元ヤンと現役


早急に片付けを終え、先生の計らいでチャイムが鳴る5分前に解散となった。
我先にと離れていく生徒たちを横目に、たまきはポケットの裏地をさすりながら、鼻から多量の空気を吐き出した。胸の内側もなんだかざらついていた。
自分のベストな移動タイミングを探っていると、いきなり右の二の腕をつかまれた。

「き、九? な、なんだよ」

九はじっとたまきを見つめていた。
九の小さな手ではたまきの上腕二頭筋を包囲できていないにもかかわらず、腕を抜き取ることはできない。
握力測定かよやめろよ、とたまきらしからぬジョークをかましてみるも、九はくすりともせずに言った。

「行くぞ」
「教室ならさっさと」
「保健室」
「行っ……え?」

なんでと理由を問うのと同時に、九が歩き出す。腕を捕らえられたたまきは、つんのめりながらもついていくしかなかった。
5時間目を区切る合図がやっと校舎をめぐる。
ざわつき始めた廊下を、九は黙々と進んでいった。一見ふつうに歩いているようで、その実、たまきと股下の長さに差があるのに一歩が大きい。保健室の表札を見つけると、さらに速度が高まった。
失礼しますの挨拶までも高速で告げ、中に入る。保健医は不在だった。それでも九は止まらない。

「はい、たまきはここに着席」

丸椅子にたまきを座らせ、不躾に棚を漁り始める。

「お、おい……なんで、急に」

おそるおそるたまきが問いかけると、九はくるりと体を向けた。手には冷えピタと包帯があった。
ん? 冷えピタ? と二度見するたまきの前に、九は椅子を持ってきて腰を据えた。

「はい、手ぇ出してください」

お医者さんごっこのような口ぶりとは裏腹に、たまきの右手をポケットから引っこ抜く仕草は、カツアゲする不良のそれだ。
あらわになった手に、九はわざとらしく肩をすくめる。

「元ヤンの俺の目を侮るなよ」

メガネの奥の双眸が、黒い光をぐっと眇めた。
金目の物を見つけて元ヤンの性が光ったのではない。手の人差し指が、青く変色していたからだ。

「き、気づいてたのか……」
「当たり前」

どうせさっきのボールで突き指し、隣のクラスの女子に負い目を感じさせないために隠していたのだろうが、九の目はごまかせない。
相手の弱点をいち早く見破るのは、喧嘩の基本である。
ケガはするのも見るのも慣れている。そのわりに手当ての経験は比例せず、たいてい自然治癒力を過信していた。

しかし、勉強に目覚めた今、利き手がなければ何も始まらない。ケガを負えば、宿題もまともにできず不便極まりない。早めに治すに限る。
スピード重視には、自然治癒力に加え、応急処置が必要だ。たまきには勉強を教えてもらう恩義もあり、九は放っておけなかった。
だからといって突然医療知識が降って湧くわけもない――文明の利器・スマホは教室に置いてきた――ので、とりあえず冷やして固定すればなんとかなるだろうと、棚に数ある医療道具の中でよく知る冷えピタと包帯を選抜したのだった。

九の迷いのなさに、たまきは異物混入を指摘できずにいたし、そのせいで手当てのありがたみが薄れつつあった。

「たまきって、つくづくやさしいよな」

バカだよな、とおちょくるテンション感に、たまきはとうとう欠片ほど残った感謝を取り逃した。

「他人にはバカみてえにやさしい」

やっぱり褒めているのかわかりづらい絶妙な言い回し。
たまきの突き指した手に、真剣な顔で冷えピタを巻きつけている九のほうが、よほどその表現がお似合いだ。

「なのになんで自分にはやさしくしてやんねえんだか」

自己犠牲精神というやつか。
九は脳内の辞書から引っ張り出したそのワードをしばし咀嚼し、響きのかっこよさにちょっと惹かれた。してすぐに、いやいやちっともかっこよくねえ、と自己暗示する。
自他ともにどうでもいいタイプの九には、なかなか感情移入もできない心理だった。

(他人にやさしくできんなら自分のことを一番にやさしくするもんじゃねえの? 知らんけど。……あ、でも、「他人」を「ミケ」に置き換えたら、ちょっとは理解できっかも)

ミケにミケと名付けてからは、ミケ第一の生活になった。ミケが元気でいられるなら、自分の分の飯は要らないし、睡眠時間を削って勉強できる。
思い返せば、痛みをこらえるたまきの表情は、出会ったころのミケにそっくりだ。
ミケも自分の傷は二の次に、会ったばかりの他人()のことを慰めていた。本当にバカな子だ。
バカな子ほどかわいいとはよく言ったものだ。

「お、おまえだって……」
「え?」
他人(ヒト)のこと言えねえだろ!」

たまきはいきなり語気を荒らげた。
冷えピタの上から包帯を重ねる九の腕をつかみ、うざったい袖を肘あたりまで下げる。手首についたミミズ腫れのような線状の傷を、ずばりと指差した。

