大学に入学してからの一週間は、あっという間に過ぎ去った。高校までは決められた時間割に沿って受動的に授業を受けていたが、大学では自分で履修登録をして、取りたい講義を選ばなければならない。必修科目を押さえつつ、興味のある選択科目をどう組み込むか――。最初は戸惑ったが、自分で決めるという行為はどこか新鮮で、少しだけわくわくする気持ちもあった。
もっとも、すでにサークルに参加している連中は、先輩たちから「単位の取りやすい授業」や「テストが簡単な講義」について積極的に情報収集をしているらしい。そういう様子を、まるで別世界の出来事みたいに横目で見ながら、俺は自分の興味を基準に履修を組んだ。友人や先輩のアドバイスなど、もとより聞く相手もいないし、そもそも関わりたくなかった。
住む場所だって、あえて寮生活を選ばなかったのは、誰とも日常的に顔を合わせずに済む方法を取りたかったからだ。一人暮らしは初めてだったけれど、最低限の自炊と家事をこなすうちに、それなりに慣れてきた。必要な買い物は夜遅くにコンビニで済ませる。誰かと鉢合わせするリスクを少しでも減らしたかった。
そんな感じで、なるべく周囲と関わらない生活を続けていたのに――。
初めての授業日。最初のコマは、大講義室での講義だった。大勢の学生が集まるらしく、教室に入った瞬間から賑やかな声が耳に飛び込んでくる。演劇場のように段差がついた座席が広がり、前方のホワイトボードの横にはモニターまで備え付けられていた。
その光景だけで、なんだか気圧されそうになる。なるべく人から遠い席を確保したくて、俺は一番後ろの窓際へ急いだ。ここなら視線が集まらないだろう。窓からは明るい春の光が差し込んで机をやわらかく照らしている。けれど俺はそれをありがたく感じるよりも、“誰にも見つからない暗がり”を求めるように、姿勢を小さくしながら座った。
――あぁ、この講義は結構人数が多いんだな。どうか指名されませんように……。
講義が始まるベルが鳴るまでの間、ノートとペンを静かに取り出す。ペンケースのファスナーをゆっくり開き、なるべく音を立てないようにペンを出して準備を整えた。隣の席には誰もいない。俺は心底ホッと胸を撫でおろす。
――これならこの授業、なんとか無事にやり過ごせそう……。
ところが、始業のベルが鳴る寸前、俺の横の席に人の気配が降りた。しかも、たっぷりとした“華やかさ”を伴って。目の隅に映る明るい髪色――まさか、と胸が騒ぐ。
「……えっ?」
そっと顔を向けると、信じたくない事態が目の前に広がっていた。そこに腰を下ろしたのは、あの入学式の日に話しかけてきた、インディーズバンド『BLUE MOON』のボーカル、桐ヶ谷陽翔だった。
金に近い明るい茶髪と、モデルみたいに整った顔立ち。オーラが違う。教室の中でも目立つ存在が、なぜわざわざ俺の隣に……? 驚きと動揺が一気に押し寄せ、俺は反射的に顔を背ける。
――あのときの俺なんか、絶対に覚えていないはず……。
そう念じるように祈っても、“運命の悪戯”みたいに彼は隣でこちらを気にしている気配を見せる。恥ずかしさと恐怖で、ノートに視線を落としてやり過ごそうとする。手に握ったペンが震え、冷や汗がじわりと浮かぶ。
すると案の定、隣から声がかかった。
「やっぱり君……この前の入学式で会ったよね? あの時、俺、逃げられた気がするんだけど……」
――うっ……!
明るくて柔らかなトーンの声。その瞬間、俺は心臓が痛いくらいにドキリと跳ねた。前の席にいる数人が、ちらっとこちらを見ているような気がして、さらに身がすくむ。
「……えっと……」と何か言わねばと思うのに、声にならない。結局、かすかに首を横に振るのが精一杯だった。何を話す余裕もなく、ただノートを見つめ続ける。
陽翔はまだ何か話しかけてきていたが、俺の耳には全く届かなかった。周囲がこちらに注目しているかもしれない――そう思うだけで頭が真っ白になる。
やがて授業終了のベルが鳴ると同時に、俺は迷わずノートとペンを鞄へ突っ込み、逃げるように席を立った。ここから一刻も早く出ていかないと、また声をかけられてしまう。
大講義室を出ると、長い廊下には新入生たちが楽しそうに談笑しながら移動していた。連絡先を交換している光景も当たり前のように広がっている。そんな“陽キャ”たちの波をかいくぐるように、俺はうつむいたまま足早に歩を進める。
――早く次の教室に行こう。もう誰とも話したくない……。
そう思って前を急いでいると、背後から同じような速度でついてくる足音が聞こえてきた。気のせいであってほしいと願うが、その足音はピタリと一定間隔で追いかけてくる。
嫌な予感がして背筋がこわばる。
――あの……桐ヶ谷陽翔、絶対に追いかけてきてる……!
