空がオレンジから濃紺のグラデーションに染まる頃、俺は、ライブを終えた陽翔に自分の気持ちを伝えようと、正門前で震える足で立っていた。キャンパス内には模擬店の片付けをふざけ合いながらしているような楽しい笑い声が響き渡り、その自然な幸せが俺にはまだ遠い世界のように感じられた。

 観客の前であのような公開告白をしたのだから、きっとメジャーデビュー前の汚点になるだろう。大勢に囲まれてどうしてあんなことをしたのだと詰め寄られてはいないかと、陽翔のことを心配した。熱くなると周りが見えなくなる天然な彼のことだ。芸能人予備軍として、ああいう行動は制限されているはずなのに。

 目線を靴先に落とし、どうやって自分の気持ちを伝えようかと思案しているところに、俺に近づく足音が聞こえた。心臓が早鐘を打ち、息を潜めて足音の主を待った。

 目を上げると、そこには陽翔ではなくBLUE MOONのメンバー、ドラムの藤堂晴臣(とうどうはるおみ)が立っていた。スレンダーな体躯に整った顔立ちは、それだけで絵になる。ただ、彼の表情はいつものような冷たいものではなく、どこか柔らかい光を湛えていた。

 俺はなぜ晴臣がここにいるのかと両眉を跳ね上げ、思わず一歩後ずさった。

「綾瀬くん、ちょっと話できるかな?」

 いつもクールな声は、一段と低く心地よく耳に届いた。その表情は借り物のような貼り付けた笑顔ではなく、初めて見る素の表情だった。

「……はい」

 きっと陽翔のことに違いない。メンバーとして俺を牽制しに来たのかもしれないと身を固くした。人気バンドのボーカルが大学の後輩に公開告白なんて、メンバーが黙っているはずがない。

 何を言われるのだろうか……。メジャーデビューのために、身を引いてくれと言われるのか? それとも、もう、陽翔に関わるなと罵られるのか……。もしかしたら、ボコボコに殴られるかも――。

 拳をぎゅっと握って、半歩前を行く晴臣について行った。陽翔の気持ちに向き合うと決めたのに、心の中はまた不安でいっぱいになり、喉が乾き足取りは重い。

 人気のないキャンパスのベンチに着くと、晴臣はこちらを向いてガバッと頭を下げた。

「綾瀬くん、ごめん! 俺、君に意地悪してた!」

 予想していたことと全く違う展開に、俺は思わず口をポカンと開けてしまった。心の中で反芻する。

 ――え? BLUE MOONのイケメンドラマーが、俺に、謝罪?

「……あのー、一体どういう……」

 何が起こっているのか全く理解できずに、首を傾げて晴臣に聞いた。両手をもぞもぞと動かし、心の中の混乱を必死に抑える。

「俺、実は、ずっと陽翔に片想いしてて……。いつになくアイツが本気だったから、嫉妬して、君にちょっかい出してた……」

 普段なら冷たさが滲み出ているようなクールな顔なのに、眉を下げ、困った犬のような表情をした晴臣は、本当に申し訳なさそうに呟いた。彼の目は潤んでいて、その真摯さに胸が痛んだ。

「えぇっと……。あまり、そんなことされた覚えないんですけど……」

「あっ! あのさ、熱しやすく冷めやすいってアイツのこと言っただろ? あれ、君に諦めて欲しくて言って……」

 なんだ、そういうことだったのか!

