春フェスが終わって、ずっとどうするか迷っていた創作アカウントを再び公開することにした。どれだけネガティブなコメントが来るのかと身構えていたのだが、反応は全く逆のものだった。「待ってました!」「くらーじさんのイラスト大好き」というものばかりで驚いた。
「みんな、気持ち悪がると思ってたけど……よかった……」
俺はコメントを読みながら、心が温まるのを感じた。息を吐く度に、胸の奥が少しずつ軽くなっていくような感覚。これが、認められることの喜びなのだろうか。
そもそも、アカウント名をフランス語の「勇気」を表すcouroge(クラージ)としたのは、自分自身に勇気が持てないからだった。でも、勇気を出して、イラストをみんなに見てもらいたいという気持ちも込めてアカウント名をcourogeとした。そして、見てもらった人にも勇気を持ってもらえれば、なおいいと思っている。
休止していた間もずっとイラストは描き綴っていた。陽翔を描いたもの、彼の笑顔、彼の指、彼の横顔――数えきれないほど。だが、それはまだ誰にも見せていない。そのおかげで、アカウントを再開してもコンスタントにイラストを公開することができている。やはり俺にとって絵を描くということは、一番心休まる瞬間なのだ。
筆を走らせる時だけは、全ての恐怖から解放される。色彩と線だけの世界。そこには、逃げなくてもいい自分がいる。
アカウント再開から一ヶ月が経った頃、陽翔からデートに誘われた。毎日大学で会っているのだが、外で会うのはこれが初めてだ。なんとなく恥ずかしさが伴いながらも、初デートにウキウキと心が踊った。新鮮さを感じながら服を選んでいると、スマートフォンが震えた。
『十時に大学近くのカフェに来て』
俺の家に十一時に迎えに来ると言っていたのに、何か予定が変わったのだろうか?
少し不安になったが、すぐに返信した。
『分かった。今から向かうね』
突然どうしたのだろうかと不思議に思ったものの、時間通りに指定のカフェに行った。中に入ると、そこに陽翔の他に、晴臣ともう一人、バンドのベーシストが座っていた。三人は何か話し込んでいるようだった。
「叶翔! 急にごめんね」
俺が入って来たことに気づいた陽翔は立ち上がって、ぱあっと明るい笑顔を俺に向けてきた。夏の日差しのような、まぶしいばかりの笑み。手招きされ、バンドメンバーのいる席に向かった。
「叶翔、ここ、座って!」
陽翔が隣の席をポンポンと叩いて、そこに座るように促す。指定された席に腰掛けると、陽翔がテーブルの下でスッと手を繋いできた。ビクッと肩を揺らしてじろりと陽翔を見やると「何か問題でも?」という表情でにっこりしながら、肩をくっつけてくる。
いつ、どこにいても、彼のスキンシップは予測不能だ。でも、最近はそれが嫌じゃなくなってきている自分がいる。
「急に呼び出してごめんね。俺、BLUE MOONのリーダーで、ベース担当の相沢拓真です」
拓真は金色の短髪をワックスでツンツンと立たせており、耳にはいくつものピアスをしている。服の上からでも筋肉隆々なのが分かった。一見、強面なのだが、目を細めて笑う様はきっと悪い人じゃないことが分かった。意外と笑った顔は可愛らしい。
「は、初めまして……綾瀬叶翔です」
俺はぺこっと頭を下げて挨拶をした。横に座っている陽翔が俺の方をにこにこしながらじっと見つめていて、なんとも居心地が悪い。まるで珍しい生き物を見つけて喜んでいる子どもみたいだ。
「叶翔くん、いやー、噂には聞いてたけど、すっごいかっこいいじゃん!」
拓真が前のめりで俺の顔を覗き込んでくる。俺なんて全然かっこよくないのに、なんでそんなふうに言うんだろう……。陽翔の影響で、みんなが俺を過大評価している気がしてならない。
「……え、えぇっと……」
なんと答えていいのか分からずにモジモジしていたら、陽翔がぎりっと拓真を睨みつける。
「おいやめろ。叶翔は俺の彼氏だからな」
すかさず陽翔が手でグッと拓真の体を後ろに押した。その動作には、柔らかい笑顔とは裏腹に、明確な警告が込められていた。
「あー、はいはい。分かった分かった」
拓真がめんどくさそうに手をひらひらと振って、陽翔をいなしている。それを見た晴臣が、またかと言わんばかりに大きなため息をついた。
こうやってバンドメンバーが一度に集まっているのを見ると、先日、晴臣が「バンドがうまくいかなくなるのが嫌だ」と言ったのが理解できた。ギクシャクしてしまうと、創作活動にも影響を与えるのかもしれない。
微笑ましくてくすくす笑っている俺の方へ、拓真が顔を向けてきた。俺はビクッとして笑うのをやめた。まだ知らない人と接するのは、慣れない。
「ところで、今日、来てもらったのは、叶翔くん、いや、イラストレーターcourogeさんにお願いがあってのことです」
真剣な顔を向けられ、思わず背筋を伸ばした。
「まだオフレコなんだけど、俺たち、来年にデビューすることが決まったんだ」
「えっ! おめでとうございます!」
俺は思わず大きな声を出してしまい、手で口を覆った。晴臣が「しーっ」と人差し指を口元に持って来ている。
「それで、俺たちのデビュー曲のジャケットを描いてもらえないかと思って……」
拓真、晴臣、陽翔の目が俺に集まった。こんなにじっと見られているといたたまれない。じんわりと身体中に汗が滲んでくるのが分かった。息が詰まりそうになる。けれど、陽翔が机の下で俺の手をギュッと握りしめてくれた。その温もりが、俺を現実に繋ぎとめる。
「前、俺らみんな綾瀬くんのイラストのファンだっていう話、したじゃん? デビュー決まった時にジャケット描いてもらいたいねーって話してたんだよ」
晴臣が優しい笑顔を俺に向けて言った。
「お、俺なんかで……いいんですか?」
そう言いながら、自分でも驚くほど期待に胸が膨らんでいることに気づいた。自分の絵が、多くの人の目に触れる。彼らの音楽を、俺の絵が包む。そんな未来が見えた気がした。
「叶翔くんのイラストがいいんだよ!」
拓真の力強い言葉に、陽翔も晴臣もうんうんと大きく頷いている。
「できれば、ジャケットはテイストを統一していきたいから、専属というか、ずっと描いてもらいたいんだけど……」
どうかな? と拓真に聞かれ、思わず俯いてしまった。
だが俺は、陽翔のことで"逃げない"ということを学んだ。せっかく俺の絵を採用したいと言ってくれているんだ。高校時代の俺なら、こんな機会が訪れても、きっと恐怖に押しつぶされて断っていただろう。でも、今は違う。
