放課後。高校の最寄り駅に直行したたまきは、ぐしゃぐしゃに丸めてポケットに入れていた成績表を、駅のトイレのゴミ箱に捨てた。
毎日清掃されていても1日経てばあふれかえるゴミ箱に、「1位」「300点/300点」の文字がわずかにはみ出る。
誰もが羨む名誉でも、ひとたびゴミ箱に入った途端、ひどく汚らしく感じる。
テストのカンニングや盗用を疑っていたクラスメイトも、こんな気持ちだったのだろうかと、たまきは自嘲げにゴミを見下ろした。
電車発車時刻が差し迫る。
トイレを出ると、入れ違いでやってきた男と肩がぶつかった。
ガタイのいいたまきにはよくあることだ。
体格差で相手のほうがよろけ、それを目撃した誰かが話を広げ、尾ひれはひれがつき、やがて「道をゆずらないやつは二度と立てない体にさせられる」という極地へと展開する。
ちなみに、これは実際に起こったことだ。意味がわかると怖い話。たまきの汚名の8割は、誇張や捏造でできている。
こういうときは無視するのが無難。
ハエに当たったと思って先へ進もうとすると、
「おいおいおい。ぶつかっておいて詫びのひとつもねえのかよ」
ぶんぶんうるさく引き止められてしまった。
最近暖かくなったからか、ずいぶんと活きがいい。虫も、人も。
たまきはやむなく振り返った。
しかしすぐに後悔することになる。
「え……たまき?」
(なんつう偶然だよ……クソが)
肩がぶつかった相手は、覚えがあるどころではない。
無造作に流した茶髪に、そばかすの散らばる顔。
先月まで同じ教室にいた、かつてのクラスメイト、亮だった。
さくら高校とは反対方向に建つ男子校の学ランをまとった彼は、高校の級友と思しきふたりを早くも侍らせていた。
「なに亮、こいつ知り合い?」
「すげえイケメン。……ちょっと怖えけど」
(聞こえてるっつの)
この時点で電車1本見送りが確定。自分の運のなさにたまきはほとほと呆れた。
「たまきだよ。綿貫たまき。それとも、『東の金鬼』って言ったほうがいいか?」
「ワタヌキタマキ……って……!?」
「東の金鬼!?」
たまきとはまったくの赤の他人である男ふたりは、正体を知るやいなや、そそくさと亮の背中に隠れた。
駅構内のトイレ前での騒ぎを、白い目で見ていた周りの人々は、たまきの名が口外されると、ひとり残らず見なかったことにして立ち去っていく。
(こういうときは無視するのが無難、だもんな)
たまきもできればそうしたかった。
だが残念、今回は相手が悪かった。
亮とは小中一緒で、家も近く、よく遊んでいた時期もあった。善悪の分別もつかない、幼少のころの記憶だけれど。
それともその記憶があるからなのか、中学時代番長と化していたたまき相手に、亮はなおも口うるさく絡み続けた。
「東の金鬼……ふっ、何度聞いてもサブいあだ名」
中学のときも、生徒のほとんどが遠巻きにたまきをおそれていたなか、亮を始めとする男子数名は陰でこそこそ嗤っていた。
たまきはいつも独りだった。
「卒業後もそう呼ばれてるんだな。可哀相なやつ」
(誰のせいだと思ってんだ)
まるで他人ごとのように言っているが、本を正せばすべて、亮から始まった。
この言動からでもわかるとおり、亮は根が悪い。
当事者であり、首謀者であり、諸悪の根源。
孤高の一匹狼なたまきから言わせてみれば、亮のほうがよほど不良の才能がある。
二度と会いたくなかった。
中学を卒業し、亮の頭では到底手の届かない進学校に入学を決め、ようやく縁が切れたと喜んでいたのに。
これが腐れ縁というやつなのか。
他の同級生はいざ知らず、亮に捕まってしまうなんて。
こんな偶然、望んでなかった。
たまきは今すぐにでも帰りたかった。けど近所に住む亮と電車を乗り合わせるかもと思うと、安易に動けなかった。
「てか本当にあのさくら行ったんだ、たまき」
ピンクベージュのブレザー、白と桜色のストライプ柄のネクタイを見るなり、亮は鼻息を吹かせた。くすぶる金髪を一瞥し、似合わねえ、と言外に匂わせる。
「どうせそっちでも暴れてんだろ。得意だったもんな、勉強と暴力」
「……」
「名門さくらの看板が泣いちゃうな。おまえみたいなもんが入ったせいで」
「……」
達者に毒を吐きながらも、直接間合いを詰めることはない。
得意だったと知る暴力が、自身の身に降りかかるのはごめんなのだ。
結局、亮も、うしろに隠れるふたりや野次馬にすらなりきれない通行人と大差ない。たまきに臆し、不安がる一人だ。
無駄に幼少期の記憶があるばっかりに、無視できず、虚勢を張ってしまう。
よけいなことしか言わない空回りっぷりは、うしろの腰巾着ふたりに心配されるレベルだった。
会いたくなかったのは、きっと、たまきだけではなかっただろう。
「なあ、いじめる側は楽しいか?」
「……はぁ。おまえさ」
いい加減黙っていられなくなり、たまきはため息まじりに口を挟んだ。
一方的にまくしたてた亮の唇が、とっさに真一文字に引き結ばれる。
双方、質の異なる焦りを募らせていた。
「な、なんだよ」
「誰にものを言ってんのかわかって――」
「あっ! たまき!」
ピコンッ!
