ただ、強く嚙み締めて、涙を抑える。
 彼女は、ずっとそうしていた。
 肝心なときに僕は弱くて、状況を悪化させてしまう。
 僕は、困惑していた。こんなに一気に距離を詰めて、結局傷つけて、一日も経たないうちに距離を取る。
 わからない。目まぐるしい。

「ありがとう。ごめん、ちょっと距離を取りたい」

 予想とさして変わらないような言葉。しかし、それでも衝撃を受ける。
 ずっと言ってる。失ったわけじゃなくて、ゼロに戻っただけなのに。
 滑稽だ。僕は、そんなものなのかもしれない。

「わたしは、優莉みたいに強くはなれない」

 だから――。

「君は、わたしと離れた方がいい。わたしは、君と離れた方がいい」

 奇しくも、"あの人"と同じ言葉選び。否、偶然ではないのかも、しれない。

「……」

 あの日よりは、随分と温い傷だ。
 でも、今日は別れの夢を見るのだろう。それだけが、気がかり。

 その前に言えるのは、一つだけ。
 "あの人"と同じ言葉選びをした彼女に、僕も同じように言葉を選ぶ。
 あのとき、"あの人"が僕に言ったこと――。

「死ぬより前に、また会おう」

 大坂さんは、確かに優しかった。
 ……踏み入りすぎてしまった。距離感が掴めない。
 しかし、"あの人"と別れたときほど、喪失感はない。

「……」

 彼女は無言で、姿を消した。
 小さくなる背。実を言うと、そんなに苦しくなかった。

「はあ……」

 溜息。

 連れ出された挙句、失ってしまう。
 喪失感はなくとも、釈然としない異物感が残っている。それくらいなら、脆く綺麗な海を見たまま、感傷に浸るのがよかったか。

 きっとそうしていたって変われないだろう。
 だがそれでよかった、結局今も同じまま。
 それくらいなら、別に出会わなくたってよかったんじゃないか。
 負け惜しみ、みたいに思えるかもしれない。確かに、そんな側面はあるかもしれない。

 でも、確かなことがある。
 彼女と別れて、それでも大して痛まない心が、そこにあること。
 きっと、これが証明なんだろう。

 詩的な言葉を呟く癖は変わらない。いいんだ、あの流れ星が、褒めてくれた言葉選び。
 自分に言い聞かせるような感覚に、一人息を吐く。
 散らばる思考に、前がどっちかわからなくなる。
 そして、星の光が見えた気がして、その光の方へ一歩歩き出して――。
 そこでようやく、ちくりと胸が痛んだ。



 わたし、こんなんで良かったんだっけ。

 無理に距離を詰めて、下手に優しくして、無謀に話を聞いて。自分が聞き出したことのせいで、ちょっとだけ傷付いた。それだけでちゃぶ台を返すみたいに背を向けた。
 こんなんじゃ、ただ自滅してるだけ。自傷行為と大差ない。

 わからない。
 本音で人と喋ったことがない。わたしがわたしであることの裏目が出ている。きっと優莉なら。

「わたし自身ですら、自分で自分を傷つけてるのに」

 つい先ほどまで他人だった優吾くんに、察してだなんて無理な話だ。これではまるで、回避不可能の精神攻撃。流れ星が頭上に直撃したみたいなものだ。
 なんと滑稽なことだろう。
 優莉ほど強くなれなくて、それが嫌で人との関わり方を変えた。それから人と上手く関われるようになった。そんな顔をしておいて、こんな無様な結果に。
 きっと、優莉のせいではなかったということなのだろう。

 空を見上げる。嫌らしいくらいに澄んだ空と、それを必死に燃やす太陽。そのどちらも、わたしか優莉のどちらかに例えるなら、間違いなく優莉だった。

「……はあ」

 優吾くんと別れてから、優吾くんと出会ってから、明らかにずっと優莉のことを考えている。涙こそ抑えたが、感情は変わらない。

「あれ、大坂さん」

 今日一日で聞き慣れた呼び方。男性の声。少し期待するが、声の主は優吾くんではなかった。

「……先生」

 わたしたちの担任の、天野先生だった。
 今は育休を取ってるから、担任という認識は少し薄いけど……一応、担任ということになっている。

「今日、学校は?」

「え、っと」

「ああ、なるほど。まあいいか。ちょっとだけ、話してもいい?」

「……はい」

 天野先生。優しいとか、イケメンとか、若いとか、そんな理由で人気のある先生。
 しかし、天野先生とて教育者。わたしの行動にも思うところがあるのだろう。少し憂鬱を感じながら、近くの公園に寄る。

