(やっぱ、リストカットっぽいのを見ちまったのがまずかったかな……?)
唐突の解散の理由に悩んでいたら、30分が秒で過ぎていた。言うまでもなく勉強は1ミリも進んでいない。
いっそ一緒に帰ればよかった。いや、そのもっと前、自分語りをしたことがいけなかったのかもしれない。
(いじめられてたこと知って引いた可能性も……)
たまき自身としても、明かすつもりはなかった。
あれはトラウマであり、汚点であり、はじめにつけられた傷だ。
身内にもなかなか話しづらいことを、出会って数日の、ほぼ他人のようなやつにさらけ出せるわけがない――と、思っていた。あの、手首の傷を目の当たりにするまでは。
わざとではないとはいえ、片方だけ弱みを握るのは不公平だろう。
たまきは、誠実でありたかった。九が分け隔てなく接してくれるからこそ。
しかし、話をした途端、九は去ってしまった。それがこころなしか逃げていくように見えた。
あんなに嘘が下手だったのだ、本当に急用だろう。そうあらためたところで、思考回路を九に独占されていることに気づき、たまきは頭を振った。
どっちでもいいじゃないか。どう思われようと関係ない。今までそうやってやり過ごしてきた。
たまきはリセットをかけるように自習室から自身の痕跡を消した。
校舎を出て、駅に直行した。混み合った改札口を目と鼻の先に捉え、歩きながらスクバから定期を取り出す。
雑踏の手前でうずくまっている学ランの少年がいた。友人らしき2人がそばについているからか、周りは横目に案じながら改札を過ぎていく。
友人の手を借り、やっとのことで立ち上がったその少年は、たまきの姿を目視するとひどい立ちくらみを起こした。
「た、たまき……」
土色のアホ毛だらけの石頭、紫外線を吸収した阿呆面。
2日連続、亮との遭遇だった。
図書室での工作は無駄骨だった。いや、無駄と言い切るには、あのわずかな時間に九の言動が強く印象づいてしまっている。
たまきはもどかしさに駆られ、ライオンのたてがみのような髪をかき乱した。
「あ……あ……」
「……」
前回と同じミスはしない。たまきは亮の前を素通りした。
「わ、わ…………わ、悪かった……っ」
定期をかざした改札が、ビービー、泣きじゃくるようにアラームを鳴らした。
「……え?」
「だ、だから……ご……わ、わる……悪かった」
二歩ほど下がったたまきの元に届く、カードの接触エラーを知らせる機械音、そして――思いがけない謝罪の言葉。
轢き殺されたカエルのようなその声は、紛れもなく、亮のものだった。
かれこれ10年以上の付き合いになるが、亮が謝るところを見たことがない。
大っぴらにたまきをいじめていた、小学校低学年のころから、ただの一度も。
いじめの発端は些細なことだ。
勉強きらいムーブをする周りに、ひとりだけ「ぼくはすきだよ」と言った。それがたまきだった。
当時クラスのムードメーカーだった亮は、ゲーム感覚で派閥を分けた。要は、たまきを仲間外れにしたのだ。
最初はハブって笑うだけだったのが、日に日にエスカレートし、ノートを破ったり頭を叩いたり、服を脱がしたりすることもあった。
十分な犯罪であったが、亮は外面がたいそうよく、隠蔽工作もうまかったので、周りはむしろ仲がいいと思い込んでいた。
耐えかねたたまきは、ある日、亮に体当たりをして逃亡に成功。
しかし、その翌日、担任の先生に呼び出しを受けた。いじめられていた側の、たまきだけが。
どうやら亮は打ちどころが悪く、腕を打撲したらしかった。
人を傷つけてはいけません。
暴力は犯罪です。
気持ちは言葉にしましょう。
だから?
