元ヤンと現役


「はー、人生うまくいかねえなー」

酔っ払ったサラリーマンのような愚痴が、花盛りな学校の廊下にこだました。
公然と大口を叩く九の周りは、幸い、耳目のない加工品ばかりだ。
茜色の日差しを受け、いつもより200ml分重たいリュックを担いだシルエットが伸びる。千鳥足のような足さばきで、影の部分だけを踏んで歩いていく。

高校生活4日目も無事に勤めを終えた九は、一方で、いまだにたまきに勉強の相談をできずにいた。
隣の席というアドバンテージに油断していた。話せるときがことごとくないのだ。
入学したてのイベント期間中で、時間割のほとんどがオリエンテーションで埋まり、休み時間は移動か便所か購買に費やされる。放課後こそは! と勝負をかけるが、たまきは一目散に教室を出ていき、その後の所在は不明。
このままでは日がずるずると延び、「ダイエットは明日から」的な怠慢がしみついてしまう。

九は昨日の経験から駅を目指そうとしたが、たまきの下駄箱にはまだ上履きはなく、すぐさま校内に方向転換する。
たまきを捜しつつ、せっかくなので気になっていた場所に立ち寄った。
本日のオリエンテーションで案内のあった、図書室だ。県内トップクラスの蔵書数や併設された自習室など、司書の先生から直々に紹介を受け、九は心の中でお気に入り登録をしておいた。これだけ充実した設備を利用しない手はない。

今日は唾だけつけていこうと思い踏み入れた室内は、しんと凪いだ静寂に満ちていた。
奥行きのある空間に、等間隔で林立する本棚。隙間なく並べられた大量の本から漂う、自然発生の芳香。
いやでも勉学に専念できそうだが、意外と人気(ひとけ)はなかった。

(放課後はみんな部活とか塾に行ってんのか? ってことは、ほぼ貸切!? うわー最高ー! 使い放題じゃん! あ、でもあんまり長居するとミケとの時間が減っちまうな……)

究極の2択に天秤を揺らしながら、簡易的に区切られた自習室側も覗きに行ってみる。
本来の目的を若干忘れつつあった九だが、自習室に一箇所だけ光った間接照明に、煩悩も運よく晴れた。
ちょうど会いたかった人が、中でひとり机に向かっていた。

「たまき!!」

たまきは耳につけたワイヤレスイヤホンを貫通する爆音ノイズに、否応なしに首を起こした。英文をしたためていたシャー芯がぽきりと折れる。
図書室ではお静かに、と自習室入口に貼られた注意書きに、九は小さく肩をすぼめて中に立ち入る。たまきのいる角席の隣に迷いなく腰を下ろした。

「な、なんで……」
「たまきも図書室来てたんだな」
「……あ、ああ……」

たまきはイヤホンを外しながらぎこちなくうなずく。
昨日のように駅で知り合いと出くわさないよう、ここで時間をつぶしていたのだ。
たまきが来た当初、自習室は空きがない人気ぶりだったが、金髪ピアス強面の三拍子を目にするなり、利用者はひとり残らず退散してしまった。
そうとも知らずに九は、この環境を非常においしく思った。

(俺らしかいないなら、別に好きに話していいよな? 勉強教えてもらうのもありだよな!?)

仕切りのついた勉強机にマーキングするようにリュックをドカンと据えた。さっき中に詰めこんだばかりの筆箱、教科書、ノート、プリントを机いっぱいに広げていく。

「ちょうどいいや。俺、おまえにずっと言いたかったんだよ」
「……」
「勉強! 教えてくれねえか?」
「……はっ? 勉強?」

今度ちゃんと謝礼もするし! と、物で釣る作戦も忘れずにねじこむ。
人というのは潜在的に見返りを期待している生き物だ。
今朝あげた牛乳を気に入ったならもう1個、とミケの分に用意したものを泣く泣く差し出した。たまきは食い気味に遠慮する。やはり安上がりだということか。

「なんで俺?」

ごもっともな質問だ。
この世の中には、教育指導者はごまんといる。学校の先生、家庭教師、塾、あるいは家族がそうである人もいるだろう。
加えてここは進学校、図書室の設備からもわかるとおり福利厚生を手厚く完備している。
あえて同級生を選ぶ必要がないはずだが――九の場合は、ちがった。大人への信用度が限りなく低く、たいがいが対象外なのだ。