俺は顔を上げて、拳を握った。
「分かりました。やらせていただきます!」
その言葉を聞いた陽翔が「やったー!」と叫んで抱きついてきた。そしてついでにキスしようと顔を寄せて来たので、反射的に陽翔の口を手で塞いでやった。
「ここ、外だから」
キスできずに、しゅんとしょげる陽翔は可愛いのだが……。節度は守ってもらわねば。あまりに無邪気すぎて、場の空気が読めない時がある。でも、それも彼の魅力なのかもしれない。
「はいはい。このバカ犬は放っておいて。また詳細が決まったら、契約とかあると思うので、その時はよろしくね」
拓真から右手を差し出されて、俺は両手でその手をぎゅっと握った。
「こちらこそよろしくお願いします」
するとすかさず、陽翔が拓真の手をぱちんと叩いて、俺の手をぎゅっと握った。
「叶翔、他の男の手なんて握らないで」
「あー。はいはい。この色バカ犬! まったく……」
拓真は目を細めて陽翔を睨め付けた。俺はこのやりとりが面白くて肩を揺らしてくすくすといつまでも笑ってしまった。陽翔のこんな一面は、意外だった。嫉妬深いというよりは、所有欲が強いのかもしれない。それが可愛らしくて、少し嬉しかった。
バンドメンバーとの話が終わり、俺と陽翔は席を立った。拓真と晴臣にお辞儀をして、カフェを出た。外は初夏を思わせる日差しだが、湿気がなくカラッとしているからか過ごしやすい。木漏れ日が通り沿いの歩道を斑模様に彩っている。
「陽翔、改めて、おめでとう!」
俺は陽翔に笑顔を向けると、「ありがと」と小さく呟いてスッと手を繋いできた。指を絡ませて恋人繋ぎをする。ついでに手の甲にチュッとキスを落としてきた。
「……っ! な、何っ……!」
頬が熱くなり、思わず周囲に目を配る。でも、誰も気にしていないようだった。
「だって、あいつらさー。今日デートだって言ったのに、その前に連れてこいって言うんだもん。二人っきりの時間、少なくなったじゃん」
こてんと俺の肩に頭をのせて甘えてくる陽翔は可愛い。その重みが、今ではすっかり心地よく感じられるようになっていた。
がっ! こっちは初彼氏、初デート、初屋外恋人繋ぎなんで、結構テンパってるんですけど?
「ま、まぁ……、それもそうだけど……」
俺は愛おしい陽翔の髪の毛に手を入れて、頭を撫でてやった。スリっと擦り寄ってくる陽翔は本当に大型犬のようだ。ついでにつむじにキスを落としてやると、機嫌が治ったのか、顔をあげ元気よく言った。
「叶翔、大好きっ! じゃあ、行こっか?」
急な襲撃に俺は思わず赤面してしまった。陽翔の「好き」という言葉は、いつも真っ直ぐに胸に刺さる。迷いのない、嘘のない、純粋な思い。俺たちは手を繋ぎ、肩を寄せ合いながら当初の目的のデートへと向かった。
デートと言っても、どこか特別なところに行くわけでもない。
まず本屋に行って、俺はイラスト関連の書籍の棚の前で、陽翔は音楽関連の棚の前で雑誌や本を立ち読みしていた。本のページをめくる指の動きには、目に見えない熱量がある。きっと、聴いたことのない音が頭の中で鳴り響いているのだろう。
一通り見終わった陽翔が、スッと俺の後ろにピッタリとくっついてきた。
「どう? なんかいい本あった?」
言葉をかけると同時にするっと手を繋いでくる。さりげなくやってくれるのだが、俺は反射的に体がビクッとしてしまう。まだ、こういうことには慣れない。
カフェでは向かい同士に座り、お互い頼んだランチを「あーん」と食べさせる。これは毎日のように大学の中庭でお弁当を食べる時にやっている行為で、もうすっかり慣れてしまった。陽翔の箸から伸びる食べ物を口に入れるとき、彼の眼差しが柔らかくなる。俺を大切に思っているのが、そこからも伝わってくる。
「見て! あの二人、すっごいイケメン!」
「声、かけてみる?」
「やだ! レベル高すぎるもん」
近くの席に座っている女性たちがこちらを見て囁いているが、気にならない。だって、今はいつもそばに陽翔がいるから。その存在が、俺の心の盾になってくれる。
その声を聞いた陽翔は大きくため息をついた。
「はぁ……。叶翔はホント、かっこいいんだよなぁ。俺に対してはかわいいけどね」
そう言いながら、俺の前髪をサラッと上げてくる。
「や、やめろよ。そんなことないって……」
「まったく、自分の美に無防備すぎるって。罪な男だわー」
陽翔は俺の髪を掬い上げていた手をほおに滑らせてくる。指先の熱が頬を伝ってきて思わずドキッとした。
ランチを終えると、ショップを見て回った。雑貨屋で気になったキーホルダーがあって、それをじっと見ていたら、陽翔が声をかけてきた。
「それ、お揃いで買おうか?」
「いいの?」
「もちろん! なんかお揃い持ってるとうれしいじゃん」
二人で色違いのキーホルダーを買う。なんだか繋がりができたみたいで嬉しかった。小さな証だけど、大きな意味を持つものだ。
――大学で会うのと違って、デートって楽しいな。ふたりで歩くのが、こんなに特別に思えるなんて……。
前は誰かから見られるのが怖かった。でも、今はもう怖くない。だって、隣には陽翔がいる。彼のそばにいると、周りの視線など気にならなくなる。そのことに気づいたとき、自分でも驚いた。
俺は横を歩く陽翔を見つめて、幸せを噛み締めた。
いくつもショップを見て回って、気づけば陽が傾いて夕暮れになっていた。オレンジ色の光が俺たちの影を長く作っている。空気がほんのり甘く感じられる。
「今日、楽しかった。ありがとう」
俺は肩を寄せ合い、手を繋いで歩いている陽翔に言った。陽翔は満面の笑みで「うん」と頷いた。
「叶翔が楽しんでくれて良かったよ。たまには外で過ごすのもいいでしょ?」
陽翔がカッコ良すぎて、通り過ぎる女性たちが振り返ってはキャーキャー騒いでいたのを思い出す。それでも陽翔は一度も俺の手を離さなかった。誇らしげに俺と歩いていた。
「陽翔、モテモテだったよね」
「え? 叶翔こそ」
陽翔は俺の前髪を指で掬った。顔が顕になって、体が思わずこわばってしまう。
「ほら、髪上げたら、めちゃくちゃかっこいい」
そう言いながら、俺の額にチュッとキスを落としてきた。
「もうっ! 陽翔、ここ、外っ!」
「別にいいじゃーん! 叶翔のこと好きなんだもん」
へへっと笑いながら俺に抱きついてくる。
――まったく、陽翔は……。
付き合い出して思い知ったのは、陽翔のスキンシップが多いことだ。外だろうがどこだろうが、隙さえあればキスをしようとしてきたり、抱きついて来たりする。手を握ってくるのは日常茶飯事だが、恋人繋ぎは今日が初めてだった。
