クリスマスパーティーの招待状が届いたのは、高校1年生の冬のことだった。
差出人は『宇野さくら』。
パーティーを開催する場所は、数年前に倒産し廃墟となった高級ホテル。
さくらに会える。
それがなによりも嬉しくて、雨崎くるみの心は弾んだ。
待ちに待ったクリスマスがやってきて、くるみはちょっとだけ着飾ってお化けホテルとして心霊スポット化した廃墟に向かった。
なぜクリスマスパーティーをするために、さくらが廃墟を指定したのかはわからないが、特に気にはしなかった。
さくらなら、さもありなんという気がしたからだ。
午後6時、解体もされず放置された廃ホテルに到着すると、レストランの跡地にはすでに人がいた。
がらんとした廃墟内には長机が用意され、清潔なテーブルクロスがかけられて、空の皿が並べられ、机の四隅にはささやかな灯りとして蝋燭の炎が揺らめいていた。
くるみのブーツが立てる足音に気づいて振り向いたのは3人の男女。
「……あ……」
蝋燭の炎に照らされた3人の顔には見覚えがあった。
同じ高校に通う同級生だ。
3人は招待状片手に、所在なさげに立ち尽くしていた。
同級生といっても、4人に接点はなく、その存在は把握している、ただそれだけだった。
ただ、互いに無関心だったわけではない。
4人には、共通点があった。
不登校から学校へ復帰し、今は順風満帆に学生生活を送っている。
そして、そこに見え隠れするある少女の影……。
『宇野さくら』
4人が友人に囲まれた青春を送ることに成功した立役者。
「みんな、宇野さくらに呼ばれたの?」
ショートカットで眼鏡をかけた柏木志乃が寒そうにコートの上から二の腕をさすりながら確認するように他の3人を見回しながら訊いた。
全員、どこか困ったように遠慮がちにうなずく。
「……そう。
みんな、宇野さくらを殺しにきたのね」
くるみは驚きに目を見開いた。
「殺す?さくらを?まさか」
次に驚きをあらわにしたのは志乃だった。
「違うの?
あたしはそのつもりだったけど」
そう言うと、志乃はかばんからナイフを取り出すと、蝋燭の炎にかざして鋭利な刃先を光らせた。
「そ、そんな、殺すなんて、なんで……さくらは神様なのに……」
くるみの言葉に志乃が目を剥く。
「神様?
宇野さくらが?
なにそれ、本気で言ってるの?」
くるみの脳内が混乱に支配されはじめる。
どうして志乃はそんなにさくらを敵視しているのだろう?
訳がわからないとばかりにくるみは頭を振る。
「飯塚くんと榎本くんは?」
志乃が無言を貫く男子ふたりに水を向ける。
ひょろりと背が高い飯塚巧は志乃の言葉に首を横に振って否定の意を示した。
車椅子の榎本清史郎は縦に首を振り志乃に賛同する肯定を表した。
2対2。
この場に集まったメンバーは、さくらに好意的なふたりとさくらに悪い感情を抱いているふたりという具合に分かれているようだ。
なぜ?
なぜ、あのさくらを嫌うことができるの?
腕を組みしかめ面をしている志乃を、くるみは信じられない思いで眺めていた。
志乃はナイフを用意するほど本気だ。
本気でさくらを恨み、殺すことも辞さないでいる。
それが非現実で信じ難かった。
なぜさくらは自分たちを──さくらに憎しみすら抱いている志乃たちまで──廃墟に呼び出したのだろう。
さくらは、この場にくるのだろうか。
それが楽しみであり、また怖くもあった。
くるみや飯塚と、志乃と榎本がさくらに持つ感情は180度違う。
くるみが知らないさくらの一面があるのだろうか。
それを知ることが怖くもあった。
さくらは『神』であり、自分を救ってくれた救世主だ。
その事実はくるみが死んでも変わらない。
ではなぜ志乃たちはさくらを恨むのか。
思考回路の海に溺れそうになったくるみは、軽く深呼吸してそれぞれの顔を見回し、一息に言った。
「あの、せっかくだから座って話しませんか?