そんななかでも家庭教師や塾を試案してはみたが、喧嘩の賭博がなくなり、小遣いがほぼない。ミケの生活費もやっとな状態で、今日持ってきた牛乳は九にとって贅沢品も同然であった。
稼ごうにも地元には顔が割れていてどこも雇ってくれず、かといって今さら裏稼業に片足を突っ込む気持ちもない。唯一世話になっている動物病院にダメ元で願い出たものの、今は人手が足りているらしかった。

現在、学校近辺に範囲を広げてバイト先を探している。
働くならできるだけ早いほうがいい。
金はいくらでも必要だ。大学の学費も貯めたいし、ひとり暮らしもしたい。いつも留守番してくれているミケのためにおもちゃや家具もほしい。
現状の養育費だって、いつまで工面されるかわかったもんじゃなかった。たとえ明日家を差し押さえされても、九は驚かない自信があった。自分の親はそういう人間なのだ。

小学2年生のころ、当時の担任の先生に一度だけSOSを出したことがあった。何の意味もなかったけれど。
大人はどこまでも大人の味方だった。
ただそれだけだった。

九は単純(バカ)であり、純粋(バカ)ではない。
頼る相手はもう間違えない。

「俺は、おまえがいい」

顔を引き締めて告げた九は、いつになく凛々しい静けさをまとっていた。図書室ならではの風情によく溶けこみ、厳粛と言葉を慎ませる。
だが数秒も持たせず、大げさにほころびをつくった。

(それになんたって学年トップだし! 隣の席だし!)

雰囲気が二転三転し、たまきの目は瞬間的に瞬きの回数を増す。シャーペンを握る手元を灯す、黄色いライトもチカチカと濃淡をつけた。
たまきは軽く咳き込んだ。

「お……おまえって言うな」

ふはっ、と九は噴き出す。おどけたように謝り、たまきの名前を連呼すると、うるさいと怒られる。理不尽。

「俺のことも気軽に呼んでくれていいから。あ、名前覚えてねえか? 俺は別におまえ呼びでもいいけど」
「……九だろ。灰田九」
「おおー! フルネーム覚えてくれてんだ!」

ピンポンと正解の効果音の代わりに手を打ち鳴らす。賞賛のハードルが幼稚園児並みでかえって胡散臭い。

「からかってんのか」
「え? まさか。だって俺、クラスのやつらの名前、まだ全然わかんねえもん。たまきだけだよ。ちゃんと覚えてんの」
「…………嘘つけ」
「ほんとだって」
「じゃあ俺の苗字は」
「えっ。……わ……め…………あーっ、そうそう今日の宿題! まったくわかんなくてさ!」

たまきの机の上に乗った英語のプリントに、九は強引にフォーカスを合わせに行く。おい、と半目で斬りかかるたまきに、豪快に笑って肩を小突いた。

「冗談だって。ワタヌキだろ。ワタヌキタマキ。調べたからわかるよ」
「調べたのかよ……」
「わからないことはすぐに調べる。インテリの基本さっ」

メガネを人差し指でクイッと上げながらキメ顔。
たまきがバカを見るような目でいることに、幸か不幸か、九は気づいていなかった。
たまきはため息をつき、椅子の角度をわずかに九側に開いた。

「……どこがわかんねえんだ」
「え! 教えてくれんの!?」
「……わかるところならな」

(それって全部ってことじゃーん!)

依頼承認の言質、ゲットだぜ。
九はすかさず両手でたまきの手を握り、ぶんぶんと上下に振った。さんきゅー、さんきゅー! 日本語の発音で猛烈に感謝を繰り返す。
ひとしきり満足すると、たまきの手から自身の英語のプリントに持ち替え、万歳のテンションで高く掲げた。

「これ! 教えてくれ!」
「……それ、新入生テストの復習みてえなもんだぞ」
「あはは、だからわかんねえんじゃん」
「……」

これが、テストの成績1位と最下位の差である。
たまきは九に上下運動させられた手首をさすりながら、ほぼ解き終わっているプリントを見直した。最後の問10、記述問題で芯を転がした、未完成の英文。そこに単語を3つほど書き足すと、シャーペンを筆箱に帰した。
九の両手に抱えられた同じプリントは真っ白で、手垢さえついていない。たまきはその問2の項目を指でつついた。