 こんなにかっこいい人でも、好きな人に振り向いてもらうために必死だったんだと思うと、なんだか可愛く思えてきた。俺を脅しに来たわけじゃないんだ。少し体の力が抜ける。

「あれ、そうだったんですか……。でも俺、陽翔さんが自分から人を好きになったことないって前に聞いたことあって。だから、晴臣さんがそのことを俺に言ってきた時、『長く一緒にいるのに、陽翔さんのこと誤解してる』って思ってたんですよ」

 俺の言葉に、晴臣の顔は一気に赤さが増した。髪の間から覗く耳まで真っ赤になっている。

「ホント、ごめん! なんか、大人気ないよな……」

「でも晴臣さんは、それだけ陽翔さんのこと、本気だったんでしょ? 気持ち伝えればよかったのに」

 晴臣は大きくため息をついて俯いた。その肩が少し震えている。

「そりゃ、気持ち伝えたら、付き合えたのは分かってる。でも、付き合ってもアイツが俺のこと本気で好きになることはないだろ? それで別れたら、バンドもうまくいかないかもしれないし。そう考えたら、伝えること、できなかった……」

 晴臣にとってはバンドも陽翔もどちらも大切な存在なのだろう。どちらも壊してしまう行動は躊躇するのは分かる気がした。俺も高校時代、大切な友情と恋を天秤にかけた結果、全てを失った経験がある。

「そう……だったんですね。辛かったですね」

 晴臣は力無く俯いたまま、ボソボソと話を続けた。彼の細い指先が震えている。

「アイツ、今まで自分から人に興味を持ったことなかったのに、君にだけはすごく興味持ってさ、人生で初めて好きな人ができたって嬉しそうに言うんだよ。それが悔しくて……、ホント、ごめん……」

 気持ちを伝えたいのに伝えられなくて、きっと心の中がぐちゃぐちゃになっていたんだろう。それが俺に向けてぶつけられていたなんて。なんとなく、理解できたような気がした。

「晴臣さん、俺、別に怒ってないし、大丈夫ですよ」

 そっと晴臣の肩口に触れると、安心したように彼は俺を見つめ返してきた。その目には感謝の色が浮かんでいる。俺に向かって小さく頷くと、彼は微かに笑みをこぼした。

「でもさ、ライブで公開告白するって言い出した時は、こりゃ本気だって、俺も諦めたけどね」

 ふふっと笑っているが、目は少し寂しそうだった。晴臣自身もきっと切ない思いを抱えているのだろう。

「……そう……だったんですか……」

「君も、自分の気持ちに正直になって! あ、そうだ。君のイラスト、俺たちみんなファンなんだよ。早くアカウント再開してよ」

 急に創作アカウントの話をされて思わずビクッと肩を揺らした。心臓が止まりそうになる。

「な、なんで、それ……」

「だって、前に陽翔の絵を図書館で描いてただろ? あれ、アップされてたから、君が人気絵師だって分かっちゃった」

 人好きのする笑顔で言われると、諦めるしかない。鼓動が激しくなり、息が詰まりそうになる。

「それに、ほら、ちょっと前に俺らのファンだった子が荒らしてただろ? あれでもう、確定だよね」

 その言葉を聞くと、冷や汗が止まらなかった。首筋を冷たい汗が伝う感覚。

「あの……、もしかして、アカウントのこと、陽翔さんも……」

「もちろん、知ってるよ!」

 あっけらかんと言われ、愕然とした。もう、俺のアカウント、大勢に知られてしまっている。高校の時のトラウマが蘇る。でも、今回は違う。誰も俺を責めていない。ただただ、応援してくれている。もうこれは、開き直るしかないのかもしれない。

「君の絵、本当に絵に込められた気持ちがダイレクトに伝わるんだよな。早く新しいイラストアップしてよ。俺でよかったら、いつでもモデルになるからさ」

 バチンとウインクする晴臣は、めちゃくちゃカッコよかった。俺は自分の気持ちを素直に表す晴臣を見て、くすりと笑った。不思議と彼と話していると、緊張が解けてくるのが分かった。


 春フェスも終わり、普段の大学生活が戻ってきた。キャンパスに植えられたツツジが白やピンクの花を咲かせて、まだまだ春は続くと訴えているようだ。その花びらの一つ一つが鮮やかで、以前より色彩豊かに見える。

 フェスで人気バンドのボーカルが公開告白をしたと言うことは、学内に知れ渡っている。きっとなんであの人が、とか、全然釣り合わないとか言われるに違いない……。もしかしたら、嫌がらせのひとつやふたつ……。高校の時のように、また孤立するのではないかという恐怖が俺を包み込む。

 誰にも見られないように、前髪で目を隠して、俯きながら教室へ向かっていると女子学生数人の声が耳に入った。

「ほら、あの人! ハルトの」

「え? どれどれ? えっ! めっちゃイケメンじゃん!」

「お似合いだよねー」

 ――え? イケメン? お似合い?