「説教すると思う、よね。別にそういうわけじゃないんだ。なにか……悩みがあるんだろ?」

 意外な前置きから、鋭い指摘。必死に殻にこもっていたのに、一言だけで外に出される。

「なんで、わかったんですか」

「表情見れば一発。それに、生徒の悩みに気づけないほど鈍ってはいないよ」

 こういうところが人気なんだろうな、とおぼろげに考える。

「吐け、なんて拷問するわけじゃないけど……俺は、ある程度なら力になれると思う」

 ……やっぱり、優吾くんとは余裕が違うよなあ。
 無意識に考えて、まだ優吾くんのことを考えていることに気づく。

「話すと、長くなるんですけど」

 自分でも、整理する機会が欲しかった。
 やっぱり混乱していて、人に話したら、それを整理できそうだと思えた。

 天野先生は、無言でうなずく。

「わたし、小さいころからの幼馴染がいるんです。その子はずっとわたしより強くて、その子と比べられることに――その、嫉妬してしまいました。
 そんなコンプレックスを抱いたまま、少し前になって。幼馴染は、転校したんです。これで、比べられずに済む。そう思っていたとき、とある、同級生の男の子に出会いました。
 彼は、わたしの幼馴染に特別な思い出があったみたいで、別れを苦しんでて――わたしは彼に興味があって、学校を休んでその話を聞きました。そうしていたら、突然、彼はわたしにコンプレックスがあることを指摘したんです。それで、わたしは、わたしは――」

 そこからは、涙混じりだった。
 天野先生は、真剣な表情でただ聞いていた。

「彼は、わたしに、幼馴染の考えを、教えてくれて……嬉しかった。でもなにより、また比較されてるみたいで、怒りとか苦しみとか……そのあたりの感情が、嬉しいのも全部飲み込んじゃって。それで彼と、別れたところです」

 途中から、自分でもなにを言っているのかわからなかった。整理するつもりで話し出したのに。
 でも、彼と別れた、と告げるとき――確かな悲しみが、そこにはあった。

「……そうか。大坂さんは、強いよ」

 あまりにも予想外な答え。これまでの人生で一度たりとも聞いたことがなかった言葉。否、一度たりとも、「自分に向けられて」は聞いたことがなかった言葉。
 魅力的すぎるその響きは、まるで――まるで、そう、星の欠片みたいだ。

「ずっと耐えてきた。苦しんでいる男の子に寄り添おうとした。主にはこの二点」

 しかし、訂正があった。

「わたしは寄り添おうとしたわけじゃなくて、ただの好奇心で」

「本当に?」

「……」

 最初に感じたのは、寄り添ってあげたいという気持ち、だったかもしれなかった。
 そう言われたら、そんな気がする。

「あと言えるとするなら、強者は、迂闊に泣けない。だから、涙を流せる場所を見つけられたのは、僥倖だ」

 そう言われて、やっと気づく。
 物心ついてから、優吾くんに出会うまで、わたしは人前であまり泣かなかった。というより、一度も人前で泣いていない、ような気がする。

「強い人も、逃げ場は必要になるはずだから。彼のことは、大切にするといい。別れた、って言っても今日の話だろう? まだ間に合うと思うよ」

 余裕綽々に告げる天野先生が、少し憎らしい。悪い意味じゃなく。

「先生」

「おう」

「優吾くんに会って、彼が辛そうだったら……彼の話も、聞いてやってください」

「名前、出してよかったのか?」

「わたしが恥ずかしいとか以上に、彼のことが心配なので」

 反抗期の娘みたいに素っ気なく告げて、先生に背を向ける。
 ここでのんびりしている暇はない、優吾くんを追いかけなくてはならない。