さくらのこと、みなさんの口から聞きたいんです」
3人は困ったように顔を見合わせたが、誰からともなく用意された椅子に座った。
壊れたドアから吹き込む風が冷たい。
当然廃墟は吹きさらしで、暖を取れるものはない。
蝋燭の炎くらいでは真冬の北風になんの抵抗もできない。
それでも──さくらがセッティングしたこの場には、なにかしらの意味があるのだろう。
それを知りたくて、みんな帰ることができない。
くるみも椅子に座り、渋々といった様子の志乃や榎本の顔を見渡しながら空の皿に目を落とす。
次いで薄暗い廃墟の隅にぼんやりと視線を彷徨わせると、さくらと出会った運命の日のことを思い出しながら、くるみはゆっくりと話しはじめた。
さくらとはじめて話したあの日のことを。
高校に入学してから、まだ数えるほどしか登校できていない。
雨が降りしきる外の景色を眺めていたくるみは窓から視線を剥がすと密やかにため息をついた。
身体中が痛む。
父親に先ほど押しつけられた煙草の跡がひりひりする。
築数十年が経つボロボロのアパートの一室。
両親と3人で暮らす狭い部屋は荒れ果てていて、ゴミ袋や酒瓶があちこちに転がり、足の踏み場もなく、すえた匂いが立ち込めていた。
くるみは、もう何年もこの部屋に軟禁されていた。
逃げ出そうとすれば、いつでも逃げることはできる。
しかし、くるみにその気はなかった。
生まれてからというもの、両親から肉体的精神的な虐待を受け続け、そしてそれが発覚することを恐れた両親によって、結果的に部屋に閉じ込められることになった。
幼稚園にも小学校にも中学校にもまともに通えていない。
両親は訪問してくる市の職員に、娘は人付き合いができない、精神に問題を抱えていると説明し、くるみが自発的に他者との関わり合いを避けているのだと話した。
くるみは学校関係者や心配してきてくれる親戚と会うことも許されず、虐待を訴えることも助けを求めることもできないまま子ども時代を過ごした。
逃げたい、そう思う時期はもう過ぎた。
両親の精神的な支配から逃れたいという能動的な思考はすでに封じられている。
それでも高校に入学できたのは、家庭教師の先生がいたからだ。
さすがに両親も、くるみに一切勉強をさせないのはまずいと思ったらしく、大学生の家庭教師を雇った。
勉強を教わるのは家の近くのカフェで、父親の監視つきという条件ではあったが、外出できるというだけでくるみは嬉しくて堪らなかった。
普段は何年着古したかわからないジャージしか与えられなかったが、家庭教師と会うときだけは制服を着られる。
外に着ていける服が制服しかなかったからだが、学校に通いたくても叶わなかったくるみにとって、制服を着て授業を受けるというのは、喜びでしかない。
もともと知識がゼロだったくるみは、教えられる勉強をスポンジのように吸収した。
勉強は楽しい。
知らないことを知るのは、こんなにも楽しいことだったのか。
しかし、せっかく受験という関門を突破したというのに、両親は高校へ通うことを許してくれなかった。
くるみの身体には、痣や切り傷、火傷痕など、虐待の証拠が刻み込まれている。
外に出すことで、自分が置かれた環境がおかしいと、くるみが気づくことを両親は恐れていた。
くるみは『当たり前』を知らない。
両親は鬱憤晴らしに娘を傷つけることを辞められない。
くるみの『外』への憧れは、日に日に膨れ上がっていった。
高校1年生になって、しばらく経ったころ。
珍しく両親が揃ってパチンコへ向かい、家にはくるみがひとりだった日のことだ。
普段、両親はどちらかが家に残りくるみを監視していた。
しかし、高校生になってもくるみが自分の意思で外へ出ようとしないことに気を緩めたようだ。
滅多に鳴らない呼び鈴がひとりきりのアパートに響いた。
誰がきても出るな、両親には幼いころから徹底して厳命されていたが、このとき、くるみはなぜだか玄関の扉を開けてしまった。
扉を開けたその先に立っていたのは、ひとりの少女だった。
少女は桜色の唇を優雅に持ち上げて「はじめまして」と言った。
そこで、くるみは少女が自分と同じ高校の制服を着ていることに気づいた。
「だ、誰、ですか?」
初対面の少女相手に、くるみはおどおどと目を泳がせながら訊いた。
他人と話すことには慣れていない。
「宇野さくら。
あなたと同じクラスよ」
さくらと名乗った少女は、にこりと優しげに微笑みながら言った。
あの、えっと、とくるみが少女の訪問に戸惑いながら、もじもじしていると、徐ろにさくらが訊いた。
「あなたの願いを聴かせて」
「……え?」
「あるでしょう、心の底で思っていること。
ママにもパパにも言えないことが」
すらりとした長身のさくらは、茶色く長い髪を錆びた鉄骨の匂いがする風になびかせながらハスキーな声で言った。
「願い……学校に、行きたい。
外に、出たい」
たどたどしく、くるみが告げると、わかったわ、とさくらが答えた。
くるみは、自分でも不思議だった。
今まで、声に出すほど強く外へ出たいと思うことはなかった。
魔法にでもかかったかのように、言葉が自然とすらすらと飛び出した。
「あなたの願いを叶えてあげる。
あなたを外に出してあげるわ」
約束、といってさくらは細い小指を差し出してきた。
その意味がわからず、くるみは首を傾げる。
「約束した証よ」
さくらは強引にくるみの右手の小指を絡めながらそう教えてくれた。
さくらの温かい手に、くるみは安心感を抱いていた。
この謎の少女は、自分の人生を変えてくれる、そんな予感がして、くるみはのぼせるほどの高揚感に包まれた。
両親が交通事故に遭い、帰らぬ人となったのは、その日の夜のことだった。
両親が死んだことで、くるみが虐待されていたことが明らかになり、くるみは警察に保護された。
両親の葬儀は顔も見たことがない親戚が喪主となって、しめやかに執り行われた。
児童養護施設に引き取られ、似た境遇の子どもたちと知り合い、自分が育った環境が異常であったことが知らされ、念願だった高校へ通いはじめた。
真っ先にさくらを探した。
あのとき、さくらはくるみと同じクラスだと言っていた。
しかし、通いはじめた高校の同じクラスに、宇野さくらは姿を見せなかった。
どうしてもさくらに感謝を伝えたかった。
両親が死んだことに同情する人間もいたが、くるみの心はかつてないほど軽く、鎖から解き放たれたように自由になった。
世界が色づいた。
もう、なにも自分を縛るものはない。
そう思わせてくれたさくらに、また会いたい。
くるみは、さくらが両親を殺してくれたのだと確信していた。
やっと人並みの幸せを手に入れ、くるみの荒んだ心は初めて健全に感情を刻みはじめた。
いつか、さくらに会えたら感謝と、『好き』だと伝えよう。
くるみはそう誓った。
「……それじゃ、殺人犯じゃない」
くるみの長い語りを聞き終えた志乃は、顔を歪めて不快感をあらわにした。
「殺す必要があったの?