 俺のことじゃないよな、と声のした方に顔を向けると「きゃあ!」と黄色い悲鳴が聞こえた。暖かい春の日差しが顔に当たる。

「やっぱ、めっちゃイケメン!」

「えっ?」

 ――俺のこと?

 きゃあきゃあ楽しそうに俺に向けて視線を注ぎながら、頬を赤らめてその場を去っていった。いつも俯いて人と顔をわせないように歩いていたので、顔を上げて初めて気づく。嫌悪の表情をしている人は、ほとんど、いない。むしろ、憧れのような目で見られている。

 ――もしかして、認められて、いる?

 高校の時のトラウマが少しずつ解けていくのを感じた。クラス全員からの冷たい目。ヒソヒソと囁き合う心無い言葉。ゲイ、キモい、同じ空気吸いたくない。あの時の恐怖が徐々に薄れていく。ここはそんなことはないのだ。

 ここでは本当の自分でいて、いいのかもしれない。そう思うと、心が弾んだ。足取りが軽くなる。

 昼休みに、陽翔に会えるかもしれないという、淡い期待を胸に久しぶりに中庭に行ってみた。カラフルな花々が咲き誇る中庭に、一人でランチを食べる人もいれば、友達と輪になって談笑する人もいる。でも、陽翔の姿はなかった。

 それもそうだろう。あれだけずっと避け続けていたのだから……。俺が彼を拒絶し続けていたのだから。

 俺はバッグからパンを取り出して、食べようとしたところに、人の気配を感じた。顔を上げると、そこには息を切らして駆けつけたような陽翔がいた。少し汗ばんだ額に、春の柔らかな日差しが反射している。

「よかった! 叶翔くん、今日は来てくれたっ!」

 まるでご主人様を見つけた大型犬のように小走りで駆け寄ってきた。汗で少し湿った前髪が風になびき、ステージ上ではめちゃくちゃカッコよかったのに、今目の前にいる陽翔は、ちょっと可愛い。輝く瞳と子犬のような笑顔。

 そんな姿を見てると、今まで自分が取っていた行動があまりにも子供染みていて、反省した。こんなにも一途に俺を想ってくれていたのに、無下にしてしまっていた。

「……陽翔さん……。ずっと避けてて……ごめんなさい」

「いいよいいよ、気にしないで。さ、お弁当食べよ」

 がさごそと紙袋から弁当箱をふたつ取り出した。その仕草には余裕があり、ずっと通い続けた成果なのか、堂に入っている。

「まさか、あれから毎日?」

 さも当然と言わんばかりに陽翔は大きく頷いた。その純粋さに胸が締め付けられる。

「うん。約束したからね。俺、ずっと叶翔くんとお昼食べたかったよ」

 陽翔は目を伏せて寂しそうな顔をした。長いまつ毛が頬に陰を落とす。その表情に胸が痛んだ。俺のせいで、彼にこんな顔をさせてしまったのだ。

「……ごめん……なさい……」

「うん、全然気にしないで! 今日はね、めちゃくちゃ気合い入れてお弁当作ったよ。この前、みんなの前で告白しちゃったからね」

 陽翔は口角を上げてニヤッと笑う。俺はその時のことを思い出して、頭のてっぺんまで真っ赤になった。あの時の彼の姿が鮮明に蘇る。ステージの上で、俺だけを見つめ、歌い上げる彼の姿。「大切な人へ」と囁いた時の、あの表情。