一段と歩幅を広げ、急ぎ足になる。だけど振り切れそうにない。周囲からは「何あの子、バンドの人に追いかけられてる?」なんて囁く声が聞こえたような気がする。被害妄想かもしれないけれど、それだけで胸が苦しくなる。
「おーい! ねぇ、名前くらい教えてよー!」
後ろから明るい声で呼びかけられるが、もちろん振り返れない。まるで耳に蓋をするように、さらに足を速める。
「今度、ご飯でも行こうよー! だめかな?」
知らない人と食事? ――そんな社交的イベント、俺には到底無理だ。考えるだけで息が詰まる。結局、返事をすることもなく、次の授業が行われる教室へ滑り込み、なんとかその場を逃れた。
朝一の“逃走劇”がひとまず終わり、そこから二限目はどうにか穏便にやり過ごす。特に目立ったことはなく、授業も問題なく終わった。ホッと息をついて廊下に出ると、学生たちは昼休みということで揃って食堂へ向かっていく。
――人混みの食堂なんて、絶対無理……。
そう思い、中庭へ向かう。大学の中庭には木々が並び、ベンチやテーブルが点在していて、少し落ち着ける空間になっている。意外と知っている人が少ないのか、人気がほとんどなく、俺のお気に入りの“隠れスポット”だ。
日当たりのよい場所を避けるように、一番奥の木陰にあるベンチへ。そこは淡い木漏れ日が差し込み、春の心地よい日差しを適度に遮ってくれる。カバンから今日の昼飯――コンビニで買ってきた菓子パン――を取り出して、そっと息を吐いた。
――今日は朝から散々だ……。あんなキラキラした人に追いかけ回されるなんて……。
半ば呆然としながらパンの袋を開け、かじろうとした、そのとき。
すとん。
不意に、誰かがベンチの隣へ腰を下ろした気配がした。俺の隣に他の人が座るなんて滅多にない。しかも、空いてるベンチは他に掃いて捨てるほどあるのに。驚いて横目をやると――。
――また……あの人だ。
朝、教室で声をかけてきた桐ヶ谷陽翔が、何食わぬ顔で弁当箱を広げている。こんな“穴場”をどうして知っているんだろう……。俺の心は嫌な予感と混乱でいっぱいになる。
彼が持ってきている弁当は、色とりどりの野菜や卵焼き、肉料理がバランスよく詰まっていて、やたらと美味しそうに見えた。誰かが作ってくれたものなのだろうか。けれど彼の周囲に他の友人らしき人はいない。
「いただきまーす!」
陽翔はにこやかにそう言ってから食べ始める。大きく頬張る姿は飾り気がなく、むしろ子どもっぽいとも言える。だけど、そんな無防備な表情も様になってしまうのが、彼の持つカリスマ性なのかもしれない。
――何で俺の隣にわざわざ座ってんだ……。
パンを持った手が震え、食欲が失せてしまう。少し背を丸めて気配を殺そうとするが、すぐに陽翔は俺の方へ顔を向け、嬉しそうに声をかけてきた。
「ねえ、君って、もしかして同じ学部だったりする? さっきも大講義室にいたでしょ」
耳に心地よいトーンで問いかけられると、なぜか拒否しきれず胸がざわつく。とっさに言葉が出てこなくて、ただ俯くしかない。
「入学式のときさ、声かけたら思いっきり逃げられちゃって、結構ショックだったんだよ。今日も教室で逃げられたし……」
明るく続いていた言葉が、急にしんと静まる。彼は一瞬、言いづらそうに唇を閉じ、目を伏せているようだった。
「……ううん、なんでもない」
小さく息を吐いてから、照れ隠しするように弁当のフタを指でなぞる。