折悪しく改札口から鳴る、能天気な音色。
たった今改札を通過した九が、トイレ前にいるたまきに気づいて駆け寄ってきた。
「おまえ教室出んの早すぎ。ちょっと探しちゃったよ。で、あきらめて駅来たわけだけど。いやあ来てよかったー」
ひと悶着やっているところに笑顔で割って入っていける九に、その場にいた全員――居合わせただけの部外者も――唖然とし、話が全然入ってこない。
だって、どこからどう見ても、“混ぜるな危険”なタイプ筆頭だろう。
頭部の輪郭をくっきり現す黒髪七三分け、逆に視力が悪くなりそうな黒縁メガネ、生真面目に肩紐を握りしめられた黒いリュック。
TPOのミスマッチ具合に、二度見する人が続出。今の今まで意識的に視界に入れないように努めてきた通行人は、突如湧いて出た第三勢力に好奇心を抑えきれない。
なぜ笑顔で近づいてこれるのか、話しかけられた当のたまきにもさっぱり。あまりに堂々としているものだから、疑問を持つこっちがおかしいのかと混乱をきたすほどだった。
「さっきは撮影の順番来て言いそびれちゃったんだけど、俺、たまきに勉強を……」
たまきに、勉強を。その単語を拾い取った亮は、いち早く真相に勘づき、ハッと失笑になりそこなった息を漏らした。
そこではじめて、ダテメガネに遮られた九の視界に、亮たちの存在が認識された。
「あ、ごめん、取り込み中だった?」
「いや……」
「なんだよ、たまき。もうすでに宿題押しつけてんだ? やるなあ」
「……は?」
「…………へ?」
たまきのきれいな顔に亀裂が走る。
ここぞとばかりに目くじらを立てる亮に、今度は九が混乱を強いられた。
「そいつ、おまえに愛想振りまいてさ、気に入られたくて必死じゃん。どんだけ怖がらせたわけ?」
「黙れよ亮」
「そ、そうやってそいつも手玉に取ったのか。ちょうどいいカモだもんな!」
「黙れって」
「こんな見本どおりのいじめられっ子、俺はじめて見たわ。中学にいたら俺もパシってたかも、アハハ」
「黙れっ!」
「ハ、……ッ」
たまきは片手で亮の胸ぐらをつかんだ。
青筋を立てた美形の威圧に、亮は息もできない。
ブチッと学ランの第二ボタンの糸が一本千切れる。心臓をもわしづかみされているようだった。
背後で息をひそめる級友ふたりは、庇う素振りなく、自分の頭を抱えてしゃごみこんでいる。
切羽詰まった亮は、やけくそ気味に喉を酷使した。
「ほ、ほら! 見たかよ! こいつは口より先に手が出るような、救いようのないやつなんだよ!」
辺りにそう喚き散らす一方で、目は口ほどにものを言い、現実逃避するみたいに遠くのほうにばかり視線を泳がせていた。
亮の目下には、攻撃準備を整えたたまきのもう片方の手が、刺々しい殺気を放っている。
すぐに発射しないのは、拳を口に突っ込むべきか、顎に叩きつけるべきか、見極めているからに過ぎない。
たまきの据わった眼は、野獣のぎらつきを帯びていた。
「こ、こいつは昔から……!」
「――言葉が通じねえから、拳で語ろうとしてんじゃね?」
まさに今、その減らず口に狙いを定めた現役の拳が、繰り出されようとしたときだった。
固く覚悟を決めた拳を肯定する声が、ふわりと風にそよぐように耳障りな叫びを遮断した。
意表を突かれたたまきは、かえって手の力が抜けていく。
「あれ? やめちゃうの?」