「……」

 陽翔が手渡してきた弁当箱の蓋を開けると、中にはぎっしり、色とりどりのおかずが詰められていた。気合を入れて作ったのか、ミニハンバーグやタコさんウインナーが入っていた。ハンバーグはどう見ても市販のものではなく、手作りだ。そしてタコさんウィンナーの上にハートの旗が刺してあり、俺は思わず、ぷはっと笑ってしまった。

「陽翔さん、ありがとう」

 くくくっと肩を揺らしながら笑っていると、陽翔がぷくっと頬を膨らませて俺を睨んだ。その表情が愛らしくて、さらに笑みがこぼれる。

「一生懸命、叶翔くんのこと想いながら作ったんだよ?」

 ――あぁ、陽翔さん、可愛い。好きだ。

 こんな表情、誰にも見せたくないな、と思っている自分に驚いてしまった。自分のものにしたいと感じているのだ。俺の中にこんな独占欲があったなんて。この気持ち、今日こそ伝えないと……。

「陽翔さん、あのさ……」

 俺が気持ちを伝えようとしたその時、陽翔があっと小さく声を上げた。

「ヤバい! 俺、次の授業の課題まだ途中だった!」

 流し込むようにお弁当を食べ、立ち上がった。その姿に焦りが滲んでいる。

「せっかく一緒にゆっくりしたかったのに、ごめんね」

 俺は立ち去ろうとする陽翔の腕を咄嗟にぎゅっと掴んだ。自分でも驚くほど大胆な行動だった。肌の触れ合いにドキリとする。

「今日、一緒に帰れる?」

 振り向いた陽翔は、まるで春の日差しのような暖かい微笑みだった。その笑顔だけで、俺の中の不安が溶けていく。

「うん。帰る時間、メッセージ入れてくれる?」

 目の前で魅せられた陽翔の柔らかい笑顔に、俺は心奪われた。頬に熱が集まるのが分かる。

「うん、後でメッセージ入れる」

 陽翔は頷いて手を振りながら「じゃあ後でね」と教室に急いで向かって行った。その背中には余裕がなく、本当に授業に遅刻しそうで焦っている様子だった。

 ――やっぱり、陽翔さんが、好きだ。

 俺は陽翔手作りの愛情たっぷり詰まったお弁当を噛み締めながら、自分の気持ちに改めて向き合った。もう、逃げるのはやめよう。


 放課後、待ち合わせまで少し時間があったので、俺は図書館に行った。いつもの窓際の席に座り、絵を描いていた。鉛筆が紙の上を滑る音だけが静寂に響き、その心地よさに包まれる。いつもならばこの時間が俺の救いだった。でも今日は違う。今日は彼に会える。あまりにも集中してしまい、時間が経つのを忘れていた。気づくと待ち合わせの時間が過ぎていて、慌てて遅れると言うことを陽翔にメッセージで入れた。

