新月の夜に温泉を掘る


 「花あかり」という言葉自体は知ってはいたものの、こんなに明るいものだとは思ってもみなかった。新月の夜だというのに、周囲から漏れる僅かな灯りを花びらが集め、仄かに発光している。闇夜に浮かぶ桃色の桜は幻想的で、夢と現の境界線を曖昧に感じさせる。

 そんな状況を楽しむ余裕も無く、僕はスコップで地面を掘り続けている。ここを掘り始めて間もないのに、既に両腕が怠い。よく言われる様に、桜の木の下に死体を埋めようとしている訳ではない。これには、ある事情があるのだ。


 春休みの間だけ稼ごうと、「食事付きプラス住込みアンド温泉旅館」のバイトをする事にした。
 インバンドの影響もあり、数年前までは存亡の危機に瀕していた温泉街も最近は外国人客で大繁盛している。しかし、バイト先の旅館は温泉街にありながらも肝心の温泉が湧いてなく、すぐ隣に建つ温泉旅館の半数程しか宿泊客がいない。
 旅館の女将さんは40歳前後の美人ではあるが、非常に気が強く、従業員には冷淡で厳しい。聞いた話によると、10年前に夫が仲居と逃げて以来、温厚だった性格が今の様になったらしい。隣の温泉旅館とも何やら揉めているし。


「貴方、裏庭で温泉を掘りなさい」
 と言われたのは、今朝の事だ。一瞬冗談かと思ったが、女将さんの表情は真剣そのものだった。

「うちに客が少ないのは、隣に温泉があってウチにないから。それなら、掘ればいいのよ」
 確かに、女将さんの言い分は正しい。宿泊施設も食事も決して隣には負けていない。違いは温泉の有無だけなのだ。

「裏庭に桜の桜があるけれど、西側の一番大きい桜の北側5メートル辺りを掘りなさい。目立たない様にするのよ。そうね、今夜は新月だから、今夜暗くなってから始めなさい。夕方までは休みでいいわ。では、お願いするわね」

 呆気に取られる僕を置き去りにして、女将さんは足早に去って行った。とても庭を掘った位で温泉が噴き出すとは思えないが、バイトの身としては指示に従うしかなかった―――で、現在に至る。


「こんな所を掘っても、温泉なんか出る訳ないじゃん」
 とは言え、夕方までは昼寝をしていたし、深夜割増でバイト料も貰っている。朝まで掘るしかない。

 掘り始めて3時間余り、とっくに午前様をお迎えしている。何だかんだ、穴の深さは1メートルは超えたと思う。
 「ふう」と、スコップを地面に突き立てて額の汗を拭う。「まったく、モグラじゃないんだから」と愚痴をこばしながら多少休んでも、誰にも咎められる事はない。桜の下以外は真っ暗で、周囲には全く人の気配が無い。そもそも、花あかりを頼りに温泉を掘っている事は女将さん意は誰も知らない極秘ミッションなのだ。

 闇夜に浮かぶ満開の桜を見上げ、ため息を吐いた後で穴の底を見る。実際にこの状況で掘ってみないと、新月で意外と見える事は分からないだろう。でも、これは偶然、今夜が満開だったからだ。まさに、パーフェクト花あかり!!―――我ながら残念過ぎるネーミングセンスだ。さあ、作業を再開しよう。女将さんが怖いし。