警察に通報するだけでよくない?」
志乃の台詞にくるみは首を横に振る。
「さくらは、私の代わりに両親を罰してくれた。
復讐してくれたんだよ。
それによって私の心は救われた」
「……だからって、殺すこと……」
「虐待されたことのない柏木さんにはわからないよ。
私がどれだけ両親を恨んでいるか。
できれば自分の手で殺してやりたかった、そういう気持ちは当事者にしかわからない。
人を殺してはいけません──そんなことは知ってる。
けど、そんな綺麗事を並べただけでは私は救われなかった。
私は、両親を殺してくれたさくらを、神だと、救世主だと思ってる」
そんなの狂ってる、そう呟いた志乃は、神経質そうに眼鏡を持ち上げた。
「私の話はこれで終わりです」
くるみは、隣に座る飯塚巧に視線を向けた。
「次は飯塚くんの話が聴きたいな」
期待の眼差しを向けられ、居心地悪そうに身じろぎした飯塚が、それでも仕方がないとばかりに口を開いた。
「俺の話は短いぞ」
そう前置きをして、飯塚巧は話しはじめた。
飯塚巧は、バスケットボールが好きだった。
小学生のときからチームに所属し、中学でも変わらずバスケを続けた。
しかし、成長したのは身長だけで、飯塚はバスケットボールの才能に恵まれなかった。
身長だけがひょろりと伸びて、筋肉がつかない体質なのだと気づかされた。
試合に出ればミスをして失点し、チームに迷惑をかけた。
やがて試合にも出してもらえなくなり、万年補欠に降格となった。
チームで飯塚の居場所はなくなり、肩身の狭い思いが強くなり、年々自信を喪失していった。
高校に入ってからも、半ば意地でバスケ部に所属したが、やはり才能は開花せず、たまに試合に出してもらえてもミスを連発して味方に迷惑ばかりかけた。
当然の帰結というべきか、やがて部員からは疎んじられ、役立たずの汚名を着せられるようになった。
ますます自信を失いつつも、諦められずに部に留まった。
お荷物扱いされていた飯塚は、1年先輩の絶対的エース柏木暁人に目をつけられ、粗野で乱暴な気性の荒い彼に嫌がらせをされるようになった。
部活の王様たる暁人の一声で、飯塚はチームメイト全員からいじめを受けるようになった。
誰も暁人を止める者はいない。
自信喪失し、鬱々としていた飯塚の態度にみんな苛々していたのだ。
いじめは苛烈を極めた。
部活中だけではなく、同じバスケ部の同級生が教室でも飯塚を堂々といじめるようになり、伝染するようにクラスに飯塚を軽んじる空気が生まれた。
助けてくれる味方はいなかった。
飯塚を庇ってくれる友人も、いじめを教師に告発する正義感のある者もいなかった。
自分にはバスケットボールしかないと思っていた飯塚は、そのバスケで自信を失い、友達を作ることに消極的だった。
それが響いて、いじめから救ってくれる友人が存在しなかったのだ。
暁人は鬱憤晴らしに次から次へと手を変え品を変え、飯塚をいたぶってくる。
限界だった。
飯塚は高1の夏には不登校となり、家に引きこもった。
いじめられているとは恥ずかしくて両親に言えず、理由も告げずに部屋にこもった。
学校の関係者から、飯塚がいじめられていると聞かされたのか、両親は無理に学校へ行けとも言わずに、腫れ物を扱うように放置された。
それがまた、堪らなく恥ずかしくますます飯塚は殻に閉じこもった。
夏の大会がどうだったのか、学校で自分はどう思われているのか、外部との関わりを遮断したまま秋になった。
チャイムが鳴ったのは、いつものように部屋でベッドに寝転び時間を無駄に消費しているある日のことだった。
普段なら、誰がきても無視を決め込んでいる飯塚は、なぜか魔が差したように訪問者へとドアを開けた。
そこには、見覚えのない少女が立っていた。
制服姿の少女に、高校の生徒か──と、とっさにドアを閉めようとした飯塚に、少女は鷹揚に笑いながらハスキーな声で告げた。
「はじめまして、飯塚くん」
すらりとした長身の少女は長い髪をなびかせながら自己紹介した。
「宇野さくら。
あなたと同じ高校よ」
やはり、と飯塚は思ったが、宇野さくらというこの少女がやってきた理由に見当がつかなくて、戸惑いからドアを閉める機会を逸してしまった。
さくらは謳うように言った。
「あなたの願いを聴かせて」
──願い?
