甘い香りが鼻をくすぐり、ゆっくりと目を開けた。朝日が淡いオレンジ色に部屋を染め、カーテンの隙間から差し込む光が天井に揺れている。いつもと変わらない朝――のはずだった。だが、小さなキッチンから聞こえる鍋や食器の音と、どこか懐かしい香りが、いつもとは違う朝を告げていた。

 枕から頭を持ち上げると、キッチンに陽翔の背中が見えた。エプロンを身に纏い、フライパンを左右に揺らしながら何かを焼いている。

「あ、起きた? おはよう、叶翔」

 振り返った陽翔は、朝の光よりも眩しい笑顔で俺を見つめた。

 ――よかった。陽翔、ちゃんといてくれた。

 昨夜のことが現実だったのか、それとも叶わぬ夢だったのか、一瞬不安になっていた。でも、目の前の陽翔はしっかりと実在していて、俺のキッチンで朝食を作っている。

 俺はベッドから飛び起き、陽翔の元へ駆け寄った。後ろから抱きつき、顔を彼の背中に埋める。

「どうしたの?」

 陽翔の声が優しく響く。俺は彼の背中に顔を押し付けたまま、小さな声で言った。

「……ありがとう。うれしい」

「何が?」

「陽翔が、ここにいてくれて」

 陽翔は俺の手を取り、くるりと体を回して正面から抱きしめてくれた。

「俺はどこにも行かないよ」

 そう言って、彼は俺の頭を優しく撫でた。その手の温もりが安心感を与え、昨晩の余韻と共に胸に広がっていく。

「ほら、温かいうちに食べよう」

 陽翔に促され、テーブルに座る。卓上には、ふわふわのオムレツと焼きたてのパン、野菜がたっぷり入ったスープが並んでいた。スープからは湯気が立ち上り、朝の冷たい空気を暖める。

「冷蔵庫、勝手に開けてごめん。あるもので作ったんだけど」

 陽翔は照れ臭そうに頬を掻きながら言った。俺のために一生懸命朝ごはんを作ってくれたんだ。そう思うと胸が熱くなり、自然と顔がほころんだ。

「なんか、朝ごはんの匂いで目覚めるなんて、俺、完全に陽翔の彼女じゃん」

「叶翔は彼女じゃなくて、俺の彼氏だから!」

 陽翔はすぐにツッコミを入れてくれた。「早く食べよう」と促され、二人で「いただきます」と手を合わせる。こんな当たり前の日常が、こんなにも特別に感じるなんて。

「陽翔、昨日ちゃんと寝れた? ベッド、狭くて……」

 昨夜のことを思い出し、頬が熱くなる。

「うん、最高だったよ」

 陽翔も顔を赤らめながら答えた。

「叶翔が隣にいてくれたから、ぐっすり眠れた」

「そう、よかった。今日は日曜だし、ゆっくりしていってよ」

 陽翔は目を輝かせて大きく頷いた。

「うん! 一日中叶翔と一緒にいる!」

 たったそれだけの言葉なのに、心が躍る。今までは陽翔が隣にいるということが特別で非日常的なことのように感じていた。でも今は、それが普通になりつつある。そう感じられることが、この上なく幸せだった。


 夏の始まりを告げる強い日差しが注ぐ六月十二日。俺は鏡の前から動けずにいた。

 ――前髪、上げるの、恥ずかしい……。

 何度か手で前髪をかき上げてみるが、目元が露わになるのが怖い。高校のゲイバレ事件から、人と目を合わせるのが苦手で、自然と前髪で目を隠すようになっていた。それが今では癖になっていて、習慣的に目元を隠している。

 でも今日は、陽翔の誕生日。

 一度だけ、「前髪を上げた叶翔が見たい」と言われたことを思い出す。あの時は断ってしまったけれど、今日は特別な日。だから、思い切って前髪を上げてセットした。

 キャンパス内を一限目の授業へ向かって歩く。目元を隠していないことで視界は広がったが、なぜか恥ずかしさと不安で足取りが早くなる。

 教室に着くと、いつもの定位置である一番後ろの窓際に座り、頬杖をついた。窓の外を見ると、木々の緑は一層濃くなり、夏の到来を感じさせた。

「かーなとっ!」

 振り返ると、陽翔が駆け寄ってきた。彼の表情が一瞬で驚きに変わる。

「え? 前髪、上げてくれたの? うれしい!」

 ギュッと抱きついてキスをしようとする陽翔を、慌てて押し返す。

「ここ、学校だってば!」

「えー、いいじゃん。うれしいんだもん」

 しゅんと眉を下げて残念そうにする陽翔を見て、小さくため息をついた。バンドマンで女の子に囲まれる陽翔が、こんな子どもっぽい表情をするなんて。そのギャップに、心がくすぐられる。