それをなぜか残念がるのは、何を隠そう、水を差した九本人である。
止めに入るどころか、世間話のテンションでたまきを後押しした九は、拳の活躍が見られず拍子抜けしてしまった。
「やっちゃえばよかったのにー。レッツ体当たりコミュニケーション」
九のビジュアルで、絶対に言わなさそうランキングトップ5に入りそうなセリフ。
見本どおりのいじめられっ子、と軽視されたあとの番狂わせは効果的で、たまきはますます気を削がれる。
気づけば拳は完全にほどかれていた。
「こ、こいつ、ほ、本気で言ってんの……?」
亮の頭は煙を噴いていた。
結果論として、九のおかげで殴られずに済んだが、その代わり、九にガツンと脳を揺さぶられた気がした。
この場に参入してきたときと変わらない笑顔ですんなりうなずいた九に、いよいよ亮は頭痛を起こす。
「拳で語るってよくある、よくある」
いやねえよ、と現役ヤンキーのたまきですら思う。
けれどあいにく、つい1年前まで九の日常はたしかにそうだったのだ。
何せ、筋金入りのヤンキー――だった者だ。世間一般の常識とはかなりずれている。
(拳でやり合うほうが絶対手っ取り早ぇよ。だってこいつの話ちんぷんかんぷんなんだもん。俺が途中参加だからかもだけど。愛想振りまいてるとかカモとかいじめられっ子とか、誰のこと言ってんの? 幽霊でも見えてる?)
口喧嘩が精神攻撃として通用しないことは過去にままあれど、そもそもの言い分を理解できないことはまあ珍しい。IQが20以上離れていると会話が成り立たないというが、もしかしてそれだろうか。
傍から自分がどう見られているのか自覚のない九は、都合よく解釈し、自己肯定感を上げた。さくら高校の校章の入ったブレザーをおもむろに着直し、笑みを深めていく。
「こいつ、な、なに笑って……い、意味わかんねえ……」
「え? なんて?」
得体の知れない恐怖にわななく亮に、九は先輩風を吹かすように一歩近づく。
「く、来るなっ!」
「おっと」
防衛本能に委ね、亮は塩をまくように腕を振り回した。胸ぐらをつかむたまきの手ごと中空に払われる。
粗雑な指先が、九のメガネを引っ掻いた。鼻パッドがずれ、ずるりと落下していく。
地面をかすめるメガネを、九はリフティング感覚で靴先に乗せた。手に持ち替えたメガネは、重量ある作りが功を成し、どこも欠損していない。安心して顔を起こすと、全員に食い入るように見られた。
(ん? なんだ?)
視線は前々から感じてはいたが、何かがちがう。
(なんていうか、俺がミケを見つけたときみたいな……)
数多くの視線が「見つけた」もの――それは、メガネのない、九の素顔だ。
長いまつげに縁取られた黒目がちな瞳。肉付きが薄く、色白な肌。
頑丈な仮面の外れた顔は、美少年と謳うにふさわしい甘美な艶を隠し持っていた。
ジェットコースター並のビフォーアフターに、性別問わずノックアウト。そこら中でうっとりと息を呑む声が吹き抜け、ハーモニーを奏でている。
たまきも例に漏れず九に目を盗まれた。その様子は国宝に焦がれる客というよりは慧眼の鑑定士に近い。
見栄えのいい面は自分ので見飽きているたまきは、他人の美醜などどうでもよかった。
そんなことより、九の顔立ちそのものに引っかかりを感じる。
(こいつの顔、どっかで……?)