(――覚えてたのか、やっぱり。変な意味で印象に残っちゃったんだろうか……)
俺の胸の奥がぎゅっと締まる。こんな目立たない地味な陰キャを、よりによってあの人気バンドのボーカルが気にかけているなんて、周りから見たらギャグにしかならない。
だというのに、彼の声色はやたらと優しげで、悪意や悪戯心は感じられない。不思議な空気に呑まれそうになるのを必死で耐える。息苦しいはずなのに、さっきみたいな圧迫感とは少し違う――そんな錯覚を覚えてしまう自分が、余計に怖い。
「そうだ、名前、教えてくれる? 俺は桐ヶ谷陽翔。“陽気の陽”に“翔ぶ”って書くんだ。君の名前も知りたいな」
人懐っこい笑顔と、まっすぐな瞳。無意識のうちに俺の心が萎縮して、けれど逆に逃げ出せない。ほんの少しの沈黙の末、諦めたように唇を動かす。
「……綾瀬……叶翔……、です……」
蚊の鳴くような声だったのに、彼はしっかりと聞き取ってくれたらしい。顔をぱぁっと輝かせる。
「綾瀬叶翔くん、か! “叶える”に“翔ぶ”だよね? いい名前じゃん! 俺も“陽翔”で同じ“翔ぶ”だし、何か親近感わくなー! 俺、叶翔くんって呼びたいから、俺のことも陽翔って呼んでよ」
まるで“運命”でも見つけたみたいに、満面の笑顔で喜んでいる。陽の光に照らされた彼の姿は眩しくて、俺は思わず視線をそらした。
(――なんなんだ、この人……。普通、こんなにフレンドリーに踏み込んでくるか……?)
心臓はまだバクバクしているけれど、朝のような“ひたすら逃げなくちゃ”という一方的な恐怖は、どこかへ薄れていた。不思議と、彼の存在を極端に疎ましく感じていない自分に戸惑う。
その日の夕方。一日の授業が終わり、俺は薄暗くなり始めた街を抜けて、自宅マンションに向かっていた。オレンジ色の街灯が淡く照らす道を歩きながら、今日あった出来事を振り返って、再びため息をつく。
「……なんであんなに何度も声をかけてくるんだろう。朝だってしつこかったのに、昼には結局捕まっちゃったし……」
追いかけられていたときの周囲の視線を思い出すと、未だに胸がざわつく。あの光景は二度と味わいたくない。
だけど、ベンチでの会話――俺が名前を言ったときの、彼の嬉しそうな笑顔――あれを思い出すと、妙に胸が熱くなる。こわばっていたはずの心が、ほんの少し緩んだ気がした瞬間だった。
「……いや、絶対気のせいだ。俺にとっては怖いはずなのに……」
頭を振って否定する。考えれば考えるほど、自分でも訳が分からなくなりそうだ。あんなキラキラした“モテ男”と俺なんかが釣り合うわけがないし、関わるメリットなんて何もない。最初から深く考えずに、距離を取ればいいだけのことなのに……。
「でも……あのまっすぐさって、反則だろ……」
ぼそりと呟いて、開けかけたマンションの扉を押し込む。室内に入ると、狭いワンルームがひんやりとした空気で満ちていて、今日一日の疲れがどっと襲ってきた。鞄を床に置いて、電気をつける。部屋には誰もいない。
――そう、俺は一人でいいんだ。誰にも迷惑をかけず、誰からも変な目で見られずに過ごせるなら、それがいちばん楽なはず……。
そう言い聞かせながら、ベッドに倒れ込む。瞼を閉じても、どうしても陽翔の屈託のない笑顔が浮かんでくる。それは朝日のようにまぶしくて、俺の“当たり前”を容赦なく揺るがそうとしていた。
――明日も彼は同じ教室に来るのだろうか。それともまた昼にあのベンチへ……?