 走って正門に行くと、陽翔がスマートフォンをいじりながら佇んでいた。夕焼けに輝く彼の横顔に、しばし見とれてしまう。

「ごめん。遅れて……」

 俺は息を切らしながら謝ると、陽翔は「大丈夫だよ」と優しく微笑んだ。その笑顔が刺さる。

「何かあったの?」

 遅れた理由を陽翔から聞かれて、うっと言葉に詰まった。言うべきか……。彼に隠し事をするのはもうやめよう。

「……実は、絵を描いてて……集中し過ぎてた」

 ちらりと陽翔を見ると、眉を下げて嬉しそうな顔をしていた。彼の目が輝いている。

「やっと言ってくれたね! あの俺が好きな絵師さんのアカウント、叶翔くんだったんでしょ?」

「……うん……」

「またイラスト、アップしてね! 楽しみにしてるから。俺、叶翔くんのイラストのファンだし」

 陽翔はそれ以上、何も言わなかった。彼はそれを咎めるどころか、むしろ喜んでいるようだ。この人は本当に優しい。

「陽翔さんのイラスト、勝手に投稿して、怒ってないの?」

「なんで?」

 陽翔は首をこてんと傾げて不思議そうに俺を見てきた。その純粋な表情に胸が痛む。

「俺って、こんな表情してるんだって嬉しかったけど?」

「そっか……」

 俺はふっと微笑んだ。すると陽翔が大騒ぎをする。

「今、叶翔くん笑った! あーもう、また写真撮れなかったじゃんっ! 笑う時、笑うって言ってよー」

 俺はぷははと笑った。それまで緊張していた体が、一気に力が抜けるように解放される。

「そんな、『今から笑いますよ』なんて言えるわけないじゃん」

 ふたりでケラケラ笑いながら公園のベンチに腰掛けた。街灯がぽつぽつと灯る住宅街の公園は誰もおらず、ひっそりとしていた。春の夜の風は、少しひんやりとしていた。陽翔と肩が触れ合う距離で並んで座り、その温もりを感じる。