飯塚は顔をしかめる。
ところが、少女を拒否しようとした矢先、飯塚の口から滑り出すように言葉が流れ出た。
「……学校へ、行きたい。
あいつを、柏木暁人に復讐したい……」
わかったわ、と言うと、さくらはにこりと微笑んだ。
飯塚は自分で自分の言ったことに驚いていた。
自分はそんなに学校へ行きたいと、外へ出たいと思っていたのか。
そして、こんなにも強く暁人に復讐したいと思っていたのか。
「あなたの願いを叶えてあげる。
あなたを外に出してあげるわ」
そう言ったさくらが立ち去ってからも、飯塚はその場から動けなかった。
冷たくなりはじめた風が頬を撫で、新しい予感を運んできた。
不思議な少女、宇野さくらの訪問を受けてから数日後、暁人が死んだと辞めていなかったバスケ部の部員づてに聞いた。
飯塚の連絡先を知る数少ないバスケ部の部員は、暁人が不慮の事故で亡くなったと報告した上で、いじめていたことを謝罪してきた。
他の部員やクラスメイトも、申し訳なかったと思っている、学校に復帰してほしいとのメッセージが添えられていた。
みんな、絶対的エース、暁人の機嫌を損ねることを恐れ、暁人の言いなりになっていた、そういうことらしい。
死んだ暁人に全ての責任を押しつけている節もある気がしたが、暁人が死んだという事実は、飯塚の心のもやを綺麗さっぱり洗い流した。
心が晴れる。
ようやく新たな第一歩を踏み出せる。
きっと、宇野さくらが暁人を殺してくれたのだ。
飯塚は確信していた。
彼女には、感謝してもしきれない。
彼女も通っているはずの高校へ戻るため、飯塚は冬服の制服に身を包んだ。
暁人が消えた学校は、嘘のように優しかった。
1年生の各クラスを回って宇野さくらを探したが、彼女を見つけることはできなかった。
飯塚は話を終えた。
くるみのときとほとんど同じ内容だったことに、その場にいた飯塚以外の人間が驚いていた。
「俺が学校に復帰できて、友達まで作れたきっかけをくれたのは宇野さくらだった。
誰がなんと言おうと、俺は宇野さくらに恩義がある。
だから、彼女を殺そうとするなら俺は全力で阻止するよ」
気弱そうな口調だった飯塚が、初めて語気を強めて言い切った。
しばらく沈黙が降りたあと、志乃がぽつりと呟いた。
「あたしの話を聞いたら、考えを変えると思うけど」
「え?」
くるみと飯塚の声が重なる。
志乃はふたりを真っ直ぐ見据えると、気の強そうな瞳で眼鏡越しに睨みつけた。
「宇野さくらは、あたしのお兄ちゃんを殺した」
くるみは息を呑む。
「柏木暁人。
交通事故に巻き込まれて、死んだ。
でも、あたしはそれを単なる事故だとは思えない。
お兄ちゃんは、宇野さくらに殺された。
だから、あたしは宇野さくらが憎い」
志乃の瞳に憎悪の炎が宿る。
柏木志乃は、静かに宇野さくらと初めて話した日のことを語り出した。
柏木志乃は、ヤングケアラーだった。
両親はおらず、痴呆の進んだ祖父と、大柄でバスケ部のエースであるひとつ年上の兄、暁人と3人で安アパートに暮らしていた。
部活の練習に真面目に参加せず、不良仲間と遊び歩いていた暁人は、家に帰ると志乃や祖父に暴力を振るうことがあった。
しかし、素行の悪さを補って余りあるバスケの才能を持っていた暁人を咎められる人間はいなかった。
中学のころから、志乃は日に日に認知症を悪化させていく祖父の面倒を見ていた。
まともに学校にも通えず、暁人は介護に協力してくれない。
親戚すらなく、志乃はたったひとりで祖父の世話をするしかなかった。
誰に頼っていいのかも、誰に助けを求めればいいのかも、志乃にはわからなかった。
そんな志乃の存在に、気づく大人はいなかった。
暁人は機嫌が悪ければ暴力に訴え、志乃は精神的に追い詰められていった。
どうして自分だけがこんな目に遭わなくてはいけないのか。
志乃は答えのない疑問を抱きつつ、日々の家事に忙殺されていた。
記憶を混濁させる祖父は、暁人を溺愛していた。
暁人、暁人と繰り返し孫の名を呼んだ。
祖父と妹を顧みない暁人の名前を、祖父は呼び続けた。
「おじいちゃん、世話をしているのはあたしなんだよ。
お兄ちゃんじゃなくて、あたしのことを見てよ」
耐え切れず、志乃は何度も祖父にそう言った。
祖父がその眼に志乃を映すことはなかった。
せっかく合格した兄と同じ高校にも、まともに行くことができない。
ハンガーにかけられた高校の制服を眺めながら、志乃は湿った畳の部屋で、ため息をつくことしかできなかった。
高校1年生の秋も近づいたころ、柏木家のチャイムが鳴った。
