元ヤンと現役


入学式、オリエンテーション時に使われた体育館を、本来の用途で活かすときが来た。
そう、体育の授業である。

今朝のミケ騒動をランチとともにほどよく消化した、5時間目。
通常授業での第1回目の体育。2クラス合同で、男女に分かれて行う。前半はさくら高校流の準備運動をレクチャー、後半は体力測定の練習に充てられた。

樹木から滴る蜜のような色味をした、長袖長ズボンの体操着が、まっさらな匂いをなびかせ、体育館中をうごめく。
来週に健康診断が控えているためか、特に女子生徒が張り切って運動していた。
かと思いきや、先に盛り上がりを見せるのは、男子生徒のほうだ。

「おおー!!!」
「握力70!?」
「まじかよ!!」

歓声が上がったのは、ステージ前。
平均以下の体格の少年が持つ握力計に、高校1年生の平均を優に超える結果が反映されていた。
体操着の袖が余って、いわゆる萌え袖になっている手元からは想像できない、アスリート級の数値。
周りの男子は金メダルを扱うようにその握力計に触った。

「やるじゃん灰田!!」

飛び抜けた実力を何気なく披露したのは、何を隠そう、九である。
体育の授業でも変わらないヘアスタイルとメガネ。おまけに、明らかに今後を見据えてワンサイズ大きいのを選んだ体操着によって、ダサさに磨きがかかってしまっている。にじみ出される陰性のオーラに、100人中100人が運痴に一票投じるだろう。
名門さくら高校では運動より頭脳派なタイプが相対的に多く、むしろ運痴は多数派ともいえるが。

どうだろう、握力計に表示されているのは、間違いなく「70」。へたしたらりんごを丸ごとつぶせてしまえる力だ。
第一印象をくまなく裏切る九は、握力に留まらず、次々と学校の新記録を樹立。周りからダークホースとして騒ぎ立てられた。

「灰田、運動部入ったら!?」
「君がいれば百人力だろう!」
「先生ってたしかサッカー部の顧問でしたよね? 今からスカウトしたほうがいいんじゃないですか!?」

クラスメイトの男子が、サッカー部顧問でもある体育教師に九を推す。
九の経歴を知る教師は、微笑ではぐらかした。偶然にも、九自身もまったく同じ反応をする。

(いやあ、部活なー。部活もいいけど、俺にはやってる暇ねえなー。毎日忙しくて。勉強とか、バイト探しとか、ミケとたわむれたりとか。はー、充実してるわ、俺の高校生活)

鼻の下の伸びた笑みが、ふっと不敵に締まった。

(でもよかった〜、この調子ならポテンシャルだけで体育はクリアできる。喧嘩で筋肉鍛えた甲斐あるぜ。過去は無駄じゃなかった。俺の血となり肉となり、そしてやがては成績となり権威となる! 体育サイコー!)

現役だったなら確実にたまきをおさえてさくら高校の番長になっていたであろう。桁違いの記録がそう物語っている。

次に練習する種目、ハンドボール投げも、九は最高得点である10点を取る気満々だった。
けれども、人々があちこちに点在する現状では、ルールどおりに実施しては、負傷者を出す危険がある。今できることといえば、体育館の奥行きの広さを利用し、遠くに飛ばす練習くらいであった。

わざと少し空気を抜いたハンドボールを、九は満点の握力でつかむ。
体育館ステージ側の壁際に移動し、対局側の壁と天井を展望した。

(壁に直球で投げれば……跳ね返って危ねえかな。高さで距離稼ぐ練習でもするか? ……天井の隙間に入っちまいそうだな)

だめかな、まいっか、でもな……。
何度目かの思考の循環の末、こういうときは他人の意見を聞こうと思い至る。

「ボール、前と上どっちに投げたほうがいいと思う? なあ、たまき」
「……俺に聞くなよ」

ちょうど近くに、サボっているたまきがいた。
九の輝かしい活躍の影に隠れ、気配を押し殺すように隅で時間が過ぎるのを待っていたようだ。
にぎやかな授業のムードへの、たまきなりの配慮だ。

