元ヤンと現役


図書室に隔離された自習室は、原則私語厳禁。
ミッションから解放された放課後であっても、その規則は揺るがない。
生徒には入学後のオリエンテーションで必ず教示され、そうでなくても規則準拠の掲示がいたるところにあり、知らぬ存ぜぬは通らない。
噂によると、三度注意された人は出禁になるらしい。

「あーもーだめだ今日。やる気出ねえ」

だとしたら、九は少なくとも10回は出禁になっていないとおかしい。

中央の席で宿題と予習を始め、そろそろ10分。
開かれたノートは、いまだ手つかず。
ペンより先に頭をつけた九は、何度目かのため息をついた。
何の妨げもなく麗しい顔を晒していながら、豚のようにブーブー文句を垂れる。

「……うるせえな」

見兼ねて注意に動いたのは、隣で教科書に目を通していたたまきである。
注意といっても私語にではなく、

「おまえがやろうって言い出したんだろ」

そのものぐさな進捗具合のほうだ。

自習室には例のごとくふたりしかいない。
見るからに事後なたまきの見た目に、生徒たちは50メートル走のときのように全力疾走。自習室がふたりの領分になるまで30秒もかからなかった。
司書の先生は図書室の奥にある作業部屋にこもってしまい、いよいよ規則は空洞化する。

いずれここは不良のたまり場として知れ渡り、私語厳禁の意味合いが歪曲していくのだろう。
しかし、その実態は――

「そんなんじゃ勉強教えてやんねえぞ」
「それだけは勘弁! たまきがいねえと俺やっていけねえよ〜……」

――現役ヤンキーによる、マンツーマンスタディコーチング!

体罰や宿題のやらせはもちろんなし。おまけに受講料もなし。
教え方が格別にうまく、そこらへんの塾よりよほど有意義で、優良な勉強会(九調べ)

大好評につき2回目の開催となる今回、受講生の九はちょっとぼんやりしているが、これがないとやっていけないのは比喩でも何でもない。

「……俺がいねえと、だめなんだ?」
「そりゃそうだろ!」
「……へえ、そうなんだ」
「そうだよ!! 本当にありがとうな!!」

九はなぜかキレ気味で礼を言う。勉強のモチベーション低下が、変なところに作用しているようだ。
前回コーチングしてもらった英語の宿題は、なんと満点。ビリからの下克上が実現可能とわかり、九はたまきの存在の偉大さを身にしみて感じていた。
これが無償で、レジ袋が有料?どうかしている、この世界。

「言葉だけじゃだめだ……なんか粗品を……あっ、また牛乳買ってこようか!?」
「いらねえ。その貢ぎ癖やめろ」
「たまきこそ、報酬を断るのやめろよ。人生損すんぞ」
「報酬て。仕事じゃあるまいし」
「似たようなもんだろ!」
「ちげえよ、俺は、ただ……ちょっと、ヒントを出してるだけで……。それに、人に説明したほうが定着しやすいし、そう、自分のためでもあるんだよ」

さりげなくやさしくて、かっこいい。モテ男のそれではないか。学年1位の肩書きが透けて見えるようだ。
なぜたまきの下駄箱にラブレターがあふれていないのか、九にはふしぎでならなかった。
A.不良だから――そうと知ったところで、元ヤンの九にはぴんとこないのだろう。

「……まあ今は、教える気失せたけど」

つんと尻の跳ねた茶目が、下方に突っ伏す九の頭を舐める。
九は歯がゆそうにごめんの3文字を極限まで薄く伸ばし、痰に絡めるように喚いた。

「んぐぐ……だって……!」

自習に身が入らないのは、ふたりしかいないプライベート空間だから。そんな生半可な理由ではない。事はもっと重大だ。

「さっきの健康診断で、俺……っ、身長1ミリも伸びてなかったんだ……!!」

大は小を兼ねる。その格言を外見の基準に適用している九にとって、これは非常に甚大な問題であった。
成長期真っ只中、週3でミケと牛乳を飲み、早寝はできていないにしろ早起きはがんばっている。それに何より、中学生から高校生にグレードアップしたのだ。ちょっとは期待してしまうものだろう。その気持ちが、制服や体操着のサイズにも表れている。

現実は、身長167センチ。ついでに体重53キロ。
どうりで代わり映えのない景色なわけだ。
努力は叶わず、期待は砕かれ、九の心はすっかり萎えてしまった。

「縮んでねえだけマシじゃん」
「けっ……身長でけえやつはこれだから……」
「……」

167センチの心、182センチ知らず。
ただでさえ満足していない身長で、退化が始まってしまえば、それはもう気力どうこうで済む問題ではない。
最悪の呪いだ。
このまま成長できないのかもしれない。身長も、頭脳も。

(あーいやだ、いやだ。今すぐミケに会って癒されてえ……。ミケを撫でたい。ミケを吸いたい。じゃねえと、俺、ずっと引きずっちまうよ……!)

