登校時間のピーク。
ハズレ枠で話題の1-Aに、その原因、東の金鬼こと綿貫たまきが出現した。
戦う、挨拶する、逃げる。1-Aの生徒に、3通りのコマンドが浮かぶ。
朝っぱらから鬼の形相のたまきに、満場一致で「逃げる」を選択。たまきの進むところ、モーセのごとく勢いで空いていく。
あからさまな避難体制に、たまきは舌打ちのひとつやふたつ、みっつはくだらないと思われたが、そもそも眼中にもなかった。
たまきの意識は、一点集中。窓際にいるターゲットを、ロックオンしていた。
「おい九テメェ!」
ッダァン! 渾身の力でターゲットのホームが叩かれた。教室の前方廊下側の列から数えて24番目、灰田九の席が。
きっちり7:3で前髪を固定した九は、おっはー、と肘をついた手を楽に上げて応じた。たまきの顔は佛々と赤らむ。これでは金鬼ではなく赤鬼である。
廊下に一時撤退したクラスメイトは、教室の小窓や扉からハラハラと戦況を窺った。
(つ、ついにおっ始めちめる気か……!?)
(ふたりとも昨日まで仲良さそうにやってなかった!? 記憶ちがい!?)
(校舎裏に呼び出し? それとも昼食のパシリ?)
(まさか日頃のストレス発散にサンドバッグにする気では!?)
(俺たちのヒーローが……!)
(今日は金曜日、1週間の締めくくりなんだから、穏便にいきたかったのに)
(僕たちにできることはないのか?)
(と、と、とりあえず、こういうときは素数を数えて落ち着こう。2,3,5,7,11,13……)
(え……てか今さらっと名前呼んでなかった?)
均衡が崩れる気配がした。
ふたりのでこぼこな距離感を、クラスメイトは寿命の縮む思いで測る。昨日の反省を経て、それぞれ手近のボールやバット、肩にかけたままのカバンを腹の前にかまえていた。何かあれば助太刀に行く――ワンフォーオールの精神を一端に掲げて。
芽吹きつつある小さな灯火をよそに、九は怒号スタートの会話を平々凡々と日常へ舵を切る。今日提出の英語のプリントを帆に。
「なあたまき見てこれ、夜中に解いてみた」
「あ……ああ、昨日のプリントな、最後の記述よくできて……ってちげえよ!」
ナイスノリツッコミ。
鬼の面から一気に人間らしさがあふれ出て、奇しくも周りの警戒がややゆるむ。
「九、おまえ昨日、亮たちに会ったそうじゃねえか」
「あ、そのことか。そうそう、あいつらに話を通して、人間関係解決しておいたぜ。たぶんもうあいつら絡んでこねえから安心しな!」
九はブイサインを前面に出した。たまにはお節介役も悪くねえな、と昨日の爽快感になお浸る。
そう言われても、たまきは小難しい顔つきのままだ。
「話って、具体的には」
「ん? たまきに手ぇ出すなって」
「それだけか」
「うん、そんな長話はしてねえよ。たまきは俺のだから手を引け的な感じでちょちょいっと」
それだ。
たまきはとっさに九の両肩をつかみかかった。廊下に悲鳴が反響する。
「九……俺のために働きかけてくれたのはありがてえが、その言い回しはどうにかなんなかったのか?」
「え? 言い回し?」
「俺がいつ九のもんになったんだよ!!」
エコーがかかりそうな、無駄に響きの良い訴えに、クラスメイトの顎という顎がそろって外れかかった。
やっぱり九呼びになっている、が、そんなことよりも。
(俺のって何!? プロポーズ!?)
(舎弟宣言!?)
(てか舎弟になんのそっちなんだ!?)
(いつの間にそんな進展を!? 私、1話見逃した!?)
(昨日言いかけてたことって、もしかしてこのこと?)
(なるほど……平凡メガネ攻め、ヤンキー受けね)
(灰田くん、やるなあ……)
(下に見られたことに怒ってたのか? いや、照れてるようにも見えなくはない、かも……?)