 ――喜んでくれるのはうれしいけど……。

 何度注意しても、陽翔のスキンシップに時と場所の区別はない。「これならいいでしょ?」と言いながら、肩を引き寄せられ、耳元で囁かれる。

「叶翔、かっこいい」

 その声に、耳まで真っ赤になってしまう。

「もう、そんなこと言うなって!」

 そんな言い合いをしていると、後ろから明るい声が降ってきた。

「おやおや、お二人さん。ここ、学校なんですけどー」

 振り向くと、芽衣がニヤニヤしながら立っていた。

「まぁ、でも、お二人さんはすっかり学内公認カップルだし、許されるか」

「そんな……」

 恥ずかしくて俯く俺の肩を抱き寄せ、陽翔は堂々と宣言する。

「俺、公開告白したからね!」

「だねー。あたしの推しカプだから!」

 芽衣も同意して、二人で楽しそうに笑い合う。

 ――俺も、堂々と陽翔の横を歩かないとな。

 陽翔と芽衣の姿を見て、自分を奮い立たせた。

 授業が終わり、キャンパス内を手を繋いで並んで歩く。最初は恥ずかしくて仕方なかったが、陽翔の手の温もりが安心感を与えてくれる。もう少し堂々と歩きたい。そう思っても、やはり視線が気になって俯きがちになる。

「おぉ、あの二人が噂の……」

「隠す気ゼロなの、清々しいよね」

 キャンパスを歩いていると、ひそひそと話す声が耳に届く。芽衣の言う通り、俺たちはすっかり学内の公認カップルとなっていた。

 その時、後ろで大きなため息が聞こえた。

「おい、そこのバカップル!」

 振り返ると、晴臣が呆れた表情で立っていた。

「なんだよ、晴臣。バカップルって……」

「ったく。俺の気持ちも知らないで、人前でベタベタするな」

 晴臣は細められた目で陽翔を睨む。その言葉に陽翔は反発するように、俺の肩をさらに抱き寄せた。

「いいじゃん。叶翔のこと、大好きなんだから」

 口を尖らせて言う陽翔を見ていると、本当にこの人が人気バンドのボーカルなのかと疑いたくなる。そんな二人を見て、晴臣はまたため息をついた。

「それにしても、綾瀬くん。今日はめちゃくちゃかっこいいじゃん! その髪型、似合ってるよ」

 親指を立てて褒めてくれる晴臣に、嬉しさと恥ずかしさが入り混じる。

「あ、ありがとうございます……」

「やっぱり綾瀬くんはイケメンだよね。ずっとその髪型にしなよ」

 晴臣の言葉に陽翔がすかさず反応する。

「でしょ! 叶翔、絶対髪の毛上げた方が似合ってる!」

 一般的に「イケメン」と言われるような二人から褒められると、なんだかその気になってしまう。

「気が向いたら……また、やってみます」

 晴臣は満足そうに頷き、「あんまりベタベタしすぎるなよ」と言って去っていった。

 こうして陽翔の横を歩き、みんなから「公認カップル」だの「かっこいい」だの言われるのは照れくさい。でも、それも悪くないと思える自分が、確かにここにいた。


 放課後、俺たちは公園へ向かった。手を繋ぎ、肩を寄せ合いながら、ゆっくりと歩く。夕暮れの柔らかな光が二人の影を長く伸ばしていた。

 ここは、俺たちが初めて気持ちを通わせた公園。ベンチに座り、手を繋いだまま、空を見上げる。言葉を交わさなくても、ただ二人で並んで座っているだけで心が温かくなる。

「叶翔、今日はありがとう」

 突然のお礼に、不思議そうに陽翔を見つめる。

「何が? 俺、何かした?」

 陽翔は俺の髪を指差し、くしゃっと笑った。

 そうだ。陽翔のリクエストに応えて、前髪を上げたのだ。自分らしくない行動だけど、陽翔のためなら何でもしたいと思ってしまう。そんな気持ちが、今日の勇気につながった。

 自分の行動が恥ずかしくなり、顔が熱くなる。

「変、だった?」

「ううん。すごく似合ってる」

 陽翔は俺を抱きしめ、額にキスをした。陽翔の唇の温かさが、彼の愛情そのもののように感じられた。

 俺はバッグから、そっと小さな箱を取り出した。

「陽翔、お誕生日おめでとう。これ……」

 プレゼントを手渡すと、陽翔の顔がぱっと明るくなった。

「うそ? ありがとう! 開けていい?」

 俺が頷くと、陽翔は恐る恐る箱を開け、目を見開いた。

「……ピアス?」

「俺と、半分こ」

 俺は耳元を見せた。箱の中にあったピアスの片割れが、耳に光っている。

「この宝石、陽翔の誕生日石のトパーズなんだ。陽翔の何かを身に付けていたくて……」

 恥ずかしさで声が小さくなる。

「本当は指輪とかも考えたんだけど……。それは重いかなって」

「指輪でもよかったのに!」

 陽翔は俺をぎゅっと抱きしめ、耳元で囁いた。

「来年も、再来年も、その先も……ずっと一緒にいたいな」

 頬を擦り付けながら、続ける。

「そうなったら……もう、恋人っていうより、家族って感じ?」

 小さく笑う陽翔の声は、低く、真剣味を帯びていた。

「……まだ早いよ、そんなの。でも……その言葉、好き」
 俺は陽翔の背中に腕を回し、しっかりと抱きしめた。

 俺は、目を合わせるのが怖かった。触れること、好きになること、全部が怖かった。でも、陽翔がそばにいてくれるなら、怖くても前に進める。未来に、名前をつけていける。

「陽翔となら……全部信じられる。今も……これからも」

 陽翔は太陽のような笑顔で俺を見つめた。その瞳に映る自分は、もう昔のように怯えてはいなかった。

 隣に陽翔がいる。それだけで、今日という日が何度でも好きになれる。

 ――陽翔と目を合わせるたび、好きが増えていく。それが、俺の毎日だ。