短い廊下の奥に広がる16畳のリビングダイニングは、必要最低限の家具で構成される。
米と牛乳とキャットフードの散らかったオープンキッチン、勉強道具しかない木製のローテーブルとスカスカのガラス棚。
丁寧な暮らしやミニマリストのそれではなく、たとえるなら夜逃げ前夜の部屋だった。
ここに家族みんなで暮らしている絵が、たまきにはすぐに思い浮かばなかった。一方で、かつて外道に堕ちていた九が育った家としては、ひどくしっくりきた。
「たまき? おーい、タマー?」
「っ、な、なに」
「お、タマで反応した」
猫みたいだといたずらに笑む九に、たまきは漠然とした不安を覚えた。
手狭なキッチンでは、手探りでピンクの箱が開かれていく。
「タマはどれ食う?」
「……た、タマって呼ぶな」
今さら訂正を入れれば、はいはい、とぞんざいな返事をされる。
「で? どうするよ」
「……俺はいい、ケーキいらねえ」
「えー?」
「九の好きにしろ」
九は二度三度しつこい聞き、しばし悩んだあと、渋々了承した。
プラスチック製の皿に、粉雪のような演出のガトーショコラを乗せる。その工程が、×2。
「んじゃあ、俺とたまき、一緒にこのうまそうなやつ食おうぜ」
「い、いや、だから、俺はいいって……」
「でも俺の好きにしていいって言ったじゃん」
「それは全部おまえが食べろって意味で……」
「俺は一緒に食いたいの!」
「……」
「それとも食べたくねえ?」
「……いや」
そんなふうに言われては断れない。何よりたまきもチョコは好物だ。せめて皿とフォークをテーブルまで運んだ。
キッチンでクッキーの袋のリボンがほどく九のそばでは、ミケが走り回っていた。
「キゥーッ!!」
「うんうんミケわかってんよ。ちょっと待ってな。クッキー、皿に出してやるから」
「キュッ、キュウ!」
「うん? クッキーじゃねえの?」
九のジーパンにマーキングするようにミケは頬や手足をすり寄せる。
「なに、今日はやけに甘えただなあ」
若い金色の猫目が溶けてなくなりそうなほど細められていく。かと思えば、たまきが手伝いに戻ると、あっちいけと言わんばかりに眼光を研いだ。
たまきは舌打ちをするすんでのところで思いとどまる。猫に腹を立てるなんて愚の骨頂だろう。それに今は客の身。冷静に、礼儀正しく、クールな男を装った。
しかし、その数分後。
付け焼き刃の皮は、他愛もなくはがれた。
「いただきまーす! ……んんっ、うまぁ! ミケはどうだクッキー、うまいか」
「キュッキュッ」
「あーだめだぞミケ。こっちは俺の。ミケにもクッキーがあんだろ?」
「キューウ!」
「かわいくねだってもだめなもんはだーめ」
目の前で九とミケが一生イチャついているせいだ。
猫なで声の会話は、たまきの蚊帳の外。九はそばにいるミケにばかりかまい、向かい側のたまきには目もくれない。
評判高いガトーショコラの風味が、無味無臭に変わっていく。
たまきは途中でついにフォークを置いてしまった。
「……いつもそうなのか」
テーブル下でちょこまかと動く、まだらに日焼けしたような小動物を、たまきは尻目に追う。その目にははっきりと不満の色が浮かんでいる。
「いひひ、いいだろー?」
(……よくねえ)
今朝手入れに励んだ、たまきの瑞々しい美貌が、ブスッと肥えた。
なぜか、ものすごく、つまらない。
向かい合って座っている今より、隣の席でいる学校のほうがまだ居心地よかった。
招かれている身の上でこんなことを思うなんて最低だろうか、とたまきは内心で自嘲する。我ながら冷静に礼儀正しくクールな男にはほど遠い。と思いきや、その不器用な憂い顔は、傍目には皮肉にもクールなイケメンに見えるにちがいなかった。
「勉強中は大丈夫なんだろうな?」
「だいじょーぶだよー。なあー?」
嫌味ったらしく突っかかれば、九は小首を傾げて語りかける。その相手はもちろんたまき、ではなく、クッキーをひときれ頬張るミケだ。
みっともなくたるんだ九の口には、ガトーショコラのカスがついていた。
「ミケは頭がいいから。いつも空気を読んでおとなしくしてくれんだ」
「空気を読んで、ねえ……?」