今日も今日とて祖父のために食事を作っていた志乃は、忙しいその手を止めて、玄関のドアを開けた。
するとそこには、見知らぬ少女が立っていた。
長い髪をさらりと流した、スタイルの良い少女だった。
──同じ高校の制服だ。
志乃が無言で見つめていると、少女が特徴的なハスキーな声で言った。
「はじめまして。
柏木志乃さんね」
はあ、と志乃は間抜けな声で答えた。
「あの、どなた……?」
すると少女は可憐な笑みを作って自己紹介した。
「宇野さくら。
あなたと同じ高校の同級生よ」
「そう、ですか……。
それで、なにか、あたしに用でも?」
「あなたの願いを聴かせて」
困惑する志乃に、さくらと名乗った少女は言った。
「ね……願い?」
さくらは妖艶な笑みを深める。
「あるでしょう、心の奥底に眠る、願いが」
「そんなもの……」
ない、と言いかけて、なぜか志乃はさくらに引き出されるように自然と、口にしていた。
「ここから、逃げたい。
学校に、行きたい。
外に、行きたい」
あまりにすらすらと流れるように言葉を発した自分に志乃は呆然とした。
「わかったわ、あなたを外へ出してあげる」
さくらは勇気づけるように志乃の手を握った。
──外へ、行きたい。
さくらが去ったあと、志乃は自分が言ったことを反芻し戸惑った。
なんで、こんなこと、初対面のさくらに言ってしまったのか。
本音を引き出す引力が、宇野さくらという少女にはあった。
しかし、志乃はさくらの言葉に半信半疑な思いだった。
彼女に、なにができるというのだろう?
ドアを閉めると、祖父の姿が目に入って一気に現実に引き戻され、すぐにさくらのことを忘れた。
暁人の訃報がもたらされたのは、その夜のことだった。
暁人が死んだ、その事実を知らされた祖父は、激しく動揺した。
大声で暁人の名を叫びながら部屋中の物を壊して回った。
志乃は半泣きになりながら必死でそれを止めた。
もう限界だった。
頼りにはならないけれど家族だった兄が死に、祖父の病状が急激に悪化していった。
──祖父と一緒に死のう。
志乃は無理心中を決意した。
暴れ回った祖父が疲れて眠りに就くと、志乃も気絶するように眠ってしまった。
はっと目を覚ますと、時刻は深夜だった。
狭い部屋を慌てて見回す。
祖父の姿はどこにも見当たらなかった。
志乃は部屋着のまま、祖父を探しに家を飛び出した。
少し前から祖父は徘徊をするようになっている。
服に名前と住所を書いた布を縫いつけてあるが、事故に遭わないとも限らない。
早く探し出さなくては。
朝まで街を走り回って探したが、結局祖父は見つからず、一旦家に戻ると、そのタイミングで固定電話が鳴り出した。
受話器に飛びつくと、警察からの電話で、祖父が無事保護されたという報せだった。
警察に駆けつけると、女性の警官が、祖父を引き取りにやってきた志乃が高校生であることに気づき、詳しく事情を聞かれた。
志乃がたったひとりで祖父の世話していることを話すと、警官はそれを問題視し、すぐに対応すると言ってくれた。
祖父を連れて帰った翌日には、市の職員が訪問してきた。
祖父は施設に引き取られることが決まり、志乃はやっと介護から解放された。
どうしてもっと早く相談しなかったのだろうと志乃は後悔した。
兄が死に祖父がいなくなった部屋。
兄が死んだことで、家族は壊れ志乃はひとりきりになった。
金銭的な事情から、暁人の葬儀はできなかった。
灰になった兄を連れて家に帰ろうとしていた志乃の前に、宇野さくらが現れた。
「間に合ったみたいね」
さくらはハスキーな声でそう言った。
「間に合った?」
志乃がそのまま聞き返すと、さくらは混じり気のない笑みを浮かべた。
「だって、柏木さん、自殺する寸前だったでしょう?」
「な、なんで、そんなこと……」
志乃が狼狽すると、さくらは屈託なく笑った。
「お兄さんね、後輩をいじめていたの。
柏木暁人がいなくなったことで、幸せになった人がふたりもいるってこと」
「ふたり?
いじめられていた人と……もしかして、あたしのこと?」
「そうよ、よかったわね」
「あなたがお兄ちゃんを、殺したの?」
「ええ。
感謝してほしいくらい」
その瞬間、志乃の顔は憤りで真っ赤になった。
「ふざけないで!
お兄ちゃんがいなくなったことで、うちの家族は壊れた、ばらばらになった!
人を殺しておいて、家族を壊しておいて、よくそんな平気な顔ができるわね、謝ってよ!」
自分でも驚くほどの大声で志乃は叫んだ。
「許せない!」
一層声高に叫んだ志乃に、表情をぴくりとも変えなかったさくらが柔らかい調子で言った。
「犯人が憎い?」
「当たり前でしょ!
