腰を下ろして泥水になった温泉に浸かって疲れを癒していると、旅館の方から足音が聞こえてきた。
「ご苦労様でした。もう休んでもいいですよ」
声を掛けてきたのは、早朝にも関わらず仕事をしていた女将さんだった。三日月の様に口元だけ笑みを作った女将さんは、僕を労うと隣の旅館に視線を向けた。未だ僅かに残る花あかりに照らされまま動こうとしない女将さんは、誰かを待っているかの様に見えた。
仕事を成し遂げた僕は、達成感と共に穴から這い出る。すぐにでも眠りたいところではあるが、ずぶ濡れのまま旅館に上がる訳にもいかず、裏口の前でシャツとズボンを脱ぐと力一杯絞った。ダバダバと水が垂れ、足元が水満たしになる。まだ肌寒い時期ではあるが、足だけでも乾燥させないと入れない。
急速に白んでいく空。
旅館の屋根から小鳥の囀りが聞こえてくる。
旅館の一日が始まる。
旅館の朝は早い。厨房からは既に白い煙が立ち上っている。
隣の旅館からも、温泉の湯気が―――ん?
「どういうつもりだ!!」
夜明け直後だというのに、裏庭に怒号が響いた。
半分瞼が閉じていた僕は、その声に驚いて飛び跳ねる。恐る恐る建物の陰から裏庭を覗くと、紺色の半纏を羽織った60歳前後の男性が女将さんと対峙していた。半纏の襟に入っている名前は隣の旅館のものだ。顔も見覚えがある。確か、支配人だったと思う。
「そ、それ・・・温泉のパイプに穴を開けたな。何て事をしてくれたんだ。ウチの温泉が出なくなってしまったじゃないか!!」
顔を真っ赤にして激昂する支配人。女将さんは腕を組むと、悪びれる様子もなく冷笑を浮かべている。
どういう事だ?
もしかして、僕は温泉のパイプを破損させたという事なのか?
僕の疑問は二人の会話によってすぐに解消される。
「そちらが請求通りの地代を支払わないからでしょう。請求通りの金額を支払って頂ければ、こんな事にはならなかったと思いますが?何度お願いしても無視したのはそちらでしょう」
「いや、これまで通りの金額であれば払いもするが、いきなり5割増しとか高過ぎる!!」
「あら、そちらは温泉があるから毎日満室ではないですか。これくらいの金額は十分に支払い可能でしょう。なにせ、ウチの敷地を通って運んでいる温泉があるのですから」
後で古い仲居さんに聞いたところ、隣の旅館は少し離れた場所で温泉を掘り当てたため、旅館がある場所までパイプで運ぶ事にした。それには、どうしてもこの旅館の敷地にパイプを通す必要があり、地代を払う契約を結んで敷設した。
しかし、女将さんは隣の旅館だけが儲かっている事に腹を立てていたらしく、今回大幅な地代の引き上げを要求。受け入れなれなかったため暴挙に及んだ、と。深夜に僕を使って。
どうりで簡単に温泉が出たはずだ。冷静に考えれば、1メートル程掘った位で温泉が出るはずがない。パイプが通っている場所をピンポイントで狙えば話は別だけど。
穴掘りをした理由が分かると、どっと疲れが出た。
隣なんだから仲良くしてもらいたい。
何かもう、どうでもいい。
僕はゆっくり寝させてもらう。
深夜に2箇所も穴を掘ったから全身がボロボロだ。
でもさ―――
新月の下でも、花あかりは本当に明るいんだ。
周囲の微かな光を集めて照らすんだよ。
だから、間違えて最初に掘った東側の桜の下。
2つの頭蓋骨も、はっきり見えてしまったよ。
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