これみよがしにミケは九の膝に乗り、ひげをぴんと張る。今にもドヤァ……! と効果音が聞こえてきそうだ。
たまきはグギギと歯を食いしばった。そうでもしなければ悪癖の舌打ちを連発しかねなかった。
「……そ、そんなにかわいいか」
「うんかわいい」
「……大切か」
「もち。自分より大切」
「……特別に思ってんだな」
「ああ、特別の中の特別だよ!」
コールアンドレスポンス式で応えられた言葉はどれもたまきには聞きなじみがあった。
ペットの自慢話は隣の席ということもあり耳にタコができるほど聞かされている。そして同時に、今まで自分へ宛てられた言葉でもあるのだ。
けれど、そのどれもと同じようで、ちがう。ニュアンスが、たしかにちがっていた。
外道から抜け出せた理由が、暗にまざまざと伝わる。
「……好き、なのか」
「大好き!」
九は臆面もなく、間髪入れずに最上級で返す。いつの間にか器用にガトーショコラを平らげていた。
空いた両手の寂しさを埋めるようにミケを抱きかかえ、頬をすりすりする。満更でもないミケは体をびよんと預け、気持ちよさそうに鳴いた。
寒々しい部屋に花が咲く。
ひとり除け者のたまきは、肌寒さを紛らわそうとケーキをヤケ食いし始めた。
「俺にとっては、ミケだけが家族みてえなもんだから」
惚気は止まらない。
たまきは飽き飽きと最後のひとくちを口に運ぶ。喉元に詰まりを感じた。
何かが引っかかる。
「……ミケ、だけ?」
吐き出せば、九はさも涼しげにうなずいた。
「ミケが家族ってもんを教えてくれたんだと思う」
ミケに手ずからクッキーを与えながら、どこかつかみどころなくつぶやく。
たまきはもう一度室内を見渡した。ペット用品や勉強道具以外に生活感は極端に少なく、かといって清潔感がずば抜けて高いわけではない。あまり人の手に使いこまれていない、冷めた家だった。
ごくんと飲み下した口内に、苦味がにじんだ。
たまきのうつろな視線をいとわずに、九は話し続けた。
「俺んちって、いわゆるネグレクトなわけ」
「ネグレクト……」
「必要なもんだけやって、ポイって」
まあ、よくある話さ。
九は今朝見た夢を明かすように平気で笑った。両手は依然とおだやかにミケの毛並みをとかしている。
「ここは家なんかじゃなく、ゴミ箱みてえなもんかもな」
今ものらりくらり健在しているであろう九の両親は、まともに子育てをした試しがない。少なくとも、九が物心ついたときから。
長期間家を空けては、ある日忽然と帰ってきて、九がいてもおかまいなしに酒を飲んだり性行為をしたり好きに過ごし、またどこかへ行ってしまう。
ただし衣食住に困ることはなく、水も電気も、冷蔵庫には食料もあった。たまに全部腐って食えるものがないときはあったが。それでも目に見える虐待はなく、放置されるのが常だった。
逆に言えば、九にも好きにさせていたということ。学校に行こうが引きこもろうが、極端な話、犯罪をしようが干渉しない。
親にとってきっと、九は幽霊、あるいは家畜か。その程度の存在価値でしかないのだ。
九が環境の異常さに勘づき始めたのは、小学校に上がってからだった。
怖くなって担任の先生に相談すると、「今生活できているのは、お母さんやお父さんが働いてくれているからだよ」「世の中にはいろんな家庭があるから自分だけを変だと思わないで」などときれいごとの見本を並べ、親の肩ばかり持たれた。
言い分は九にも理解できる。金を払っているのは、事実、親だ。
だけど、だから何だというのか。
納得できるほど心は広くない。
(キモイよ、みんな)
当時、小学2年生だった九が、教師、ひいては大人に幻滅した瞬間だった。
「それで、グレてたのか……?」
「まあそうだな。放置されてたせいですげえ暇だったし。喧嘩すんのは楽しかったから」
「へ、へえ……」
「いっそ痛みがあったほうが、存在を認められてるような気がしねえ?」
「……」
性格の根幹は、家庭環境で養われる。
ろくでもない親に、廃れた町。ひねくれ者の爆誕にはこの上ない条件だ。