そう説教されたところでたまきに罪悪感はない。
この程度で叱ってくれるなら、いじめをやめさせてほしかった。やり返す前に、自分を止めてくれればよかった。
とうの昔にたまきの身体は悲鳴を上げていたというのに。
そこに味方はいなかった。
その後、たまきはいじめられるたび、同じやり方で回避するようになった。唯一通用した保身の術に頼るしかなかったのだ。怒られてもなんとも思わなかった。痛い思いをするよりずっといい。
体格がいい分、力が強いたまきに、亮率いるいじめっ子らはやがて直接的な加害をしなくなった。その代わり、たまきの醜聞をあることないこと作為的に拡散した。人気者の亮の発言を、みんなが信じた。
そうしてたまきは学校イチの問題児に成り下がった。
好成績を収めても、学年が上がっても、環境はひどくなる一方で、反抗心で髪を金に染めた。するとヤのつくような人に絡まれるようになったが、例の対処術は意外と誰にでも効いた。
中学では「東の金鬼」というレッテルを貼られ、もう取り返しがつかなくなっていた。
たまきを深淵に追いやった当事者は、首謀者は、諸悪の根源は、何の罪にも問われずに。
「お、俺が、悪かったよ……っ」
――問われずにいた、今日までは。
今、改札を横に逸れた先で、昨日も付き添っていた2人とともに亮は頭を低くしている。
夢ではない。なぜなら、たまきのうしろに並ぶ改札の列から、様々な感情から成る迷惑そうな視線が、痛々しく刺さっている。
さすがに無視できず、たまきは慎重につま先を向けた。
「なんで……」
「お、俺はっ! ち、ちゃんと、謝ったからな……!」
近づいて見ると、そばかすが浮くほど亮の顔色は悪かった。
「口先の謝罪ならいらねえよ」
「……ち、ちが……」
クソ、とこらえきれない本音を滑らす。左右の2人に支えられた体をよろめかせた。
「あ、あいつが……」
「あいつ?」
「あいつが――西の辰炎が、俺のもんだっつってたから……だから俺は……」
「……え?」
遡ること15分前。
部活見学を終え、駅に来た亮一行を、待ちかまえている人物がいた。途中で宿題を切り上げた九である。
『よお、昨日ぶり』
2人から本性を知らされた亮は、九の姿を認識した瞬間、視界が真っ暗になった。
『あんた』
『っ!』
『そこの真ん中の、茶髪の。そう、あんた』
あげく指名され、ブレーカーが落ちたように身体が動かない。
『たまきのこと、いじめてたんだって?』
そんなことを話すような関係性になっている事実が、九の本性とともに聞いた仮説――東の金鬼は西の辰炎のペットらしい――に説得力を与える。
『いるよな、弱い者いじめが好きなやつ』
『い、いや、俺は……』
『そういうやつこそ弱ぇのにな』
『ひ……っ』
昨日と変わらない三下の出で立ち、なのに圧倒的強者の余裕が言動の節々からダダ漏れていた。一時期、他の追随を許さなかった地区のドンの貫禄は、ブランクを経た今も健在だ。
『あいつはもう俺のもんだから。手ぇ出すなよ』
道を聞かれて教えるようにさらっと宣告しながら、殺気はちゃちな黒い枠に収めない。
『意味、通じるよな?』
――言葉が通じねえから、拳で語ろうとしたんじゃね?
西の辰炎は去るもの拒まず、飽くまでやめず。
亮たちに選択肢はない。頭で考えるまでもなく首を縦に振った。
九のぎらつく三白眼が、満足気に瞼の内に伏せられる。
『よーし、それじゃああいつに謝っておけよー』
そう言い残し、九は人混みの中に消えていった。
姿が完全に見えなくなり、亮は人目はばからずその場にへたりこんだ。どこも傷つけられていないのに、大量出血したかのように息苦しかった。
早く楽になりたかった。
「おまえらが組んでること知ってたら、何もしなかったのに……っ」
ぽかんとしているたまきに、亮ははらわたをくすぶらせながら奥歯を軋ませた。
幼いころから根底にある、優位に立っていたいプライドは、たまきだけならまだしも、ふたりがかりで来られたら捨てざるを得ない。
「とにかく俺は謝ったから! もうおまえらには関わんねえよ!」
屍のような顔にぬめついた汗を流し、亮は頭を抱えるようにしてまた壁際で膝を折った。
たまきはわけがわからないまま3番ホームに急いだ。もしかしたら九がいると思って。
(あいつが、何だって? ……俺のもん?)