「問1は単語の暗記メインだから、問2からでいいか」
「おう、よろしく!」

九は腕まくりをし、今からファイトするかのようにプリントと対峙する。
ありきたりな「よろしく」の4文字が、無数の金属で鞭打つたまきの耳には漢字変換されて聞こえた。

筆圧強めに学年・クラス・出席番号・名前を記入し、プチ勉強会はスタートした。
学年首席ともなると享受も教授も巧い。要所を押さえた的確な説明で、すらすらと答えに導いていく。
九自身、1年間の受験勉強で基礎がしっかり身についており、理解が早かった。解説を聞いたあとは応用問題も楽々となぎ倒している。

あまりたまきが手を煩わせることなく、あっという間に問7の読解問題に達した。
読み込みの時間のため、自習室本来の静寂が用意された。
互いの息づかいが鼓膜を焦らす。たまきは変に気にして呼吸のリズムを遅らせた。胸のあたりが苦しくなっていく。
対照的に、隣の呼吸音はずっと安定していた。
それが妙に気に障り、たまきは仕切り板から半顔をはみ出して様子を窺う。

すぅ、すぅ、と九は無防備にもゆったりと船を漕いでいた。

(またかよ……)

昨日の電車での光景と重なり、たまきは脱力して姿勢を崩した。
相変わらず九は気持ちよさそうに寝入る。
だんだん頭の揺れが深くなった。振れ幅が大きくなるにつれ、メガネの位置が沈んでいく。かっくん、と九の首が折れると、ついにメガネが転落した。デジャヴの連続。たまきはあわてて隣の机に身を乗り出し、メガネをキャッチした。

ひと息つく、ことは叶わなかった。
あらわになった九のミルキーな素顔に、息がかかる。あと1センチ動けば、足が、肩が、頬が、触れてしまいそうだった。

まつ毛の長さ、生え際まで鮮明に捉えられた。
クジャクの影絵のような模様が、目の下に描かれている。その下にうっすら塗られてあるのは、不健全に青みがかった色。
白雪の肌にいやになじんだそれは、快調な朝を迎えた今日のたまきにはない。逆に言えば、安眠できずにいた昨日までは、たまきの目元にもそれが敷かれていた。

(何時まで起きてたんだか……)

夜行性の九は、日付を超えても眠くならず、せっかくなので獣医になる夢のため遅くまで勉強していた。
その反動で行きの電車では爆睡しているが、シンデレラタイムを反しているせいか、クマがずっと目の下で冬眠している。
そういった事情を、同じ境遇であるたまきはあらかた予想できた。

不良は夜こそが主役。
寝静まる深夜の町に、夏の虫のようにうるさく喚く。嗤う。殴る。蹴る。
血があってもわからない暗闇の中。眠ったら最後、二度と目覚められない――そんな予感がひしめく。それを恐怖と取り、必死に抗う者もいれば、スリルとして味わい悦に入る者もいた。
争いは終わらない。太陽がすべてを明るみにするまで。

当然、睡眠時間は足りない。昼夜逆転生活を余儀なくされ、食習慣は乱れ、身体活動はせいぜい喧嘩くらい。
それでもたまきは、学校で居眠りしようともなるべく出席し、栄養をサプリで補い、家では筋トレをし、どうにかこうにか軌道修正してきた。
それに比べ、九ときたらやりたい放題。肌の異様な白さも、体格が平均以下なのも、おまけに脳のしわが少ないのも不摂生な生活の表れといえた。

寝られるときに寝ないといつか倒れてしまいそうなくらい九の顔は血の気がない。
起こすに忍びなく、たまきはそっと顔を離した。
視線の動線に、つと、何かが触れる。
声が、出そうになりとっさに手の甲で口を押さえた。

腕まくりされた九の手首。
そこに見つけたのは、脈を裂くような線状の傷。
左右どちらとも、同じ箇所に何本も。どれも深さはなく、赤茶にくすみつつある。

(ああ……)

たまきの縮まった瞳が、淡くかすんでいった。

(元とはいえ、グレてたんだもんな。何かがなけりゃ、なんねえよな)

不良とは、なりたくてなるものではない。気づいたらそうなっている。もはや現象に近い。
たまきもそう、自ら名乗りを上げたことはなかった。東の金鬼なんてこっ恥ずかしい二つ名はもってのほかだ。
人生、うまくいかない。
本人の意思とは関係なく、世間はそういう目で見る。見えない傷が増えていく。喧嘩で勝っても、テストで100点取っても、心の不良は治らない。