世間一般では汚名でも、九は物心ついたときからそうだったので、今さらやましさも後悔もない。さらに言えば、地元では周知の事実で、特別隠し立てる必要もなかった。
ただちょっと、いやかなり、ふつうではないだけ。
九はそれをふつうに受け入れていた。こんなにも清々しいまでに他人ごとの顔をしていられるほどに。
「でもミケを飼い始めてから考え方がガラッと変わった」
不意に呼ばれた名前に、ふさふさな猫の耳がピクリと弾む。
「健康志向っつうのかな。あんま傷つくんねえようにしようとか、いろいろ知識つけて心身を鍛えようとか。できるだけ長く一緒にいたいから」
「キュゥ!」
九の膝の上で寝ていたミケは、九の胸にぽんと肉球を押し当てる。しっぽがふわりとはためき、九の腰に抱きついた。
人と猫。言葉の領域を超え、心が通じ合っていた。
ほほえましい絵面に、たまきは静かに瞼を伏せた。
フォークの先端で、チョコレートを溶かした最後のひときれがとろける香りを放ちながらおとなしくしていた。
たまきはようやくフォークを持ち上げる。
「もちろんたまきもな!」
「え……っ」
濃密な風味が目前に迫ったとき。
フォークを持った雄々しい手に、九のかさついた手のひらが触れた。
ぽろっと落ちかけた欠片をすくいとるように、九が身を乗り出してフォークの先端ごとかぶりついた。きめ細やかな白肌がおいしそうに火照り、甘く、とびきり甘くほころんでいく。
九は上目遣いでたまきを見つめる。
ミケが何やら口うるさく叫んでいるようだが、今のたまきには何も聞こえない。
「ほんとは、真昼間に親と鉢合っちまったら、ここを事件現場にでもしたかったんだけど」
いや、とんでもないことをしれっと公表した九の声は、妙にはっきり聞き取れた。
冗談か本音か見分けがつかず、怖々と聞き返す。
九は力なく眉を下げた。
「もうできねえや」
俺、獣医にならなきゃだし! と、ミケを横目に肩をすくめる。
安らいだ九の体を、ミケがリズムよく登っていく。肩まで到達すると、頬をぺろりと舐め、首の動脈を確認するように毛並みの整った頭をぐりぐりこすりつけた。
対してたまきは、フォークを曲げる勢いで肩肘を張った。
「じゃあ俺が代わりに殴ろうか」
現役の名に恥じない剣幕に、威圧感。
ぎらつくピアスは、いつもの安全ピンを彷彿とさせる鋭利な形ではなく、洒落こんだチェーンタイプのデザインだった。
しゃらしゃら揺らめく物に猫は目がないというが、現役ヤンキーのオーラにミケは圧倒され、九の背に隠れてしまった。最強の盾、九は、案の定びくともしない。
「親ごときにたまきの拳なんかもったいねえよ」
「……」
「うーんでもそうだなあ」
九は両腕で頬杖をつき、ノリノリで思考に興じる。
「チュウでもしたら、親もビビって息の根止めっかな?」
おどけた口ぶりで、いたずらに首を軽く傾げた。
たまきの茶目がぎゅんっと超加速的に丸められていく。
ミケは渾身の大声でキュウ!! と呼び止めた。
しかし、
「……別にいいよ」
ド低音に発せられたその一言で、沈黙が落ちた。
たまきは緊張した面持ちで九の唇に焦点を当てた。
高らかに吊り上がった九の口角は、その実、左右不揃いに曲がっている。血色のよい唇は、日差しが不意に消えると、荒れ果てた紫に褪せて見えた。
内側にくすぶる毒親への反抗心が、黒煙のように漂っていた。
黒い感情には敏感なたまきは、全部ひっくるめたうえで言ったのだ。
いいよ。
それがたまきの答え。他にない、たまきの正解だった。
「……バカ」
歪だった九の口から、ふ、と吐息が漏れた。
「本気にすんな」
九は困ったように苦笑した。
たまきの広い肩幅がみるみる収縮していく。比例して、九のえくぼが深くなっていく。
地から見上げるミケは、今にもこぼれそうなつぶらな瞳をきらりと瞬かせた。そこに反射する九の表情は、1年前、ミケを飼うことに決めたときとよく似ていた。
「あ、でも、写真とか飾って自慢しとくのはありか」
ナイスアイデア。
九はすぐさまミケを連れて向かいに回りこみ、たまきの大柄な胴にどーんともたれかかった。スマホを天に掲げ、内カメに3つの異なる美顔をおさめる。
パシャリ!