「今日、お弁当ありがとう。弁当箱、洗って返すね」

 俺はまず、心を落ち着かせるために何気ない話をし始めた。緊張で少し手が震えている。心臓が早鐘を打ち、息がうまく吸えない。

「あ、今、もらうよ? どうせ家に帰ったら洗うし」

 陽翔が手を伸ばしてきた。俺はバッグから弁当箱を出して手渡した。視線が交差し、心臓の鼓動が早くなるのが分かった。

 陽翔は受け取った弁当箱を紙袋に急いで片付けると、少し俯いて忙しなく、手を開いたり閉じたりしていた。その手の動きから、彼が緊張しているのが伝わってくる。

「叶翔くん、この前、みんなの前で告白してごめんね。でも、俺、本気なんだ。叶翔のことが、好きだ。付き合ってほしい」

 俺をまっすぐ見つめる陽翔の瞳の奥が揺れている。そこには不安と希望が交錯している。

 ――陽翔さんはこんなに何度も、まっすぐに気持ちを伝えてくれてる……。俺も……。

 気持ちを伝えるぞと思うと、手が小刻みに震えて冷たくなった。でも、もう逃げないと決めたから。陽翔のように、正直に。

「俺も……、陽翔さんが、好き……」

 きちんと陽翔の目を見つめて、自分の気持ちを伝えた。目と目が合い、その瞬間、心が通じた気がした。

「今まで、怖くて言えなかった……。怖かったけど、今は、ちゃんと、好きって言いたいんだ。俺と、付き合ってください」

 陽翔の目が潤んで光っていた。その瞳が光を集めて、宝石のように輝いている。

「嬉しい……。人を愛するってこんなに辛くて苦しいんだって、初めて知った……」

 陽翔はくしゃりとした顔をして笑った。何も悩んでいないように見えて、陽翔もいろんなことに心を砕いたのだろうか。その表情は安堵の色が滲み出ていた。

 陽翔がそっと手を重ねてきた。そこから彼の体温を感じる。温かい。俺の中に優しく温かさが広がっていった。凍えていた心が溶けていく。

 陽翔に優しく抱きしめられる。俺は少し震えたが突き放すことなく、それを受け入れた。彼の胸の鼓動が俺の体に伝わってくる。それはとても早い。

「もう、絶対、離したくない……」

 耳元で陽翔に囁かれ、背筋がぞくりとする。その声が耳から心を経由して、全身に広がっていく。

「俺、怖かったんだ。過去に色々あって……陽翔さんのこと好きになったら、壊れるんじゃないかって……」

 陽翔の胸に顔を埋めて言うと、彼は優しく髪の毛を撫でた。太い指が優しく髪に触れる感覚に身を委ねる。

「大丈夫。壊さない。俺が守る……。何があっても、絶対に」

 陽翔が体を離して、愛おしそうな表情で見つめ、俺の左の頬を手のひらで包んだ。彼の手の熱が頬から伝わってくる。温かい。俺は、陽翔の手に自分の手を重ねた。

「うん……」

 陽翔の手のひらに頬を擦り付けると、陽翔の親指が俺の下唇をするっと撫でた。触れるだけで、鳥肌が立つ。

「叶翔、キス、していい?」

 その言葉に、俺の中で何かが震えた。陽翔の瞳が、街灯の光を集めて揺れている。これまで何度も目をそらしてきた相手と、今、まっすぐに見つめ合っている。

 怖い、怖い、なのに――。

 俺はこくんと頷いた。もう、逃げない。今度は違う。今度こそ、自分の気持ちに素直になりたい。

 陽翔の顔が徐々に近づいてくる。彼の吐息が頬を撫で、温かさと甘い匂いが鼻をくすぐる。その顔が近づくにつれて、心臓が早鐘を打ち始め、呼吸が浅くなる。世界がスローモーションになったような感覚。目を閉じると、柔らかな感触が唇に触れた。

 ――優しい。

 まるで壊れ物を扱うような、繊細で丁寧なキス。陽翔の唇は想像していたよりずっと柔らかく、温かかった。甘い吐息が混ざり合い、春の夜風さえも暑く感じる。その一瞬の接触だけで、体中の感覚が高まり、指先までしびれるような感覚が走った。

 一度離れた唇が、今度は角度を変えて再び重なる。今度はもう少し長く、もう少し深く。

 ――ああ、こんな気持ち、初めてだ。

 これまで誰かに触れることを恐れていた。その度に高校時代のトラウマが蘇り、体が強張っていた。でも今は違う。陽翔の唇に触れるたび、昔の怖れが薄れていく。代わりに胸の中に広がるのは、温かな安心感と、今まで味わったことのない高揚感。

 何度も軽く触れ合うキスが続く中、俺の中の何かが徐々に解けていくのを感じる。長い冬が終わり、凍てついた心に春の陽だまりが差すような感覚。

 「叶翔……」

 囁くような声で名前を呼ばれ、俺は震えた。その声に惹きこまれるように、今度は俺から顔を近づける。陽翔の瞳に驚きが浮かび、すぐに柔らかな笑みに変わる。初めて、自分から誰かに触れようとしている。心臓が跳ねるような音を立てている。

 じっと見つめ合う時間が、永遠のように思えた。陽翔の瞳に映る自分は、今までに見たことのない表情をしていた。怯えも、不安も、どこかに消えている。今は、ただ、目の前の人への想いだけで満たされていた。

 陽翔の手が頬に触れ、やさしく撫でる。その温もりに身を任せると、今度は深いキスへと変わっていく。陽翔の舌先が唇をなぞり、そっと合図するように触れてくる。

 ――怖くない。彼となら。

 震える呼吸の中、少しずつ唇を開く。陽翔の舌が優しく入ってきて、俺の中を探るように動き始める。初めての感覚に戸惑いながらも、体が自然と反応していく。舌と舌が触れ合う瞬間、全身を電流が走ったかのような刺激が襲う。

 陽翔の舌が俺の舌をそっと誘い、絡め取っていく。最初は戸惑い、身をすくめていた舌が、少しずつ、おずおずと応えていく。彼の優しさに導かれるように、初めて味わう感覚の波に身を委ねる。

 上顎を舌先でなぞられた時、思わず小さな声が漏れた。陽翔の腕が強く抱きしめてくるのを感じる。体が密着し、彼の鼓動が伝わってくる。それは俺の鼓動と同じように、激しく高鳴っていた。

 ――陽翔さん、好きだ。

 二人の間に響く息遣いと、かすかな水音だけが時間の流れを教えてくれる。周りの世界は消え、今、ここにあるのは陽翔と俺だけ。

 キスが深まるにつれて、俺の中の最後の壁が崩れていくのを感じる。長い間押し込めてきた感情の堰が切れ、温かな波が全身を駆け巡る。気持ちのままに、俺は陽翔の背中に腕を回し、ぎゅっと抱きついた。筋肉の固さや輪郭が手のひらに感じられ、その実感が、これが夢ではないことを教えてくれる。

