彼は、図書館に行きたいと言っていた。
 行き先、変わっていませんように。そう願いながら、走る。周りから見れば、さぞ異様なことだろう。平日の昼間に、制服を着た女子高生が、全力疾走。
 自慢のミディアムボブも、風を受けてぼさぼさに乱れる。またあとで、セットしなおし。
 スカートを気にする手間が邪魔だ。かちかちの制服が、動きを阻む。

「はあ、はあ……!」

 なにより、呼吸が乱れる。そんな息を、整えようとも思わない。心拍数なんて、好きなだけ上げてしまえ。
 下り坂。足の回転が、ずっとずっと速く。
 足が、痛む。
 きっと筋肉痛になるんだろう、なんて他人事みたいにぼんやり考える。明日も、学校なのに。

 ただ、走る。

 この足の痛みも、呼吸の苦しさも、脇腹が痛いのも、全部罰みたいなものだ。傷付いた人は、こんなに痛いんだって。
 わかってたはずなのに、痛みが止まない。

 ただ、走る。

 彼方遠くに、とぼとぼ歩く男の子。彼がまとう空気は、今日一日ですっかり見慣れたものだった。
 安堵、は許されない。まだまだ遠い。
 まだ、彼がそこにいると確定しただけ。
 五十メートル走六秒八の足がうなりを上げる。
 加速。
 今記録を計ったら、六秒五くらい出るだろう。

 立ち止まる。

「優吾、くん!」

 絶え絶えの息。
 届け、と願って叫ぶ。
 周りの視線を気にするとか、そういうのはもう遅い。
 少しでも近くに寄ろうと、歩きだす。
 彼が、足を止める。
 ゆっくり、振り返る。
 まだまだ遠くの彼の姿が、どんどん近づいてくる。わたしは歩いてるだけなのに、やけに速い……?

「大坂さん」

 気づけば、近くで声が聞こえる。
 彼は、こっちに向かって走ってきたみたい。

「ゆうご、くん」

 続かない息と、張り裂けそうな心臓。
 まともに声を出すこともままならない。

「ひどいよ」

「――え」

 予想外の、言葉。
 考えてみれば、わかったはずなのに。
 あんなに自分のことを責めて、彼を傷つけたとか言って、それでも優しさに甘えようとしていた。
 涙。心臓の速さは反対に、ゆっくりと頬を伝う。それが鬱陶しくて、強く、強く歯を食い縛る。

 耳鳴り。
 徐々に強くなる、耳鳴り。

「ひどい表情だ。どうしたの、髪も制服も顔も、全部ぐちゃぐちゃになってる。ここまで走ってきたの? 涙は、どうしたの。大丈夫?」

「――え」

 どうやら、思い違い……みたいだった。
 ああもう、最低だ、彼のことを信用することもできないなんて。
 安堵のはずなのに、涙は溢れるばかりで、留まるところを知らない。

「あ、ご、ごめん……。ちょっと偉そうだったね」

 なにやら、見当違いの言葉。こういうところが、優吾くんだ。

「いや、そうじゃなくて……わたしこそ、ごめん。勝手に見限られたと思って……」

「それは、僕の方だと思うんだけど」

「っ、それも、ごめん」

 俯く。
 わたしの悪いところを込めた結晶みたいな、水滴。ぽろぽろ落ちる。
 今日になってから、過ちばかり犯している。いろいろと、おかしくなっている。

「ああいや、そういうつもりじゃなくて。……それなら、今のでおあいこだ」

 顔を上げる。
 天野先生の方が余裕があるとか、そう考えたのはあまりにも失礼だったし――どうだろう、今のわたしからしてみれば、天野先生よりも余裕があるように、見える。

「で、でも」

「その方が後腐れない。……大坂さんも、その方がいいんじゃない?」

 まるで、見通したようなことを。
 それといい、素っ気ない優しさといい、これでは優莉にそっくりだ。

「学校、終わるまで時間あるから。よければ、お昼ご飯でもどう?」

 わたしの悪い思考を遮るみたいに、お昼のお誘い。

「――うん」

 救いの手を差し伸べられたみたいに、大きくうなずく。
 同時に、優吾くんがほんの小さく、息を吐いた。――たぶんあれは、安堵。優莉はこんなことなかった。だから、彼は優莉ではない。当たり前のことを認識する。

 それから二人で話し合って、カラオケがあった建物に戻る。道中、天野先生はもう姿を消していた。本当なら、感謝を伝えたかったところなんだけれど。

「服とか髪とか、直さないの?」

「あ、忘れてた。ありがとう」

「……女子って大変だよね。毎日セットしないといけない。前から、尊敬してた」

 心の中で、優莉は大して手間かけてなかったけどね、なんて呟く。わたしは、意地悪だ。

「男子も、やってる人はやってるんじゃない? 女子よりは少ないだろうけど」

「そりゃそうだよね」

「っていうか、優吾くんもそういうのちょっとやってるでしょ?」

 優吾くんの全身を見る。
 今日はラフな服装で、髪もセットしていない。
 しかし、学校ではいつも制服の上に、黄色が少し強めの、わざわざ選んだであろう乳白色のセーターを着こんでいるし、短めのマッシュをワックスで固めている。

「……まあ、ちょっとね。名残みたいなもんだよ」

 なんの名残なのかは、聞かずとも容易にわかる。
 とはいえ、優莉に会うからと言っておしゃれに気を遣い始める優吾くんを想像すると、なんだかかわいかった。

「あ、そろそろだね。ゆっくりできるところだと、ファミレス辺りがよさそうだけど……」

「大坂さんも知ってると思うけど、ここには無いよ」

「でも、すぐ近くにあるし移動しちゃう?」

「そうだね」

 滞在時間、僅か五分。
 今月末に閉館が差し迫る商業施設をあとにする。

「ここも、そろそろ閉館か」

「やっぱりこの辺に住んでたら、少しは愛着があるよね」

 感傷的に呟く。優莉が、ここの閉館を見届ける前に転校してしまった、というのも関わりがあるだろう。
 優吾くんは、優莉と濃密な時間を過ごしていたみたいだが、わたしもそれに負けないくらい、優莉との思い出は多い。いい思い出も、苦い思い出も。

 そこでふと気になる。
 優莉は、優吾くんのことをどう思っていたのだろうか。彼女が恋愛しているところは、わたしですら一度も見たことがなかった。
 庇護の対象? それとも、恋愛対象、もしかしたら初恋の相手、かもしれない。
 でも、今それを知る術はない。
 確かなのは、わたしが少し、ほんの少し――優吾くんに心惹かれている、ということ。

「どうしたの、急に立ち止まって。思い出し泣き?」

「泣いてないよ。……そういえば、思い出し笑いとは言うけど、思い出し泣きとはあんまり言わないよね」

「言われてみれば。あんまり人が泣いてることに言及する機会がないから、かな」

「確かに、人が泣いてることに言及するより、笑ってることに言及する方が幸せだね!」

 いつしかわたしは、あのときの調子を取り戻していた。取り戻せていた。
 優吾くんはどう思っているだろう。さっきまでのわたしが素だと思うのか、あれは珍しいことだと思うのか。わたしは、自分じゃどっちなのか、判断できない。