絶対復讐してやる!」
「そう、復讐ね……。
考えておくわ」
──なにを言っている?
犯人はお前だろうに。
「でも、柏木さんは外へ出られた。
これからは学校にも通えて、好きなように生きられる。
もう、あなたは自由なのよ。
なにごとにも縛られることはない」
さくらはゆっくりと、志乃にとっては残酷な現実を並べていく。
志乃は激しく首を振った。
「許せない、許せない、絶対にあたしはあんたを許さない!」
いつの間にか浮かんだ涙を強引に拭う。
さくらは柔らかく微笑んだまま、そっとその場を去っていった。
最後に見たさくらの瞳は、温かさに満ちていた。
あんな横暴な人間でも兄だった。
自分のことがわからなくても祖父だった。
かけがえのない、血の繋がった家族だった。
それを宇野さくらは一方的に奪った。
──でも、それを願ったのは誰?
ふと志乃の涙が止まる。
見上げた秋の高い空が、これまで以上に眩しく、澄んで見えた。
さくらを許すことなど到底できそうになかった。
でも、これからは自分のために生きてみよう。
たったひとりになった志乃は、未来に思いを馳せた。
さくらを見つけたら、殺してやろうと思って、ナイフを忍ばせたかばんを持って高校へ登校した。
しかし高校のどこにもさくらの姿はなかった。
拍子抜けしながらはじまった高校生活は、想像した以上に楽しかった。
同じ歳の子たちとの接点をあまり持ってこなかった志乃には学校が新鮮に思えたし、社交的ではない志乃にも、友達がすぐにできた。
自分に介護を押しつけて、兄はこんな楽しさを独占していたのか。
そうしたい気持ちもわかる気がするほど、高校という場所は魅力的だった。
失った青春を取り戻すため、志乃は学生生活を満喫した。
授業を受けて、友達とお昼ご飯を食べて、帰り道でファストフード店に入り浸って、他愛ないお喋りをして馬鹿笑いする。
普通の、どこにでもいる高校生の日常。
そんな日々を過ごすうち、かばんに忍ばせたナイフの切っ先が錆びていくような気がした。
──さくらへの恨みを捨ててはいけない。
ことあるごとに、志乃はさくらのことを思い出すよう努めた。
今の生活をもたらしてくれたさくらへの感謝の気持ちなど絶対に持ちたくない。
いや、持ってはいけない。
憎しみを忘れてはいけない。
ナイフは常に研いで、切れ味を鈍らせてはいけない。
志乃の話を聞き終えたくるみは、なーんだ、という顔をした。
「柏木さんもさくらに救われたんじゃない。
感謝してるんでしょ、さくらに」
志乃はきっとくるみを睨んだ。
「感謝なんてしてない。
雨崎さんは両親に死んでほしいと思った。
けど、あたしは家族を殺してほしいなんて思っていない、あなたと一緒にしないで」
「さくらは柏木さんを自由にしてくれたんだよ?」
クリスマスパーティーの招待状が届いたとき、さくらに会えると期待した。
眠っていた憎悪がむくむくと膨れ上がった。
自分には失うものはない。
この手でさくらを殺そう、復讐を遂げよう、そう思ってこの廃墟にやってきた。
しかしどうやら、そのチャンスはないようだ。
例えさくらが現れても、くるみと飯塚という信奉者が自分のナイフを阻むに違いない。
彼らの心酔ぶりを見れば、さくらを庇って自分が刺されることも厭わないだろうことは容易に想像がつく。
その間にも憎しみは肥大し続ける。
くるみや飯塚とは、どうしたって相容れないらしい。
その思いを、ぐっと堪えて、志乃は隣を見た。
「榎本くんは?」
そう視線を流して尋ねると、車椅子の少年は、ため息混じりに口を開いた。
榎本清史郎は、将来を嘱望されたサッカー選手だった。
その才能は小学生のころから開花し、日本代表の常連、プロになるのは確実、あとはプレイするのが国内か海外か、話題はそれに尽きた。
榎本も、自分の能力を理解し、自信も持っていた。
自分ならどこへ行ってもうまくやっていける、そんな強気な思いを持ちつつも、天狗になることはなく練習に邁進している──と、いうのは榎本の表面の顔でしかなかった。
神童と言われ続けてきた榎本は、どこかが歪んでいて、歳を経るごとにそれは悪化していった。
中学生のころから、父親のバイクを拝借すると、仲間とともに夜の街を暴走した。
それは推薦で入学した高校に入っても変わらず、榎本の重要な息抜きの時間となっていた。
高校に入ってしばらくしたころ、仲間がひき逃げで捕まった。
集団で暴走していたところ、飛び出してきたふたりの男女を跳ね飛ばしたのだという。
新聞でもその事故は報じられ、死んだふたりが雨崎という夫婦であることが書かれていた。
息子がバイクを乗り回していることを承知している父親は、その事故を受けて「お前も気をつけろ」と忠告したが、暴走行為そのものは咎めなかった。
ふたつの顔を使い分け、高校にもすっかり慣れた秋口のことだった。
夜間にバイクを走らせていると、前方の歩道から人影が飛び出してきた。
とっさにブレーキをかけたが、間に合わず、正面衝突した。
人影は人形のように遠くに飛ばされ、榎本はバイクごと横転した。
人影は倒れたままぴくりとも動かない。
自身も重症を負った榎本は、脂汗を流し、震える手でスマホで電話をかけた。
相手は深夜にも関わらずすぐに電話に出た。
「親父?