「俺のことは気遣ってくれてるけど、自分のは放っておいてんじゃねえか」
「こんなん別に」
「別にじゃねえだろ!」

そう責められても。
九はあっけらかんと手首のかすり傷を見やった。

「たぶん治ってもまたやっちまうんだよなあ」
「そ、そんな思い詰めて……」
「うちのミケが」
「……え、ミケ?」

九の表情にとろみが増し、たまきの気勢に急ブレーキがかけられた。
室内に蔓延した消毒液の匂いが、鼻に抜け、毒気を消していく。

「昨日もまたミケに引っかかれちまったんだよ」
「えっと……?」
「ミケなりの愛情表現みたいなもんかな。かわいいだろ?」
「ええ……」

九は傷を傷だと認識していなかった。それは単に無痛というわけでもアクセサリー感覚でもない。しいて言うならMっ気に近しい。
予期せぬハートフルな展開に、たまきは目頭を押さえた。

「それリストカットじゃ……」
「何のこと?」
「はあ……」
「ん?」

(そんな場所に傷つくるなよ、危ねえな!)

九の手首を引っ掻いた傷の山を、たまきは恨みがましく睨めつけた。
てっきりそれが原因で非行に走ったと思い込んでしまったじゃないか。昨日あれこれ悩んだ時間を返してほしい。

「じゃあなんで不良になんかなったんだ……」
「えー、うーん……痛気持ちいい、的な?」
「なんだそれ」

不良をそんな健康グッズみたいにたとえる人が他にいるだろうか、いやいない。

「あ、今はちげえよ? ミケのこと守らねえとだし」

九はぐるぐる巻きにした包帯をハサミですぱーん! と切った。先端の断面にはほつれひとつなく、きれいに真っ直ぐ分かたれている。

「……おまえ、その猫のことばっかだな」
「うん? ん、まあ。ミケは、特別」
「……へえ」
「で、次にたまきかな」

今朝の「キーマン」に引き続き、またしても思わせぶりな発言。
たまきの胸につんと冷えた兆しが吹雪く。応急処置で2倍の太さになった人差し指から来る、すっとした冷感さとは明らかにちがった。
だって痛みが引いてくれない。

「……俺は二番かよ」
「いやいや、テストの結果じゃあるまいし。順位なんかつけられねえよ」
「……」
「俺たちって、なんつうの? 友だち? みたいな感じ? じゃん?」

義務教育期間グレていた九は、まともな友だちができたことがなく、他人に「友だち」と使うのもはじめてのことだった。
それゆえに下手に知ったかぶりしたような問答になったが、どうやら使い方が間違っていたらしい、たまきは徐々にうつむいていった。

(……とも、だち……)

たまきはくるぶしの覗く自分の足を内股気味に交差させた。
手厚く二段構造で守られた人差し指が、バクンバクンと脈を膨らませ、かえって熱を蓄える。
痛むのはいったいどこだろう。

(友だち……?)

かつてそうだった亮たちにはいじめられ、誤解を解きたかった同級生からは忌避され、近所の不良たちとはしばき合い、それでも渇望し続けた関係。
もう二度と贈られることはないとあきらめていた言葉たち。

――なのに、なぜ。

「……やだ」
「ええっ、ひでえー」

九の笑い声が白い室内を晴らす。
金髪に覆われた彫刻のような顔のみ、硬く影っていた。

まるで言った本人が一番驚いているかのような沈黙。
ふしぎに思った九は、下向きのたまきの眼前に手を振ってみる。応答なし。たまきはいっそう首を丸めこむ。
下方に落ちていく繊細な金髪が、九にはキュゥと垂れた猫の耳に見えてならなかった。
九は腰を上げ、地毛の垣間見える頭を撫でた。ぶるりと一瞬痙攣を起こしたつむじに、薄く伸びた口を寄せていく。

「……っ、は……?」

ハラハラと流れる髪の上に、かすかに触れたやわい温もり。
数秒間確かめたのち、たまきは衝動的に立ち上がった。椅子が清潔な床にドンッと倒れこむ。

「は、はあ!? きっ、おまっ、な、何を……!!」

噴火したように顔が真っ赤だった。火の回りは早く、襟足の揺らめく首根やシルバーをはめこむ鎖骨の下にまでおよんでいる。
友だちみたいな感じと言ったその口で、今、何をしたのか。
ためらいながらつむじを右手で押さえ、感触をたどろうとする。が、人差し指の包帯がこつこつ当たり、気が散る。惜しいとは思っていない、別に。

「あ、ごめ。ミケに似ててつい」
「はあん!?」

九は眉を八の字にしてへらっと破顔した。
友人どころか猫扱いに、たまきはまた別の火を燃やした。喜怒哀楽でおなじみの、怒りである。
舌打ちを九に飛ばし、大股で出入口に向かった。

「え、ちょ、どこ行くんだよたまき」
「……教室っ」

たまきはふんっと力いっぱいに扉をスライドした。
その背後では、九が大慌てで使った道具を棚に押しこんでいる。

「なら俺も行くって。もうすぐ授業始まるし」
「来んなダサメガネ!」
「もーなんだよさっきから。またカルシウム不足か? 牛乳今日ねえよー?」
「いらねえよ!」

無情にチャイムが鳴り渡る。
6時間目の遅刻が決まった、その瞬間。たまきは追いかけてくる九の足音に、ひそかに安心感を覚えていた。