「俺にかまわずに好きにしろ」
「好きに……そうだな、そうする」
「……」
「上に投げるわ俺!」

好きにしろと言ったのは、何も好きなほうを選べとアドバイスしたわけではない。

「隙間狙いにいったほうが楽しいし、被害も少ねえし。それにもし天井にはさまったら、背ぇ高いたまきに取ってもらえるもんな! うん、上だ、高さ勝負だ」
「……昨日小せえっつったこと、まだ根に持ってんのか?」
「ん?」
「……いや」

半端丈のズボンをまとう長い脚が、静かにそっぽを向いた。

「たまきも一緒にやるか?」
「え?」

俺にかまわずに、と言ったそばから、九はたまきを練習に誘う。やっぱりさっきの言葉をちゃんと通じていなかったらしい。
返事も待たずにボールをもうひとつ持ってこようとする。

「お、俺……」

たまきはなぜか強く拒否できなかった。
強烈な引力に引き寄せられるように、九の持ってきたボールに腕が伸びていく。

「――危ないっ!!」

不意に甲高い声が体育館に反響した。
注意喚起はステージ側に飛ばされていた。九の手にあるものと同じ、ハンドボールも一緒に。
壁に勢いよく体当たりしたボールは、九とたまきのいる隅へ跳ね返った。
びゅんっと空を裂いて迫るボールに、たまきは目を見開いた。
目の奥にじわじわと鈍痛が押し寄せる。

痛みでよみがえる、小学生のころの悪しき記憶。
体育倉庫で亮ら数人から一斉にボールを当てられたときのことだ。近距離からぶつけられるボールは、たとえ受け止められても衝撃が凄まじく、骨の髄まで痛みが響いた。
やめてと言ってもやめてくれず、泣いたら笑われ、片付けも進まず、結局次の授業に遅刻した。亮たちは先に教室に戻っていて、怒られたのはやっぱりたまきだけだった。

(ああ……もう、忘れたと思っていたのに)

脈が遅くなっていく。そのせいか、周りの時の流れも鈍く感じ、ボールの軌道を明瞭に捉えられた。
八つ当たりするみたいに利き手で思い切りボールを打ち払った。人の顔をビンタしたときを彷彿とさせる感触と音が広がる。人差し指に電流に似た刺激が走った。
苦味のたまる舌先で顎裏をこする。チィ、と小鳥の鳴き声のような弱々しい音が出た。
ボールはふたたび壁にバウンドし、威力が相殺される。なめらかな弧を描きながら、たまきの手元に着地した。

「おお〜お見事!」

九はたまきの計算された技を褒めそやしながら、内心で自分のことも褒めていた。前ではなく上に投げる選択した自分は正しかった、実にすばらしい、先見の明がありすぎる。
体育館のうしろ半分をメインに使っていた女子の群れの中から、一連の犯人らしき隣のクラスの女子があわてて走ってきた。

「ご、ごめんなさ……っ!」

被害者が噂の金髪ヤンキーと知ると、反射で懺悔の言葉をつっかえさせた。二の句が告げず、あと1mほどの距離を残して立ちすくんでしまう。
仕方なくたまきのほうから近づいた。
もう土下座するしかない、そう思って女子は上半身を折り曲げた。

「ご、ご……ごめ、っなさい……!!」
「……」
「……っ」
「……別に」

上靴を収めた女子の視界に、ぽてん、とボールが転がった。
素早く頭を上げる。すでにたまきは踵を返していた。
ごめんなさい。自然と紡がれた直線的な声が、筋肉の張った背中へ翔んでいった。

聞こえてもたまきは、両手をズボンのポケットに突っこみ、一歩先を延々と睨み続けた。目と目の間にしわが寄り、首の筋がぴくぴくしている。
遊びの延長でわいわい楽しそうにやっていた授業は、一瞬にして処刑前の陰気臭さに囚われた。体力を試しに測定してみても、力の半分も出せない。
練習終了の笛の音が、総員の救いだった。――たまきにとっても。