……悪い、やっちまった……」
虫の息でそう訴えると、一瞬の静寂ののち、「すぐに動く」と父親が重々しく告げた。
榎本は安心して電話を切ると、動かない身体で視線だけで自分がはねた人影を見遣る。
仰向けに倒れている人影に見覚えがあることに気づき目を剥いた。
──あれは、同じ高校の有名人の……確か名前は……。
働かない頭がひとりでに答えを弾き出す。
──柏木暁人、だっけ。
激しい全身の痛みに耐えながら待つこと5分。
1台の黒塗りの車が滑り込んできて、数人のスーツ姿の男が降りてきた。
「清史郎さん、すぐにうちの息がかかった病院に運びます。
事故やバイクの処理は部下が確実に行いますのでご安心ください」
父親が差し向けた部下たちは、榎本を車へ運び入れると痕跡を消すために事故現場へと向かっていく。
──よかった、助かった。
榎本はまもなく意識を手放した。
極秘に入院した病院で目覚めた榎本を、残酷な現実が待っていた。
脊椎を損傷しており、どんなに手を尽くしても、麻痺が残る脚ではもう歩けないだろう、そう宣告された。
父親が信頼を寄せる確かな腕の医師が言うことだ、きっとその診断は正しくて、覆る可能性はないのだろう。
同時に、柏木暁人が死んだことも告げられたが、榎本の頭には、もはやそんな事実は入ってこなかった。
自分が人を殺したというのに、実感が湧かない。
だって、突然飛び出してきたのはあっちの方だ。
俺は悪くない。
いや、そんなこと、正直どうでもいいことだった。
脚が、使えない。
サッカーができない。
選手生命を絶たれた。
将来が、夢が遠ざかっていく。
サッカーを取り上げられたら、自分にはなにが残る?
どんな価値がある?
真っ暗になった視界の中で、榎本の心は死んだ。
警察の手が榎本に及ぶことはなかった。
父親の部下が、うまく後処理をしてくれたお陰で、榎本が事故を起こした事実は闇に葬られた。
周りには、不幸な事故に遭ったと伝えられた。
車椅子生活がはじまり、久しぶりの家に帰ると、自宅は車椅子仕様に改装されていた。
それがまた現実を突きつけて、榎本の心を抉る。
退院してから一度だけ高校へ登校した。
クラスメイトは事故前と変わらず接してくれたが、榎本は車椅子となった自分を見る友人たちの目に耐えられず、次の日から学校へ行くことを辞めた。
可哀想な元エリート、友人の瞳に自分はそう映っている、そんな被害妄想に苛まれた。
榎本は一切の情報を遮断し、部屋に引きこもった。
なにもかもどうでもいい。
どうせなら死んでしまおうか。
無気力に過ごしていた高1の冬だった。
「お坊ちゃま、お客様がお見えです」
慇懃な態度の家政婦がドアをノックした。
「客……?」
かつての友人の訪問は全て断るよう言い渡してあった。
しかしなぜかこのとき、榎本は素直に玄関へと向かってしまった。
玄関先に立っていたのは、見知らぬ少女だった。
「はじめまして、榎本清史郎くんね」
「……誰だよ、お前」
すらりとした長身の少女はハスキーな声で言った。
「宇野さくら。
あなたの同級生よ」
「……宇野さくら?」
聞いたこともない名前だった。
「なにしに……」
「あなたの願いを聴かせて」
「……は?」
榎本は眉間に深くしわを刻んだ。
「あるでしょう、心の底で思っていることが」
「そんなもの……」
しかし次の瞬間、唇が勝手に動いていた。
「外に、出たい。
人生を、やり直したい」
そう、と微笑んださくらは言った。
「あなたの願い、叶えてあげる。
約束するわ」
長い髪をなびかせて、さくらは形の良い唇で笑みを描く。
不思議な雰囲気の少女だ。
くすぶっていた榎本の心に、かすかな希望ともいえる光りが灯った。
榎本邸が炎に包まれたのは、その夜のことだった。
必死に救助してくれた使用人の尽力もあって、車椅子の榎本も無事避難できた。
しかし、炎は短時間で無惨にも屋敷を灼き尽くした。
なにも残らなかった。
生まれ育った家が跡形もなく燃えていくのを、呆然と眺めていると、どこからか宇野さくらが現れた。
「外に出られたみたいね」
さくらの言葉に、榎本は頭に血が上るのがわかった。
「お前が火を点けたのか?」
「そうよ」
さくらは平然と言った。
「あなたに復讐したいという人がいてね」
「復讐?俺に?」
「あなたが殺した柏木暁人の妹さんなんだけど」
「あいつは、柏木は勝手に飛び出してきた。
悪いのはあいつだ」
さくらははじめて苦笑を見せた。
「そうね、私が柏木暁人を突き飛ばした」
榎本はさくらを射殺さんばかりに睨みつける。
「柏木を殺す役割りになんで俺を選んだ?