「ねぇ、叶翔。今度、おでこ出して髪の毛セットしてよ。絶対、かっこいいって!」
「やだよ……」
俺はふいっと陽翔から顔を背けた。もう誰とも、目を合わさないように目を隠して下を向く必要はない。だが、もうすっかり目元を隠すのに慣れきっていて、前髪を上げる勇気が出ない。
「もうすぐ、俺の誕生日だから、その日限定でもいいから!」
陽翔は俺を覗き込んで懇願してくる。必死すぎて思わずぷはっと笑ってしまった。
「分かったよ。陽翔、誕生日いつ?」
「六月十二日」
「ホント、もうすぐじゃん!」
誕生日には何をプレゼントしたら喜ぶかな? こんなことを考える日が来るなんて高校時代には想像もできなかった。人を好きになる勇気、誰かを想う喜び――それを教えてくれたのは陽翔だった。
「叶翔は? 誕生日いつ?」
「俺? 十月三日」
「そっか。誕生日、お祝いしないとね」
「陽翔の誕生日の方が先だろ? プレゼント何がいいか考えといてよ」
「俺は、叶翔と二人で過ごせたら、何もいらない」
確かにそうだな。俺も同じだ。
「俺もだよ。陽翔がいれば何もいらない」
夕方の爽やかな風が俺の髪の毛を揺らした。俺は立ち止まって陽翔を見つめ、彼の袖口をぎゅっと掴んだ。
「どうしたの?」
驚いた表情で、俺の顔を見つめ返してくる。
「……あのさ。……まだ、帰りたくない……」
自分で言ったことが恥ずかしくなって、思わず俯いてしまった。心臓が早鐘のように打っている。でも、今だけは、この気持ちに正直になりたかった。
「俺もまだ、帰りたくないなぁ……」
陽翔は俺の頭を優しく撫でながら言った。
「陽翔……、うち、来る……?」
俺は上目遣いで陽翔を見た。らしくない言葉を吐いたことに後悔はしていない。だって、今すぐ陽翔とキスしたいと思ってしまったから……。心臓が早鐘を打っている。
陽翔は驚いて目を丸くしていたが、ゆっくり笑って「うん」と小さく頷いた。その瞳の奥に宿る温かな光に、安心感が広がった。
自宅マンションの鍵を開けて、陽翔を招き入れた。扉を開けた途端、ペンや絵の具の匂いが鼻をくすぐった。自分特有の空間に他人を入れることの緊張が、俺の背筋を伝う。
「わあー! 叶翔の部屋だっ! うれしい!」
まるで遊園地に来たみたいにはしゃいでいる陽翔を見ると、勇気を出して誘って良かったと思った。外では常に人目があったけれど、ここは二人だけの世界。そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「ちょっと、散らかってるかも……」
イラストを描くための作業机の上には、描きかけのイラストや絵の具やペンが散乱していた。それが俺という人間のすべてを物語っているようで、妙に恥ずかしくなる。
「これ、見ていい?」
机の上のスケッチブックを見つけた陽翔が聞いてきた。彼の目は好奇心で輝いていた。
「うん、いいよ。アイデア書き溜めてるだけだから。飲み物入れてくるけど、コーヒーでいい?」
陽翔はスケッチブックを見ながら「うん」と小さく頷いた。その仕草には、何か特別なものを扱うような丁寧さがあった。
キッチンからコーヒーを持ってセンターテーブルに置いた。陽翔はスケッチブックを凝視している。ページをめくる音だけが静かな部屋に響く。
「コーヒー、淹れたよ」
俺が声をかけると、我に返ったようにゆっくりと顔を上げた。その瞳には、何か湿ったような色があった。
「叶翔……」
陽翔が俺の手の上に手を重ねてきた。彼の手の温もりが俺の体を温かく包む。
「俺のこと、いっぱい描いてくれたんだね」
陽翔は俺の髪を指ですいて言った。その指先が耳に触れて、ぞくりと体が震えた。
「うん。陽翔のこと、好き、だから」
俺は自分から顔を近づけて、陽翔に口付けた。最初は啄むように、優しく、触れるだけのキス。自分から求めることが震えるほど怖かったのに、一度だけでは足りないと思ってしまう。
彼の呼吸が熱く、俺の唇を温める。その温度が、身体の奥まで沁みていくようだった。
そしてそれは徐々に深いものになっていった。俺が舌で陽翔の下唇をなぞると、彼の喉から小さな声が漏れる。陽翔は俺を受け入れ、すぐに口を薄く開けてくれた。俺は陽翔の口の中に舌を滑り込ませ、陽翔の舌を絡め取った。
「……ん……叶翔……」
陽翔から艶っぽい声が漏れる。その声が俺の耳の奥から背骨を伝って、下腹部まで響くようだった。陽翔も負けじと舌を伸ばして俺の舌を絡め取っていく。彼の手が、俺の首筋から肩へ、そして背中へと優しく滑っていく。まるで大切な作品に触れるような、そんな仕草だった。
やがて陽翔の手が、シャツの中に入ってきて、俺の体を撫で回した。温かい。温かすぎて、まるで火傷しそうな錯覚に陥る。
俺はびっくりして、キスをしている唇を離した。深く息を吸い込むと、陽翔の匂いでいっぱいになった。
陽翔が俺をギュッと抱きしめる。その腕の中が、世界で一番安全な場所のように思えた。
「叶翔、抱きたい……」
耳元で囁かれると、背中がゾクゾクとした。その言葉の意味を理解しながらも、自分の体が既にその言葉を望んでいることに驚いた。
俺は陽翔の首筋に顔を埋めた。汗と石鹸と、かすかな香水の匂いが混ざり合い、陽翔だけの香りを作っていた。
「……うん。……ベッドに行こ」
“うん”という二つの言葉の間に、一生分の勇気が必要だった。それでも、俺は言い切った。
寝室に移ると、ベッドカバーの青が二人を包み込んだ。廊下の灯りが微かに差し込み、陽翔の横顔を柔らかく照らしている。
待ちきれないとばかりに陽翔が激しくキスを繰り返してきた。息を吐く暇がないほど深く激しいキス。俺は下腹部の奥がじんじんと痺れるのを感じた。
とん、とベッドに寝かされ、またキスを繰り返す。覆い被さってきた陽翔の下半身がすでに硬くなっているのが分かった。その感触に一瞬怯んだが、陽翔の熱い吐息が俺の不安を溶かしていく。
「……叶翔、愛してる……」
俺の服を脱がせようとしてくれるのだが、指先が震えているのが分かった。その震えは緊張なのか、興奮なのか、それとも不安なのか。でも――。
――俺と同じなんだ……。
どんなことをするのかは知識で知っているが、いざするとなると恐怖が先に立ち、体が震えてくる。陽翔だって同じだ。彼も初めて。彼も不安。その事実が、妙に安心感を与えてくれた。
「……陽翔……」
俺から唇を重ねると、少し安心したようで指先の震えが止まった。俺の服を脱がし、自分の服も乱雑に脱いでいく。その時の彼の目は、まるで宝物を開けるときのような輝きを持っていた。