考えるだけで緊張が走るのに、なぜか“怖い”一辺倒とは言い切れない気持ちが胸にこみ上げてくる。だが、そこにある微かな好奇心を、俺は必死に振り払うように目を閉じた。
「……うるさい、もう寝よ……」
上着すら脱がず、ベッドに身を横たえる。脳裏には桐ヶ谷陽翔のまぶしい笑顔が何度もよぎる。そんな相手のことなんて考えたくないのに、思い出すたびに心がざわつく。
――変だ。俺、どうしちゃったんだろう……。
やがて、疲れからか深い眠気が襲ってくる。まぶたが重くなり、意識が溶けていくように遠のく。最後に思い浮かんだのは、名前を教え合ったときのあの瞬間。
――もう目を合わせないと決めているのに。あの目が、なぜだか心に焼きついて離れない……。
胸のうちでざわめくこの感情は、いったい何なのだろう。戸惑いを抱えたまま、俺は春の夜の静寂の中へ落ちていった。
もっとも、すでにサークルに参加している連中は、先輩たちから「単位の取りやすい授業」や「テストが簡単な講義」について積極的に情報収集をしているらしい。そういう様子を、まるで別世界の出来事みたいに横目で見ながら、俺は自分の興味を基準に履修を組んだ。友人や先輩のアドバイスなど、もとより聞く相手もいないし、そもそも関わりたくなかった。
住む場所だって、あえて寮生活を選ばなかったのは、誰とも日常的に顔を合わせずに済む方法を取りたかったからだ。一人暮らしは初めてだったけれど、最低限の自炊と家事をこなすうちに、それなりに慣れてきた。必要な買い物は夜遅くにコンビニで済ませる。誰かと鉢合わせするリスクを少しでも減らしたかった。
そんな感じで、なるべく周囲と関わらない生活を続けていたのに――。
初めての授業日。最初のコマは、大講義室での講義だった。大勢の学生が集まるらしく、教室に入った瞬間から賑やかな声が耳に飛び込んでくる。演劇場のように段差がついた座席が広がり、前方のホワイトボードの横にはモニターまで備え付けられていた。
その光景だけで、なんだか気圧されそうになる。なるべく人から遠い席を確保したくて、俺は一番後ろの窓際へ急いだ。ここなら視線が集まらないだろう。窓からは明るい春の光が差し込んで机をやわらかく照らしている。けれど俺はそれをありがたく感じるよりも、“誰にも見つからない暗がり”を求めるように、姿勢を小さくしながら座った。
――あぁ、この講義は結構人数が多いんだな。どうか指名されませんように……。
講義が始まるベルが鳴るまでの間、ノートとペンを静かに取り出す。ペンケースのファスナーをゆっくり開き、なるべく音を立てないようにペンを出して準備を整えた。隣の席には誰もいない。俺は心底ホッと胸を撫でおろす。
――これならこの授業、なんとか無事にやり過ごせそう……。
ところが、始業のベルが鳴る寸前、俺の横の席に人の気配が降りた。しかも、たっぷりとした“華やかさ”を伴って。目の隅に映る明るい髪色――まさか、と胸が騒ぐ。
「……えっ?」
そっと顔を向けると、信じたくない事態が目の前に広がっていた。そこに腰を下ろしたのは、あの入学式の日に話しかけてきた、インディーズバンド『BLUE MOON』のボーカル、桐ヶ谷陽翔だった。
金に近い明るい茶髪と、モデルみたいに整った顔立ち。オーラが違う。教室の中でも目立つ存在が、なぜわざわざ俺の隣に……? 驚きと動揺が一気に押し寄せ、俺は反射的に顔を背ける。
――あのときの俺なんか、絶対に覚えていないはず……。
そう念じるように祈っても、“運命の悪戯”みたいに彼は隣でこちらを気にしている気配を見せる。恥ずかしさと恐怖で、ノートに視線を落としてやり過ごそうとする。手に握ったペンが震え、冷や汗がじわりと浮かぶ。
すると案の定、隣から声がかかった。
「やっぱり君……この前の入学式で会ったよね? あの時、俺、逃げられた気がするんだけど……」
――うっ……!
明るくて柔らかなトーンの声。その瞬間、俺は心臓が痛いくらいにドキリと跳ねた。前の席にいる数人が、ちらっとこちらを見ているような気がして、さらに身がすくむ。
「……えっと……」と何か言わねばと思うのに、声にならない。結局、かすかに首を横に振るのが精一杯だった。何を話す余裕もなく、ただノートを見つめ続ける。
陽翔はまだ何か話しかけてきていたが、俺の耳には全く届かなかった。周囲がこちらに注目しているかもしれない――そう思うだけで頭が真っ白になる。
やがて授業終了のベルが鳴ると同時に、俺は迷わずノートとペンを鞄へ突っ込み、逃げるように席を立った。ここから一刻も早く出ていかないと、また声をかけられてしまう。
大講義室を出ると、長い廊下には新入生たちが楽しそうに談笑しながら移動していた。連絡先を交換している光景も当たり前のように広がっている。そんな“陽キャ”たちの波をかいくぐるように、俺はうつむいたまま足早に歩を進める。
――早く次の教室に行こう。もう誰とも話したくない……。
そう思って前を急いでいると、背後から同じような速度でついてくる足音が聞こえてきた。気のせいであってほしいと願うが、その足音はピタリと一定間隔で追いかけてくる。
嫌な予感がして背筋がこわばる。
――あの……桐ヶ谷陽翔、絶対に追いかけてきてる……!