 なんて温かいんだろう。なんて愛おしいんだろう。

 今まで誰かを愛することが、こんなにも満たされる感覚だとは知らなかった。唇を重ねるたび、体を寄せるたび、俺の中の恐れは溶けていき、代わりに確かな安心感と愛しさが広がっていく。

 何度も角度を変えて唇を重ね、舌を絡め、吐息を交わす。時間の感覚は曖昧になり、いつの間にか俺たちはぴったりと、互いに体を寄せ合っていた。キスの合間に垣間見える陽翔の顔は、潤んだ瞳と熱を帯びた頬で、いつも見せるクールなステージの表情とは全く違った。それは俺だけが見ることを許された、彼の素顔。

 彼の腕の中で、初めて本当の自分を出せる気がした。怖がらなくていい。隠さなくていい。目を逸らさなくていい。繕わなくていい。全部の感情をさらけ出して、それでも抱きしめてくれる人がいる。

 陽翔の舌が俺の口内をゆっくりと撫で回し、舌を誘い、絡め合う。甘く暖かい唾液が混ざり合い、二人の距離を溶かしていく。俺はもう我慢できずに、陽翔の舌に応えて積極的に絡み合った。彼の優しさに包まれながら、初めて自分から誰かを求めている。

 ずっと冷たく凍えていた心が、陽翔の温もりに触れて溶け始める。それは痛いくらいに温かく、胸の中心から全身へと広がっていく。

 キスの途中、ふと目が合う。彼の瞳に映る俺の姿は、これまで見たこともない表情をしていた。怯えも、不安も影も、どこかへ消えていた。今は、ただ純粋に愛されている喜びと、愛する幸せだけが、そこにはあった。


 長いキスの後、俺と陽翔は額をくっつけて、微笑みあった。ほんのり汗ばんだ肌と肌が触れ合う心地よさ。

 ――あぁ、陽翔さんは、本当に温かい人だ……。

「叶翔、愛してるよ」

 ぎゅっと優しく抱きしめて、愛を囁いてくれる。本当に好きな人と、恋人同士になれたんだ。そう思うと目が熱くなった。今まで怖くて拒絶していたことが、どれほど馬鹿げていたことか。

「俺も、陽翔さんのこと、愛してる」

「もう、さん付けやめて。陽翔って呼んでよ。恋人なんだから」

 ふふっと笑う声が耳元でじんわりと響いた。その吐息が耳に触れ、背筋がぞわりとする。

「陽翔……」

「うん?」

「呼んでみただけ」

 陽翔は朗らかにははっと笑って、チュッとキスをしてきた。その唇の柔らかさに、まだ慣れていない俺は、頬が熱くなるのを感じた。

「可愛い、叶翔……。離したくないな……」

「俺はどこも行かないよ?」

 ふふっと笑って、陽翔の背中を優しく撫でた。大きくて温かい背中。この背中に支えられたら、もう何も怖くないような気がした。

「あぁ〜、帰りたくねぇ〜」

 陽翔が空を仰ぎながら喚いていた。まるで子供のようないたずらな表情。俺は、陽翔のこう言う子供っぽいところも好きだ。一途で純粋で、まっすぐで。ステージ上の彼とのギャップが愛しい。

「明日も一緒に弁当食べるんだろ?」

「また明日も、愛情込めて作ってくるから、楽しみにしてて!」

 グッとガッツポーズをしている。全くこの人は、かっこいいんだか、かわいいんだか……。愛のこもった弁当を毎日作ってくれると思うと、胸がいっぱいになる。その姿を見て、思わず笑ってしまった。

 陽翔と二人なら、きっとこの先も大丈夫だ。もう目を逸らさない。まっすぐ彼を見つめて、彼に見つめられる関係を大切にしよう。俺たちの始まりはこんなに温かいのだから。

 俺は陽翔の胸に顔を埋めた。彼の心音が、俺の心と同じリズムを刻んでいるように感じられた。