肌と肌が重なり合う。目を閉じていても、彼の体温だけで陽翔の存在が分かる。重なったところが熱く、触れるたびにビリビリと電気が走ったような感覚に陥る。
俺の肌を滑らせる陽翔の手は、ゴツゴツしていて硬い。ギターを弾くための指。その指が今、俺の身体という楽器を奏でていく。
「痛くない?」
陽翔の声が、俺の耳元で震えた。その声には不安と期待が混ざり合っていた。
「大丈夫……」
俺の声も同じように震えている。見つめあった瞳に映る自分は、きっと信じられないほど恥ずかしい表情をしているに違いない。でも、もう隠したいとは思わない。
「……叶翔、好き。愛しくてたまらない」
上から俺を見下ろす陽翔は、額に汗が滲んでいる。その瞳の奥は揺れて熱い眼差しだ。陽翔の顔が近づいてきて唇を重ねてきた。深く、深く。俺の体を触れながらキスを繰り返していく。
一つ一つの触れ合いが、これまでの傷を癒していく。高校時代の痛みも、孤独も、全部が陽翔の愛で浄化されていくようだった。
――愛されるって、愛するって、こんなに幸せなんだ……。
気がつくと、俺の頬に涙が伝っていた。陽翔が指先でそっとその涙をぬぐう。
「怖かったら言って。すぐ、やめるから……」
陽翔の声には、不安と優しさが入り混じっていた。ずっと俺を傷つけないように気を遣ってくれる陽翔。その思いやりに胸が熱くなる。
俺は首を振って言った。
「……怖くない。陽翔だから」
陽翔が微笑みながら、キスを落としてくる。俺は陽翔の背中に腕を回して、ギュッと抱きしめた。
彼の体重が俺の上に覆いかぶさる。その重みが、現実の重みとして心に刻まれる。陽翔の鼓動と呼吸が俺のそれと重なり、やがて同じリズムを刻み始める。
初めは痛みがあった。けれど、陽翔の「大丈夫?」という言葉と、「愛してる」という囁きが、その痛みを喜びに変えていく。
二人の体が一つになっていく。
窓から差し込む月明かりが、絡み合う二つの影を壁に映し出していた。汗ばんだ肌が光を反射して、まるで二人が発光しているかのように見える。
俺は陽翔の瞳を見つめた。いつからか、目を合わせることが怖くなくなっていた。むしろ、この瞬間だけは、ずっと見つめていたかった。
二人の呼吸が荒くなり、言葉よりも体の動きと声が思いを伝え合う。時間の感覚が揺らぎ、ただ二人だけの世界に閉じこもる。
「叶翔……叶翔……」
陽翔が俺の名前を何度も繰り返す。その声は祈りのように聞こえた。
彼の腕の中で、俺は全てを委ねた。恐れも、不安も、過去のトラウマも、全て消え去り、ただ今、この瞬間だけが存在した。
やがて二人とも息を切らして、はぁ、はぁと荒い息を吐いて、陽翔はぐったりと俺の横に転がった。
天井を見つめながら、現実に戻ってくる感覚。けれど、さっきまでの時間が夢ではなかったことを、体の疼きと、隣で横になっている陽翔の存在が証明していた。
俺の髪を撫でて、キスを落としてくる。
「叶翔、ありがとう……。体、辛くない?」
陽翔の声は、いつもより少し低く、柔らかく響いた。
「うん……」
俺は陽翔の肩の付け根に頭をのせて、彼の胸にキスを落とした。ドクン、ドクンと、彼の心臓の音が聞こえる。その音は俺にとって、世界で一番安心できる音楽だった。
額をくっつけると、二人ともふふっと笑った。理由もなく、ただ幸せすぎて、笑いがこみ上げてきた。
「……ホントに、俺たち……、恋人、なんだよね?」
陽翔はふふっと優しく笑って、俺を抱きしめた。その腕の力強さが、この全てが現実であることを教えてくれる。
「当たり前だろ? 俺がこんなに叶翔のこと愛してるの、分からない?」
「なんか、まだ、信じられなくて……」
高校時代にあんな目に遭った後、誰かに愛されるなんて、思いもしなかった。それなのに、こんなにも愛してくれる人が現れて、俺を選んでくれたなんて――。
「信じさせるよ。これから何度でも……」
陽翔は俺に覆い被さって、キスをした。それは次第に深くなっていく。体が重なっている部分が再び熱を持っていく。
「これで信じられた?」
キスを終えた陽翔は、いたずらっぽい笑みで俺を見つめた。その瞳には、さっきまでの情熱とは別の、深い愛情が満ちていた。
「うん。信じるよ……」
ハハっと二人で笑い合う。こんな優しい時間がずっと続けばいいのに……。
触れて、感じた。愛されるって、こんなに優しくて、あたたかくて……。世界で一番、安心することだったんだ――。
窓の外、夜空に浮かぶ月が、二人の体を優しく照らしていた。陽翔の腕の中で、俺はまどろんでいった。初めて誰かと眠る夜。それも、こんなに安心した気持ちで――。
明日、目が覚めたとき、陽翔はまだここにいるだろうか。そんな不安が過ぎったが、すぐに消えた。きっと彼はいる。もう、彼は何があっても俺の側にいてくれる。そう思える確信が、この夜に生まれていた。
閉じていく瞼の向こうで、陽翔の寝息が安らかに響いていた。
「みんな、気持ち悪がると思ってたけど……よかった……」
俺はコメントを読みながら、心が温まるのを感じた。息を吐く度に、胸の奥が少しずつ軽くなっていくような感覚。これが、認められることの喜びなのだろうか。
そもそも、アカウント名をフランス語の「勇気」を表すcouroge(クラージ)としたのは、自分自身に勇気が持てないからだった。でも、勇気を出して、イラストをみんなに見てもらいたいという気持ちも込めてアカウント名をcourogeとした。そして、見てもらった人にも勇気を持ってもらえれば、なおいいと思っている。
休止していた間もずっとイラストは描き綴っていた。陽翔を描いたもの、彼の笑顔、彼の指、彼の横顔――数えきれないほど。だが、それはまだ誰にも見せていない。そのおかげで、アカウントを再開してもコンスタントにイラストを公開することができている。やはり俺にとって絵を描くということは、一番心休まる瞬間なのだ。
筆を走らせる時だけは、全ての恐怖から解放される。色彩と線だけの世界。そこには、逃げなくてもいい自分がいる。
アカウント再開から一ヶ月が経った頃、陽翔からデートに誘われた。毎日大学で会っているのだが、外で会うのはこれが初めてだ。なんとなく恥ずかしさが伴いながらも、初デートにウキウキと心が踊った。新鮮さを感じながら服を選んでいると、スマートフォンが震えた。
『十時に大学近くのカフェに来て』
俺の家に十一時に迎えに来ると言っていたのに、何か予定が変わったのだろうか?