英語の単語を組み替えても、数学の式を展開しても、現国の文章題を読んでも、頭によぎるのは、記憶に新しい診断結果。
卓上で今か今かと待ちわびているノートを、しらみつぶしに引きちぎってやりたくなる。167の数字を見ただけで発狂しそうだ。
そんなことをしている暇はないというのに。

「そうこうしてるうちに定期テスト始まっちまうぞ」
「うぇぇ」

みぞおちにクリティカルヒットしたように九は舌を出してえずいた。
そう、来月の今ごろには、早くも1学期の中間考査が始まってしまうのだ。
さくら高校は言わずと知れた進学校。テストの問題だけでなく在学生のレベルも抜きん出ており、みな勤勉で向上心旺盛、試験の志しも高い。
相手にとって不足なし! と言いたいのは山々だが、九はそこまで驕っていない。

獣医への道は遠く、険しい。発展途上な身体ならなおのこと。
新入生テストのときと同じ轍を踏まないためには、日々コツコツ進んでいかなければならない。

そうわかっている。九とてわかっているのだが。
それでも傷心モードから全然切り替えられなかった。

「はあ……もういいや」

九は両腕を机に向かってうんと伸ばした。それを降参のポーズと受け取ったたまきは、やれやれと教科書を閉じる。

「続き、俺んちでやんね?」
「……ああ」
「よーし決定」
「……ん?」

時差で言葉を呑み込んだたまきの横で、九は潔く荷物をまとめ始める。
たまきは焦って、包帯の目立つ右手で九の支度を制した。

「な、なに、なんで」
「俺んち、いや?」
「い、いやとかじゃなくて……」
「家のほうが時間を気にしないでいられんぜ?」
「そ、そう、かもだけど……」
「ミケにも会えるし!」
「……」

最大の理由はやっぱりミケ。君しかいない。
ミケは九の原動力。生きがい。はじめのキーマン。
ミケの顔をひと目拝めば、すぐにでも気持ちを入れ替えられる。
九はある意味、ブレない男である。

「……もしかして、おまえんち、不良のたまり場だった?」
「いんや? 今まで誰も呼んだことねえけど」
「え……なんで」
「なんで? んー、俺が家にいたくなかったから?」

家に呼ぶような間柄のやつはいなかったし、親がいてもいなくても、家は牢獄のようできらいだった。

(だけど今はミケがいる)

名前を呼ぶように鳴いて、そばにいてくれる。
たったそれだけで、あの無価値な箱は帰るべき居場所になった。
ずっと守っていきたい。その想いが、九を真っ当に生かしていた。

「……俺は、いいのか」
「うん?」
「その……家に、上がっても」
「うん」
「なんで」
「えー? 別に理由なんか……」
「なんで。理由。言え」

なぜなぜ期の子どもみたいにせがむたまきに、根負けした九は仕方なく潜在意識に問いかけてみる。

「あらためて聞かれるとなあー……」

うっすら思い描くのは、耳としっぽを振る、愛らしいシルエット。
ミ、と発音しかけ、たまきがわざとかぶせて言い当てる。

「ミケに似てるから」
「おっ!」
「……とか言うなよ」
「は? なんで」

今度は九が理由を問う番だ。

「……聞き飽きた」

それだけボソッと吐き捨てられる。
九はリュックを締めながら、椅子をゆりかごのように揺らした。

「つってもなあ、それ以外ねえしなあ」
「……猫に似てるってなんだよ……」
「なんだろうな?」
「本人にもわかってねえのかよ……」

たまきはふてくされてそっぽを向く。
その様はまさに、今朝メガネを奪ったミケと瓜ふたつだった。
九の表情にやさしさが染み込んでいく。

「一緒にいたいって、思うんだけどなあ」
「……え?」
「一緒に……」
「……一緒に……?」

――一緒に、働きませんか?

不意に九が口走りかけたのは、とあるキャッチコピーだった。

「あああっ!!」

それは金曜の放課後に見つけた、駅前のコンビニの求人ポスターの謳い文句だ。
思い至るやいなや、九は野太い奇声を発して跳び起きた。

「やっべえ! 忘れてた!」
「な、何……?」
「今日バイトの面接あったんだった!」
「バイト?」
「そう! 駅前のコンビニで!」

そうだそうだ、求人を目にして速攻で応募したのだった。
はじめて面接までこぎつけたというのに、健康診断とかいう厄災にまんまと見舞われ、身長の記録以外何もかも抜け落ちてしまっていた。

九は室内の時計を確認する。
現在の時刻、午後3時55分。
面接の予定、午後4時30分。
セーフ、一命を取り留めた。だが、悠長にはしていられない。

「ちょっくら行ってくるわ!」
「じ、自習は……」
「また今度! 頼む! じゃっ!」
「……はあ。今度、ね」

善は急げ。九はリュックを腹に抱えた状態でスタートダッシュを決める。自習室を出るあたりで、翼を羽ばたかせるようにリュックの持ち手を振り回し、背に担ぎ直した。
その拍子――カシャンッ、何かが図書室と自習室の境目に落ちた。
安っぽい光を反射させた、丸型のガラス。バケツ塗りされた染色。
ミケに取られたと言っていた、黒縁のメガネだった。