漠然とした既視感。
昔会ったことがあっただろうか。こんな肝っ玉の大きいやつがいたら忘れられないと思うが。
九と話したときにはこの感覚はなかった。
その特徴的な顔に、脳が呼び起こされたのだ。
もう喉元のあたりまで出かかったそれを、亮の背後で腰を抜かした、亮の級友のうちのひとりも鮮明に感じ取っていた。
「あ……あ……っ」
記憶の引き出しから、一枚の人相書きが雪崩落ちた。
中学のころ、他校の裏サイトから回ってきた要注意人物の警告。
――『西の辰炎』。
人相書きに添えられた二つ名が、ボソッとつぶやかれた。
「んあ? 誰か俺のこと呼んだ?」
「ひ……っ」
声が小さすぎてきょろきょろ迷う九に、亮の級友のひとりは舌を噛む。
ただひとり、新入生テストの英語リスニング問題を完璧にクリアしたたまきは、そのかすかな独白を一語一句取りこぼさなかった。
厨二まがいな響きに、既視感が冴え渡る。確証を得ようと自らの唇で音をなぞった。
「西の、辰炎……」
「あ、たまきだった? 俺のこと呼んだの」
今度こそ発信源をつかんだ九は、たまきのほうに顔を移した。
人相書きと完全一致した顔を。
「その呼び方、懐かしいわー。そう呼ばれたこともあったなー」
てっきりメガネは変装用と思ったが、ためらいなく正解を言い渡され、たまきは二の句に困った。
「たまき、俺のこと知ってたんだな。ふつうにびっくり。どっかでやり合ったことあったっけ?」
「いや……」
「まっ、あったとしても最低1年は前だし覚えてねえか」
「……」
知ってるも何も、たまきは自分と対になるような存在をことあるごとに聞かされてきた。
東の金鬼、西の辰炎。
エセ風神雷神みたいなセット売りで、あっちが悪さするとこっちにも誹謗中傷が押し寄せ、そのまた逆も然りだった。
ちなみにたまきの分の人相書きもちゃんとある。いったいどこのどいつが始めたのか――大方、学生が面白半分に作ったのだろうが――、肖像権侵害もいいとこだ。
それもあって、あれよあれよという間に、顔と蔑称が大安売りされたのだ。地区外にはさほど流出しておらず、本名バレについては町内でおさまっているのがまだ救いといえた。
九の人相書きが出回り始めたのは、たまきの住む町の対極に根を張る、しみったれた田舎町。
治安の不安定な区域の中でも、道の外しやすさに定評のある町で、ゴミのような人間がたまき宅の近所のざっと倍以上のさばる。
その代表格が、九だった。
来るもの拒まず、飽くまでやめず。倒れても倒されても暴れ続ける、不死身もどきの人でなし。
一説によると、北と南の侵略を一網打尽にし、実質のドンとも言われていたらしい。
ある日を境に、西の闘技場とされる河川敷に現れなくなり、次第に噂も聞かなくなった。人相書きは次世代のワルに上書きされ、時とともに「西の辰炎」の名は風化していった。
一部では、猫を飼い始めて足を洗ったらしいと、まことしやかにささやかれていたが……。
(猫ってのが隠語で、本当は東の金鬼のことだとしたら……!?)
並び立つふたりに無理に点と点をつなげたのは、亮の級友のひとりだ。ついでに九の視線ともつながってしまう。
九がん? と何気なく上瞼を持ち上げただけで、黒目が鋭利に収縮して見え、内臓の状態まで透過されてしまいそうだった。
「殺される」ではなく「食われる」感覚。
食べてもおいしくないですよと言わんばかりに胃が氾濫を起こした。
「う、っ」
西の辰炎は、来るもの拒まず……去るもの追わず。
どろどろとした濁流に飲み込まれるのを逆手に、トイレの個室に駆け込んだ。
置いていくなよ! ともうひとりの級友も、足をもつらせながら追いかける。
のんきに九に見惚れていた亮は、突然ぼっちになった状況に泡を食った。
「え? はっ!? あ、あいつら、勝手に……!」
一変した状況に、どこからつっこめばいいのか。
亮は顔を紅潮させながら、メガネなしの九に八つ当たりした。
「お、おまえがいなけりゃ……っ」
「あ、タイマン? 再開する?」
「するかアホ!」
もはや小学生みたいな悪口しか出てこない。
興が冷め、頭の回りが滞る。
亮はたまきを睨みつけるも、本職の眼力になすすべもない。あきらめて唾だけ吐き捨て、トイレの奥に消えていった。何度かコケそうになっていたのを、たまきは見ないでいてあげた。
「あれ、行っちゃうけどいいの?」
「……ああ」
「そっか」
たまきは首をすくめた。
たいして疲れず、どこも痛めず、あっさりと終息したのは何気にはじめてのことだった。早い安いうまい、のキャッチコピーのすばらしさを体感する。
「うーん、そんじゃあまあ……」
「……ああ」
「俺らも行くか!」
「ああ。……え?」