なんで俺がこんな目に遭わなくてはいけない?」
「あなたにも非はあると思うけどね。
でも、巻き込んでしまったのは事実。
だから、放火は柏木志乃による復讐の意味と、私があなたと約束した願いを叶える、両方の意味を持つのよ」
「そんな詭弁が通用すると思って……」
「確かに、榎本くんには理不尽だったかもしれないわね。
お詫びと言ってはなんだけど、ひとつ教えてあげましょうか」
そう言うと、さくらは腰を屈めて車椅子の榎本の耳に唇を寄せた。
「私ね、悪魔なの。
だから人を平気で殺せるのよ」
「……は?」
意味深に微笑むと、さくらは颯爽と立ち去っていった。
あとには放心した榎本が残された。
人生をやり直したい、そう言ったのは自分だ。
火事の衝撃も醒めない中、榎本は学校へ復帰することに決めた。
学校には車椅子用のスロープや手すりが榎本のために用意されていた。
クラスメイトは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
クラスメイトの瞳に見た感情は、劣等感から榎本が見た幻影に過ぎなかったことを思い知らされた。
戻ってみれば、榎本の居場所はきちんとあった。
思い通りにはいかないけれど、榎本は平穏な学生生活を謳歌していた。
ただ、ひとつ懸念があった。
さくらを、殺さなければならない。
彼女は榎本の罪を知っている。
爆弾を野放しにはできない。
そんなとき、宇野さくらからクリスマスパーティーの招待状が届いた。
罠だ。
宇野さくらは自分を弄んでいる。
だが、さくらを殺せるチャンスは、これを逃せば永遠に訪れない、そんな焦燥にも似た殺意を抱えて廃墟にやってきた。
「自業自得じゃない、あたしと一緒にしないで」
榎本が語り終えると、真っ先に志乃が不快感をあらわにした。
榎本が自嘲気味に薄く笑う。
志乃にとって榎本は、兄を殺した憎き相手だった。
志乃は立ち上がると、車椅子の榎本に掴みかかろうとする。
抵抗せず、なすがままになっていると、志乃は殺意を萎ませ、榎本の襟を離した。
「さくらはまだこないの」
怒りを押し殺して座り直した志乃が、くるみの方を見て苛立ったように言う。
「殺すなら元凶のさくらからよ」
くるみは腕時計に視線を落とす。
時刻は夜10時。
「もう少し待ってみよう」
日付けが変わって、12月26日になるまで粘ったが、待てど暮らせど、さくらが現れることはなかった。
「もういいだろう」
榎本が沈黙が横たわる廃墟に声を響かせた。
「きっともう、さくらはこない。
いや、宇野さくらなんて、存在しなかったのかもしれない。
……俺は、今の生活を本当は気に入っている」
3人が、はっと顔を上げる。
「俺たちの青春は、綺麗事では手に入らなかった。
だから、それをもたらして気づかせてくれたさくらには感謝してる。
強がりじゃない、本音だ」
宇野さくらは救世主か悪魔か。
誰にもわからない。
がた、と椅子を蹴って志乃が立ち上がる。
「柏木さん?」
つられて立ち上がったくるみが、ポケットからスマホを取り出した。
「連絡先、交換しない?」
志乃は渋々といった様子ながらスマホを取り出す。
4人は、それぞれ連絡先を交換した。
「……言っとくけど、あたしはさくらを許していない。
でも、あたしも今の生活を壊す気にはならない。
せっかく手に入れた自由を、さくらを殺して殺人犯になって無駄にするなんてまっぴらごめんよ」
志乃からはもう、殺意は感じられない。
「さくらに感謝する気になった?」
くるみが訊くと、志乃はあからさまに唇を尖らせた。
その様子に、くすりと笑うと、さらに激しく睨まれた。
「なんだったんだろうね、宇野さくらって」
帰り際、くるみがぽつりと問うと、誰もが首を横に振った。
「幻、だったのかもな」
飯塚が廃墟の闇を見つめながら呟いた。
得たもの、失ったもの、願ったもの。
犠牲を払って手に入れた今の輝くような青春の日々。
4人は誰からともなく笑い合った。
「ねえ、今度みんなで遊びに行こうよ」
志乃が提案すると、車椅子で行けるところにしろよな、と榎本が注文した。
「大丈夫、私が押してあげるから」
くるみが請け負うと、榎本が笑った。
「どこ行く?」
わいわいと話は尽きないまま、4人は廃墟をあとにした。
痛みは完全に治ることはないのだろう。
でも、それを呑み込んで生きていかなければならない。
秘密を共有して、醜さもさらけ出して、それでも繋がりを捨てないで──。
さくらを介して繋がった4人の高校生は、名前のつけられない関係となって、また明日も生きていく。