少し不安になったが、すぐに返信した。
『分かった。今から向かうね』
突然どうしたのだろうかと不思議に思ったものの、時間通りに指定のカフェに行った。中に入ると、そこに陽翔の他に、晴臣ともう一人、バンドのベーシストが座っていた。三人は何か話し込んでいるようだった。
「叶翔! 急にごめんね」
俺が入って来たことに気づいた陽翔は立ち上がって、ぱあっと明るい笑顔を俺に向けてきた。夏の日差しのような、まぶしいばかりの笑み。手招きされ、バンドメンバーのいる席に向かった。
「叶翔、ここ、座って!」
陽翔が隣の席をポンポンと叩いて、そこに座るように促す。指定された席に腰掛けると、陽翔がテーブルの下でスッと手を繋いできた。ビクッと肩を揺らしてじろりと陽翔を見やると「何か問題でも?」という表情でにっこりしながら、肩をくっつけてくる。
いつ、どこにいても、彼のスキンシップは予測不能だ。でも、最近はそれが嫌じゃなくなってきている自分がいる。
「急に呼び出してごめんね。俺、BLUE MOONのリーダーで、ベース担当の相沢拓真です」
拓真は金色の短髪をワックスでツンツンと立たせており、耳にはいくつものピアスをしている。服の上からでも筋肉隆々なのが分かった。一見、強面なのだが、目を細めて笑う様はきっと悪い人じゃないことが分かった。意外と笑った顔は可愛らしい。
「は、初めまして……綾瀬叶翔です」
俺はぺこっと頭を下げて挨拶をした。横に座っている陽翔が俺の方をにこにこしながらじっと見つめていて、なんとも居心地が悪い。まるで珍しい生き物を見つけて喜んでいる子どもみたいだ。
「叶翔くん、いやー、噂には聞いてたけど、すっごいかっこいいじゃん!」
拓真が前のめりで俺の顔を覗き込んでくる。俺なんて全然かっこよくないのに、なんでそんなふうに言うんだろう……。陽翔の影響で、みんなが俺を過大評価している気がしてならない。
「……え、えぇっと……」
なんと答えていいのか分からずにモジモジしていたら、陽翔がぎりっと拓真を睨みつける。
「おいやめろ。叶翔は俺の彼氏だからな」
すかさず陽翔が手でグッと拓真の体を後ろに押した。その動作には、柔らかい笑顔とは裏腹に、明確な警告が込められていた。
「あー、はいはい。分かった分かった」
拓真がめんどくさそうに手をひらひらと振って、陽翔をいなしている。それを見た晴臣が、またかと言わんばかりに大きなため息をついた。
こうやってバンドメンバーが一度に集まっているのを見ると、先日、晴臣が「バンドがうまくいかなくなるのが嫌だ」と言ったのが理解できた。ギクシャクしてしまうと、創作活動にも影響を与えるのかもしれない。
微笑ましくてくすくす笑っている俺の方へ、拓真が顔を向けてきた。俺はビクッとして笑うのをやめた。まだ知らない人と接するのは、慣れない。
「ところで、今日、来てもらったのは、叶翔くん、いや、イラストレーターcourogeさんにお願いがあってのことです」
真剣な顔を向けられ、思わず背筋を伸ばした。
「まだオフレコなんだけど、俺たち、来年にデビューすることが決まったんだ」
「えっ! おめでとうございます!」
俺は思わず大きな声を出してしまい、手で口を覆った。晴臣が「しーっ」と人差し指を口元に持って来ている。
「それで、俺たちのデビュー曲のジャケットを描いてもらえないかと思って……」
拓真、晴臣、陽翔の目が俺に集まった。こんなにじっと見られているといたたまれない。じんわりと身体中に汗が滲んでくるのが分かった。息が詰まりそうになる。けれど、陽翔が机の下で俺の手をギュッと握りしめてくれた。その温もりが、俺を現実に繋ぎとめる。
「前、俺らみんな綾瀬くんのイラストのファンだっていう話、したじゃん? デビュー決まった時にジャケット描いてもらいたいねーって話してたんだよ」
晴臣が優しい笑顔を俺に向けて言った。
「お、俺なんかで……いいんですか?」
そう言いながら、自分でも驚くほど期待に胸が膨らんでいることに気づいた。自分の絵が、多くの人の目に触れる。彼らの音楽を、俺の絵が包む。そんな未来が見えた気がした。
「叶翔くんのイラストがいいんだよ!」
拓真の力強い言葉に、陽翔も晴臣もうんうんと大きく頷いている。
「できれば、ジャケットはテイストを統一していきたいから、専属というか、ずっと描いてもらいたいんだけど……」
どうかな? と拓真に聞かれ、思わず俯いてしまった。
だが俺は、陽翔のことで"逃げない"ということを学んだ。せっかく俺の絵を採用したいと言ってくれているんだ。高校時代の俺なら、こんな機会が訪れても、きっと恐怖に押しつぶされて断っていただろう。でも、今は違う。
俺は顔を上げて、拳を握った。
「分かりました。やらせていただきます!」
その言葉を聞いた陽翔が「やったー!」と叫んで抱きついてきた。そしてついでにキスしようと顔を寄せて来たので、反射的に陽翔の口を手で塞いでやった。
「ここ、外だから」
キスできずに、しゅんとしょげる陽翔は可愛いのだが……。節度は守ってもらわねば。あまりに無邪気すぎて、場の空気が読めない時がある。でも、それも彼の魅力なのかもしれない。
「はいはい。このバカ犬は放っておいて。また詳細が決まったら、契約とかあると思うので、その時はよろしくね」
拓真から右手を差し出されて、俺は両手でその手をぎゅっと握った。
「こちらこそよろしくお願いします」
するとすかさず、陽翔が拓真の手をぱちんと叩いて、俺の手をぎゅっと握った。
「叶翔、他の男の手なんて握らないで」
「あー。はいはい。この色バカ犬! まったく……」