じゃあな、と続く予感のした口調で、九は道連れを宣告した。片手間にメガネをかけ直し、さっとたまきの手を取る。
切り替えが早すぎる。というか、九に切り替えもくそもなかった。たまきは出会ってこの方、九のペースに振り回され続けている。
「おまえも3番ホームだろ? もうすぐ電車出発しちまうぜ」
返事も聞かずに猪突猛進に走り出す。
今朝同じ車両からたまきが出てくるのを偶然見かけた九は、たまきも隣の地区の住人なことに察しがついていた。
小柄なわりに力が強く、たまきの巨体はあえなく引きずられる。
たまきの目の前で、ぴょんぴょん跳ねる黒髪。ときおりちらつく丸っこい耳に、切れ込みを入れたようなピアス穴の跡が流星群のように散在していた。
(本当に不良、だったんだな、こいつ……)
それも人相書きを貼られるほどの。
そう腑に落ちた今もなお、たまきの視線は九を追いかける。連行されている身なのだから仕方ない、重力に抗えないのと一緒だ。言い訳がましく考えながら、リュックを背負ったうしろ姿にやんちゃな面影を探した。
ふつうではないと、最初から気づいていた。
これまでの変人っぷりを説明するのに、これ以上の最適解はない。
だけど自分とイコールかと聞かれたら、ちがうような気がした。
(……よくわかんねえやつ)
前を進む九が、2段飛ばしで階段を下りていく。たまきの腕がぐんと引っ張られ、上半身が自動的に九のほうに傾いた。
九の巻き起こす風が、傷んだ金髪をあでやかにとかした。
3番と掲示されたホームへ降りたタイミングで、電車のドアが閉まり出す。
ふたりが電車に駆け込んだのはほぼ同時だった。
たまきの足は反射で動き、でかい図体を器用に挟み入れ、気づいたときには前にいた九が横にいた。
ドアがバウンドしながら閉じていく。無理なご乗車はおやめください、と車掌の注意がアナウンスされた。
「ギリギリセーフ、だな!」
「……」
白い歯を露出させる九に、不良のふの字もない。一見、ちょっと芋臭いだけの好青年だ。
走ったせいでメガネが傾いている。たまきが無言で自分の目尻あたりをつつけば、九ははにかみ、がさごそと拙い手つきでフレームをいじる。
西の元番長の前提があると、わざと隙を作ってカウンター待ちしているとも捉えられるが、間違っても演技しているふうには見えない。素でドジなようだ。
(西の辰炎って、もっと怖いと思ってた。……なんだ、全然そんなことねえな)
そう思う暇がなかった、とも言える。
ふつうじゃないけどふつうで、ふつうなのにふつうじゃなくて。そのサイクルがエンドレスで待ち受ける。心はずっと忙しない。
びっくり箱を彷彿とさせる衝撃があった。仮にそこに敵意があれば、お化け屋敷が完成されていたであろう。
(不良やめた噂、デマじゃ、ねえんだ。なんかガチっぽいもんな……。やめられるものなんだ、不良って)
たまきも最初こそ、挽回しようと周りを説得して回ったものだ。けれど何も変わらなかった。だんだんきらわれることに慣れ、でたらめな噂を否定するのも面倒になり、堕落した生活を送るようになった。
道を脱する決定打を、いまだ見失ったまま。
(こいつにはあったのか、がんばれる理由が)
九がひどくまぶしく見えた。
視界につんとした痛みがにじむ。目玉を逃がすように車内へ向けた。
混んではないが、座席はすべて埋まっていた。かと思えば、乗客がひとりまたひとりと席を立ち、そうっと隣の車両に移っていく。
地元の方面を往来する電車ではありふれた現象だった。いまどき珍しくもない金髪を片っ端から避けている人も少なくない。
「あっ、席空いてる。ラッキー」
ちょうど空いた並びの2席を、九は手放しで喜んだ。
リュックを腹に抱えて座ると、つながったままの手が、たまきを隣の空白にたぐり寄せる。
ふしぎと座り心地はよかった。
「あ、そういや、おまえなんか俺に言いたいことが……」
「すやぁ……」
「え」
着席後、わずか2秒で九が寝落ち。
規則的な電車の揺れは睡魔を勧誘しやすいとはいえ、ここまで相性のいい人間がいただろうか。
あやされた赤子のような寝顔に、わざわざ起こして問いただす気にはなれない。メガネがまた落ちないよう、たまきはさりげなく九の首の角度を直す。その直前になって、片手が九の手で塞がっていることを思い出した。
「み、け……んにゃあ……」
「……」
九の手はよく見ると傷跡が多い。ほくろのように変色した痣もあれば、しわのように線を彫る傷もあった。
関節は丸く膨らみ、肌はごわついている。
眠る九の指が一本ずつほどけていく。やがて重なっただけの手のひらは、たまきのひと回りも小さかった。
たまきはなんとなく手を離すタイミングを逃し続けた。