一段と歩幅を広げ、急ぎ足になる。だけど振り切れそうにない。周囲からは「何あの子、バンドの人に追いかけられてる?」なんて囁く声が聞こえたような気がする。被害妄想かもしれないけれど、それだけで胸が苦しくなる。
「おーい! ねぇ、名前くらい教えてよー!」
後ろから明るい声で呼びかけられるが、もちろん振り返れない。まるで耳に蓋をするように、さらに足を速める。
「今度、ご飯でも行こうよー! だめかな?」
知らない人と食事? ――そんな社交的イベント、俺には到底無理だ。考えるだけで息が詰まる。結局、返事をすることもなく、次の授業が行われる教室へ滑り込み、なんとかその場を逃れた。
朝一の“逃走劇”がひとまず終わり、そこから二限目はどうにか穏便にやり過ごす。特に目立ったことはなく、授業も問題なく終わった。ホッと息をついて廊下に出ると、学生たちは昼休みということで揃って食堂へ向かっていく。
――人混みの食堂なんて、絶対無理……。
そう思い、中庭へ向かう。大学の中庭には木々が並び、ベンチやテーブルが点在していて、少し落ち着ける空間になっている。意外と知っている人が少ないのか、人気がほとんどなく、俺のお気に入りの“隠れスポット”だ。
日当たりのよい場所を避けるように、一番奥の木陰にあるベンチへ。そこは淡い木漏れ日が差し込み、春の心地よい日差しを適度に遮ってくれる。カバンから今日の昼飯――コンビニで買ってきた菓子パン――を取り出して、そっと息を吐いた。
――今日は朝から散々だ……。あんなキラキラした人に追いかけ回されるなんて……。
半ば呆然としながらパンの袋を開け、かじろうとした、そのとき。
すとん。
不意に、誰かがベンチの隣へ腰を下ろした気配がした。俺の隣に他の人が座るなんて滅多にない。しかも、空いてるベンチは他に掃いて捨てるほどあるのに。驚いて横目をやると――。
――また……あの人だ。
朝、教室で声をかけてきた桐ヶ谷陽翔が、何食わぬ顔で弁当箱を広げている。こんな“穴場”をどうして知っているんだろう……。俺の心は嫌な予感と混乱でいっぱいになる。
彼が持ってきている弁当は、色とりどりの野菜や卵焼き、肉料理がバランスよく詰まっていて、やたらと美味しそうに見えた。誰かが作ってくれたものなのだろうか。けれど彼の周囲に他の友人らしき人はいない。
「いただきまーす!」
陽翔はにこやかにそう言ってから食べ始める。大きく頬張る姿は飾り気がなく、むしろ子どもっぽいとも言える。だけど、そんな無防備な表情も様になってしまうのが、彼の持つカリスマ性なのかもしれない。
――何で俺の隣にわざわざ座ってんだ……。
パンを持った手が震え、食欲が失せてしまう。少し背を丸めて気配を殺そうとするが、すぐに陽翔は俺の方へ顔を向け、嬉しそうに声をかけてきた。
「ねえ、君って、もしかして同じ学部だったりする? さっきも大講義室にいたでしょ」
耳に心地よいトーンで問いかけられると、なぜか拒否しきれず胸がざわつく。とっさに言葉が出てこなくて、ただ俯くしかない。
「入学式のときさ、声かけたら思いっきり逃げられちゃって、結構ショックだったんだよ。今日も教室で逃げられたし……」
明るく続いていた言葉が、急にしんと静まる。彼は一瞬、言いづらそうに唇を閉じ、目を伏せているようだった。
「……ううん、なんでもない」
小さく息を吐いてから、照れ隠しするように弁当のフタを指でなぞる。
(――覚えてたのか、やっぱり。変な意味で印象に残っちゃったんだろうか……)
俺の胸の奥がぎゅっと締まる。こんな目立たない地味な陰キャを、よりによってあの人気バンドのボーカルが気にかけているなんて、周りから見たらギャグにしかならない。
だというのに、彼の声色はやたらと優しげで、悪意や悪戯心は感じられない。不思議な空気に呑まれそうになるのを必死で耐える。息苦しいはずなのに、さっきみたいな圧迫感とは少し違う――そんな錯覚を覚えてしまう自分が、余計に怖い。
「そうだ、名前、教えてくれる? 俺は桐ヶ谷陽翔。“陽気の陽”に“翔ぶ”って書くんだ。君の名前も知りたいな」
人懐っこい笑顔と、まっすぐな瞳。無意識のうちに俺の心が萎縮して、けれど逆に逃げ出せない。ほんの少しの沈黙の末、諦めたように唇を動かす。
「……綾瀬……叶翔……、です……」
蚊の鳴くような声だったのに、彼はしっかりと聞き取ってくれたらしい。顔をぱぁっと輝かせる。
「綾瀬叶翔くん、か! “叶える”に“翔ぶ”だよね? いい名前じゃん! 俺も“陽翔”で同じ“翔ぶ”だし、何か親近感わくなー! 俺、叶翔くんって呼びたいから、俺のことも陽翔って呼んでよ」
まるで“運命”でも見つけたみたいに、満面の笑顔で喜んでいる。陽の光に照らされた彼の姿は眩しくて、俺は思わず視線をそらした。
(――なんなんだ、この人……。普通、こんなにフレンドリーに踏み込んでくるか……?)