拓真は目を細めて陽翔を睨め付けた。俺はこのやりとりが面白くて肩を揺らしてくすくすといつまでも笑ってしまった。陽翔のこんな一面は、意外だった。嫉妬深いというよりは、所有欲が強いのかもしれない。それが可愛らしくて、少し嬉しかった。
バンドメンバーとの話が終わり、俺と陽翔は席を立った。拓真と晴臣にお辞儀をして、カフェを出た。外は初夏を思わせる日差しだが、湿気がなくカラッとしているからか過ごしやすい。木漏れ日が通り沿いの歩道を斑模様に彩っている。
「陽翔、改めて、おめでとう!」
俺は陽翔に笑顔を向けると、「ありがと」と小さく呟いてスッと手を繋いできた。指を絡ませて恋人繋ぎをする。ついでに手の甲にチュッとキスを落としてきた。
「……っ! な、何っ……!」
頬が熱くなり、思わず周囲に目を配る。でも、誰も気にしていないようだった。
「だって、あいつらさー。今日デートだって言ったのに、その前に連れてこいって言うんだもん。二人っきりの時間、少なくなったじゃん」
こてんと俺の肩に頭をのせて甘えてくる陽翔は可愛い。その重みが、今ではすっかり心地よく感じられるようになっていた。
がっ! こっちは初彼氏、初デート、初屋外恋人繋ぎなんで、結構テンパってるんですけど?
「ま、まぁ……、それもそうだけど……」
俺は愛おしい陽翔の髪の毛に手を入れて、頭を撫でてやった。スリっと擦り寄ってくる陽翔は本当に大型犬のようだ。ついでにつむじにキスを落としてやると、機嫌が治ったのか、顔をあげ元気よく言った。
「叶翔、大好きっ! じゃあ、行こっか?」
急な襲撃に俺は思わず赤面してしまった。陽翔の「好き」という言葉は、いつも真っ直ぐに胸に刺さる。迷いのない、嘘のない、純粋な思い。俺たちは手を繋ぎ、肩を寄せ合いながら当初の目的のデートへと向かった。
デートと言っても、どこか特別なところに行くわけでもない。
まず本屋に行って、俺はイラスト関連の書籍の棚の前で、陽翔は音楽関連の棚の前で雑誌や本を立ち読みしていた。本のページをめくる指の動きには、目に見えない熱量がある。きっと、聴いたことのない音が頭の中で鳴り響いているのだろう。
一通り見終わった陽翔が、スッと俺の後ろにピッタリとくっついてきた。
「どう? なんかいい本あった?」
言葉をかけると同時にするっと手を繋いでくる。さりげなくやってくれるのだが、俺は反射的に体がビクッとしてしまう。まだ、こういうことには慣れない。
カフェでは向かい同士に座り、お互い頼んだランチを「あーん」と食べさせる。これは毎日のように大学の中庭でお弁当を食べる時にやっている行為で、もうすっかり慣れてしまった。陽翔の箸から伸びる食べ物を口に入れるとき、彼の眼差しが柔らかくなる。俺を大切に思っているのが、そこからも伝わってくる。
「見て! あの二人、すっごいイケメン!」
「声、かけてみる?」
「やだ! レベル高すぎるもん」
近くの席に座っている女性たちがこちらを見て囁いているが、気にならない。だって、今はいつもそばに陽翔がいるから。その存在が、俺の心の盾になってくれる。
その声を聞いた陽翔は大きくため息をついた。
「はぁ……。叶翔はホント、かっこいいんだよなぁ。俺に対してはかわいいけどね」
そう言いながら、俺の前髪をサラッと上げてくる。
「や、やめろよ。そんなことないって……」
「まったく、自分の美に無防備すぎるって。罪な男だわー」
陽翔は俺の髪を掬い上げていた手をほおに滑らせてくる。指先の熱が頬を伝ってきて思わずドキッとした。
ランチを終えると、ショップを見て回った。雑貨屋で気になったキーホルダーがあって、それをじっと見ていたら、陽翔が声をかけてきた。
「それ、お揃いで買おうか?」
「いいの?」
「もちろん! なんかお揃い持ってるとうれしいじゃん」
二人で色違いのキーホルダーを買う。なんだか繋がりができたみたいで嬉しかった。小さな証だけど、大きな意味を持つものだ。
――大学で会うのと違って、デートって楽しいな。ふたりで歩くのが、こんなに特別に思えるなんて……。
前は誰かから見られるのが怖かった。でも、今はもう怖くない。だって、隣には陽翔がいる。彼のそばにいると、周りの視線など気にならなくなる。そのことに気づいたとき、自分でも驚いた。
俺は横を歩く陽翔を見つめて、幸せを噛み締めた。
いくつもショップを見て回って、気づけば陽が傾いて夕暮れになっていた。オレンジ色の光が俺たちの影を長く作っている。空気がほんのり甘く感じられる。
「今日、楽しかった。ありがとう」
俺は肩を寄せ合い、手を繋いで歩いている陽翔に言った。陽翔は満面の笑みで「うん」と頷いた。
「叶翔が楽しんでくれて良かったよ。たまには外で過ごすのもいいでしょ?」
陽翔がカッコ良すぎて、通り過ぎる女性たちが振り返ってはキャーキャー騒いでいたのを思い出す。それでも陽翔は一度も俺の手を離さなかった。誇らしげに俺と歩いていた。
「陽翔、モテモテだったよね」
「え? 叶翔こそ」
陽翔は俺の前髪を指で掬った。顔が顕になって、体が思わずこわばってしまう。
「ほら、髪上げたら、めちゃくちゃかっこいい」
そう言いながら、俺の額にチュッとキスを落としてきた。
「もうっ! 陽翔、ここ、外っ!」
「別にいいじゃーん! 叶翔のこと好きなんだもん」
へへっと笑いながら俺に抱きついてくる。
――まったく、陽翔は……。
付き合い出して思い知ったのは、陽翔のスキンシップが多いことだ。外だろうがどこだろうが、隙さえあればキスをしようとしてきたり、抱きついて来たりする。手を握ってくるのは日常茶飯事だが、恋人繋ぎは今日が初めてだった。
「ねぇ、叶翔。今度、おでこ出して髪の毛セットしてよ。絶対、かっこいいって!」