(詳しく教えて! kwsk)
考察が捗りすぎて、思考回路に子音だけが先行してしまう。
誰も彼もネクタイをゆるめ、胸を押さえる。動悸がした。その一過性の症状は、一概に恐怖によるものとは言いがたかった。
九が頬杖をついて首をこてんと傾げると、たまきまでもがシャツの開けた第二ボタンを鷲掴みにした。
「え、だめだった?」
「だっ……」
たまきは自身の言葉にむせた。シャツをボタンごと絡め取る拳で、ドンッドンッと強めに胸上を叩く。
(だめじゃ、ねえけど……っ)
熱い。
1-Aにだけ残暑のような熱風が漂っている。
手に汗握るクラスメイトの数人は、たまきと同様、首から上にほのかな赤みを散らせていた。
汗で滑った護身用のあれやこれが、カラン、コロン、廊下を横転する。
渦中の九はというと、のんきに花見をするみたいにたまきのほうを見上げていた。
「だめってどこらへんが?」
「だ、だめっつうか……その、ご、語弊が……」
「ごへい? ……あー語弊? でも何も間違ったこと言ってなくね?」
「へ」
「たまきは俺の、大事なキーマンだからな!」
「キッ……!?」
説明しよう。キーマンとは、特定のプロジェクトを進展させる重要人物のこと。この場合、将来獣医になるために必要なサポートキャラ、という意である。
九としてはこれ以上なくしっくりきた表現――昨晩英語の勉強をがんばった成果を実感する――だが、俺のもの発言のあとでは、いかようにも誤解を加速させた。
「キーマンって、な、ど……え?」
あの百戦錬磨のヤンキーでさえ、こじらせた乙女のような動揺っぷりを見せる。
「俺の人生に欠かせない存在。それがたまき」
「え……っ」
「――と、ミケ!」
「……、え゛」
たまきの声のトーンが数段階下がった。
また出た、噂のミケ。
プロポーズめいたセリフにテンションブチアゲハイスクールな生徒たちも、突然の本命登場にガン萎え待ったなし。
あちこちで首脳会談並に熱い握手を交わしていたが、続々と腕をクロスしていく。
だめだろう、二股は。不良でなくとも怒って当然。別に告白と決まったわけではないけれど。
クラスメイトが知らず知らずのうちに、はじめてたまき側についた。まさに歴史的瞬間。
だというのに、当の本人は、せっかくの熱視線よりも目の前の無邪気な笑顔に目が離せない。睨むので手一杯と言い換えてもいいだろう。
自分と同列に並べられた「ミケ」のことで頭がいっぱいだった。
「チッ……いったい何なんだよミケって」
「そういや、昨日結局見せなかったんだっけ、ミケの写真」
しょうがねえなあと言いながら、九はにっこにこでスマホのロックを解いた。
「やっぱ気になんだ?」
「……」
「まあそうだよな。そうだよな!かわいいもんなあミケ」
「……いや知らねえし」
「なんとなくわかんだろ?」
「俺そこまで人間やめてねえわ」
「あー残念」
「は?」
ふつうにディスりかと眉山の標高を隆起させるたまきに、九は負けじと口角の筋肉をパンプアップさせた。
「これ見たら、人間、やめたくなるぜ?」
ブルーライトを浴びたレンズが、妖しくぎらつく。
「ジャーン! 撮りたてほやほやの、ミケの新規写真!」
スマホの画面をたまきに向けた。
画面いっぱいに拡げられたのは、一枚の写真。
全体的に白っぽく、それでいて先天的な痣のような色が、だらんとした腹に際立つ。どこか拗ねたようにつんとすました顔をしていながら、計4本の手足は内側にすぼめられている。
ちょっと間抜けで、たしかにかわいらしい画。
だがしかし、画角上部にぎりぎり収まっている耳は、膨らみを帯びた二等辺三角形。下部のほうで切れているケーブルのような白線は、両足の真ん中、尾から伸びていた。
「……え……ね、猫……?」
それは、たまきが思っていたジャンルのかわいさではなかった。
抜き足差し足忍び足で室内に加勢しに来たクラスメイトは、途中でぴたりと静止する。
(え?)
(根っこ?)
(年号?)
(ねこ?)
(猫?)
(って、あの猫?)
(泥棒猫の隠語ではなく?)
(Catのほう?)
(ミケが?)
まあ猫っぽい名前だもんね、と危うく納得しかけたものの、あの話の流れで猫がオチになる展開に、やはり感情が迷子になる。
二股ではなかったことに安堵すればいいのか、猫なんかい! とツッコミに行けばいいのか。はたまた、猫の尊さを熱弁すべきか、犬派で対抗してもいいのか。
IQだけでは対処できない状況。
正解がない問題ほど難しい。
ミケの写真を直視する学年首位も、手どころか表情筋をも止めていた。
(まさか……三毛猫の「ミケ」?)
ご名答。持ち前の頭脳があらぬ方向で稼働している。
よけいなことを考えていないと、よけいなことを口走ってしまう予感があった。
今のたまきに様相まで気を使うキャパはなく、呆けた顔でずっと九のスマホと向き合っている。
そのリアクションこそが、九の予想どおり、そして期待どおりだった。
(うんうん、わかるぜたまき。ミケがかわいすぎて殺られちまうよな。わかるわかる。まじ人間やめたくなるかわいさ。ミケってすごい、ソーグッド、ワンダフォー)
九はイキって足を組み、宿題で使った英単語をつぶやく。
(おやおや、周りのみんなも流れ弾食らってねえか? やべー、ミケのかわいさ全世界にバレちまうよー。写真集のオファーとか来ちゃったらどうしよう。金稼げんのはうれしいけど、ミケが売れっ子になったらちょっと妬いちゃうなー)
妄想ではなく、本気でそう思っているところが、九の長所であり、短所でもある。
どれだけ知識を詰め込んでも、元の単純な構造は変わらないようだ。