パシャパシャ!
パシャシャシャシャ!!
シャッター音が絶え間なく響く。
似たような構図を何枚も連写し、満足した九は、そのうちの1枚を早速スマホのロック画面に設定した。
(玄関先にも飾ってやろうか。日めくりカレンダーにしてもいいかもしれねえ。親の顔が見たい……なんて、はじめてだ)
最高の土産話ができた。
おまえらは地獄にいくだろうが、こっちは幸せにやっている、と。
写真のそばには、入学式にもらった桜の胸飾りを添えるのもいいだろう。九はつい笑みをこぼした。
隣ではたまきもいそいそとスマホを操作していた。九が覗きこむと、画面にはキメ顔したスリーショットがドアップで表示されていた。
「あ、たまきもうちの子気に入ってくれたんだ!?」
「ち、ちげえよ! てか覗くなよ!」
「じゃあなんでわざわざ拡大してんの?」
「そ、それは……九が……」
「俺?」
「な、なんでもねえ!」
「えーなんだよー!」
「なんでもねえって! ほらいい加減勉強すんぞ!」
「えーー?」
ふたりの間に揉まれたミケは、苦しそうに首を振った。
本題の勉強会は、図書室のような神聖な静寂は望まれなかったものの、ふしぎと進捗は良好だった。
時間が滝のように凄まじく流れ去る。
日が暮れてきたころ、勉強のごほうびに残りのチョコタルトとザッハトルテをぺろっといただき、会はお開きになった。
見るからにテンションの下がったたまきは、黒い革靴を履く前から、そして履いたあともうつむきがちだった。
「……おじゃましました」
玄関まで見送りに来た九とミケに、投げやりな一礼をくれると、のそのそとやけに遅く動き出す。
現実でスローモーションの仕掛けが起こるわけないのに、ドアノブが秒針のように少しずつ回っていく。
「待って、たまき」
九が一歩踏み出した。
たまきは脊髄反射で振り返る。ワックスの乾いた金髪が軽やかに舞った。
両者の視界に、影が降る。
あのたまきですら、九の姿をはっきりと捉えられなかった。
かつてたまきと肩を並べ、巷を恐怖に陥れた大物たるもの、隙だらけのふところに入りこむなんて朝飯前。本気を出した九は、いともたやすく距離を埋めた。
――ゼロ距離に。
「っ、……え……?」
一瞬のできごとだった。
気づいたときには九は身を離し、玄関の段差でたまきと同じ目線にいる。
たまきは朦朧と口の端っこに残る、淡くてやわい温度を指先でたどった。
「んじゃ、また月曜な」
キィ……バタン。
「キューーーゥウ!!!」
「九〜〜〜っ!?!?」
扉が閉まると、その両側から同音の絶叫が熱量高くひしめいた。
カラスがあわただしく空のはるか高いところへ逃げていく。
(九のバカヤロー……! 次会ったらシメる……!)
名店のケーキの味はもう思い出せなかった。