「やだよ……」
俺はふいっと陽翔から顔を背けた。もう誰とも、目を合わさないように目を隠して下を向く必要はない。だが、もうすっかり目元を隠すのに慣れきっていて、前髪を上げる勇気が出ない。
「もうすぐ、俺の誕生日だから、その日限定でもいいから!」
陽翔は俺を覗き込んで懇願してくる。必死すぎて思わずぷはっと笑ってしまった。
「分かったよ。陽翔、誕生日いつ?」
「六月十二日」
「ホント、もうすぐじゃん!」
誕生日には何をプレゼントしたら喜ぶかな? こんなことを考える日が来るなんて高校時代には想像もできなかった。人を好きになる勇気、誰かを想う喜び――それを教えてくれたのは陽翔だった。
「叶翔は? 誕生日いつ?」
「俺? 十月三日」
「そっか。誕生日、お祝いしないとね」
「陽翔の誕生日の方が先だろ? プレゼント何がいいか考えといてよ」
「俺は、叶翔と二人で過ごせたら、何もいらない」
確かにそうだな。俺も同じだ。
「俺もだよ。陽翔がいれば何もいらない」
夕方の爽やかな風が俺の髪の毛を揺らした。俺は立ち止まって陽翔を見つめ、彼の袖口をぎゅっと掴んだ。
「どうしたの?」
驚いた表情で、俺の顔を見つめ返してくる。
「……あのさ。……まだ、帰りたくない……」
自分で言ったことが恥ずかしくなって、思わず俯いてしまった。心臓が早鐘のように打っている。でも、今だけは、この気持ちに正直になりたかった。
「俺もまだ、帰りたくないなぁ……」
陽翔は俺の頭を優しく撫でながら言った。
「陽翔……、うち、来る……?」
俺は上目遣いで陽翔を見た。らしくない言葉を吐いたことに後悔はしていない。だって、今すぐ陽翔とキスしたいと思ってしまったから……。心臓が早鐘を打っている。
陽翔は驚いて目を丸くしていたが、ゆっくり笑って「うん」と小さく頷いた。その瞳の奥に宿る温かな光に、安心感が広がった。
自宅マンションの鍵を開けて、陽翔を招き入れた。扉を開けた途端、ペンや絵の具の匂いが鼻をくすぐった。自分特有の空間に他人を入れることの緊張が、俺の背筋を伝う。
「わあー! 叶翔の部屋だっ! うれしい!」
まるで遊園地に来たみたいにはしゃいでいる陽翔を見ると、勇気を出して誘って良かったと思った。外では常に人目があったけれど、ここは二人だけの世界。そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「ちょっと、散らかってるかも……」
イラストを描くための作業机の上には、描きかけのイラストや絵の具やペンが散乱していた。それが俺という人間のすべてを物語っているようで、妙に恥ずかしくなる。
「これ、見ていい?」
机の上のスケッチブックを見つけた陽翔が聞いてきた。彼の目は好奇心で輝いていた。
「うん、いいよ。アイデア書き溜めてるだけだから。飲み物入れてくるけど、コーヒーでいい?」
陽翔はスケッチブックを見ながら「うん」と小さく頷いた。その仕草には、何か特別なものを扱うような丁寧さがあった。
キッチンからコーヒーを持ってセンターテーブルに置いた。陽翔はスケッチブックを凝視している。ページをめくる音だけが静かな部屋に響く。
「コーヒー、淹れたよ」
俺が声をかけると、我に返ったようにゆっくりと顔を上げた。その瞳には、何か湿ったような色があった。
「叶翔……」
陽翔が俺の手の上に手を重ねてきた。彼の手の温もりが俺の体を温かく包む。
「俺のこと、いっぱい描いてくれたんだね」
陽翔は俺の髪を指ですいて言った。その指先が耳に触れて、ぞくりと体が震えた。
「うん。陽翔のこと、好き、だから」
俺は自分から顔を近づけて、陽翔に口付けた。最初は啄むように、優しく、触れるだけのキス。自分から求めることが震えるほど怖かったのに、一度だけでは足りないと思ってしまう。
彼の呼吸が熱く、俺の唇を温める。その温度が、身体の奥まで沁みていくようだった。
そしてそれは徐々に深いものになっていった。俺が舌で陽翔の下唇をなぞると、彼の喉から小さな声が漏れる。陽翔は俺を受け入れ、すぐに口を薄く開けてくれた。俺は陽翔の口の中に舌を滑り込ませ、陽翔の舌を絡め取った。
「……ん……叶翔……」
陽翔から艶っぽい声が漏れる。その声が俺の耳の奥から背骨を伝って、下腹部まで響くようだった。陽翔も負けじと舌を伸ばして俺の舌を絡め取っていく。彼の手が、俺の首筋から肩へ、そして背中へと優しく滑っていく。まるで大切な作品に触れるような、そんな仕草だった。
やがて陽翔の手が、シャツの中に入ってきて、俺の体を撫で回した。温かい。温かすぎて、まるで火傷しそうな錯覚に陥る。
俺はびっくりして、キスをしている唇を離した。深く息を吸い込むと、陽翔の匂いでいっぱいになった。
陽翔が俺をギュッと抱きしめる。その腕の中が、世界で一番安全な場所のように思えた。
「叶翔、抱きたい……」
耳元で囁かれると、背中がゾクゾクとした。その言葉の意味を理解しながらも、自分の体が既にその言葉を望んでいることに驚いた。
俺は陽翔の首筋に顔を埋めた。汗と石鹸と、かすかな香水の匂いが混ざり合い、陽翔だけの香りを作っていた。
「……うん。……ベッドに行こ」
“うん”という二つの言葉の間に、一生分の勇気が必要だった。それでも、俺は言い切った。
寝室に移ると、ベッドカバーの青が二人を包み込んだ。廊下の灯りが微かに差し込み、陽翔の横顔を柔らかく照らしている。
待ちきれないとばかりに陽翔が激しくキスを繰り返してきた。息を吐く暇がないほど深く激しいキス。俺は下腹部の奥がじんじんと痺れるのを感じた。