心臓はまだバクバクしているけれど、朝のような“ひたすら逃げなくちゃ”という一方的な恐怖は、どこかへ薄れていた。不思議と、彼の存在を極端に疎ましく感じていない自分に戸惑う。
その日の夕方。一日の授業が終わり、俺は薄暗くなり始めた街を抜けて、自宅マンションに向かっていた。オレンジ色の街灯が淡く照らす道を歩きながら、今日あった出来事を振り返って、再びため息をつく。
「……なんであんなに何度も声をかけてくるんだろう。朝だってしつこかったのに、昼には結局捕まっちゃったし……」
追いかけられていたときの周囲の視線を思い出すと、未だに胸がざわつく。あの光景は二度と味わいたくない。
だけど、ベンチでの会話――俺が名前を言ったときの、彼の嬉しそうな笑顔――あれを思い出すと、妙に胸が熱くなる。こわばっていたはずの心が、ほんの少し緩んだ気がした瞬間だった。
「……いや、絶対気のせいだ。俺にとっては怖いはずなのに……」
頭を振って否定する。考えれば考えるほど、自分でも訳が分からなくなりそうだ。あんなキラキラした“モテ男”と俺なんかが釣り合うわけがないし、関わるメリットなんて何もない。最初から深く考えずに、距離を取ればいいだけのことなのに……。
「でも……あのまっすぐさって、反則だろ……」
ぼそりと呟いて、開けかけたマンションの扉を押し込む。室内に入ると、狭いワンルームがひんやりとした空気で満ちていて、今日一日の疲れがどっと襲ってきた。鞄を床に置いて、電気をつける。部屋には誰もいない。
――そう、俺は一人でいいんだ。誰にも迷惑をかけず、誰からも変な目で見られずに過ごせるなら、それがいちばん楽なはず……。
そう言い聞かせながら、ベッドに倒れ込む。瞼を閉じても、どうしても陽翔の屈託のない笑顔が浮かんでくる。それは朝日のようにまぶしくて、俺の“当たり前”を容赦なく揺るがそうとしていた。
――明日も彼は同じ教室に来るのだろうか。それともまた昼にあのベンチへ……?
考えるだけで緊張が走るのに、なぜか“怖い”一辺倒とは言い切れない気持ちが胸にこみ上げてくる。だが、そこにある微かな好奇心を、俺は必死に振り払うように目を閉じた。
「……うるさい、もう寝よ……」
上着すら脱がず、ベッドに身を横たえる。脳裏には桐ヶ谷陽翔のまぶしい笑顔が何度もよぎる。そんな相手のことなんて考えたくないのに、思い出すたびに心がざわつく。
――変だ。俺、どうしちゃったんだろう……。
やがて、疲れからか深い眠気が襲ってくる。まぶたが重くなり、意識が溶けていくように遠のく。最後に思い浮かんだのは、名前を教え合ったときのあの瞬間。
――もう目を合わせないと決めているのに。あの目が、なぜだか心に焼きついて離れない……。
胸のうちでざわめくこの感情は、いったい何なのだろう。戸惑いを抱えたまま、俺は春の夜の静寂の中へ落ちていった。