かさぶたにもならない。

(でも、それでも、こいつは「元」であって、今はちがう)

昨日も今日も、九には隠す気が見られなかった。過去を吹っ切れている証拠だろう。
素直にすごい、とたまきは思う。
どうして太陽の下でも堂々と生きられるのか。

「『ミケ』ってやつの、おかげか」
「……ん」

九の頭がうなずくように直下した。その気流に反って背骨から弾み、つられて瞼も跳ね上がる。
潤いに満ちた丸い瞳に、たまきの表情がにわかに反射する。
たまきはどぎまぎして、何もうしろめたいことはないのにドキドキして、思考がときどき飛んで言葉を成せない。母国語でない英語では難なく文章を綴り、解説もしていたのが嘘のようだ。

「あ……」
「お、起きてたよ!?」
「……」

カッ!! と九の黒目が水分を吹き飛ばした。たまきの汗とともに。

「……」
「あ、嘘だと思ってんだろ? 本当に寝てねえから!」

英語で語られた羊使いの老父の動向を、ちょっと目を閉じて考えていただけあって。
などと供述するK氏に、たまきは逆に冷静になった。

「ほらよ」
「えっ」
「メガネ。そのサイズ合ってねえんじゃねえの」

落ちたメガネが机に置かれる。
寝てる間に更地となった目元を、九はぺちぺちと触って確認した。ためらいがちに礼を言ってメガネをつけ直す。
九の小顔にはやはりひと回り大きく、一気に田舎臭さがあふれ出る。

そのダテメガネは昔、家に帰りたくなかった九が、用もないのに寄り道した古着屋で、店員に追い返される際に無理やり押しつけられた売れ残りである。
その後、九もタンスの肥やしにしていたが、進学にあわせて引っ張り出し、ここぞとばかりに使っている。
優等生キャラを立てるには最も有効的だと信じてやまない九に、遠回しに指摘してきたのは、たまきがはじめてだった。

「たまきって、やさしいよな」

あいにく額面どおりに受け取った九には、心配してもらえる喜びだけが残った。

「は……単純」
「いやだってさ、こうやって勉強教えてくれてるし、眠りこけても怒らねえし。俺ならウザくて手ぇ出ちまう」

(ウザい自覚はあんだ。……さっきの嘘を自分でバラしてることには気づいてなさそうなのに)

それでいて、手が出るというワードチョイス。爽やかな笑顔。元ヤンらしいバランス感覚である。
たまきは深く息を吐きながら、スリムな椅子にもたれかかった。
問7に居直った九は、いっそう袖をたくし上げた。指先でペンを踊らせながら、羊使いの老父の会話文に含まれる穴を埋める。ロゴのはげたシャーペンを握る拳に、始終たまきの視線を感じていた。

「そういや昨日大丈夫だった?」
「何が」
「ほら、絡まれてたじゃん。地元帰ってから何もなかったかなって思って」
「あー……まあ」

たまきは曖昧に首肯する。

「ああいうの、よくあんの?」
「いや、最近は。……あいつらくらい」
「ふーん?」

英語の長文に意識を割く九も、相槌がテキトーになる。

「あいつらに昔……いじめられてて」

ペンの走る音が、不自然に止まった。
一拍の間を置き、「ふーん」だの「へえ」だの心のこもっていないリアクションが落ちる。かと思えば、「あっ!」とひらめいたように声を上げた。
目にも止まらない速さで問7の選択肢にチェックを入れると、突然九は席を立つ。

「俺、ちょっと用事思い出した」
「え?」
「ごめん、先帰るわ」

荷物をまとめ出す九に、たまきは呆然とする。
いいけど、別にいいんだけど、けど、でも。解きかけのプリントをつかんだ九の手を、目でたどる。

「し、宿題は」
「あー、また明日教えて」
「……それ、明日までだけど」
「金曜は英語2限だろ、よゆーよゆー」

九は肥え太ったリュックを颯爽と背負う。

「今日はありがとな。また明日!」

とっさにたまきは何かを言おうとして息を吸った。だけど何も言うことがなく、沈黙を受け入れるしかなかった。
おとなしく机に向き直った。
また独りになった図書室は、先ほどよりも広く感じた。