とん、とベッドに寝かされ、またキスを繰り返す。覆い被さってきた陽翔の下半身がすでに硬くなっているのが分かった。その感触に一瞬怯んだが、陽翔の熱い吐息が俺の不安を溶かしていく。
「……叶翔、愛してる……」
俺の服を脱がせようとしてくれるのだが、指先が震えているのが分かった。その震えは緊張なのか、興奮なのか、それとも不安なのか。でも――。
――俺と同じなんだ……。
どんなことをするのかは知識で知っているが、いざするとなると恐怖が先に立ち、体が震えてくる。陽翔だって同じだ。彼も初めて。彼も不安。その事実が、妙に安心感を与えてくれた。
「……陽翔……」
俺から唇を重ねると、少し安心したようで指先の震えが止まった。俺の服を脱がし、自分の服も乱雑に脱いでいく。その時の彼の目は、まるで宝物を開けるときのような輝きを持っていた。
肌と肌が重なり合う。目を閉じていても、彼の体温だけで陽翔の存在が分かる。重なったところが熱く、触れるたびにビリビリと電気が走ったような感覚に陥る。
俺の肌を滑らせる陽翔の手は、ゴツゴツしていて硬い。ギターを弾くための指。その指が今、俺の身体という楽器を奏でていく。
「痛くない?」
陽翔の声が、俺の耳元で震えた。その声には不安と期待が混ざり合っていた。
「大丈夫……」
俺の声も同じように震えている。見つめあった瞳に映る自分は、きっと信じられないほど恥ずかしい表情をしているに違いない。でも、もう隠したいとは思わない。
「……叶翔、好き。愛しくてたまらない」
上から俺を見下ろす陽翔は、額に汗が滲んでいる。その瞳の奥は揺れて熱い眼差しだ。陽翔の顔が近づいてきて唇を重ねてきた。深く、深く。俺の体を触れながらキスを繰り返していく。
一つ一つの触れ合いが、これまでの傷を癒していく。高校時代の痛みも、孤独も、全部が陽翔の愛で浄化されていくようだった。
――愛されるって、愛するって、こんなに幸せなんだ……。
気がつくと、俺の頬に涙が伝っていた。陽翔が指先でそっとその涙をぬぐう。
「怖かったら言って。すぐ、やめるから……」
陽翔の声には、不安と優しさが入り混じっていた。ずっと俺を傷つけないように気を遣ってくれる陽翔。その思いやりに胸が熱くなる。
俺は首を振って言った。
「……怖くない。陽翔だから」
陽翔が微笑みながら、キスを落としてくる。俺は陽翔の背中に腕を回して、ギュッと抱きしめた。
彼の体重が俺の上に覆いかぶさる。その重みが、現実の重みとして心に刻まれる。陽翔の鼓動と呼吸が俺のそれと重なり、やがて同じリズムを刻み始める。
初めは痛みがあった。けれど、陽翔の「大丈夫?」という言葉と、「愛してる」という囁きが、その痛みを喜びに変えていく。
二人の体が一つになっていく。
窓から差し込む月明かりが、絡み合う二つの影を壁に映し出していた。汗ばんだ肌が光を反射して、まるで二人が発光しているかのように見える。
俺は陽翔の瞳を見つめた。いつからか、目を合わせることが怖くなくなっていた。むしろ、この瞬間だけは、ずっと見つめていたかった。
二人の呼吸が荒くなり、言葉よりも体の動きと声が思いを伝え合う。時間の感覚が揺らぎ、ただ二人だけの世界に閉じこもる。
「叶翔……叶翔……」
陽翔が俺の名前を何度も繰り返す。その声は祈りのように聞こえた。
彼の腕の中で、俺は全てを委ねた。恐れも、不安も、過去のトラウマも、全て消え去り、ただ今、この瞬間だけが存在した。
やがて二人とも息を切らして、はぁ、はぁと荒い息を吐いて、陽翔はぐったりと俺の横に転がった。
天井を見つめながら、現実に戻ってくる感覚。けれど、さっきまでの時間が夢ではなかったことを、体の疼きと、隣で横になっている陽翔の存在が証明していた。
俺の髪を撫でて、キスを落としてくる。
「叶翔、ありがとう……。体、辛くない?」
陽翔の声は、いつもより少し低く、柔らかく響いた。
「うん……」
俺は陽翔の肩の付け根に頭をのせて、彼の胸にキスを落とした。ドクン、ドクンと、彼の心臓の音が聞こえる。その音は俺にとって、世界で一番安心できる音楽だった。
額をくっつけると、二人ともふふっと笑った。理由もなく、ただ幸せすぎて、笑いがこみ上げてきた。
「……ホントに、俺たち……、恋人、なんだよね?」
陽翔はふふっと優しく笑って、俺を抱きしめた。その腕の力強さが、この全てが現実であることを教えてくれる。
「当たり前だろ? 俺がこんなに叶翔のこと愛してるの、分からない?」
「なんか、まだ、信じられなくて……」
高校時代にあんな目に遭った後、誰かに愛されるなんて、思いもしなかった。それなのに、こんなにも愛してくれる人が現れて、俺を選んでくれたなんて――。
「信じさせるよ。これから何度でも……」
陽翔は俺に覆い被さって、キスをした。それは次第に深くなっていく。体が重なっている部分が再び熱を持っていく。
「これで信じられた?」
キスを終えた陽翔は、いたずらっぽい笑みで俺を見つめた。その瞳には、さっきまでの情熱とは別の、深い愛情が満ちていた。
「うん。信じるよ……」
ハハっと二人で笑い合う。こんな優しい時間がずっと続けばいいのに……。
触れて、感じた。愛されるって、こんなに優しくて、あたたかくて……。世界で一番、安心することだったんだ――。
窓の外、夜空に浮かぶ月が、二人の体を優しく照らしていた。陽翔の腕の中で、俺はまどろんでいった。初めて誰かと眠る夜。それも、こんなに安心した気持ちで――。
明日、目が覚めたとき、陽翔はまだここにいるだろうか。そんな不安が過ぎったが、すぐに消えた。きっと彼はいる。もう、彼は何があっても俺の側にいてくれる。そう思える確信が、この夜に生まれていた。
閉じていく瞼の向こうで、陽翔の寝息が安らかに響いていた。



