたんだけど、陽翔先輩に声かけられてるから気になっちゃって。あたし、一年の宮下芽衣。よろしくね」

 そう言って、芽衣は右手を差し出す。慣れない動作に戸惑いつつも、拒否するわけにもいかず、俺もおずおずと握手を交わした。

「い、一年の……綾瀬……叶翔……です……」

 目を合わせないまま名乗ると、芽衣は軽く俺の前髪を指でかき上げて、顔を覗き込んでくる。

「うわ、イケメンじゃん! 顔隠してるの、もったいないねー」

 めったに言われない言葉に戸惑いを覚えつつ、また俯きがちになる。人によっては馴れ馴れしさを感じてしまいそうだが、芽衣には不思議と警戒心が薄れる空気があった。陽翔とはまた違うタイプの明るさと言えばいいだろうか。

「実はあたし、BLUE MOONの大ファンで、特に陽翔さん推しなの。ライブも何度か行ってて、SNSも全部フォローしてるんだよね。だから、この大学に入ったってのもあるんだ」

 そう言いながら、芽衣はスマートフォンの画面をちらりと見せてくる。そこには陽翔たちが出演するライブ情報や、ファンアカウントらしい投稿がぎっしり並んでいた。

「……そう、なんだ。知らなかった。そんな人気バンドだなんて……」

 正直、俺は音楽シーンに疎いし、そもそも高校時代にあまり情報収集する余裕がなかった。

「ねえ、叶翔くんは普段何してるの?」

 何気ない質問のつもりだろうが、俺はとっさにスケッチブックを握りしめ、隠すように閉じた。そんな様子を見て、芽衣の視線が一瞬鋭くなる。

「……あれ? さっき見えたイラスト、どこかで見たことある気が……。ねえ、ひょっとして創作アカウントとか持ってない?」

 心臓が大きく跳ねる。バレたらどうしよう――という恐怖が頭をよぎり、慌ててスケッチブックを鞄に詰め込んだ。

「ち、ちが……。気のせい、だよ……」

 震える声を抑えながら立ち上がり、そそくさと逃げるようにその場を離れた。芽衣は「またねー!」と明るく手を振ってくれたが、俺の胸はざわつきでいっぱいだった。


 ――絶対バレちゃまずい……。またあの時みたいに、ネット上で晒されたら……。

 嫌な思い出が頭をよぎり、心臓がぎゅっと締め付けられた。過去に受けた仕打ちを思い返すと、手足が震えそうになる。

 次の授業まであと少し。気持ちを落ち着かせようと教室へ向かう道すがらも、どうにも胸の鼓動が速い。人気のない教室の一番後ろの席で、始業を待つ間にプリントが配られてくる。何か書き込んで落ち着こうと、つい余白にさらさらとラフスケッチをしてしまう。

 だが、授業が終わって片付けをしているとき、一枚のプリントが床に落ち、拾おうと身を屈めたところで先に誰かの手が伸びてきた。

「はい、これ落としたよ」

 顔を上げると、そこにいたのは芽衣だった。彼女はプリントを差し出したまま、じっとイラストの描かれた余白を見つめている。

 ――まずい……。

 こちらを見つめる芽衣の表情は、さっきよりも複雑そうで、何かに気づいたような、思い出したような――そんな色が浮かんでいた。でも、何も言わずにプリントを俺の手に渡し、さっと立ち去っていく。

「……ありがとう……」

 その背中を見送る間、胸の鼓動がうるさいほどに鳴り響いていた。ラフスケッチに描いていたのは、バンドのメンバーらしき立ち絵だ。もしこれが、芽衣が知っている有名イラストレーターの絵柄と似ているなんてことになったら……。

 嫌な汗が額を伝う。過去のトラウマが頭をもたげ、全身がこわばる。

 ――もう、二度と繰り返したくないのに……。あんな思いは、もう……絶対に。

 プリントを胸元に押し当て、身震いを押し殺す。外では春の陽射しが穏やかに降り注いでいるというのに、俺の心は雲のかかったまま、暗い影が広がっていた。